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金子兜太選海程秀句鑑賞 503号(2014年6月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2014/6/10
熊撃ちの暮れて営むレストラン
五十嵐好子 東京

 このレストランではここの主人が撃ってきた熊の肉が出されるのだろうか。おそらくこれは肉を食うということの原型に近いのだろう。自分で殺して食う。あるいは自分で殺した肉を客に出すということ。
 普段われわれは何処かで飼われ何処かで殺され何処かで綺麗にパックされた肉をスーパーなどで買ってきて、これは美味だとか美味でないとか、これは安いだとか高いだとか御託を並べて食っている。動物の命を奪って食っているという感覚などは失われている。私は特にヴェジタリアンというわけではないが、やはり動物の肉を食う時は動物の命を奪って食っているのだという感覚は持っていた方がいいだろう。


2

鑑賞日 2014/6/10
手術痕自慢の二月礼者かな
石川義倫 静岡

  二月礼者とは、芝居や料理屋関係の人 など、正月に年始の挨拶ができなかった人 が二月一日に回礼することであるらしい。とにかく一月遅れで年始の挨拶に行くということだろう。その二月礼者が手術痕の自慢咄をしたというのである。もしかしたらこの人は正月に手術をして年始回りが出来なかったのかもしれない。いずれにしろ、人間関係が濃かった時代の出来事のような気がするのは、私が現代といういわば無縁社会の空気を吸い過ぎているからだろうか。


3

鑑賞日 2014/6/11
凍てている地の水たまりたなごころ
伊藤淳子 東京

  前々からこの作者に対してそんな感じを抱いていた。「地球のお母さん」という感じである。この句などはまさにそういう感じが当てはまる。凍てている地の水たまりに手のひらを当てているというのである。こういう人が沢山現れて病んでいる地球をそのたなごころに包んでもらいたいものだ。


4

鑑賞日 2014/6/11
ちらちらと雪ちらちらと雪にひと
内野 修 埼玉

 ちらちらと雪が降れば、ちらちらと雪にひと、しょうがない雪の日はしょうがない、公園のベンチで一人お魚を釣れば、お魚もちらちら雪の中・・・と小室等の替え歌を口ずさんでみたくなった。


5

鑑賞日 2014/6/12
ふるえているこころ白ふくろうに寂
榎本祐子 兵庫

 「こころ」という言葉はマインドという言葉とハートという言葉に分けられる気がする。ハートは白であり、マインドはいろいろな色彩を持っているという感じが私にはある。移ろいやすい様々な色彩の背後にある基本的な色が白であるように、ハートは移ろいやすいマインドの背後にある大事なものであると言えるかもしれない。そして、白が着色されやすいように、ハートもまたその純粋性を保つことはなかなか難しい。難しい故にハートには‘純粋性のふるえ’のような現象が起りうる。この純粋性のふるえを克服した時に、あるいはハートの更に奥の魂を覗き込んだ時に、人は完全なる静寂にいたる。すなわち‘寂’である。


6

鑑賞日 2014/6/12
遠く近く昭和の残響多喜二の忌
岡崎万寿 東京

 戦争・敗戦・新憲法・経済成長と地獄を見た時代でもあったしまた一見希望に満ちた良い時代でもあった昭和の残響の中に未だわれわれは住んでいるのかもしれないとまさに思う。再び戦争の影がちらつき、憲法そのものの理解も出来ていない現代は、まだ昭和という時代を整理しきれていない時代なのかもしれない。その意味では昭和は遠いようで近い現代の問題なのかもしれない。小林多喜二が国家権力によって惨殺されたような時代が再び来るかもしれないというのは安倍政権の誕生以来多くの感受性のある人の持つ危惧であろう。


7

鑑賞日 2014/6/13
叔父よ慟哭く雪崩の下の葡萄畑
小川久美子 群馬

 慟哭(な)とルビ

 この叔父がこの葡萄畑の持ち主であると推測される。「叔父よ慟哭(な)く」というのが迫真の表現である。作者の共感力のなせる技であろう。


8

鑑賞日 2014/6/13
古稀という明日は紅鮭ほどの艶
狩野康子 宮城

 「という」だとか「ほどの」という言い方から肩の力の脱けた落ち着いた作者の生活ぶりが伺える。また「紅鮭ほどの艶」という譬えによってその生活は概ね充実したものだろうという想像が働く。日常の実感を表現して上手い句だ。


9

鑑賞日 2014/6/14
熟柿落ちるような納得だってある
柄沢あいこ 
神奈川

 この納得は、単なる知的な同意ではない、また一時的な感情の高揚による同感でもない、ましてや妥協により落とし所でもない。自我の熟成による全的な納得であるような気がする。自我が熟成したときには自我は落ちるものだからである。


10

鑑賞日 2014/6/14
無垢という欲望残る枯木立
川崎益太郎 広島

 自分は無垢でありたい、あるいは自分は純粋でありたいというのも実は欲望である。何故ならそこには未だ自分がいるからである。精妙であるが実に強い自我意識があるからである。その辺りの精妙な心理的事実を作者は書いているような気がする。


11

鑑賞日 2014/6/15
潮騒の被曝の荒地野襤褸菊に陽
黒岡洋子 東京

 野襤褸菊(のぼろ)とルビ

 ああこれはレクイエムだ。深い荘厳な感動がある。野襤褸菊よ。

野襤褸菊   Wikipediaより

12

鑑賞日 2014/6/15
早春やこのぶっきらぼうな雑木山
小池弘子 富山

 早春のまだ芽吹きもしていない雑木山の感じがよく伝わってくる。こいつはどうもぶっきらぼうな奴だ。自分を飾るということもしないし、また愛想の一つもない。これを人物の譬えだとすると、おそらくこの作者はこういうさっぱりとして飾り気のない人物を好ましく思っている。


13

鑑賞日 2014/6/16
歯固めや卒寿の姉の早耳に
小原恵子 埼玉

 歯固め・・・《「歯」は年齢の意》長寿を願って、正月あるいは6月1日に鏡餅(かがみもち)・大根・押し鮎(あゆ)・勝栗(かちぐり)など固いものを食べる行事。また、その食べ物。《季 新年》(goo辞書より)
 「早耳に」の関連性がよく分からないが、とにかく健康な家族あるいは健康な一族の一つの景色。


14

鑑賞日 2014/6/16
頬杖のがくっと外れる雨水かな
佐藤二千六 秋田

  雨水・・・二十四節気の一。2月19日ごろ。水ぬるみ、草木の芽が出始めるころの意。《季 春》(goo辞書より)

 頬杖をして物思いに耽っていたのだろうか。あるいは居眠りをしていたのだろうか。とにかくその頬杖ががくっと外れたというのである。気がついてみると様々なものがその活動性を取り戻す春の季節となってきた。春の季語の中でも雨水が句の内容に相応しい気がする。


15

鑑賞日 2014/6/17
どこからが晩年どこまでが薄氷
白石司子 愛媛

 境涯句であると言えるか。少なくも心理的な境涯句であるとは言えるだろう。作者は、いまにも融けてしまいそうな、いまにも割れてしまいそうな繊細な感受性の持ち主と言えるかもしれない。「人間は考える葦である」という言葉があるが、「人間は情を持った薄氷である」とも言えるかもしれない。


16

鑑賞日 2014/6/17
春の土母死にたくて生きたくて
菅原和子 東京

 人間の持つ本質的な可笑しさかもしれない。私の子どもの頃よく祖母が口癖のように言っていた、「ああ早くお迎えが来るといい」と。そのくせ、自動車にぶつかりそうになると「ああ何てスピードで走るんだ、ぶつかったら死んでしまうじゃないか」と言う場面もあった。子ども心に私は、どうも矛盾しているなあと思っていたが、今考えればこれは多くの人が抱える心理的な状況かもしれないと思えてくる。人間というものを考えると、「春の土」という言葉と相俟って何だか泣きたくなる気分である。


17

鑑賞日 2014/6/18
町川の白鳥を指す帰郷かな
鈴木修一 秋田

 乾いた叙情とでもいうべきだろうか。「白鳥を指す」という動作の裏に故郷が変らず在るという安心感や信頼感を誇らしさ等の情が横たわる。


18

鑑賞日 2014/6/18
汚れやすくて春の雪など少年など
芹沢愛子 東京

 春の雪はすぐに汚れてしまう。また少年は活発に遊ぶからすぐに身体や服が汚れる。そういう外面的で具体的な事実を通して実は内面的あるいは心理的な事実を書いている。これはやはり優れた俳句のもつ一つの特徴ではないか。


19

鑑賞日 2014/6/19
鹿狐熊も見つむうしかい座
十河宣洋 北海道

 天の世界と地の世界が濃密に一体であった神話的な時代にタイムスリップしたような雰囲気の句である。このような世界をわれわれは過去にあるいは未来に夢見るわけであるが、それを今現在に感じ取れるという感性は素晴らしい。


20

鑑賞日 2014/6/19
少年に雛のうす闇はずかしき
高木一惠 千葉

 「雛のうす闇」・・上手いなあ。思春期の少年の性への心の震えを描いて巧みである。


21

鑑賞日 2014/6/20
淀みなく産みつぎつぎ牡蠣を揚げており
たかはししずみ
 愛媛

 時々こういうことが起る。この句は先月号の秀句にも出ていた句である。だから今日は感想文を書かないことにする。


22

鑑賞日 2014/6/20
裸木に深き傷痕叙事詩とも
竹田昭江 東京

 内容はともかくその題名が好きな本というのがある。ギヴィックの「詩を生きる」(これは和訳の題名)というのがあるが、この題名が好きである。詩を生きる・・この句から連想した言葉だ。われわれが負っている様々な傷痕を叙事詩の一節だと考えることが出来たら、それはとても素敵なことである。おそらくそれはとても大きな癒しの思想といえるかもしれない。そして深き傷跡のあるのが「裸木」であるのがいい。いやおそらく「裸木」でなければ駄目だ。例えば私はキリストの物語を一篇の叙事詩と捉えたい気持ちがあるが、彼の磔刑の傷跡などはまさに最高の叙事詩のクライマックスの一節といえるかもしれない。そして彼はまさに「裸木」として生きた人物ではないだろうか。


23

鑑賞日 2014/6/20
閑かさや鼠走らぬ雪の夜
竪阿彌放心 秋田

 ヴィヴェカーナンダという人が言っていた「自己とは中心が一点にある無限大の円のようなものであり、神とは中心が無数にある無限大の円のようなものである」と。芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」とこの句を比較して、そんな彼の言葉を思いだした。芭蕉の句はある境地すなわち一点に向って意識が集中していくような閑かさがあるが、この句は多点に意識を遊ばせてしかも閑かさを楽しんでいるという趣がある。おそらくどちらが勝れているとは言い切れないだろう。


24

鑑賞日 2014/6/21
天涯の父母へのぬくみどんどの火
舘岡誠二 秋田

 人は死ぬと居なくなってしまうのかというと、意識の中ではそうななっていない。殊に親しかった人や尊敬している人の場合は厳然と意識の中に存在しているという事実がある。すぐ傍に居て微笑みかけたり励ましてくれていると感じることもある。おそらくこれが愛ということの秘密であり愛の永遠性ということであろう。意識する時その人は何時でも何処にでも存在する。そして多くの人達の意識の中ではその人は何時もは概ね天に居る。天に居るという感じ方は概ね世界の人々の共通の意識かもしれない。
 ところで火は昇るという性質があるが、いろいろな宗教的な儀式において火が使われるというのは、この性質に拠っているという部分が大きいのではないか。火はまた焼き尽くす性質がありその焼き尽くされたものの本質的なるものを天に運ぶ性質があるように思えるからである。そういう意味が隠されていたのかもしれない、私もやはり火葬という埋葬の仕方が好きである。
 さて句は、死して尚まします父母への愛が感じられる好句である。


25

鑑賞日 2014/6/21
きれいなあなた腹の底から雪を話す
谷 佳紀 神奈川

 雪のことを話すあたたは清楚で無垢で純粋でまるであなたそのものが雪のようだ。そのことを「腹の底から雪を話す」と陳腐な抽象ではない具体的な言葉で表現した。とても新鮮で好きな句である。この「あなた」も好きになりそうだ。


26

鑑賞日 2014/6/22
湯ざめして身ぬちの星座あきらかに
月野ぽぽな 
アメリカ

 世界の中に私はいる、あるいは宇宙の中に私はいると考えるのが普通の意識であるが、その逆も全く真実であると言える。つまり、世界はあるいは宇宙は私の中にあるということである。この宇宙のありとあらゆる現象は私という意識の中にしか存在しないとも言えるのである。その辺りを、つまり宇宙と私の精妙で不可思議な関係を句は提示している気がする。禅において喝あるいは棒で打つというテクニックがあるが、これはその人の意識に揺さぶりをかけて、通常の意識を飛躍させて新しい意識に導くという目的があると私は理解しているが、この喝や棒の働きは様々に事によって置き換えられ得る。この句の場合にはそれが「湯冷め」だったのではないだろうかと推測しているが・・・


27

鑑賞日 2014/6/23
熱燗や同時に愚痴言う男達
峠谷清弘 東京

 サラリーマン川柳というのがあるが、サラリーマン俳句という分野もあるのかもしれないと、この作家の俳句を見ていると思う。そしておそらくサラリーマン川柳や俳句が盛んなうちは日本社会はまだまだ健全な社会だと言えるのかもしれない。日常を戯けや愚痴で笑い飛ばすことの出来る中間層が沢山いるということだからである。


28

鑑賞日 2014/6/23
大笑いのごとくに鮟鱇の口残る
中嶋伊都 栃木

 鮟鱇の口が残ったというのはどういう状況だろうか。鮟鱇というものを食ったことがないのでよく分からないが、鮟鱇鍋でも食っていて最後に鮟鱇の口が残ったということであろうか。
 ところで死んでからも尚その死者から笑いの質が伝わってくるというのは素敵なことであろう。考えてみれば、生も死も単純である。笑いながら生き、そして笑いながら死せばいいわけである。

Wikipediaより

29

鑑賞日 2014/6/24
悠久や河蛇のごとく蛇河のごとく
中山蒼風 富山

 日本の河川は概ね速く流れているという印象がある。大陸の黄河やガンジスはゆったりと流れているという印象がある。悠久という言葉がぴったりするのはガンジス等の大河である。存在そのものが悠久であり永遠であるという印象である。逆に日本では「ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず・・」というように存在の無常ということの譬えに川の流れが使われるのは、もしかしたらその流れの速さの違いによるのかもしれない。
 さて、大きな河のようなものに対しては悠久という言葉が直ちに感じられるが、動物や人等の生ぐさものに対してはなかなかそれを感じることはできない。どうだろう、作者はこの生ぐさものまでも含めて悠久だと言っているのではないだろうか。直感的に把握するのは難しいところであるが、深く考えれば実はそうである。すなわち存在するものは全て悠久である。


30

鑑賞日 2014/6/24
暁闇の草の根の音睦月かな
野崎憲子 香川

 存在ということを考えている。闇と光あるいは闇の中の光ということを考えている。未だ顕現されていないが確実にそこに存在するエネルギーのことを考えている。あまりにも精妙で微細であるゆえにそれを言葉で表現するのは難しい。しかし作者は「草の根の音」と表現し得た。あらゆるものがその顕現の兆しを見せ始める睦月そして暁闇。エネルギーの顕現と未顕現の間の微妙なところを書ききっている感じがする。生命を宿すということの出来る女性ならではの感性だろうか。


31

鑑賞日 2014/6/26
ごろすけほう冬霧に秘密保護法が
長谷川順子 埼玉

 ごろすけほうよ、この国はどうなってゆくんだろうか。原発が再び稼働されようととしている。原発を輸出しようとしている。武器まで輸出しようとしている。憲法解釈の見直しで戦争をする国になろうとしている・・・。そして国にとって知られて不都合なことは秘密保護法のベールに包んで国民には見えないようにしておく。見ようとすると逮捕されて厳罰に処せられる。まさに冬霧に包まれたような時代になりつつある。


32

鑑賞日 2014/6/26
梅林に毅然とあかるい割烹着
廣島美恵子 兵庫

 和服姿の女将というイメージがある。責任を持って料亭や旅館を切り盛りしている女主人という感じである。あかるい割烹着といえばSTAP細胞発表当時の小保方晴子さんを思いだすが彼女は今どうしているのだろうか。STAP細胞は存在するのだろうか。存在するにしろ存在しないにしろ、彼女には毅然として真実に真向って欲しいものである。この句にあるような女性のように。


33

鑑賞日 2014/6/27
竜の玉ペン貸すように武器供与
堀之内長一 埼玉

 ペンを貸すように気軽に何も考えずに武器を供与する。竜の玉のように美しい、身に付いた隣人愛である。

 軽妙な皮肉と受け取った。


34

鑑賞日 2014/6/28
彼岸寺ほそほそ一人言の咲く
三井絹枝 東京

 「ほそほそ」というオノマトペ、そして「一人言の咲く」という表現、まことに上手いとしか言いようがないのであるが、いつも言っていることだが、この人の上手さは生まれつきの身体性から出てくるものなのか何なのか、とにかく自然に生まれてくるような雰囲気がある。要するにこの上手さは天賦の才だという感じである。天才?


35

鑑賞日 2014/7/1
寒月光来ぬ人の椅子たためない
武藤暁美 秋田

 その人が来たらその時にまた椅子を出せばいいというのが合理的な考えであるが、人間の心理はなかなかそうは割り切れない。椅子をたたんでしまうと、その人はもう来ないような気がするし、またその人が来た時に自分は外されてしまったと少し悲しい気持ちになるかもしれない。理性と心情の間の解決のつかない問題を孕んでいる人間というものの面白さ。おそらく寒月光はその人間を客観的に眺めている。


36

鑑賞日 2014/7/1
氷柱にも念力津軽あいや節
武藤鉦二 秋田

 氷柱にもおそらく念力というものがあるだろう。ましてやこの寒い厳しい地方の民衆にも尚更ある。その一つの表出がこの津軽あいや節の熱である。

  津軽アイヤ節 
アイヤアーナー アイヤ唄が流れるお国の唄が よされジョンガラそれもよいや アイヤ節
アイヤアーナー アイヤりんご花咲きゃ野山がかすむ 唄うあの娘のそれもよいや 声のよさ
アイヤアーナー アイヤ岩木ほほえむりんごの園に かすり姉コのそれもよいや 袋掛け
アイヤアーナー アイヤ浮名立てられ添わぬも恥よ 二人寄り添うそれもよいや 影法師
アイヤアーナー アイヤ今宵目出度い花嫁姿 親も見とれてそれもよいや 嬉し泣き
アイヤアーナー アイヤ破れ障子に鶯書いて 寒さこらえてそれもよいや 春を待つ
アイヤアーナー アイヤ未練残して別れてみたが 遠く離れてそれもよいや 気にかかる
アイヤアーナー アイヤ波は千鳥に千鳥は波に 後を追たり追われたり 別ともない行きともないが 悲しやこの身は旅の鳥 
山せ風だとあきらめしゃんせ 今宵一夜は皆様の 厚い情けを胸に抱いて 泣いて別れるそれもよいや 浜千鳥

http://www.geocities.jp/kushino1jp/tugaru.htmより


37

鑑賞日 2014/7/2
兄老いぬ漁の始めの褌新た
森 鈴 埼玉

 この兄は漁師をしている方であろうか。漁始めに新しい褌をしめてさあやるぞと意気込んでいるのだろうか。その時に兄の身体を見て、ずいぶんと老いたなあと感じたということだろうか。老いた身体に新しい褌。身体が老いているだけに褌の新しさが、褌が新しいだけに老いた身体が余計印象的なのである。


38

鑑賞日 2014/7/2
介添えの黒衣が守る里歌舞伎
山田哲夫 愛知

 私は歌舞伎にも里歌舞伎にも縁が無いから、その大切さのようなものが分らない。おそらく作者はそういうものの価値を知っている方なのであろう。おそらく民衆における芸能というものは人と人とを繋ぐ大切な行事の一つなのであろう。流行りの言葉で言えば人と人との絆を守るものなのかもしれない。空しい御題目のようにいわれる「絆」や「お・も・て・な・し」に比べれば、この黒衣(くろご)のような裏方に徹した人物が何よりも日本の絆を支えているのかもしれない。


39

鑑賞日 2014/7/2
起ちあがる文章をこそ春北斗
柚木紀子 長野

 作家として、私は起ちあがる文章をこそ書きたいものだ、という願いを、春北斗の立ち姿に投影して書いたものであろう。思いだしてみれば、この作家の句の印象はまさにそのような立ち姿が似合っているような感じがある。


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