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金子兜太選海程秀句鑑賞 505号(2014年8・9月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2014/8/2
一句一章トンボ鉛筆どれもB
相原澄江 愛媛

 一句一章とは句の中に切れがないすなわち二物配合ではない句の作り方である。つまり物事そのものを一気にずばっと言い切るので、上手く作れた時には気持ちがいいものである。それは物を書く人がお気に入りの鉛筆をきれいに削り揃えて目の前に並べた時のような気持ち良さに似ているのかもしれない。


2

鑑賞日 2014/8/3
枇杷剥いて言葉の行間ほどくかな
油本麻容子 石川

 行間を読むということがある。特に俳句などではそういうことをしなくては理解できない場合が多いのかもしれない。行間を読むにはおそらくリラックスするということが大切である。つまり理に張りつめた心をほどくということである。私はほぼ毎日このように他者の句を読んでいるが、すんなりと理解できることはほぼ無い。そんな時にどうするかといえば、家の外に出てその辺りをぶらぶらしたりする。つまり心をほどいて先ず茫洋とするのである。そうするとその内に何かが見えてきたりする。
 人間は理詰めになると物事の本質が見えなくなることがある。そういう時は枇杷でも剥いて、つまりリラックスして、言葉の行間をほどく、つまり張り詰めた心をほどくことが大切なのかもしれない。


3

鑑賞日 2014/8/4
深山霧島吾に億劫の虫ひそみ
阿保恭子 東京

 以下写真も文もWikipediaより。

 ミヤマキリシマ(深山霧島、Rhododendron kiusianum)は、ツツジの一種。九州各地の高山に自生する。
 1m程度の低木で、花期は概ね5月下旬から6月中旬。枝先に2-3個ずつ紫紅色の花をつけるが、桃色、薄紅色の花も見られる。また、気候が似通った秋にも少し咲くことがある。
 和名に冠された霧島山・えびの高原のほか、阿蘇山、九重山、雲仙岳、鶴見岳など九州各地の高山に分布する。
 ミヤマキリシマは、火山活動により生態系が撹乱された山肌で優占種として生存できる。逆に火山活動が終息し植物の遷移によって森林化が進むと、優占種として生存できなくなる。

 「億劫」は(おっくう)と読めば物臭という意味であるし、(おっこう)と読めば非常に永い時間であり永遠という意味になる。「億劫の虫」は通常物臭ということであろうが、億劫(おっこう)という語源を考えればまた面白い。「吾に億劫の虫ひそみ」もこの両方の意味を念頭に受け取ればまた面白い。深山に咲く深山霧島よ、君にも吾と同様に億劫の虫がひそんでいるに違いない。あるいはこの「吾に億劫の虫ひそみ」は深山霧島自身が言っていることなのかもしれない。


4

鑑賞日 2014/8/5
遠く見るためのしんがり長崎忌
有村王志 大分

 第二次大戦で日本はいわば世界のしんがりに位置してしまった。二発の原爆や大空襲で徹底的にその誇りは潰されてしまった。そのしんがり状態の祈りの中であの平和憲法が生まれた。言ってみれば世界の一番遠くを見据えた憲法である。憲法は世界の現実に合わせるべきだという議論があるが、憲法は世界の行く末の現実を見据えたものであるべきだろう。しんがりに居た時に見えたものが今見えなくなってきているのかもしれない。もう一度あの時の祈りを取り戻したいものだ。
 勝手な連想を書かせてもらった。


5

鑑賞日 2014/8/6
あかしや白花わが頬杖に倚りかかる
伊藤淳子 東京

 気品ある女性のたたずまいという感じである。知と情のバランスがとれている故に醸し出される気品とでもいうか、清楚さとふくよかさを共に具えた気品とでもいうか、たとえばモナリザが頬杖をして、それを横から、白を基調とした雰囲気で描かれていたらこんな女性像になっていたかもしれないと想像したりする。


6

鑑賞日 2014/8/8
人は去り旧谷中村鷹は飛ぶ
内野 修 埼玉

 旧・谷中村はあの足尾鉱毒事件の起った場所である。以下http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/kiyo40_53.htmlより

 ◆足尾鉱毒事件により地図から抹殺された悲劇の村
 明治10年(1877年)以降、足尾銅山から排出された鉱毒のため洪水のたびに、渡良瀬川の流域の村々では、作物が枯れ、豊富な魚介類が死滅するという被害が出ていた。明治33年(1900)に被害民が大規模な抗議行動(第4回東京大挙押出し)を起こした川俣事件、明治33年(1901年)の田中正造の天皇直訴事件等で、社会の耳目を集め国会でも大きな問題になった。
 明治政府は鉱毒事件の解決のため、毒の水をためる調節池(渡良瀬遊水地)の建設を行うことを計画した。その犠牲になったのが谷中村の住民である。谷中村では村ぐるみで「藤岡村との吸収合併」「土地の不当買収」「住民の強制立ち退き」に反対したが、施政権のある当局には勝てず明治39年(1906)、谷中村は藤岡町に合併され法律上、消滅した。結果的に土地は不当に安い値段で当局に買い上げられ、被害民たちは近隣の村々に、遠くは北海道の荒涼地へ移転していった。

仮小屋での生活を続ける
 その後も387戸、2,500余人の住民のうち16世帯約100名は、谷中村の遊水池化に反対し買収に応ぜず提内に留まっていた。これに対し、西園寺公望内閣は明治40年に土地収用法の適用認定を公告、谷中村を隣接の藤岡町に吸収合併させて、谷中村を地図上から、更には公の資料から全て抹殺しようと謀り、明治40(1907)年6月29日より7月5日までの7日間にわたって谷中村残留民家16戸の強制破壊を強行した。
 強制破壊後も谷中村残留民は、仮小屋を作り悲惨な生活を強いられながら抵抗を続けたが木下尚江らの勧告もあって大正6年(1917)、強制破壊から10年におよぶ反対運動を断念、全ての戦いが終わり谷中村は名実ともに消滅した。

 田中正造の俤とこの飛翔する鷹のイメージが重なるような気もする。


7

鑑賞日 2014/8/9
朝顔や形状記憶の怒り肩
榎本愛子 山梨

 朝顔は朝になるとあの朝顔の形に開く。朝顔は朝顔の形であるし、人間は人間の形である。これはどうもDNAというものによってそうなっているらしい。DNAというものは形状記憶装置のようなものかもしれない。生まれつき怒りっぽい人というのはどうだろう。DNAにそう記されているのだろうか。もしかしたらそうかもしれない。


8

鑑賞日 2014/8/10
今という迷宮があり利久梅
大高宏充 東京

 利久梅(りきゅうばい)は利休梅とも書くらしい。ネットで調べてみても千利休に関係しているともいないともはっきりしない。千利休を千利久と書く場合もあるようである。この句の場合は千利休に関係していると見た方が面白いと私は思う。

 「今という迷宮」とはすなわち「私という迷宮」に置き換えられる気がする。「私という迷宮」は「私と他者という迷宮」にも関係してくるだろう。そして茶の湯の本質はこれらの迷宮に踏み迷った心を静めるための一つの方便であると捉えたいのであるが、どうだろう。


9

鑑賞日 2014/8/11
ほうたるほー水は低きへ平俗へ
金子斐子 埼玉

 リラックスリラックスということである。水の如きになれということである。単純になれということである。競争するなということである。そういう人こそ真正に美しい。老子的な智恵の一句。


10

鑑賞日 2014/8/12
手押し車で移されてゆくオットセイ
菊川貞夫 静岡

 只事のように見えるが。もしかしたらこれを只事と見るのは感じることに鈍くなった大人の反応なのかもしれない。子どもが見たらどうだろう。わあ、オットセイさんいいな、ぼくもあれに乗りたいよう、というかもしれない。あるいは、オットセイさんどうしたの、どこか身体の具合が悪いの、自分で動けないの、というかもしれない。造物主が見たらどうだろう。うん、人間は私の意図した通りによく動物の面倒を見ているようだ、なかなかよろしい、というかもしれない。あるいは、どうも自然界は混乱してきたようだ、人間が出しゃばり過ぎて動物界も人間界もごちゃまぜになってきた、と思うかもしれない。


11

鑑賞日 2014/8/13
山芽吹く人は掌を擦る鼻こする
北上正枝 埼玉

 「・・・蠅は手をすり足をする」という句のリズムを思いだす。リズムが似ているだけではなく、内容もこの一茶の句を踏まえているように思う。人は偉そうなことを言っているが大きな目でみれば蠅とそんなに違いはない自然物であるということ。山が芽吹くように人間も掌を擦ったり鼻をこすったりする。


12

鑑賞日 2014/8/14
陽炎にこわされどおしの擬音語
京武久美 宮城

 擬音語(オノマトペ)とルビ

 創造破壊創造破壊創造破壊・・・宇宙の創造の構造はこういうふうになっている。つまり破壊は創造の一部である。創造や破壊の音ってどんな音。ゆらゆらがっくんひゅーがっくんゆらゆらがくがくがくがくひゅー・・・ほいほいほいほいほいほいゆーらららららら・・・らーくららーくら・・ぎゃーごーぐーがーからからからからのんののんのあんあんあん・・・■■■●●●○○○●●■■■□・・・ぱーひゅーんぱぱぱぱぱんぱんぱんぱかばかばかとんとんぱ・・・ああきりがないきりがない。ああかげろうだかげろうだ・・陽炎・・


13

鑑賞日 2014/8/15
閉じぬ眼に和紙の目隠し雛納
金並れい子 愛媛

 品があるなあ。一つ一つの行動を注意深い眼差しをもって行なうことが出来るということが品があるということの本質だと思うが、そういう態度が雛人形に接する時に現れ得るなら、おそらく他の場面でも品を持って生きていけるに違いない。雛祭という行事に価値があるとすれば、その辺りに在るだろう。


14

鑑賞日 2014/8/16
桜花爛漫死ぬときの顔想っている
小池弘子 富山

 極言すれば死ということが人間の抱える唯一の問題である。結局人間は死ぬからである。どんな生のコースを辿るにしても最期に待っているのは死であるからである。人間は死ぬために生きているようなものだからである。死の問題を解決した人がブッダ(目覚めた人)と呼ばれる。だから常に死のことを想いながら生きるのがいい。そうすれば逆に十全に生きることが出来る。死のことを想いながら今という生を精一杯生きるのがいい。爛漫と咲く桜の花もおそらく死ということを想っている。


15

鑑賞日 2014/8/17
聚落は横坐りのよう梅咲いて
児玉悦子 神奈川

 梅が咲くほどに暖かくなってきた。聚落もどことなくリラックスしてきているようだというのであろうか。それを正座を崩して横座りする時の気分で表現したのであろうか。おそらくこういう句が書けるというのは普段から正座をするような生活に親しんでいる作者なのかもしれない。漢字の知識はあまりないが、集落より聚落の方がその意味では相応しいのかもしれない。


16

鑑賞日 2014/8/18
昼寝覚め東北の地図開きしまま
坂本みどり 埼玉

 便りの無いのは良い便りなどという。普段はその国が何処に在るのかさえも気にしないが何か悪い便りがあるとその国は何処に在るのだろうと地図を開いてみたりする。エボラ出血熱というのが西アフリカのギニア辺りで起っているというニュースを聞いて、それは地図でどの辺りなのかと調べてみたりする。ウクライナはどの辺りの国か、あるいはガザというのはどの辺りに位置しているのか、普段はあまり意識していない地域が気になってくるのは殆ど悪いニュースの所為である。作者は東北の地図を開いたままうとうと昼寝をしてしまった。言うまでもなく東北では三年前にとても悪いことが起った。そしてその悪いことは現在も続いている。そしてこの先も続くだろう。


17

鑑賞日 2014/8/19
揚羽来る日常かなり直感的
白石司子 愛媛

 自然においてはあるいは自然状態においては直感的に生きていて概ね上手く回っていくのではないか。ところが歴史に人間というものが登場してきてからなかなかそうはいかなくなってしまった。人間に智恵が付いたからである。さらに悪智恵、策略、陰謀、企みなどを人間が所有するようになったから、尚更直感だけでは上手くゆかなくなった。こうなってしまったら人間はやはり高度な知性や自制心を働かせなくてはならないのだろう。しかし、かといって無垢で自然な直感を失ってしまったら元も子もない。その辺りのバランスが難しい。「日常かなり直感的」と言っている作者は、直感的であることが許されるかなりな自然状態でいられる環境にあるのかもしれない。つまり揚羽が訪れてくれるような日常である。


18

鑑賞日 2014/8/20
わがふぐり洗いし川で馬冷やす
鈴木八駛郎 
北海道

 懐かしい時代の一つの切り取られた風景という感じ。ああこんな時代もあったなあ、というか、こんな時代もあったのだろうかというふうになってきている感がある。北海道などでは馬を冷やす風景などが現在でも見られるのだろうか。現代はどんどんと生(なま)の自然が遠くなってゆく時代である。一般的にはこの風景は過去のものだろう。人間や動物が自然であった頃の版画絵あるいはモノクロ写真だという感じがしてしまうのは何事も経済合理性だけで計られてしまう現代という時代の所為だろう。


19

鑑賞日 2014/8/21
逃げ水追い母の放浪始まりぬ
瀬古多永 三重

 おそらくこれは徘徊のことだろう。ロマンチックな発想である。これでいいのではないかと思う。おそらく老人には老人のロマンがあるのである。若い頃に満たされなかったロマンの始まりなのかもしれない。これを面倒は社会問題と捉える必要はあるのだろうか。誰かが迷惑を被るのだろうか。一人の旅人と考えればいいわけである。旅人に一夜の宿と食事を捧げるようにしてこの旅人を扱えばいいのである。もし何処かに消えてしまったとしたら、それは彼あるいは彼女のロマンの中に消えたのだと思えばいい。私自身死期が近づいたらよろよろと旅に出て何処かの野辺で身を横たえて死を迎えたいという欲求があるが、これが社会問題だと捉えられたら、そんなことは無理だと諦めてしまうくらいなのであるから、世間体を気にしないで旅に出ることができる老人は逆に偉いとも言える。


20

鑑賞日 2014/8/22
惰眠とも薪のにおいの朧とも
田口満代子 千葉

 おそらくこれは惰眠ではないな。リラックスであろう。リラックス効果によって呼び起こされた原初の記憶のおぼろおぼろとした懐かしさではないか。薪のにおいにはそういうものを呼び起こす力があるのかもしれない。新鮮な薪のにおい、あるいは炉で燃えた薪の燃え残りのにおい。かつて炉の火を囲んで睦み集った人間らしい記憶は忙しい現代人の遺伝子の中にも記憶されているのかもしれない。


21

鑑賞日 2014/8/23
桜散る散る原発は麻薬である
田村勝実 新潟

 何となく酔って気持ち良くなる感じがして、またやりたくなる。確かに原発は麻薬に似ている。自然を征服し得たような感じ、自分が大きな力を持ったような感じに酔わされるのかもしれない。そして依存症になりやがて廃人になってゆく。原発の場合は廃国になってゆくだろう。その意味では原発の悪は麻薬の比ではない。麻薬の場合はそれをやる本人だけが廃人になれば済むことだが、原発の場合は周りのすべての生き物が被害を受けてしまう。場合によっては地球という生命体そのものが駄目になる。
 桜散る散る/原発は麻薬である と単純に切って読んだ。桜が散るまた散る。その陶酔感あるいは幻惑感の中で「原発は麻薬である」という作者の中に潜んでいた言葉が出てきたのではなかろうか。


22

鑑賞日 2014/8/24
恋猫の声と星座と混み合うよ
月野ぽぽな 
アメリカ

 この作者の句作りは多彩だという印象だ。多様だということ。つまり自由な心を持っているということかもしれない。あらゆる自分の周りで起る事象を楽しんでいるともいえる。積極的な意欲があるということかもしれない。そもそもアメリカに住んでいて俳句を始めるということ自体がかなり積極的で主体的な自発性がなければできない。で、この作家の場合は俳句の道においてあるいはその人生において途中でぽしゃることは無いだろうと予感している。


23

鑑賞日 2014/8/25
蝌蚪に足伊勢神木に抱きつくよ
長谷川順子 埼玉

 考えてみれば全ての木々は神木である。各地にある神木と呼ばれるものはそのことの象徴としてある。齢を重ねその神木としての風格が具わってきているからであろう。また建築材のように人間の役に立つためのものでなくただ無意味の意味で存在しているからかもしれない。その存在自体が神々しいのである。本来人間やいのちあるものはその存在すること自体が神々しい筈であるが、ついついそのことを忘れがちになる。それを思いだすために神木というものの存在価値があるのかもしれない。蝌蚪に足が生えるというのも一つの神々しい現象の一つである。あらゆるものがあらゆる現象が神の現れであると気づいた時に、人は全的な喜びに満たされる。


24

鑑賞日 2014/8/26
百足虫梁にたましいもまた老いたるか
藤野 武 東京

 この句の場合の「たましい」は大和魂だとか俳人魂だとかいうもの、つまり精神だとか気力だとか気構えだとかあるいは大事なもの、英語ではspiritに当るものではなかろうか。決してsoul ではないだろう。何故なら、soul に当る魂は老いないからである。spirit は老いるしまた老いてもいいものであろう。spirit は肉体に属するものであるからである。「健全は精神は健全な肉体に宿る」といわれるそれであるからである。作者は梁に百足虫が這うのを見ながら肉体の衰えをしみじみと噛みしめているのかもしれない。あるいは自分の肉体の衰えということではなく、時代の風潮に何か大事なものの衰えを感じているのかもしれない。


25

鑑賞日 2014/8/28
母笑うどこか網戸の穴のごと
藤原美恵子 岡山

 母笑う。怒りはしない。泣きもしない。心底笑える状況とはいえないが、母は一応笑う。母が笑わなくなったらお終いだ。これは私達の状況あるいは日本の状況かもしれない。何処か網戸に穴が開いているような状況である。


25

鑑賞日 2014/8/28
母笑うどこか網戸の穴のごと
藤原美恵子 岡山

 母笑う。怒りはしない。泣きもしない。心底笑える状況とはいえないが、母は一応笑う。母が笑わなくなったらお終いだ。これは私達の状況あるいは日本の状況かもしれない。何処か網戸に穴が開いているような状況である。


26

鑑賞日 2014/8/29
亀鳴くやわが代にて墓閉ざすこと
前田典子 三重

 現実と非現実の間で亀が鳴く。虚と実の間で亀が鳴く。あの世とこの世の間で亀が鳴く。放哉に「墓のうらに廻る」という句がある。この句に季語をつけて五七五にするとすれば「亀鳴くや墓のうらに廻る」だとか「墓のうらに廻る亀が鳴く」あたりが相応しいような気もする。墓というものは非常に大事なもののようにも思えるし、全く不必要なものあるいは却って本質を見失わせる邪魔なものにも思える。


27

鑑賞日 2014/8/30
子雀に少し遅れる母の起き伏し
松本勇二 愛媛

 今年は二回ばかり娘が二歳の孫を連れて遊びに来た。二歳くらいの子どもはまさにベビーギャングである。来れば嬉しいが帰ればまたほっとする。彼が起きていればこちらは落ち着けないし、彼が寝ればまたほっとする。私はベビーギャングだといったが、娘即ち母親にしてみれば子雀というのが当っている感じかもしれないし、また私の妻などの感じも子雀と受け取っているかもしれない。おそらく作者も優しい情の持ち主なのだろう。私の場合はどういうわけかベビーギャングである。


28

鑑賞日 2014/8/31
青あらしハブ酒にハブのくるくると
三浦静佳 秋田

 提示するということかもしれない。二物提示ということ。二物配合であるとか二物衝撃という言葉があるが、この句の場合は二物提示という言葉が思い浮かんだ。これらの中で一番乾いているのが二物提示であるような気がする。つまり一番客観的である。宇宙は何か意味があってそのようにあるのだろうか、あるいは只そのようにあるのだろうかという問題がある。「提示」の場合は宇宙は只そのようにあるという立場に近い気がする。


29

鑑賞日 2014/9/3
葱坊主島の娘は横向きに
水上啓治 福井

 この句の詩性あるいは物語のはじまりは「島の娘」という言葉にあるだろう。「島の娘」という言葉にはエキゾティックな郷愁がある。あるいは触れられない無垢さへの憧れというようなものがあり胸が高鳴る。それを「葱坊主」を配して「横向きに」と抑えて表現している。この抑え方が俳句的であるといえるのかもしれない。


30

鑑賞日 2014/9/4
石鹸に春のくぼみや一人暮らし
宮崎斗士 東京

 この句が一人暮らしの他者のことを書いているのだとすれば、こまやかな優しい感情の句であるし、自分自身のことを書いているのだとすれば、案外ほのぼのと一人暮らしを味わっているという感じがする。私の知っている範囲では作者は奥さんがいる筈である。もっとも私の場合で言えば、現在は事情があって妻とは離れて暮らしているので一人暮らしである。(喧嘩分かれしているわけではないし仲はいいのであるが)


31

鑑賞日 2014/9/5
麦藁を叩けば爺の湧いて出る
宮川としを 東京

 こうして藁を叩いていると、懐かしい爺の想い出が蘇ってくる。爺の顔が浮かんでくる。爺が湧いて出る。今は藁を叩くということも無いだろうから、作者の想い出の中の作か。次のような民話的な場面も浮かぶ。
 爺よ爺よわりゃほとほと困ってしもた
 トントントントン
 爺よ爺よ助けてくりょ
 トントントントン
 爺よ爺よ教えてくりょ
 トントントントン
 爺よ爺よ湧いてこ
 トントントントントントントン・・・
 そして・・・・


32

鑑賞日 2014/9/6
鬼になれる器でもなし夕ざくら
武藤鉦二 秋田

 同感だな。どうだろうか、結局良きにつけ悪しきにつけ世で名を成したりあるいは事を成したりする人物は鬼なのではないだろうか。何かしら心中にデーモンのようなものが居て、それが彼をしてその事に当らせるのではないだろうか。それは良きにつけ悪しきにつけである。例えば俳句で名を成すには俳句の鬼である必要がある。歴史を動かすような事を成した悪人も彼は鬼であったのではないだろうか。つまり彼等は何らかのデーモンが心中に居るのである。私のようないわゆる凡人は心中にデーモンが居ないのであるから、結局鬼になる器ではないといえる。私は最近開き直りというか何というか、凡人であるなら凡人を極めるのがいいのではないかと思うようななってきた。凡人であることをそのまま認めて凡人であり続けるということ。もしかしたら夕ざくらが美しいのは彼等は無意識の中で彼等の凡人性を否定していないからではないだろうか。


33

鑑賞日 2014/9/7
どの道を来てこの真青なる蝶よ
村上友子 東京

 好きな句だ。この詩性。この青春性。余分な言葉は発したくなくなる。


34

鑑賞日 2014/9/8
夏蝶描くそっと真昼を見詰めつつ
森央ミモザ 長野

 あるタイプの画家を想像している。私にとってはかなり魅力的なタイプの画家である。彼女(彼)はものを描くとき実はものによって啓治されたその時間を描いている。その時間と対話している。その時間を見詰めている。私達がその作品を見る時に感じるのはものそのものではなく、その画家がそのものを通して対話したそのものの奥にある時間あるいは存在を感じとっているのかもしれない。時間の不思議さ、そして存在の不思議さを・・・


35

鑑賞日 2014/9/9
身に覚えある天罰や春の風邪
諸 寿子 東京

 春の風邪、ああ天罰や天罰や、身に覚えある天罰や。ものごとを大袈裟に言う面白さ滑稽さである。滑稽諧謔の句。あるいは戯けの句。ところで、身に覚えのない天罰と感じられる災厄に対してこのように余裕の戯けでいられればいいと思うのが私自身の問題ではある。


36

鑑賞日 2014/9/10
秘密基地子の汗しみしダンボール
安井昌子 東京

 こういう遊びをする子どもが今も居るのだろうか。居て欲しいと思う。秘密基地で子の夢は育まれるからである。秘密基地で子ども等は友人との親密性を学ぶからである。秘密基地によって子どもはその創造性が伸びるからである。子どもの頃にこういう遊びを沢山することによって子どもは大人になってゆく。どうだろう、アベちゃんなどは子どもの頃に秘密基地遊び等をしたことがあるだろうか。子どもの頃に秘密基地遊びが出来なかった代償を今やっているのではないかという気もする。NSC設置や秘密保護法案はじめその他の彼のやっていることは大人のごっこ遊びのように見えるのだが。彼の強い国ごっこ遊びに付きあわされるのは御免蒙りたいのだが。


37

鑑賞日 2014/9/11
    2014/9/12
窯出しはちょっと前なりこの青嶺
矢野千代子 兵庫

 よたよたと躓くような言い回しの味といったらいいだろうか。もしかしたら全ての物事はすっきりと割り切られたように進んで行くのではなく、よたよたと躓くように進んで行くのかもしれない。これも宇宙の一つの眺め方に違いない。 

 上のように昨日鑑賞したのであるが、どうも納得がいかないのでもう一度。

 おそらく「ちょっと」が味噌であろう。青嶺がある。その前で窯出し作業が行われているのであるが、雄大な青嶺にとっては人間が行なっている窯出し作業場は「ちょっと前」なのである。青嶺にとっては鼻くそがちょっと付いているという感じかもしれない。


38

鑑賞日 2014/9/12
星座つくるみたいにすみれの種を蒔く
吉川真実 東京

 神は人間を自分に似せて作ったという説がある。この句を読んでいるとまさにそういう感じがしてくる。神はおそらく創造するということを楽しみながらやっている。何らかの目的がある筈もないし何らかの義務でやっている筈もない。彼は創造すること自体を楽しんでいるのだ。園芸の本質もまさに楽しんでやるそのこと自体にある。それは神が星座を作る時の楽しみに似ているだろう。


39

鑑賞日 2014/9/13
覚束な天のまろさも罌栗畑も
柚木紀子 長野

 覚束(おぼつか)とルビ

 個人的な境涯句と読めるかもしれないが、時代の背負っている兆候の一つと言えるかもしれない。どうだろう誰だって人間への感受性や自然への感受性の強い人は多かれ少なかれ覚束なさを感じる時代と言えないだろうか。頻繁に起る異常気象、地震の多発、原発による放射能の拡散、認知症を含めて精神疾患の多さ、世界情勢や社会への不安等々数え上げたら切りがないほどの覚束なき時代である。天のまろさや罌栗畑の美しさに素直に共感共振できる世界であって欲しいものだ。


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