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高浜虚子を読む101〜110(五百句時代 14〜23)

101/gohyakkujidai-14

五百句時代

この庭の遅日の石のいつまでも
昭和2年
鑑賞日
2004年
8月1日
 〈龍安寺〉と前書 

 あの石庭で有名な龍安寺での作である。
 日本の庭園にしても日本画にしても俳句にしても日本の文化的な作品は、自然を図式的に小さく把握したものが多いのではないか。これは偶像を作って神や仏を把握したような気分になるのと似ていてあまり感心したものではない。勿論中には、この図式を突き抜けたような素晴らしい作品があることは確かである。この龍安寺の石庭がどの程度のものなのか私には分らないが、俳句という形式美の世界に身を置いた虚子がこの石庭に共感したというのは大いに有りうる。


龍安寺石庭


102/gohyakkujidai-15

五百句時代

箱庭の人に古りゆく月日かな
昭和2年
鑑賞日
2004年
8月2日
 箱庭があって、その中に作られた人が居る。当然その人は成長もせず、老いもせず、いつも同じ形で居る。しかし、年月が経つにつれてその人の月日そのものが古くなっていくような感じを受ける・・というのである。人形や造花の持つ不気味さというようなものがある。人間は様々な事に苦しめながらも成長し老いてゆく、これが生である。植物は美しくみずみずしい花を咲かせて種を残しやがて枯れていく、これが生である。箱庭の世界はある意味、死の世界だと言える。
 最近虚子の批判ばかりしているようで気が引けるが、私にはこの箱庭の中の人が虚子自身の自画像のように思えてきてしまう。俳句の世界はその詰まらない側面から見れば箱庭のようなものである。「月並み俳句」「お座敷俳句」などと言われるのがそれである。虚子は大自然に目を向けた素晴らしい俳句を作った人である、と同時に現代俳句における箱庭的世界を作り上げた人だとも言える。
 これから先『五百五十句』『六百句』・・・と読み進んでいくが、虚子自身がこの箱庭の人のように箱庭の中で古びて行ってしまわなければ良いのだが。

102/gohyakkujidai-15

五百句時代

箱庭の人に古りゆく月日かな
昭和2年
鑑賞日
2004年
8月2日
 箱庭があって、その中に作られた人が居る。当然その人は成長もせず、老いもせず、いつも同じ形で居る。しかし、年月が経つにつれてその人の月日そのものが古くなっていくような感じを受ける・・というのである。人形や造花の持つ不気味さというようなものがある。人間は様々な事に苦しめながらも成長し老いてゆく、これが生である。植物は美しくみずみずしい花を咲かせて種を残しやがて枯れていく、これが生である。箱庭の世界はある意味、死の世界だと言える。
 最近虚子の批判ばかりしているようで気が引けるが、私にはこの箱庭の中の人が虚子自身の自画像のように思えてきてしまう。俳句の世界はその詰まらない側面から見れば箱庭のようなものである。「月並み俳句」「お座敷俳句」などと言われるのがそれである。虚子は大自然に目を向けた素晴らしい俳句を作った人である、と同時に現代俳句における箱庭的世界を作り上げた人だとも言える。
 これから先『五百五十句』『六百句』・・・と読み進んでいくが、虚子自身がこの箱庭の人のように箱庭の中で古びて行ってしまわなければ良いのだが。

103/gohyakkujidai-16

五百句時代

小百姓埃の如き麦を刈る
昭和6年
鑑賞日
2004年
8月3日
 褒めてみよう。「埃の如き」が上手い。小面積の畑の麦という意味もあるだろうし、不作で良く実らなかった麦という意味もありうる。そんな取るに足らないような麦を貧農が刈っているというのである。それを特に憐れんでいるのでもないし、馬鹿にしているのでもない。社会の不均衡を嘆いているわけでもない。ただ事実をありのままに見ているだけである。あらゆる事実をありのままに客観的に見るという虚子の超越的な態度である。いわば悟りの境地の態度である。

 これはいわゆる評論家の態度である。いわゆる評論家は自分を神の座に置く。この社会における自分の位置をはっきりさせない。自分はこの社会の一員ではないかのように振る舞う。そして事実は、自分をこの社会の「勝ち組」とどこかで考えている節があるのである。鼻持ちならない。
 私は自分への戒めとしてもある、次の歌が好きである。

 渾沌が二つに分れ天となり土となるその土がたわれは   正岡子規


104/gohyakkujidai-17

五百句時代

院展の古徑の画へと急ぎけり
昭和6年
鑑賞日
2004年
8月5日
 句としては普通だが、古徑の絵を見てみたかったので取り上げた。


  むべ             柿             菊

    桔梗

            秋采

     壺

 眺めていると、やはり虚子がここに美を見たという感じは伝わってくる。虚子の良い面と重なってくる美である。

絵はhttp://www.tohoku-epco.co.jp/shiro/03_10/05art/その他より転載させていただきました。


105/gohyakkujidai-18

五百句時代

ゆるやかに帆船はひりぬ秋の潮
昭和6年
鑑賞日
2004年
8月6日
 帆船のギィーっと軋む音まで聞こえてくるような臨場感がある。映像もはっきり見えてくる。爽やかな秋の海の音も聞こえてくるようだ。
 帆船の絵を一枚。


106/gohyakkujidai-19

五百句時代

叱られて泣きに這入るや雛の間
昭和7年
鑑賞日
2004年
8月7日
 可愛らしい女の子の一コマが描けている。
 虚子の客観写生は、いわゆる客観であるから、その対象物によってはこの句のように愛らしいものになる。また大自然が対象になれば大自然の美しさが出てくる。客観写生の良いところである。
 しかし、例えば虚子が原爆の悲惨さを目の当りにしたときに自分の感情を入れないで表現できるのだろうか。戦争というものを憎まないでいられるだろうか。世の不条理に戦慄しないでいられるだろうか。醜く焼けただれた被爆者を見て「酌婦来る灯取蟲より汚きが」のような表現をするのだろうか。そこが客観写生というものの一つの問題点である。

107/gohyakkujidai-20

五百句時代

出代の醜き女それもよし
昭和8年
鑑賞日
2004年
8月8日
 〈出代〉は[でがわり]と読む。女中・下僕などが雇用期限を終えて交代することで、春の季語である。

 虚子編の『新歳時記』には「出代の更に醜きが来りけり」という虚子の句も出ている。
 ここまであっけらかんと書かれると大笑いしたくなるような心境になる。虚子は知らないのであろうか、世界は自分自身の有り様の投影である、ということを。つまり、これらの句によって描かれているのは虚子自身が醜いということにほかならない、ということを。「私は醜い人間だそれもよし」と言って、しかもそれに気付いていないから可笑しさが込み上げてくるのである。


108/gohyakkujidai-21

五百句時代

戻る子と行く母と逢ふ月見草
昭和8年
鑑賞日
2004年
8月9日
 「月見草」が美しい。子と母の心情を月見草が表現している。思えばこんなのどかな田園風景の中での母と子の送り迎えのシーンは少なくなってしまった。大自然の中での人間の営みというものが懐かしい。


月見草

この写真はhttp://www.lifence.ac.jp/goto/harb/harb14.htmlから転載させて頂きました。


109/gohyakkujidai-22

五百句時代

干魃や百姓のただ歩きをる
昭和8年
鑑賞日
2004年
8月10日
 宮澤賢治に「雨ニモマケズ」という詩がある。


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキ小屋ニイテ
東ニ病気ノ子供アレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニ疲レタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ

 この「ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」という部分を思い出した。しかし何という違い。賢治はそこに飛び込んでいって書いているのに対して、虚子はただ眺めているだけである。


110/gohyakkujidai-23

五百句時代

大空をただ見てをりぬ檻の鷲
昭和9年
鑑賞日
2004年
8月14日
 この句は虚子の自画像でもあり、あるいは虚子の世界観が滲んでいる気がする。鷲は虚子であり、檻はこの世である。この世はつまらないもの、陳腐なもの、下手をすると自分の自由を束縛する檻とも成りうるもの、という世界観である。そして価値あるもの、普遍的なるものはこの世の外にある、という世界観である。まさに二元論的な世界観であるが、私は虚子を理解するキーワードの一つは「二元的」という言葉にある、と思っている。だから彼がこの世の事象を写生するときに、時には超然とした態度、時には皮肉な態度が現れるのである。
 彼はこの世の外にある普遍的なものを大自然を通して見ていた。彼の自然詠が時に素晴らしい輝きを見せるのは、この由縁である。
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