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金子兜太選海程秀句鑑賞 502号(2014年5月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2014/5/4 | |
鳥総松松原遠くなりました
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相原澄江 愛媛
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鳥総松(とぶさまつ)・・新年の門松を取り払ったあとの穴に、その松の一枝を挿しておくもの。《季 新年》 goo辞書より 先ずこのような風習があることに感心した。そもそも門松というような風習は、自然の事物に神々が宿るあるいは自然の事物そのものが神であるというような多神教的な発想から生まれたものなのだろうか。定かではないが、とにかくそのような風習が日本には多数存在する。というか、多数存在したといった方がいいかもしれない。このような風習が廃れていく背景には経済合理主義的な思潮というようなものがあるのかもしれない。とにかく自然を敬う気持ちであるとか、自然を大事にする気持ちというものが薄れていっているということは事実であろう。また実際に人間生活は自然から遠のいているのも事実であろう。「松原遠くなりました」という言葉にはそのような感慨も含まれているに違いない。 片づける時は、一礼してから半紙に包み塩をふって清め川や海に流します。流せない場合は、神社のお焚き上げ、どんとやきに出したり、また土に埋めたりします。 |
鑑賞日 2014/5/5 | |
ロボットアームのごとき腕の蓮根掘り
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安藤和子 愛媛
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ロボットアームという最新式科学的工場のイメージと、蓮根掘りの腕という泥くさいイメージのバランスである。譬えの面白さと言えようか。離れている事物や事象をあるバランスのとれた状態で眺める時に我々は譬えの面白さを楽しむことが出来るのかもしれない。 |
鑑賞日 2014/5/5 | |
歯脱けの君禿頭の吾薬喰
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石川青狼 北海道
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互いの欠点を一つのおかずとして談笑できる関係・・・これを親密さということの一つの定義として採用できるのではないかと思った。つまりこの句から受ける印象は親密さということである。 |
鑑賞日 2014/5/6 | |
もの言わぬ民に育てる十二月
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磯田政八 群馬
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そう、あれは三年前だったか、ひどく民の声がうるさかった。時の首相が「大きな音」と表現したが、まったくどうなることかとひやひやしていたものだった。今の政権はまあまあ上手くやっていると言える。民に目くらましの餌を与えたからだ。そう、経済成長とかいう甘い餌だ。へっへ、経済成長と言ったって、別に民が豊かになるわけじゃないのにさ。民というものは餌でつるに限る。まあ、馬の面の前に人参をぶら下げてやるようなものさ。そうすりゃ奴等は頑張って走るのさ。とにかく、民というものはもの言わぬ輩に育てなくちゃだめだ。何とかミクスという甘い餌の化けの皮が剥がれないうちに次の手も考えておかなくちゃあな。ナショナリズムを煽るというようなのも上手い手の一つかもしれないぞ。・・・・この影の声は誰が発しているのだろうか・・人間の欲望を餌にする得体のしれない怪物のようなものか。 |
鑑賞日 2014/5/7 | |
牡蠣フライ陸に浮寝の身の昏し
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市原光子 徳島
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陸(くが)とルビ 浮き世あるいは憂き世というように、この世で生きてゆくこと自体時にとても昏い。この陳腐な感情を「陸に浮寝の身の昏し」という新鮮な表現にすることが出来たのは牡蠣フライの牡蠣に感情移入できたからだろうか。牡蠣フライを揚げながら、つまり油に浮いている牡蠣フライを眺めながらの感懐かもしれない。 |
鑑賞日 2014/5/8 | |
ぶつ切りの章魚親友の喪の葉書
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伊藤 巌 東京
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親友の喪の葉書を受け取った。心が乱れて頭が混乱してくる。様々な想いがかけめぐって繋がらない。目の前にぶつ切りの章魚がある。 |
鑑賞日 2014/5/8 | |
立春大吉カフカという猫出奔す
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糸山由紀子 長崎
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猫というのは不思議な動物である。我が家で飼っていたヨーヘイという猫は何年か前のある日何処かに出奔してしまった。戻ってこない。私も妻もヨーヘイは死期を悟って何処か死に場所へ行ったのだろうと解釈しているが定かではない。このカフカは戻ってくるだろうか。もしかしたら何処かで何かの虫にでも変身してしまっているかもしれない。せめて立春大吉の札を貼って彼の幸運を祈りましょう。 |
鑑賞日 2014/5/9 | |
寒雷や違う言葉で問いつめる
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上原祥子 山口
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さあどっちが勝つか。ぬらりくらりと身を躱すように言い逃れようとする側、そしてそういう相手の尻尾をがっちりと掴まえようとする側の闘いである。傍から見ている分には面白い。まるでゲームを見ているようだ。さていよいよ局面が面白くなってきた。攻める側が新たな武器を得て攻撃をしかける場面である。例えばこれが夫婦喧嘩のようなものであっても、あるいは国会論戦のような場面であっても、寒雷がごろごろと響くような真面目な闘いが望ましいのは間違いない。 |
鑑賞日 2014/5/10 | |
空家じゃない私がいないだけの冬
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大沢輝一 石川
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寂しい句ともとれるが、悟りの句ともとれる。次のような会話がある。 常に厄介なのはこの‘私’という意識である。あらゆる煩悩や苦しみはこの‘私’という意識からやってくる。私はこの肉体という家に住んでいる。私がいなくなればこの肉体という家は空家になる。それは寂しいことだろうか。春ならば春の賑わい、夏ならば夏の静けさ、秋ならば秋の彩り、そして冬ならば冬の森閑がそこにはあるだけ。 |
鑑賞日 2014/5/11 | |
仲直り白菜甘しと言いながら
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小川久美子 群馬
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「白菜が甘いね」というような会話をしながら仲直りができる関係というのは、おそらく精神的にそれぞれが自立した大人だからだろう。どちらかがあるいはどちらも相手に対してあるいは他の何かに対して依存性がある場合、そうはならない。それが強い依存の場合は修羅場を演ずることになるかもしれない。DVを起す人やストーカー等はおそらく強依存の人なのだろうと思う。国と国との関係においてもこのことは言えるかもしれないと思った。例えば日中関係は今あまり仲がいい状態ではないが、果して日本は何処かの誰かさんに依存し過ぎているのではないだろうか。日本は自立した大人の国家であると言えるだろうか。中国と修羅場を演ずることにならなければいいが。 |
鑑賞日 2014/5/11 | |
終い湯の柚子の弾力これ乳房
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川崎千鶴子 広島
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そういえば柚子湯に入った時は浮かんでいる柚子を手で揉んだり顔に擦り付けたりしてみる。それでなくても湯に浸かっているのだから柚子はだんだんと柔らかくなる。それが終い湯の頃になるとすっかり柔らかくなってくる。その柔らかさの加減が丁度今の自分の乳房のそれと同じだというのである。作者がどのくらいの歳のお方か知らないが、女性の乳房の歴史というようなことを考えながら句を読むと、思わず可笑しみが湧いてくる。 |
鑑賞日 2014/5/12 | |
あの人にかぎってという白障子
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河西志帆 長野
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やはりこれは「白障子」が上手いのである。白障子をぼんやりと眺めながら「あの人にかぎって」と思っている場面かもしれない。白障子が白白しい気持ちを代弁しているのかもしれない。真直ぐに交叉する障子の柵のことを思えば、実はこの白障子という言葉には物事を真直ぐに見るこの作者自身の内面性が滲み出ているという気がしてきた。 |
鑑賞日 2014/5/12 | |
鵯よ先週足の小指の骨にヒビ
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木下ようこ
神奈川 |
鵯(ひよ)とルビ 日常を大事にしているという感じ。大事にしているからそこには詩が生まれる。「鵯よ」と訴えているあるいは呼びかけている感じがいい。単なる繰り返しの日常ではなく、小鳥や自然との交感に彩られた日常の感じがするからである。そして「鵯よ」ではじまって「ヒビ」で終わる音韻が快く響いてくる。 |
鑑賞日 2014/5/13 | |
津軽弁ノートにはずむ二月まぶし
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京武久美 宮城
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下は津軽弁対訳集というページから少し転載させてもらったものである。 あがしこつけでけ (灯りをつけてください) あらゆる場面で画一的であろうとする勢力と多様的であろうとする勢力の軋轢があるような気がする。宗教において(例えば一神教と多神教)、性的志向において(性的マイノリティーを法的に認めないか認めるか)、教科書問題において(国が教科書を定めるかそれぞれの学校の自由に任せるか)、環境問題において(経済優先かあるいは地球の生態系の多様性を保持すべきか)等々、そして言語においても然りである。そもそも存在は豊かな多様性に満ちているのだから、多様であるものはそのまま多様であるのがいい。そして多様なるこの存在相の中に普遍性を見出すことこそが人間の至高の目的であると私は思う。 |
鑑賞日 2014/5/14 | |
触れて知るわれに臍ある冬籠り
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河野志保 奈良
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ああ自分は肉体なんだと改めて感じたような瞬間が新鮮である。逆にいえばこの作者は普段は肉体の意識を忘れるような日常を送っているのかもしれないと思った。 |
鑑賞日 2014/5/14 | |
被爆の水仙浮いてるように母
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清水茉紀 福島
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原発事故の時の私自身の意識のありようを思いだした。ふわふわとして地に足が付かない感じ、この大地が頼りないものに思えていたたまれない感じである。私は長野に住んでいるのでそれ程放射能に汚染されたわけではないが、それでもそう感じたのである。作者は福島の方である。事情はよく分らないが、もしこの母がずっと福島に住んでいた方であれば、この「浮いてるように母」という感じ方は分る気がする。水仙も水仙が咲いている大地も全て汚染されているのだとしたら、その大地に生きてきた人達は浮いてるような感じを持つのは当然だという気がする。大地から拒否されているのも同然だからである。 |
鑑賞日 2014/5/15 | |
冬沼の鼓動へ止まる万歩計
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鈴木修一 秋田
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万歩計を日常的なマンネリズムの象徴と見れば、その万歩計が止まるというのは、日常から非日常へのタイムスリップの瞬間であると受け取れる。冬沼に出逢いその鼓動を感じたからである。 |
鑑賞日 2014/5/15 | |
日も月も其れ其れ一つ大旦
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鈴木孝信 埼玉
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ああこの単純さがいい。元日の大きな空に日と月が一つずつ浮かんでいるというイメージはさっぱりして悩みがない。元旦くらいは、物事を大きく単純に眺めていたいものだ。 |
鑑賞日 2014/5/16 | |
胡桃割りし石もて父の柩打つ
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鈴木八駛郎
北海道 |
私が詩歌というものは面白いものだなあと最初に感じたのは、斎藤茂吉の次の歌に出会った時であった。 のど赤きつばくらめふたつはりにゐて 垂乳根の母は死にたまふなり この生と死が渾然一体となった感じが素晴らしいと思ったのであるが、この句を読んでそのことを思いだしたのである。生と死はコインの裏表。生と死は分けられない。生も死も同じ一つの存在の違う顔に過ぎないということである。 |
鑑賞日 2014/5/16 | |
美しい卵が二つ冬の家
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高木一惠 千葉
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実に姿のいい句だ。オブジェとして眺めているのも楽しいし、また何らかの意味を付け加えて味わうこともできる。「冬の家」が全体を引き締めて清潔感がある。こんな姿の句を書きたいものだ。 |
鑑賞日 2014/5/17 | |
美談いつまで枯野の荼毘に間に合わぬ
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高桑婦美子 千葉
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懐かしい。枯野の荼毘が懐かしい。枯野で荼毘を行なっていたような時代が懐かしい。 |
鑑賞日 2014/5/17 | |
淀みなく産み次々牡蠣を揚げている
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たかはししずみ 愛媛
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子沢山の肝っ玉母さんといったところだろうか。これも私は一昔前の懐かしい時代の景色のような気がしてならない。女性が母性で在りえた時代。母性が健康に機能していた時代である。もしこれが現代の事であったら、それは頼もしい限りである。 |
鑑賞日 2014/5/18 | |
偶然は畏敬に通ず帰り花
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高橋明江 埼玉
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もしかしたらこの世界は偶然で出来ているのかもしれない。私という現象がここに在るのも偶然かもしれない。一回の射精で放出される精子の数は一億から四億という数らしい。その中の運のいい(あるいは悪い)奴が卵に到達するらしいが、これはもう殆ど偶然である。そもそも地球という惑星が今のような生命体を育む条件を持ち得たのもこれは殆ど何億何兆分の一かの偶然であろう。神はサイコロを振らないとはアインシュタインの言であるが、どうだろうか。彼は気まぐれな賭博師なのかもしれない。ともかくこの荘厳壮大な宇宙は偶然で出来ているのかもしれない。そう考えれば帰り花よ、君と私が出会ったのも一つの美しい偶然である。 |
鑑賞日 2014/5/18 | |
めつむりて象を画きし黄落期
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田口満代子 千葉
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画(えが)とルビ 困った。何故かというと、これは私自身のことを書いたのではないかと思ってしまうからである。そんな筈は無いのであるが、そう思ってしまうから困ったのである。つまり客観的な鑑賞ができないから困ったのである。 |
鑑賞日 2014/5/19 | |
坐禅してすぐに居眠り日向ぼこ
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峠谷清広 東京
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八つぁん熊さんが登場する落語のような味といったらいいだろうか。まああっしもね坐禅というものをやってみようかと思ってやってみたんでがすよ。坐禅をやるったって寒い部屋の中はやでござんすからね。おてんとさまが照らしてくれている縁側がいいってんで、縁側に座布団を持ちだしてね、まあ坐ったんでがすよ。まあ、お日さまってえものはいいもんでがすな。そのうちぽかぽかと暖かくなってきましてね、うちで飼っている猫なんぞもあっしの隣でいい気持ちそうに寝転んでいるんでね、あっしもついついとまあ猫のまねをしたってわけなんでがすよ。ねえ御隠居さん、まあ坐禅というものは気持ちのいいもんでがすな。 |
鑑賞日 2014/5/19 | |
わが死後はあの綿虫の中ならむ
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長尾向季 滋賀
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現代俳句歳時記によれば〈アブラムシ科のリンゴワタムシなど。白色の蝋物質を分泌し、飛ぶときに綿くずのように見える。晩秋から初冬にかけて、群れをなして弱々しく飛ぶ。雪虫という地方もある〉とある。死後のイメージというものはおそらく百人いれば百通りあるというものだろうが、「綿虫の中」というのは俳句としては丁度いい得ていると思った。ユニークであるし適度にロマンと謙りがある。 |
鑑賞日 2014/5/20 | |
冬耕やコトバはココロに追いつけぬ
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並木邑人 千葉
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マハーバーラタに主人公の一人であるユディシュティラが死の神ヤマに「この世で一番速いものは何か」と問われて「それは人間の心」と答える場面がある。この場合の心はハートではなくむしろマインドという意味であるが、まことにマインドの動きは素早い。とうてい言葉はマインドの動きには追いつけない。ところでこの句におけるココロはマインドであろうかハートであろうか。それは両方の意味でありうる。ハートの場合はそれが速いから追いつけないのではなく、深いから追いつかないのである。例えば「愛している」と言葉で言っても、それで果して心の深いところにあるものが伝わるかどうかは疑問であるがごときである。だから言葉を道具として心を表現しようとしている俳人が四苦八苦するのは当然である。「冬耕」という言葉の持つ象徴性が活きた句であるといえよう。またコトバ、ココロと片仮名書きにしたのは、通り一遍の把握ではなく、この言葉につまずいて解釈したいという意図であるような気がする。また実際の冬の耕しにおいての石ころのようなイメージがあるのも面白い。 |
鑑賞日 2014/5/20 | |
春障子揺れる肉体建てかけて
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根岸暁子 群馬
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単なる肉体ではなく、揺れる肉体であり、しかもそれを障子に立てかけているというのである。障子紙は破れてしまわないだろうか。障子の柵は撓って壊れないだろうか。そもそも何で肉体は揺れているのだろうか。眩暈だろうか老いの所為だろうか。春障子及び肉体の存在感といったらいいだろうか。明るい春の陽射しの中、ふっと障子の匂いさえしてくる。 |
鑑賞日 2014/5/21 | |
紅葉谷雑多に老いしわれら映え
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野田信章 熊本
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「紅葉谷」と「雑多に老いしわれら」の響きあいである。明るくそして多様である。しかし多様などという言葉を使わないで「雑多」と言ったのはいかにも味がある。 |
鑑賞日 2014/5/21 | |
木いちごの斜面を削り除染という
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本田ひとみ 埼玉
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原発問題は還元していえば、人間の自己中心性の問題かもしれない。人間社会における自己中心性であり、また自然界における人間の自己中心性の問題である。そのあたりを、具体的に事実を切り取って上手く表現している。可憐な木いちごが痛々しい。 |
鑑賞日 2014/5/22 | |
狐振り向き別のわたしを見つめおり
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前田典子 三重
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自己の人格の二重性あるいは重層性を眺めている。この重層性は誰にでもあるものであるが、それを客観的に眺めることが出来るということは、その人が統合されていく過程の証拠ではないか。この二重性をあばく道具立てとして「狐」はうってつけの素材ではないだろうか。この句は自己を凝視した句で共感するし、私自身の自省をも促してくれる。そのような観点からすると、他者をからかっている趣の次の虚子の句は全く別物である気がする。 襟巻の狐の顔は別に在り |
鑑賞日 2014/5/22 | |
返り花肩に力を入れる癖
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松本悦子 東京
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「返り花」と「肩に力を入れる癖」の関係性を探らなければならない。自分はどうしても肩に力を入れてしまう癖がある。どうにもこの癖は困ったものであると作者は思っている。そんな作者がある時にちらりほらりと咲いている返り花を見た。全く彼等は肩に力を入れないで自然に咲いているようだ。「返り花」と「肩に力を入れる癖」はそのような対比関係にあるのではないか。できうればわたしも、ちらりほらりと行きたいものだ・・・というのではないだろうか。 |
鑑賞日 2014/5/23 | |
羽音よりさみしげにいる嫁が君
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三井絹枝 東京
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「嫁が君」という季語のことを考えている。この句などはそもそもの言葉としての意味である「嫁」を眺めている句だとしても愛情のある眼差しが素直に感じられて好ましいが、かといって「嫁が君」の季語としての意味を外してしまうと句としての意味の厚みが半減してしまう。その辺りの絶妙な俳句の面白さがこの句にはある。 |
鑑賞日 2014/5/24 | |
女系家族白菜みたいな足並ぶ
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室田洋子 群馬
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そもそも大根足というのは女性の白くてきれいな足のことをいったらしいが、今では女性の太い足という意味で使われることが多いようだ。それならば女性の白い足を表現するのに白菜みたいな足と言ったらどうだろうか。それではもっと太くなってしまうという意見も出てくるかもしれない。いやいや白菜というものには違う性質もある。料理などでは肉や魚等他の具材の味を引き立てたり、他の具材の味を吸い込んでその旨味が増すという性質もある。つまり女性つまり女系家族には包容力というものがあるのだ。さあ、勇気ある男どもよ白菜の中に飛び込んでいらっしゃいな。というような連想ばなしは別にして、作者は感覚的に白菜みたいな足と言ったに違いない。感覚の面白さである。少し前に草食系男子という言葉が流行ったりしたが、女ばかりの家族のことを白菜系家族と呼ぶのも面白いかもしれない。 |
鑑賞日 2014/5/24 | |
弱きになればこんな落葉に蹴つまずく
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山内崇弘 愛媛
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宮台 真司は「アベちゃんは強い国みたいな国を作りたいと思っているだけだ」という意味のことを言っていた。また、ヘイトスピーチやDVや気違いじみたナショナリズムの高まりは、実は弱い者が自分は強い者だと思い込みたいが為の結果だと私は見ている。つまり人間は自分の弱さを見たくない為に他者に対して暴力的になることがある。どうだろうか、先ず大事なことは自分の弱さに気付くことではないだろうか。自分は弱いものだと自覚することではないだろうか。そして自分の弱さを戯けて表現できるというのは実はその人は強いということではないだろうか。この辺りが表現するということの妙であり、俳句の持つ真価の一つである気がする。実に好感の持てる句である。 |
鑑賞日 2014/5/27 | |
春田打つ俺も死にゆく一人かな
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山口 伸 愛知
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ああ怖いとか、ああ嫌だとかいうのでもなく。生に対するネガティブな感情でもない。おそらく死というものを受け入れている状態ではなかろうか。妙なことだが、死を受け入れるということは生を受け入れるということになる。春田を打ちながら死を感じているということがこの句の味噌である。 |
鑑賞日 2014/5/27 | |
一念を通し裸木のごとく立つ
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山田哲夫 愛知
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一念を通し裸木のごとく立つ人があまりにも少ないのが日本の憂うべき状況ではなかろうか。みな集団で周りの空気を読みながら事を為してゆく。何か不都合なことが起っても自分が責任を取らなくてもいいように動く。福島原発事故などにおける状況はまさにそうだ。誰も責任を取らない。こういうのを官僚的思考あるいは小役人的思考というのかもしれない。この句に描かれているような潔い人物に偶には出会いたいものである。そうでないと心が干からびてくる。 |
鑑賞日 2014/5/27 | |
黙座の父くろがねもちの実が赤い
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横地かをる 愛知
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この父には威厳がある。あるいは存在感がある。あるいは永い人生経験を経てきた人間が醸し出すある種の妙なる雰囲気とでもいうものがある。それを表象するものが赤い実を付けているくろがねもちの木である。 |
鑑賞日 2014/5/28 | |
枝豆を真ん中に置き抱きしめる
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和田幸司 愛媛
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自然であり素朴で庶民的でありまた実に旨い、枝豆。ビールや酒を飲む人にとっては最高のおつまみともなるだろう。そんな枝豆がテーブルかあるいはカウンターか何かの真ん中に置いてある。彼は彼女をあるいは彼女は彼を抱きしめる。気取らない、騙しでない、そして初々しい彼等を「枝豆」が眺めているようだ。 |
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