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高浜虚子を読む111〜120(五百五十句 1〜10)

111/gohyakugojukku-1

五百五十句』

鴨の中の一つの鴨を見ていたり
昭和11年
鑑賞日
2004年
8月15日
 この句や「川を見るバナナの皮は手より落ち」などは、後でそういう事実に気がついたというような句である。一種の忘我の境地を描いている。忘我の境地を描いているが、「忘我」そのものではなく「忘我の境地を描いている」句である。つまり、こういうのが忘我ということですよ、という説明のニュアンスを感じるのである。
 「遠山に日の当りたる枯野かな」が素晴らしいのは、忘我の境地の説明ではなく、忘我そのものを描き得ていると言えるからなのである。

112/gohyakugojukku-2

五百五十句』

物売りも佇む人も神の春
昭和11年
鑑賞日
2004年
8月16日
 駘蕩とした春の感じがある句である。この「神の春」の神は季節の神であろうし、またそれを越えた大きな存在としての神でもあろう。虚子に訪れた穏やかで大きな気持ちの時間を感ずる好句である。
 虚子の思惑とは違うかもしれないが、私は「物売りも佇む人も神・・の春」と取る取り方も好きである。

113/gohyakugojukku-3

五百五十句』

そのま丶に君紅梅の下に立て
昭和12年
鑑賞日
2004年
8月17日
 人間肯定的な句で少し「おや」と思った。いままでに人間を皮肉な目で見ている句を沢山見ているからである。そう言えばこの辺りには「命かけて芋蟲憎む女かな」や「歌留多とる皆美しく負けまじく」や「双六に負けおとなしく美しく」など人間をそのままに肯定的に受け取っている風の句がある。心境の変化だろうか、それならば嬉しいが。この辺りの事も観察しながら読み進んでいきたいと思う。

114/gohyakugojukku-4

五百五十句』

熊蜂のうなり飛び去る棒のごと
昭和12年
鑑賞日
2004年
8月18日
 ああなるほど熊蜂はこういう風に飛ぶなあという実感がある。試しに熊蜂で検索してみると(http://www.jfast1.net/~takazawa/)次のようなものが出てくる。

熊蜂の近づく水の震へかな     依光陽子
熊蜂のふし穴のぞく日和哉     正岡子規
分銅のごと熊蜂の揺れてくる    京極杞陽
熊蜂脚垂れて来た書斎あかるい   北原白秋
熊蜂とべど沼の青色を抜けきれず  金子兜太

 この中で、京極杞陽の句が虚子の句に近く、熊蜂の生態そのものを描写している。依光陽子の句は熊蜂と水の共振を、正岡子規・北原白秋の句は熊蜂を通して全体的な雰囲気を、金子兜太の句は熊蜂に託して自身の内面の事実を書き取っている。


115/gohyakugojukku-5

五百五十句』

畦一つ飛び越え羽搏つ寒鴉
昭和13年
鑑賞日
2004年
8月19日
 寓意を感ずる。一つの問題を片づけてやれやれと一息つく、というような感じである。自然をただ描写するというのではなく、そこにある寓意を潜ませる句というのは虚子にはかなり多いのではなかろうか。あるいはただ写生をすれば、そこには自ずから寓意が潜むということもありうる。人間は自分の生き様によって何時も自然を眺めるから、自然を見る見方は常に自分の生き様に引きつけた見方になる、ということである。
 何句か前にある「清浄の空や一羽の寒鴉」などもたんなる写生ではなく、そこに虚子自身の考えている虚子自身の分身が投影されている。

116/gohyakugojukku-6

五百五十句』

旗のごとなびく冬日をふと見たり
昭和13年
鑑賞日
2004年
8月20日
 魅かれる句である。ある瞬間における虚子の心と自然との共振とでも言おうか。優れた水彩画の小品といったところか。


夕日(多羅一恵)


117/gohyakugojukku-7

五百五十句』

啓蟄や日はふりそ丶ぐ矢の如く
昭和13年
鑑賞日
2004年
8月21日
 三月五日頃、虫類が穴を出る頃を啓蟄という。また虫が穴を出ること、またその虫そのものを言うこともある。
 啓蟄の頃、日が矢の如くに降りそそいでいる。また、穴を出る虫達に日がそそいでいるようにも取れる。流動する大自然の移り変わりを感ずる。季節は春の場面であるが、この春もまた直ぐに去っていってしまう、という流動感がある。巡り巡る時間の中で自然をドキュメントした映画の一場面をみるような感じである。

118/gohyakugojukku-8

五百五十句』

朧夜や男女行きかひ/\て
昭和13年
鑑賞日
2004年
8月22日
 /\は繰り返しの記号です。

 ほのかに男女間のエロスを漂わせた句。男女間の愛がおおっぴらでなく秘め事のように行われた時代の情緒。郷愁もあるが、性というものにある罪悪感が付きまとった時代の情趣。


119/gohyakugojukku-9

五百五十句』

鵜の森のあはれにも亦騒がしく
昭和13年
鑑賞日
2004年
8月23日
 川鵜は森に営巣するらしい。
 この「あはれ」は・・しみじみとした情趣。味わい。心ひかれること。慕わしいこと。いとしさ。立派だ。感心だ。・・のような意味であろう。
 つまり「鵜が森に営巣しているが、何とも忙しく振る舞っていることよ。感心してしまう。その生の営みの立派さにはしみじみと心ひかれる。」というのであろう。
 またこの句の面白さは「森の鵜」としないで「鵜の森」としたことであろう。そのことによって、この森自体があはれで亦忙しいという感じがあり、鵜達と森の一体感が出てくる。また「森は生きている」というアニミズムの感じも出てくる。できれば「騒がしく」ではなく「忙しく」のほうがよりアニミズムの感じが出てくるのだが。

120/gohyakugojukku-10

五百五十句』

休んだり休まなんだり梅雨工事
昭和13年
鑑賞日
2004年
8月24日
 雨が降ったら休んだり、雨が止んだら休まなんだり、のんびりしたもんである。何もあわてることはない。人間こんなふうに自然に随順してゆけば環境破壊もないだろうし、やたらと戦争もないだろう。そういうふうに見れば肯定できる句であるが、何となく弛れている皮相な感じもある。
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