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金子兜太選海程秀句鑑賞 507号(2014年11月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2014/11/7 | |
ラ・フランスのいびつな個性戦意かな
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安藤和子 愛媛
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おそらく戦意というものには二種類あるだろう。いびつな戦意といびつでない戦意である。いびつな戦意とは弱いものいじめの戦意であり、いびつでない戦意とは強いものの横暴と戦うための戦意である。今、集団的自衛権と言われているものは、強いアメリカの戦意の片棒を担ぐことだから、これはいびつな戦意の表現に過ぎない。 |
鑑賞日 2014/11/8 | |
防人の通ひ路潮騒青葉騒
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伊佐利子 福岡
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とても臨場感のある句だ。「潮騒青葉騒」という畳みかけた言い方が心地よく耳と身体に響いてくる。そしてまた「防人の通ひ路」は防人への想いと同時に作者の動きも暗示していて句が厚みを増している。 |
鑑賞日 2014/11/9 | |
酸素足るわが手わが足蚊の寄り来
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石川まゆみ 広島
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わが身が生体反応を持っているということの嬉しさ。生きてあるということの喜ばしさ。蚊が寄って来るのさえ嬉しい。嘘だと思ったら一度死んでみるといい。あるいは死に近い状態に陥ってみるといい。人間は生きるために生まれたのであるから、生きてあるということを示すあらゆる証が実は嬉しい筈なのである。 |
鑑賞日 2014/11/10 | |
鹿の子百合誰にも逢えぬ帰郷とや
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伊藤 和 東京
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カノコユリ(鹿の子百合、学名:Lilium speciosum)ユリ科ユリ属の多年草。別名、ドヨウユリ(土用百合)、タナバタユリ(七夕百合)。九州(主に薩摩半島から長崎県沿岸)や四国(愛媛県や徳島県の山間部)、台湾北部、中国・江西省に自生しており、九州でもっとも自生密度が高いのが甑島列島である[1]。花が美しいので、昔から観賞用に栽培もされている。和名は花弁に鹿の子模様の斑点があることから。 以上Wikipediaより 何故誰にも逢えなかったのだろうか。誰かはいたに違いないが、親しい人には逢えなかったという意味かもしれない。過疎が進んで田舎が荒廃してゆく現在こういう場面は沢山あるのかもしれない。鹿の子百合だけが美しくも寂しく咲いているという風景が目に浮かぶ。 |
鑑賞日 2014/11/11 | |
クレマチス妻を名前で呼ぶことはない
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宇田蓋男 宮崎
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私は妻をニックネームで呼ぶ。もし正式の名前で呼んだら、妻がよそよそしく遠くへ行ってしまうような感じになるかもしれない。もし私の妻がクレマチスだったら私はマッチーとでも呼ぶかもしれない。だってクレマチスでは姿も名前もいかにも淑女的で近寄り難い。妻の呼び方は世代にも依るかもしれない。私は団塊であるが、作者やいかに。ーーーー海程〈六句合評)に掲載の文ーーーー |
鑑賞日 2014/11/11 | |
誕生日空蝉の鳴る小箱ある
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榎本祐子 兵庫
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可愛らしくも詩的に視覚的に人生を捉えているとでもいったらいいだろうか。「素敵だ!」としか言いようがない。 |
鑑賞日 2014/11/12 | |
田を上がる父と蛙は扁平だ
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大沢輝一 石川
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例えば腰をかがめて田の草取りなどをすると暫くは腰が伸びなくなる。だから仕事が終わって田の畦を上がる時には蛙のようにのそりのそりと扁平になって上がることになるのかもしれない。とにかく可笑しみのある句である。 |
鑑賞日 2014/11/13 | |
半迦思惟のころかなみょうが咲くまでは
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大谷 清 山梨
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半迦思惟は半跏思惟の間違いであろう。半跏思惟はつまりあの中宮寺や広隆寺の弥勒菩薩像がとっているポーズである。何か考えているようでありまた何も考えていないようでもあり、外側を見ているようでもありまた内側を見ているようでもあり、意識の対象があるようであり意識の対象は無いようでもある。しっかり足を組むのでもなく、まただらりとリラックスするのでもない。敢て言えばこの辺りは中庸なるものの美だと言えるのかもしれないし、自在なる心の在り方の現れだと言えるのかもしれない。見よ見よ私は悟りましたというのでもなく、ああ私は迷いに迷っていますというのでもない。花がはっきり咲きましたというのでもなく、また咲くことは無いでしょうというのでもない。まことに何とも柔らかくて精妙な思惟の時間である。 |
鑑賞日 2014/11/15 | |
人間は裏切る海月裏返る
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片岡秀樹 千葉
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裏切られた時に「奴は海月のように裏返った」と受け取ればそれは笑えることかもしれない。海月に腹を立ててもしようがない。むしろ奴の海月性を見抜けなかった自分の愚かさを笑えばいい。それとも裏切りは人間が本質的に有している属性なのだろうか。私はそうは思いたくない。絶対に裏切らない者が居ると思えなければ生き難い。ーーーー海程〈六句合評)に掲載の文ーーーー |
鑑賞日 2014/11/15 | |
八月や母は昭和を出たがらず
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加藤昭子 秋田
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「昭和を出たがらず」という表現が上手い。どうだろうか、昭和というのは日本人の良い面と悪い面が凝縮された形で現れた時期ではないだろうか。昭和を出たがらないこの母上はその良い面を見ているのだろうか。あるいはその悪い面を忘れてはならないという思いがあるのだろうか。 |
鑑賞日 2014/11/16 | |
立夏の天どこか無念の高さかな
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狩野康子 宮城
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秋の天のように突き抜けたような高さではなく、どこか残念で中途半端な高さであるというのであろうか。 |
鑑賞日 2014/11/16 | |
蛇の衣はなれて見える家の中
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河西志帆 長野
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何事もその事から離れた視点に立たなければ冷静に客観的に眺めることは出来ないということだろう。だからもしかしたら出家者の方が家というもののことはよく見えるのかもしれない。蛇がその衣を脱いで外側からはなれて眺めれば今まで自分がどんな衣を着ていたかがよく見えるがごときである。 |
鑑賞日 2014/11/18 | |
遠雷の夜や複雑に歯をみがく
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木下ようこ
神奈川 |
「複雑に歯をみがく」という捉え方が面白い。自分は複雑に歯を磨いている、遠くで鳴る雷の音が聞こえるなあ、というのである。「遠雷の夜」と「複雑に歯をみがく」の間には特に何かの観念連合を見つける必要はないが、強いて言えば、人間文明が陥っているともいえる複雑性とそれに対する無意識の警告のようなものと受け取ってもいいかもしれない。 |
鑑賞日 2014/11/18 | |
付け馬のように薮蚊連れてくる
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木村和彦 神奈川
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付け馬・・遊興費が不足したり、払えなかったりした客について、その家まで代金を取りに行く者。つきうま。うま。「―がついてくる」(goo辞書) |
鑑賞日 2014/11/19 | |
酢のごとき詩想に春がのっそりと
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京武久美 宮城
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「酢のごとき詩想」とはどんな詩想か。どちらかといえば瑞々しい新鮮な詩想なのではなく、溜めておいたので醗酵して酸っぱくなってしまったような詩想ということではなかろうか。そんな詩想を持て余しているところに春がのっそりとやって来たというのではなかろうか。この句の内容に象徴されるようなことは何かを創り出そうとしている人は多かれ少なかれ皆経験があるのではないか。その辺りの事実を巧みな比喩で掬い取っている。 |
鑑賞日 2014/11/19 | |
桑の実の熟すを以て喪明けとす
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小池弘子 富山
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中庸ということかもしれない。他者の死あるいは死に相当するような出来事に遭遇した時に、すぐさま忘れて元気はつらつと生きてゆこうとするのはあまりにも感受性が無さすぎるし、かといっていつまでも落ち込んでいるのも却って良くない。中庸なるグッドタイミングがある筈である。それは桑の実が熟した時であろうと思う。その時期は自ずからやって来るのであって早めることも遅めることも出来ない。私は今連想して日韓の慰安婦問題のことを考えた。傷ついている相手がいるのに「もう忘れろ、補償はしたはずだ」というのは強引に桑の青い実をもぎ取るようなもので余りにも酷い。桑の実が熟すまでしっかりと誠意を尽すのが筋だろう。 |
鑑賞日 2014/11/20 | |
青葉木菟母をゆらしておりにけり
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こしのゆみこ
東京 |
この作者は私と同世代(団塊)かあるいは少し下の筈であるから、この母が実母だとすればかなり高齢である。その母を青葉木菟がゆらしていると私は受け取った。私は青葉木菟を見たこともないし、その声を聞いた記憶もないのであるが、言葉自体の印象と青葉の繁れる頃にやって来て活動したり鳴いたりする鳥だということから、何か青春性のあるいは瑞々しさの象徴のような印象を持っている。そしてまたこの鳥はホーホー、ホーホーと二声ずつ鳴くので二声鳥という異名もあるらしい。私は人間というものはどんなに年老いてもその内奥に永遠の青春性の輝きを秘めているものだと思っている。そして時にその不死なる青春性はその人の内奥からその人にホーホーホーホーと呼びかけてその人の魂をゆさぶることがあるのである。 |
鑑賞日 2014/11/20 | |
山法師足音を踏む山人たち
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児玉悦子 神奈川
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山の気を感じる。更に山の霊の気といってもいい。霊の気に満ちた世界ではおそらく音を見ることも音に触れることも可能である。この句の場合「足音を踏む」と言っているが、故にそれ以外に音のない静寂さをも感じる。山と山法師と山人たちと足音が静寂という名の霊気に包まれた世界の中にある。 |
鑑賞日 2014/11/21 | |
打水のここより龍の背中かな
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五島高資 栃木
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打水の水の形が龍の背中に見えたのだろうか。あるいは打水をしての涼しさが龍の背中に乗って空を飛んでいるような気分にさせたということだろうか。とにかく想像力を遊ばせる余裕がなければこういう句は出てこないのではないか。 |
鑑賞日 2014/11/21 | |
げんげ田の青大将が骨だった
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今野修三 東京
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特別に有機農業を目指す人でなければ最近はげんげ田を作ることはないのではないか。だからこの句におけるげんげ田は昔の少年だった頃の思い出なのではないかと推察した。つまりこれは少年がげんげ田で初めて青大将というものに出会った時の印象なのではないか。「ねえ僕は今日げんげ田で骨を見たよ」「骨って何の骨なの」「骨だよ骨だよ」「もしかしたらあの辺りにいる青大将を見たのかもしれないね、そうねもしかしたら骨なのかもしれないわね」 |
鑑賞日 2014/11/22 | |
紫陽花や我も我もと直喩法
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佐藤詠子 宮城
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例えば句会などで「紫陽花」という題が出された時に、メンバーの多くが「紫陽花は〜のようだ」とか「紫陽花は〜の如くなり」とかの直喩を使った句を作る傾向があるというようなことだろうか。紫陽花の形そのものが特徴があって直喩しやすいということもあるのかもしれないし、またその時のその句会の流行りがそうだったのかもしれない。まあそういう句会は詰まらないとも言えるし、あるいはそういう句会もそれなりの良さはあると言えるのかもしれない。その辺りのことを客観的に眺めている作者。 |
鑑賞日 2014/11/22 | |
逃げ水や母の放浪はじまりぬ
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佐藤詠子 宮城
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先々月号にこの作者は「逃げ水追い母の放浪はじまりぬ」という句を出している。どちらがいいだろうと考えてみた。私はどちらかというと「逃げ水追い」の方がいいような気がする。それだと逃げ水を追っているのは母であって、この母の心の深みのようなものが表現されている気がするからである。それに比べて「逃げ水や」だと母自体が逃げ水のようだと譬えられている感じがして心の深みというところまでは感じにくい。 |
鑑賞日 2014/11/23 | |
太古より車座はあり鰹食ぶ
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芹沢愛子 東京
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人が車座となって共にものを喰う時、意識的であれ無意識的であれ多かれ少なかれ太古のことを懷いだしている。出来れば一つの器から食べれば尚いいし、箸やフォークを使わずに手で食べれば尚更いい。このようなシーンが日常的に沢山行われるように人々の気持ちがゆったりと和らげば、人間はもっと自然に生きられるかもしれない。ーーーー海程〈六句合評)に掲載の文ーーーー |
鑑賞日 2014/11/23 | |
古りしわが五体百態ねむの花
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高木一惠 千葉
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「古りしわが五体百態」と「ねむの花」の組み合わせで仄かなエロスが感じられる句となっている。そう、人間が生きているということはおそらくエロスによって生きているに違いない。何故ならエネルギーというものは常に性的な意味合いを帯びているからである。 |
鑑賞日 2014/11/24 | |
夏に入るおしめをはずす稽古して
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竪阿彌放心 秋田
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作者の年齢を知っているわけではないが、おそらくお孫さんのことであろうか。日常の一枚のスナップ写真という味である。写真についてもそれが良い写真かどうかというのはおそらく写真を撮る人の対象への眼差しの質から生まれるに違いない。この写真をのちのち見て孫はさぞかしおじいちゃんの眼差しを感じるに違いない。 |
鑑賞日 2014/11/24 | |
雲海や我ら眼玉を持てあます
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田中亜美 神奈川
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私達は荘厳といえるようなあるいは霊性に満ち満ちたといえるような風景に出会った時、そしてその存在を心底感じたいと願った時にはどうするだろうか。おそらく眼を瞑り、そして自己の内面に深く下りて行くしかないのではないだろうか。そういう場合はこの肉体の眼玉は役に立たないのである。 |
鑑賞日 2014/11/25 | |
わたくしの闇と蛍の闇まざる
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月野ぽぽな
アメリカ |
人間は時々自分は全き光を生きていると感じる。そしてまた時には自分は全き暗闇を生きていると感じることもある。おそらくこれは両方とも良いことだ。困るのは自分のある部分は光を生きていてある部分は闇を生きていると思う分裂思考である。つまりポイントは全体性を生きるか分裂性を生きるかという問題だからである。全体性を生きるとき、人は自分が闇だと感じる時には同時にこの世界も闇である。分裂性を生きるとは自分は光を生きるが他者の住む世界は闇かもしれないと認識して生きることである。 |
鑑賞日 2014/11/25 | |
君は未だ幼くてかなかなの仲間
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遠山郁好 東京
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人間というものはこの自然界においてやはり特別な存在に思えてしまうことが多い。特別に優秀というのではなく、特別に堕落した存在であるとか特別に困った存在であるということである。人間はこの自然界の癌であると思えてしまうこともあるのは困ったことである。ところで無垢な幼い子はまだ自然界の一部である。かなかなの仲間である。それがだんだんと人間らしくなってゆく。このことが良いことなのか悪いことなのか、どうにも私には判断がつかない。 |
鑑賞日 2014/11/26 | |
鰹群来孫らの未来おぼつかな
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中嶋まゆみ 埼玉
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自然環境や社会状況や経済状況等もろもろのことを眺めていると、どうしても未来はおぼつかないものに見える。殊に生命体にとっては尚更おぼつかない。男性の私でさえそう思うのであるから、生命を宿し産む女性にとっては直感的にそう感じる度合いが大きいのかもしれない。 |
鑑賞日 2014/11/26 | |
荒庭や蛇が横たう被曝の戸
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中村 晋 福島
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芭蕉の「荒海や・・」の口調を借りて現代の人間社会の不条理を皮肉っている。芭蕉の口調を借りたのは単に借りたのではなく、芭蕉の時代と現代を比較するという意図もあるのではないか。私には物の豊富さをあまりにもアンバランスに追求する人間の愚かさ故に陥る不条理の姿を作者は描きたかったのではないだろうか。 |
鑑賞日 2014/11/27 | |
魚籠に鯰祖父に歯のない口があり
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堀之内長一 埼玉
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作者の子どもの頃の思い出と受け取りたい。そうでなければ年齢的に辻褄が合わないし、また籠に鯰が入っているような状況は昔は日常的にあったが今はあまりないのではないかと思うからであるし、今なら歯のないままの口にしておく人は稀なような気がするからである。この鯰は食用にするためにこの祖父が釣ったものなのだろうか。昔ののんびりとした日常の情景が目に浮かぶ。 |
鑑賞日 2014/11/27 | |
原爆忌傘をひらけば骨がある
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前田典子 三重
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傘をひらけば骨がある・・原爆のきのこ雲を連想させられる。きのこ雲の傘の下には数多の人骨が発生した。きのこ雲は一つの科学的な現象の形に過ぎないのであろうが、その傘の下の生身の人間にとってはとんでもない傘である。雨傘には骨があるという当たり前の事実にだぶらせてとても怖い事実を表現しているように思う。 |
鑑賞日 2014/11/28 | |
田草取る言語離れている軽さ
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松本勇二 愛媛
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人間は言語によって認識し思考し伝達する。言語がなければ人間の文化は成り立たない。逆に言語は人間に害をなすこともある。積極的平和主義というような言葉が本来の意味を離れてまやかし的に使われてしまうごときである。言語は諸刃の刃だ。偶には全く言語を離れて軽く空っぽになるのがいい。そうすれば逆に言語の本質がよく見える。ーーーー海程〈六句合評)に掲載の文ーーーー |
鑑賞日 2014/11/28 | |
雷走る脳過るもの他になし
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丸木美津子 愛媛
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この感じ方はよく分かる気がする。実は先日私の地方にかなり大きな地震があり我が家もひどく揺れた。その時はあらゆる思考が停止した。ただただその地震の揺れと居るという感じである。ただただその地震の揺れを見ているという感じである。他の一切の思考や煩悩は停止してしまっている感じである。地震がある程度去って後に、ああかなり強い揺れの地震であったとか何だかんだとかいろいろ考えるが、その時は殆ど無思考な状態であった気がする。 |
鑑賞日 2014/11/29 | |
幼な字や明日天の川渡りましょう
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三井絹枝 東京
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どういう状況でこういう句が生まれたのか考えてみた。小さな子(孫?)が習字で「天の川」という字を書いた。まことに幼い字である。もしかしたら天の川そのもののような字なのかもしれない。作者はこの子が可愛くてしかたがない。明日一緒に天の川を渡りましょうねと話しかけた、あるいは話しかけたくなった。というようなことかもしれない。愛が深いとはどういうことかを考えさせられた。 |
鑑賞日 2014/11/29 | |
あめんぼや旅ってさまざまな上空
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宮崎斗士 東京
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単なる空ではなく「上空」としたのが旅というものの本質を書いていると思った。単なる観光旅行ではない旅。水平思考ではなく垂直思考の旅。いつも空を見上げているような旅。もしかしたらそういう旅が旅という言葉で表わされるものの本質なのではないかと思った。そういう旅の特徴は決められたコースを時間どおりに辿る旅ではなくそれこそあめんぼが水上をすいすいと自由に移動するような旅であるような気がする。 |
鑑賞日 2014/11/30 | |
五郎太寝の番屋首振り雛かな
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武藤鉦二 秋田
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つまり五郎太という人が何かの番屋で寝ている。その番屋に首振り雛があったということであろうか。五郎太とは誰か。ネットで調べると元来は徳川義直の幼名だそうであり、代々の尾張徳川家の嫡男に付けられる幼名であったらしい。しかしどうもそういう固有名詞だとも思えない。単なる五郎太という名前の男の子が寝ている番屋と受け取っておく。何かの事情で父親が番屋に五郎太という名前の幼い子を連れてきて番人としての仕事をしている。当然子どもは心寂しいだろうから、その慰めとして首振り雛を玩具として持ってきたというようなことではなかろうか。子どもは寝入ってしまったが、その首振り雛の首はかすかに揺れているというような情景ではないか。そう情景。 |
鑑賞日 2014/11/30 | |
旅は一途な水の底にも夏燕
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森央ミモザ 長野
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ふわーっと連続した描線で描かれた旅の情景画とでもいったらいいだろうか。考えてみれば、生というものはこういうものだとはっきりと示され得ないふわーっとした連続体である。肝心なのはこの捉えどころのない生においても一途であり続けるということではないだろうか。一途であれば何か価値あるものが見えてくる筈である。おそらく作者にはその何かが見えてきている。 |
鑑賞日 2014/12/1 | |
邪険かなささやきぐさを引っこ抜く
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森岡佳子 東京
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囁草(ささやきぐさ)とは竹煮草の別名であるそうである。句の表面的な意味は邪険に竹煮草を引っこ抜いた、あるいは引っこ抜く人がいた、というようなことであるが、この句の眼目はやはり「ささやきぐさ」という言葉の面白さにあるのだろう。 |
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