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金子兜太選海程秀句鑑賞 504号(2014年7月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2014/7/3
花ごろも臀部犇く緋毛氈
飯土井志乃 滋賀

 何となく中年の女性のお尻達という感じがする。女性が数人集まればよく喋る。ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ次から次へと話題は尽きない。狭い緋毛氈の上だから逃げ場もない。ふと下を見ると、彼女達のお尻が犇めきあっている。何とも頼もしいパワーである。


2

鑑賞日 2014/7/3
漣は誰のあとがき鳥雲に
伊藤淳子 東京

 いつもながらこの作家の句には何か大きなものの意思の働きが示唆れているような感じがある。「漣は誰のあとがき」からそう感じるのである。また「鳥雲に」と関連づけて眺めていると、この鳥達がこの漣をあとがきとして残したというような、この宇宙の大きな詩的関連性を思ったりする。大きくそして詩的である。


3

鑑賞日 2014/7/4
少年は透明な矛盾梨の花
伊藤雅彦 東京

 少女は?おそらく少女はその中に宿命的に血を抱えているので全く透明とは言えないかもしれない。少年は基本的に中心となる血のようなものを抱えていないから全く透明になり得る。中心がないということでもある。それ故に逆にその透明さは屈折してゆくことがある。矛盾を孕むことがある。アイデンティティーを確認できないことがある。少年が少女に恋するのは、自分の存在理由を見出したいからかもしれない。ああ「少年は透明な矛盾」である。彼は清楚な梨の花の前で何を思念しているのか。


4

鑑賞日 2014/7/4
鳥雲に被爆者が飼う被曝牛
稲葉千尋 三重

 私は長野県の北部に住んでいるが、この春に有線放送でさかんに山菜のコシアブラの放射線の値が高いから注意しろと告知をしていたのには驚いた。長野は比較的に放射能汚染が少ないとされていた地域だからである。こうなると被曝線量の高い地域では何もかもが汚染されつくしてしまっているのではないかと思った。植物だって動物だって人間だって皆が皆被曝している状態なのだろうと思った。もしかしたら渡り鳥だって汚染されているかもしれない。「鳥雲に被爆者が飼う被曝牛」・・悲しい運命の中での人間と牛の絆が痛々しくも愛しい。


5

鑑賞日 2014/7/5
赤ちゃんが桜吹雪を掻き交ぜる
内田利之 兵庫

 風で飛ばされた桜の花びらが赤ちゃんに降りかかる。赤ちゃんは喜んで手を何回も振り回す。まるで赤ちゃんが桜吹雪を掻き交ぜているようだというのであろう。・・・私などはこの宇宙は、何処かで赤ちゃん神が宇宙の元になる何かを掻き交ぜた結果できたのではないかと連想してしまう。そんな楽しい句である。


6

鑑賞日 2014/7/5
還暦や土筆ぎくしゃく煮殺して
榎本祐子 兵庫

 人間歳を取ってくると、より自然のものに親しみや興味を感じることがあるのかもしれない。山菜などもその旨味が分かって来るような気がする。いろいろな山菜などを食ってみようとすることがある。しかし不慣れなせいかその料理法は定かでない。土筆を食ってみようと料理をしてみたが、慣れていないもので、まるでぎくしゃくと煮殺してしまったようなものができ上がったというのではないか。


7

鑑賞日 2014/7/6
かたちなき言葉の武器や霾ぐもり
加藤昭子 秋田

 安倍首相は人心を操る言葉の使い方は上手いと言える。何の実体のないものに対して、あるいは害があるものに対して如何にもそれが価値があり真実でありそうなことを言う。最大のものはアベノミクスという言葉である。この言葉に多くの人が騙されてしまった。その他にも積極的平和主義やアンダーコントロールなどと嘯く。一見甘いマスクから発せられるこれらの言葉の武器を駆使して彼は人心を煙に巻く。今や日本は大切なものが見えなくなっている霾ぐもり状態であるのかもしれない。


8

鑑賞日 2014/7/6
牡蠣を剥く祈りつくせぬことを詫び
狩野康子 宮城

 あの東日本大震災の時に人々の取った高潔な態度は世界から賞賛された。私もその時は日本人であることに誇りさえ感じたものだ。しかし、それ以後の官僚や政府の取っている態度には全くがっかりさせられている。短絡的に言ってしまえば、要するに日本人の庶民は質がいいし、いわゆる上層にいる日本人は質が悪いのかもしれない。日本は経済格差が広がっているが、心の質の面でもその格差は逆方向に大きくなってきているのかもしれない。この句における心情はまさに日本人の心の質の高さを示しているといえる。


9

鑑賞日 2014/7/7
弥陀の在す山がすごそこ桜の芽
北村美都子 新潟

 在(ま)とルビ

 二つの道があるという。一つは愛の道でありもう一つは知恵の道である。違う言い方をすれば、他力と自力となる。愛の道すなわち他力の道は豊かに彩られておりまた直截である。知恵の道すなわち自力の道はある意味砂漠のような美しさでありその道は長い。この作家の印象はすなわち愛の道に在すという感じである。今まで読んだ句から受けるしっとりとした印象がそう思わせるのである。今日のこの句はまさにそういう御自身の在り方を弥陀という言葉で表明なされた感じである。


10

鑑賞日 2014/7/8
お遍路に旭ものすごい色気やな
久保智恵 兵庫

 一般的に宗教的な求道とは色欲などを捨てて修業するということになっているが、実は更に大きな絶対的な色欲に彼は突き動かされているのかもしれないのである。普通の意味での色欲の到達点はせいぜい異性との合体であるが、宗教的な意味での色欲の到達点は存在全体との合体であるからである。歓喜仏というものが現わしているのはまさにその境地であるに相違ない。

http://www.abaxjp.com/tibet-buddha/tibet-buddha.htmlより

11

鑑賞日 2014/7/8
暗闇はどうなっている猫の恋
河野志保 奈良

 恋というものが自己を拡張したいという欲求の一つ現れだとしたら、それは光の部分への拡張でもあるし闇の部分への拡張でもあるに違いない。暗闇はどうなっているのかという興味が恋というものには含まれているに違いない。その辺りのことをこの句は気づかせてくれた。


12

鑑賞日 2014/7/9
ロボットに負けましたから陽炎
小林寿美子 滋賀

 おそらくこれからの時代多くの分野で人間はロボットに負けるだろう。既に彼等は記憶力や計算力では人間より勝れている。それに彼等は疲れない。結局人間が彼等より優れている点は何だろうか。逆説的になるかもしれないが、人間はこの世界において自分は小さなもの弱いもの取るに足りないものだと自覚できるということではないだろうか。そのとき人間はこの世界の神秘を真に悟ることができるかもしれない。おお陽炎。


13

鑑賞日 2014/7/9
献体の許しを請えば姉が泣く
今野修三 東京

 実は私も献体しようと思っている。私の父母がそうした。そして結構これは気持ちのいいものである。父母は生前は反戦や平和の社会活動をしていたような人であるから、死後も社会のお役に立ちたいという願いがあったのかもしれないし、子どもの負担を少しでも減らしたいという思いもあったのかもしれない。とにかく通夜や告別式が終わると大学の医学部の関係者が遺体を引き取りに来て持っていく。一年後くらいに骨として帰ってくるのであるが、その骨は何かとても清潔で清らかな感じがしたと私の義理の兄が言っていたのを思いだす。最後まで生きるということの役目を果たした感じであろうか。私の場合は社会のお役に立ちたいとかいう思いは殆ど無いのであるが、とにかく私は面倒くさい性質なので献体というシステムは私には相応しい。


14

鑑賞日 2014/7/10
輪郭はクナシリ桜もち草もち
佐々木宏 北海道

 国後島の輪郭が桜もち草もちに似ているのかと思って地図を調べてみたが細長い国後島はあまり似てない。北海道から見る国後島の姿が似ているのかとも思ってみたがどうも違う。クナシリと片仮名書きをしているから北方領土問題を扱っているのかもしれないとも思えるが・・・。ところで領土問題というものは厄介なものだ。「これは俺のものだ」「いや俺のものだ」という水掛け論であるが、結局力の強いものが言い分を通すのかもしれない。考えてみればガキ大将やヤクザの縄張り争いのようなものかもしれない。どうだろう、草もちや桜もちを食いながらの茶飲み話のように気楽な会話の中で譲り合ったり分け合ったりできないものだろうか。


15

鑑賞日 2014/7/10
母という難儀なるもの柏餅
重松敬子 兵庫

 俳句という文学や禅という宗教的態度が同じ日本で発達したのはある意味日本人の特色を現わしているかもしれない。ざっくり言って禅や俳句では深刻なものごとにあまり深入りしてああだこうだと論じることをしない。深刻なものごとはやり過ごす、往なす、あるいは乾かすということが一面あるような気がする。「母という難儀なるもの」というのはおそらく哲学や心理学の大問題となり得るかもしれないが、俳句では「柏餅」とさっと往なしておくということがある。


16

鑑賞日 2014/7/11
おもいとは違う声出て桜狩
柴田美代子 埼玉

 この場合の「おもい」とは比較的人間の表層にある考えということだと受け取った。それ故平仮名書きになっているのかもしれない。よく言われるのは、意識されている思いより無意識の領域の思いの方が本質的なものである、ということがある。私の見るところでは、その深い領域における思いの方が自然との共感性が高い。そしてその深い思いは時として迸り出ることがある。この句はそういう状況を書いたものではないだろうか。


17

鑑賞日 2014/7/11
愛しの癌や黒葡萄の渦である
鈴木 誠 愛知

 私も時々考えることがある。癌は果して敵だろうか・・自然という大きな視点から見ればもしかしたら味方かもしれない・・と。しかしいざ癌になった時にこの作者のように「愛しの癌」という表明が出来るかどうかである。全ての自然を愛することが出来るということは、癌になった時に「愛しの癌」と表明できるということである。もしこの作者ご自身が癌であるのなら、おそらくいろいろな葛藤や絶望を乗り越えてこの境地に至ったのであろうと思うが、こう言い切れることは誠に素晴らしいと言う他はない。なぜならそれは「あるがままのすべてがいとおしい」ということだからである。それ故「黒葡萄の渦」という客観視した美しい比喩も生まれる。


18

鑑賞日 2014/7/12
豬の夜を冬沢赤らみてなまめきて
関田誓炎 埼玉

 豬(しし)とルビ

 私などは持ちあわせていないのであるが、金子先生も含めてこのような感性を持っている人がいる。原初的な感覚とでも言うか、動物との共感性とでも言おうか、アニミズム的な感覚とでも言おうか。太古の狩猟時代の記憶を持っている人なのかもしれない。羨ましいと思うことがある。


19

鑑賞日 2014/7/12
尻向けた春駒を描き浮世絵師
芹沢愛子 東京

 まあ人間というものはどんなものにでも興味を示す。もしかしたら人間はそう定義できるかもしれない。つまり、どんなものにでも興味を示す動物を人間という、と。どうだろうか、この句の作者はそれを面白がっていると同時にまたそういう奇妙な動物である人間を愛おしく思ってるのかもしれない。


20

鑑賞日 2014/7/13
昔々兄二人いてねぶか汁
高尾久子 富山

 この兄二人は戦地で亡くなったのか、高齢で亡くなったのか、とにかくあらゆる過去の事象が今となっては懐かしい物語になってゆく。「昔々」という語り口と「根深汁」が民話的な雰囲気を醸し出す。


21

鑑賞日 2014/7/13
春眠に少しまじりて死の匂い
高桑婦美子 千葉

 一般的に「死が隣にいる」と感じるのは何歳くらいになってからなのだろうか。歳に関係なく大病をしたり戦地に行ったりあるいは大きな事故や災害に出会った時にもそう感じるかもしれない。私はそう感じながら生きてゆくのはいいことだと思っている。何故なら常に死が隣にいると感じることが逆に日々を精一杯生きようという態度に繋がり得るからである。


22

鑑賞日 2014/7/14
風船の紐ふたしかに夜の桜
田中亜美 神奈川

 例えばこんなふうに感じたことはないだろうか。自分は風船のような存在であり、細い紐によってこの世に繋がれている存在だと。その紐が切れれば自分は何処かに飛んでいってしまってそこで壊れてしまうと。この句の場合はもしかしたらその逆で、自分が大切にしているものが風船というものに象徴されていて、その風船をつなぎ止めている紐が今は不確かなのだと感じているのかもしれない。そう考えればこの句は不安感を表現した句かもしれない。夜の桜という雰囲気も何だかまた不安の象徴のように見えてくる。


23

鑑賞日 2014/7/14
喪を灯すようです水芭蕉ひらく
月野ぽぽな 
アメリカ

 作者は長野県出身のアメリカ在住であると聞く。水芭蕉がアメリカにもあるかどうかWikipedia等で調べてみた。調べた限りではアメリカにはない。だから長野に帰省しての句かもしれないと思った。長野には至るところに水芭蕉はある。私の家の庭にも一本ある。
 作者は何らかの喪で帰省したのかもしれない。そして水芭蕉に出会った。そしてこのように感じたのかもしれない。
 いや、全くそうでなくてもいい。もっと大きく解釈もできる。世界は常に喪の中に在るとも言えるだろう。死と生が入り交じったこの世は必然的にそうならざるを得ない。水芭蕉の形状を考えてみよう。彼等はまるでローソクの炎のようだ。あるいは祈る人のようだ。彼等はこの世界自体を弔うためにその光を放っている存在のようにも思えてくる。


24

鑑賞日 2014/7/15
余震また弟切草を踏むなかれ
長尾向季 滋賀

 以下写真と青字はWikipediaより。

 オトギリソウ(弟切草、学名:Hypericum erectum)は、オトギリソウ科オトギリソウ属 の多年生植物。
 日本全土から朝鮮半島、中国大陸の草地や山野に自生する。高さ20cm〜60cmにまで生育し、夏に2cm程の黄色い花を咲かせる。
 葉の表面に褐色の油点が見られるが、これはヒペリシンという光作用性物質で、これを摂取した後に日光に当たると皮膚炎や浮腫を生じる。
 またオトギリソウにはタンニンが多く含まれており、全草を乾燥させたものを小連翹(しょうれんぎょう)と称して生薬として用いる。
 この草を原料にした秘薬の秘密を漏らした弟を兄が切り殺したという平安時代の伝説によるものである。この不吉な伝説のため、付けられた花言葉も「怨み」「秘密」と縁起が悪い。
 一方、基本的には薬草であり、タカノキズグスリ(鷹の傷薬)、チドメグサ(血止め草)などの悪いイメージのない異名も持つ(同様に民間療法で傷薬として使うチドメグサは別種に存在する)。
 オトギリソウ茶に、マルトースをグルコースに分解する酵素であるマルターゼ阻害活性があり、血糖上昇が抑制されたとの報告がある。

 さて句である。この「弟切草を踏むなかれ」に何か意味付けして解釈するのはつまらない。偶々こういう呪文が作者の口をついて出てきたということだろう。そう、俳句は呪文であるともいえる。


25

鑑賞日 2014/7/15
白鳥帰る国境あたりで糞をして
夏谷胡桃 岩手

 いいなあ白鳥は。自由だ。自由な旅人だ。糞なぞは何処でも出来る。国境を犯したからといって誰も文句をつける者もいない。人間世界とは大違いだ。「imagine,there's no countries」などと口ずさみたくなる気分だ。


26

鑑賞日 2014/7/16
残雪や黒髪の根の焦げ臭き
野崎憲子 香川

 ゆったりとした自然観というのではなく、自然を抉って捉えているという印象がある。あるいは存在に穿ち入りたいという欲求の表れのようにも思える。この作者の句集に『源』というのがあるが、そう、存在の源への求心的なベクトルの結果としての一つの表れかもしれないと思った。そしてまたそういう欲求は人間においては性的な欲求として現れることがあるが、そういう雰囲気もある。


27

鑑賞日 2014/7/16
満作けぶる傾山のヘリポート
疋田恵美子 宮崎

 傾山(かたむきやま、かたむきさん)は、大分県と宮崎県の県境にある祖母傾山系の山。山頂は大分県豊後大野市に位置し、標高1,605m[1]。祖母傾国定公園に指定されている。(Wikipedia)

 時代や時間も含めて傾山という場所を丸ごと切り取って書いている。言及されているのは部分かもしれないが、そこは言葉の持つイメージの広がり力とでも言うか、イメージの固定された写真にはない言葉の力がある。「満作けぶる」「傾山」そして「ヘリポート」、イメージを広げる情報量が多い。


28

鑑賞日 2014/7/17
青水無月銅鏡の紐滅びたり
日高 玲 東京

 銅鏡とは銅で作られた円形の鏡である。魏志倭人伝には卑弥呼が魏に朝貢したときに魏からもらったということも書いてあるらしい。銅鏡の紐というのは、鏡の裏面の中心部にある鈕(ちゅう)といわれる突起部に通す紐であると推測する。つまり鏡を手鏡として使う時にはその紐に指を絡ませて使うような部分ではないかと推測する。銅鏡そのものは金属であるから残るが紐は樹皮のようなもので作られたようだから長い時間の経過とともに滅びてしまったということだろう。
 青い青い潤いのある水無月という季節の中で、作者は歴史というものに思いを馳せているのかもしれない。今中国と日本の関係は良くないが、曾て親和の印でもあった銅鏡の紐も滅びてしまった、と受け取るのはこじつけ過ぎだろうか。

http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/dokyo.htm

29

鑑賞日 2014/7/17
白鳥の話聞こえる望遠鏡
平塚波星 秋田

 預言者という言葉がある。また如是我聞という言葉もある。また統合失調症の患者の多くは幻聴という症状がある。どうだろう、聴覚というのは視覚よりも内面的な心の部分に多いに関係しているということはあるだろうか。この句の場合でも視覚的なものが聴覚的なものに変換されているが、何だか童話的な雰囲気を感じるということは、作者の心がそういう世界に住んでいるということなのかもしれない。


30

鑑賞日 2014/7/18
木枯しに慣れず一樹のなほ戦ぐ
前田典子 三重

 「戦」という字は考えてみれば面白い。風に吹かれて草や木の葉などがかすかに音をたてて揺れ動くという意味の「戦ぐ」と使われる。また、恐ろしさ・寒さ・興奮などのために、からだや手足が震えるという意味で「戦く」と使われる。また、争うや戦争するという意味で「戦う」と使われる。
 例えば。あの原発事故を受けてまだ戦いている人々がいる。戦っている人々もいる。かと思うと全く動じた様子も見えないでがさつに原発再稼働を進めている鈍感な人々もいる。多くの人々はだんだん慣れてきて鈍感な人々に合流していく。どうだろうか、「慣れない」ということは感受性が有るということの一つの証と言えるのかもしれない。


31

鑑賞日 2014/7/18
三月や岩礁のごと劣等感
三浦静佳 秋田

 劣等感は優越感の裏返しである。劣等感のある人は必ず何処かに優越感が潜んでいる。優越感のある人は必ず劣等感を潜在的に有している。劣等感は優越感無しには存在しえないし、その逆もまた然りである。そして厄介なことに、およそ人間なら誰しもがこのどちらかを抱えている。どうすればいいのか。おそらく、それを取り除こうとすることではなく、その事実に気付くことであるような気がする。気付きの中に住むということではないだろうか。わくわくするような三月の光の中で作者はそのことに気が付いた。

 岩頸だつて岩鐘だつてみんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
               宮沢賢治「春と修羅」より

 おそらく岩礁のごとき劣等感さえ時間の無い頃の夢を見ている。


32

鑑賞日 2014/7/19
眼鏡外すは喧嘩の作法根深汁
水野真由美 群馬

 そう、喧嘩にも作法というものがある筈である。喧嘩をするなら正々堂々とやればいい。眼鏡なんぞをかけられていたら、ぶん殴るにも都合が悪いじゃないか。それが武士の情というものよ。それが仁侠道の精神というものよ。どうだろう圧倒的な兵器で相手をやっつけてしまうような戦争は正しい喧嘩と言えるだろうか。それは喧嘩道に悖る汚いやり方ではないか。現代はおそらく喧嘩道の廃れた時代だ。作者はいわば仁侠道を心得た粋な人物に違いない。


33

鑑賞日 2014/7/19
弔いの灯のつながりぬ雪消虫
武藤鉦二 秋田

 三月十一日頃の出来事だろうか。意味はよく分かる。とても綺麗なイメージだ。軽く使われ過ぎ手垢が付き過ぎてあまり使いたくないのであるが、いわば「絆」ということの力だろう。あるいは集合的な祈りの静かなる熱力とでも言った方がいいかもしれない。ところで「雪消虫」というのはどんな虫なのだろうか。秋田地方の方言なのだろうか。


34

鑑賞日 2014/7/20
地虫出づ土に○書く遊びかな
森  鈴 埼玉

 「○書く」というのを肯定するということの象徴的な行為と受け取った。作者にはこの自然のあるいは大地の営みを、あるいはこの世に生起する全てのことを、有りのままに肯定したい気持ちがあるのではないか。しかも作者はそれを「遊び」であると言っている。作者が心根に抱いている大いなる余裕であるとみたい。大袈裟に言えば、神の遊びということに通じる心境かもしれない。


35

鑑賞日 2014/7/20
黄砂降る地上に曖昧な怒り
森央ミモザ 長野

 私は案外この句は今の時代を適確に言い当てているような気がしてきた。曖昧な怒りの時代。いわば黄砂が降る中で先がよく見えないような時代である。人々の中には怒りがあるのだが、その怒りの矛先を何処に向けたらいいのかはっきりとは分からないような時代である。人々は手近な怒りの対象を見つけては曖昧な怒りを発散する。ヘイトスピーチやDVやいじめや各種差別等々である。あるいはその曖昧な怒りを中国や韓国を対象とした怒りに集約して安価なナショナリズムを煽ろうとする策謀等々もある。時代はどこに向うのだろうか。黄砂が降っていてよく見えない。


36

鑑賞日 2014/7/21
春土は涙を埋めてしずかなり
守谷茂泰 東京

 この作家はおそらく寡黙で静謐な人だ。ギャーギャーとは騒がない。生起する感情を直ぐに吹きださせないで湛えておく器の深さがあるのではないか。ある日本的美徳の姿といえるかもしれない。現在あまりにも浅い器の人が多すぎて感情の吹き上がりが激しいように見える日本の現状を考えると、実に貴重な資質のように思える。


37

鑑賞日 2014/7/21
春寒し鳥のかたちに星繋ぎ
柳生正名 東京

 世界の中の私という見方もできるが、世界は私自身の投影であるという見方もできる。そしてこの投影はおそらく無意識の裡になされている。まだ寒い春の夜に作者は星空を眺めている。おそらく作者はそういう無目的な空白の時間に遭遇したに違いない。そして作者はむしろ無意識に星と星を鳥のかたちに繋いでいったのではないだろうか。自分自身の星空への投影であり、すなわち新しい星座の、つまり新しい世界観の、つまり新しい世界の発見と言えるのかもしれない。


38

鑑賞日 2014/7/22
屋上ですずめが先に死んでゐた
横山 隆 長崎

 もちろんこれは「自分より先に死んでいた」ということである。死というものをこのようにとぼけたようにさっぱりとあるいは単純に捉える味が実にいい。言ってみれば禅的な味である。


39

鑑賞日 2014/7/22
 追悼 八木三日女
椿の首ゆるめてあげよう三日女逝く
若森京子 兵庫

 俳句検索サイトから三日女の句を拾ってみた。

紅き茸礼賛しては蹴る女
湖の朝焼けモネの女ら霧に消える
おんおんと森の膨張女舞
むらさきに顔枯れて巣の女かな
大学の夏芝に寝て雲掴む
姥捨に置き忘れてきた松露一つ
満開の森の陰部の鰓呼吸
月明の階を降りくる夢精の天使
女医明るし狂院の池昼黒し
煙突の林まつすぐ星落ちよ
蓮の実が飛ぶ狂院の真昼時
福寿草咲いてもわたしは嫁きませぬ
夢殿のほとりの別れゆきのした
花芥子や嫉妬かゞやく千古の神
石をまわって蜥蜴神託をわする
よるがおをふりかえりつゝ白狐逃げ
蛸を揉む力は夫に見せまじもの
例ふれば恥の赤色雛の段
燃えやすき春の麒麟を鍵穴へ
ねむり草いくさ忘れしことわすれ
アネモネを抱けば上昇気流にのる
アノラックあばよみんないってしまったさ
トルソーぬっと壷中より立ち仏桑花
緋桃ゆさゆさわが振袖の水死体
海市消ゆ恍惚として子守唄
あの姫この姫脳薄ければ玉椿
海疼く椿の花の落ち伏しに
いらだつ人をしゃぼてん林においてくる
鴎の涙何年たてばトルコ石か
大地に捧げる血はなし草を毟る指
乙女座に不浄ありしかディロスの芥子
もやしの手で霞を食べてくたびれて
カオスカオスと鴉過ぎゆき夏過ぎゆき
桃咲くや蹄が遠ざかる記憶
菓子箱で城を築いて妃の憎しみ
桜満ちる夕闇布をずたずたに
落ちるにじむ椿じめじめ魔女の靴
二人の刻大年輪を抱き測る
狂気の面花栗の香に漂える


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