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金子兜太選海程秀句鑑賞 501号(2014年4月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2014/3/31
八十歳をひらひら醸し年用意
安藤和子 愛媛

 八十歳(はちじゅう)とルビ

 ああ何だかしらないけど眼がしょぼしょぼするわねえ。ほんとは知ってるわよ。これはいわゆる老人性白内障でしょ。あーあ腰も痛いし身体も思うように動かないわ。何ででしょう。そう、答えは明解、歳のせい。あーあ、でもでも気だけはとても若いのよ。誰かさんも言っていたっけ「元気ですかー。元気があれば何でもできる!」って。さあさあさあ、ひらひらひらと八十歳を醸し醸してやりましょう。


2

鑑賞日 2014/4/2
冬眠の蛇に地鳴りの届く夜ぞ
飯土井志乃 滋賀

 蛇というものの象徴性はかなり高い。平和であったエデンの園のアダムとイヴに性の力を注ぎ込んで世界を創造と混乱の中に投げ込んだ張本人は蛇である。また蛇は男根の象徴とされるように、性の力すなわち宇宙エネルギーそのものの象徴でもある。蛇が眠っている状態というのは世界が比較的平和にみえる状態であり、蛇が眼を醒まして起き上がってきている状態は、世界の活動性が増し一段と混乱してくるように見える状態である。「冬眠の蛇に地鳴りの届く夜」というのはこれからますます混乱と混沌と活動性に満ちた世になってゆく前兆であるという気がしないでもない。


3

鑑賞日 2014/4/2
うたた寝の奥忘忘と島梟
石川青狼 北海道

 忘忘(ボウボウ)とルビ

 「忘忘(ボウボウ)」という表現が重層的な意味を含んでいて厚みのある句である。「忘忘」というのがそもそもうたた寝というものの感じを表わしているし、「ボウボウ」というのは梟の鳴き声のオノマトペのようである。しかしそんな表面的なことだけではなく、存在の深い部分での人間と島梟の根源的な繋がりへの郷愁の表現であるに違いない。
 ちなみに島梟は北海道に棲んでいるらしいが、開発による生息地の破壊および針葉樹の植林、水質汚染、漁業との競合、交通事故、生息地への人間による繁殖の妨害などにより生息数は激減しているらしい。(Wikipediaによる)


4

鑑賞日 2014/4/3
湾奥に住み古り黒酢仕込みをり
今福和子 鹿児島

 人間は定住しなければ何か価値あるものを醸すことはできない。しかしまた人間は漂泊をしないと何かが腐ってくるということもある。金子先生は「定住漂泊」と言ったことがあるが、そのバランスは難しい。黒酢というものは普通の酢よりじっくりと熟成させるものらしいが、おそらく下手に造れば腐敗することだってあるのだろう。その辺りを上手くやれる人はおそらく定住ということの長所だけを上手く醸すことができる人なのかもしれない。

 以下Wikipediaより
 黒酢・・日本では1975年に鹿児島県福山町(現在は霧島市福山町)の坂元醸造株式会社の坂元昭夫(坂元醸造株式会社会長)が壺つくりの米酢を「くろず(黒酢)」と命名して全国販売したことが最初である。製法には薩摩焼の54Pの黒い陶器で地下水・蒸し米・混ぜ米麹・振り麹を職人が毎日育てており1年から3年もの長い時間をかけてゆっくり発酵・熟成したものだけを黒酢として出荷する世界でも非常に珍しい製造方法。(近年では化石燃料などで2〜3か月で醸造したものを黒酢として販売するものもあるが正式ではないとされている)


5

鑑賞日 2014/4/4
ピアノの稽古柿も雀も無尽蔵
河原珠美 神奈川

 この世は無尽蔵に豊かだということだろう。自然の恵みが豊かであり、そして志せば人間の文化も豊かになるだろうということである。


6

鑑賞日 2014/4/4
毛糸玉ほろん夜咄ほろんほろん
北村美都子 新潟

 雪国の冬の夜の家の中のほのぼのと暖かい民話的な情趣といったらいいだろうか。その情趣の中から作者は「ほろん」というオノマトペを紡ぎだした。そしてこの情趣はこの作者の持つ一つの特徴ではないか。この作者が雪国新潟に住んでいるということを想うと、あの辺りがほのぼのと暖かい地方に思えてくる。


7

鑑賞日 2014/4/5
雁落ちゆくよ母のひそかなあきらめ
黒岡洋子 東京

 どうだろうか、一般的に言って、父はあきらめが早いが母はなかなかあきらめない。その母がひそかにあきらめているというのであるから、この母の悟り心というものは相当なものに違いない。あからさまなあきらめで無く、ひそかなあきらめであるところがまたゆかしい。「雁落ちゆく」の暗示力も大きい。


8

鑑賞日 2014/4/5
猪鍋囲むそれぞれ帰る闇のあり
小池弘子 富山

 猪(しし)とルビ

 単なる「鍋」でなく「猪鍋」であるのが味噌であろう。
 神々と獣達には心の闇がない。彼等はある意味単純である。人間はその両方であるから、その隙間に影としての闇が生ずる。社会においては神々のように振るまい、しかしその心の奥に獣性を秘めている。人間の偉大なところでもあるしまた悩ましいところでもある。


9

鑑賞日 2014/4/7
花びらのいくつかは白結氷期
こしのゆみこ 
東京

 鉢植の花、あるいは花壇の花、あるいは野の花を作者は見つめている。見ているのではなく見つめているという感じである。見つめているのは花そのものよりもむしろ花を見ている自分自身なのかもしれない。黙惣的な時間といったらいいだろうか。そのような時間に在る作者の横顔が目に浮かぶ。それもこれも「結氷期」という言葉の力だろう。何かが作者という時間の中で結ばれてゆく。


10

鑑賞日 2014/4/7
妻の話年年民話のようにかな
今野修三 東京

 穏やかに歳をとってゆく妻の姿といったらいいだろうか。慌てないで、ゆったりと、あるいは訥々と話す妻。その話からは今まで生きてきたある種の風土感や生のリズム感が滲み出している。まるで民話のようだ。もしかしたらわれわれの生というものはそれ自体で一つの民話集を語り継いでいるようなものなのかもしれない。
 私は今私の母と義母のことを思い出している。彼女らは二人とも軽いいわゆる認知症であったが、まさに民話のように味のある存在として終わったので、思い出してしまったのである。


11

鑑賞日 2014/4/8
灯さねば墜ちそうな村雁渡る
佐藤二千六 秋田

 「灯さねば墜ちそうな村」とはつまり過疎化が進んでいずれ限界村落になってしまいそうな村落のことであろうか。私の家の裏の家の人から、かつて言われたことがある、夜田中さんの家の灯が見えるのが嬉しいと。位置的にいって私の家が真っ暗だとその家にとって夜は灯が全く見えない状態になってしまうのである。私が約三十年前にこの村に越してきた当時に比べると、今この村の人口は約半分くらいになっているかもしれない状況にある。村の灯はだんだんと消えてゆく。それに引き換え都会の夜の明るさはどうだろう。このアンバランスをついつい考えてしまう。とにかく灯というものは人間の文明にとって一つの象徴のようなものであろうか。そんな人間達の営みにおそらくお構いなしに、雁は渡る。


12

鑑賞日 2014/4/8
真実とは薄暗がりや秋の灯や
篠田悦子 埼玉

 この世はマーヤー(幻影)であるという説を思い出した。まことに真実というのは薄ぼんやりしてその輪郭がはっきりとは見えない。見よう見ようとすると神経症的にさえなる。かといって、どうでもいいやと投げ出せばその幻影に襲われてますます混乱に陥る。どうしたらいいだろう。この薄暗がりの現実を認識して、しかも投げ出さずに、薄ぼんやりした灯下でもいいから掲げて歩いていくしかないだろう。その中庸な態度がこの事の全体を把握することを可能にし、運が良ければわれわれを覚醒に導いてくれるに違いない。


13

鑑賞日 2014/4/9
夜更しは耳澄ますこと木の葉髪
芹沢愛子 東京

 如是我聞という言葉があるようにこの世の大事なことは概ね聞く形でやってくる。耳を澄ます時にやってくる。そしてまたこういう言いもある。夜起きている人には二種類ある、一人はヨギであり一人はボギである。ヨギは真理に耳を傾けようとしている人であり、ボギは快楽に身を委ねようとしている人である。私もよく夜更かしをするが、私の場合はどうだろうと考えてみる。おそらくその両方だろうと思う。そもそも真理と快楽は裏腹であり、真理の中に快楽はあり、快楽の中に真理はあるとも言えるからである。さて作者は「木の葉髪」と言う。女性性の一つのシンボルである髪が抜けるということ。作者は果してどんなことに耳を澄ましているのだろうか。


14

鑑賞日 2014/4/9
雪の鹿調律のよう野を渡る
十河宣洋 北海道

 譬えが見事だなあと思う。時々用心深く確かめるように立ち止まり、そしてまた旋律を奏でるように優雅に移動する鹿の姿が目に浮かぶ。雪の野はピアノの白鍵であり、そこを移動する鹿の脚は調律師の繊細な指である。俳句作家は器である。その器の中で時々事物の見事な組み合わせが生まれる。


15

鑑賞日 2014/4/10
隙間風塞ぎきったる淋しさよ
高木一惠 千葉

 人間社会の一つの事実を作者の優れた感受性で新しく捉えなおしたということではないだろうか。盗人が入ってくるのを防ぐために門戸を閉ざせば、友人も入って来ずらくなる。あるいは水清ければ魚棲まずということわざで言っている事実と同じであろう。それを感性的に認識して言っている。


16

鑑賞日 2014/4/10
祖父は裸木散策のたびすれ違う
たかはししずみ
 愛媛

 散策のたびにすれ違うこの裸木を見ると祖父のことを思い出す。何となく姿が似ているからだろうか。外面的な姿だけでなく内面的にもその姿が似ているからだろうか。もしかしたら祖父がある意味転生して私に語りかけている気さえしてしまう。祖父のような裸木に出会うというのではなく、祖父は裸木と言い切ったのが味噌。抜き差しならぬ関係、魂のレベルでの関係とでも呼べそうな自然と人間の深き関係にまで穿ち入っている。


17

鑑賞日 2014/4/11
短日の魚の影美し迷いあり
田口満代子 千葉

 例えば、どの色とどの色の糸を使って一つの布を織り上げたら美しい布になるのかというようなことは傍目には説明できない。もしかしたら何故その色の組み合わせを選んだかということは、織り手自身にも説明はできないのかもしれない。それは理屈の問題ではなく感性の問題だからである。一篇の詩や一つの俳句などでも同じことが言えるかもしれない。何故、「短日の魚の影美し迷いあり」という言葉の連なりを選んだのかということは私には説明しようがない問題だが、この言葉の連なりが醸し出す雰囲気には詩としての生(せい)の味があるということは解る。それは美しい織物を見る如しである。


18

鑑賞日 2014/4/11
とべないかもめ口紅赤い寡婦もいや
田中昌子 京都

 何だか中島みゆきを思い出した。中島みゆきに「かもめはかもめ」という歌があるからというのもあるかもしれないし、「口紅赤い寡婦もいや」という言い方も彼女の歌にありそうだというのもあるかもしれない。彼女は強い。また強いように見えて弱いものもある。要するに彼女は人間で、人間を歌う力がある。女の歌を歌っているようで実は人間を歌っている気がする。
 ちなみに「流星」が私の一番好きな中島みゆきの歌である。


19

鑑賞日 2014/4/12
まだ若い冬将軍だなまっすぐ来る
月野ぽぽな 
アメリカ

 最初句を見たときにその口調から男性の句かと思った。そして作者名を見たら月野ぽぽな氏であった。そしてこの作家は自由な人だなと再認識した。時には男性的な、時には女性的な心持ちに自在に憑依できるというのは自由な精神である証拠である。そもそも自由なるものは男性だとか女性だとかの軛を越えて存在する筈であるからである。
 とにかく気持ちのいい句である。


20

鑑賞日 2014/4/12
雪茫々長城内外天人合一
董 振華 中国

 大澤真幸の「世界史の哲学 東洋篇」を昨日読み終わったばかりでまだ消化不充分であるが、この句と大いに関係ありそうな内容であった。例えば「漢字」ということ。文字というものは何かを述べる目的で書かれるものであるが、漢字にはそれ自体に呪術的な意味合いがあるということ。あるいは「天」ということ。中国ではその歴史や社会において、全ての事象が意識的無意識的を問わず最終的には天という概念に結びついているということ。等々である。
 私は全ての宗教は一つの真理へ向うそれぞれの態度であると思っている。そういう意味でいえば「天人合一」という理想は、神の国に行くというキリスト教的な理想、あるいは輪廻から解放されて涅槃の境地に入るという仏教的な理想と同じものだと解している。そしてこれらの理想の影のような境地は日常の中において我々は時に体験することがあるのである。作者はそれに類する体験を記したに違いない。しかも俳句の呪術性と漢字の呪術性を統合する形でである。そういう意味では「雪茫茫」の方が迫力がある気がするが、どうだろう。


21

鑑賞日 2014/4/13
空見てはポーと言う嬰に冬が来る
遠山郁好 東京

 デ・ボノだったかよく覚えていないが、「ポー」という言葉を発明したという。イエスでもノーでもないときに「ポー」と言う。あるいはイエスでもノーでもあるときに「ポー」と言うというのである。この句を見てそのことを思い出した。考えてみれば嬰にとって空はポーである。イエスでもなくノーでもない。そもそもあらゆる存在は嬰にとってポーである。やがて嬰が大人になってゆくと浅知恵がついて、これはイエスこれはノーと言うようになる。ある意味では嬰の方が大人より賢者であるとも言える。そんなふうに考えていると、この「冬が来る」というのは嬰がやがて大人になって分析的に混乱してくるということの譬えのような気もしてくるのである。


22

鑑賞日 2014/4/13
秋の風清潔すぎる翅音だなあ
永井 幸 福井

 秋の風を境涯的な意味で捉えるのでもなく、日本的な情趣として捉えるのでもなく、物として感覚的に捉えている。これは現代俳句の一つの特徴かもしれない。


23

鑑賞日 2014/4/14
猫逝きて誰もやぶかぬ障子張る
中島伊都 栃木

 春になって我が家の猫はやたらと鼠や土竜を外から獲ってくる。そして部屋の中で食い散らす。あーあ、俺の身にもなってみろと思う。うっかりするとその残骸を踏みつけてしまうでないか。鼠や土竜を獲るのは結構だが家の外で食ってくれよと思う。家の中の柱で爪研ぎはするし、春の泥を足の裏につけてきて床やテーブルを汚すし、厄介な奴だと思う。でもこいつが死んで居なくなったら淋しいだろうなとも思って、まあまあ我慢するかと思い直す。
 障子の白さが印象的であり作者の心を暗示しているようでもある。


24

鑑賞日 2014/4/14
昔確かに母さん言ったよ虫すだく
中島まゆみ 埼玉

 昔確かに母さん言ったよ。あらゆる仏典は如是我聞(わたしは聞いた)という言葉で始まるという。またユダヤの賢者達は預言者(ことばを預かる者)といわれる。つまり言葉が発せられるということはその言葉を発した者が実在しているということを深く証明しているのである。それは神であっても仏であってもそして母であっても同様である。それは単なる見かけ上の実在ではなく深く実在しているのである。だからもし我々がすだく虫の音を深く聞くことが出来るなら、そこには母の実在と同様の実在を感じ取れる筈である。深く入れる句だ。


25

鑑賞日 2014/4/15
フクシマや冬蠅光らせて逃がす
中村 晋 福島

 「フクシマ」と片仮名書きにすることで作者は「冬蠅」の或る象徴性を強調したかったのではないかと想像する。時々私は思うのである、原発事故とサリン事件は同じようなものではないかと。そしてもしかしたらより性質が悪いのは原発の方ではないかと思える。その被害の大きさは原発事故の方がはるかに大きいような気がするし、サリン事件の責任者は全て死刑囚となっているが、原発事故の責任者は誰も責任を取らない構造になっている。責任を取らないばかりか反省もしていないようだ。原発政策は進められようとしているし、更には外国にまで売ろうとしている。まさにわれわれは「冬蠅」を光らせて逃がしてしまった感がある。そしてこの蠅は更に肥えようとしている気さえする。この「冬蠅」の象徴性の理解は私の独善だろうか。


26

鑑賞日 2014/4/15
白障子たまの独り寝諾えり
中村孝史 宮城

 これは私の小さい頃からの癖であるが、一人で居る時など障子を眺めていて柵に区切られた升目を目で追っていることがよくある。左上の隅の升目から右下に掛けて追う。ぶつかると跳ね返るようにしてまた升目を目で追う。どこかの隅に辿りつけばそこでお終いとなる。まことにたわいもない目の遊びであるが、障子を見ると必ずそういうことをやる。こういうことは誰でもやるのかと思って、かつて妻に聞いたことがあるが、やらないと言われた。こういうことはおそらく私という現象の一つの思考パターンの現れかもしれない。いずれにしろ大したことではない。大したことではないにしろ、私は私という現象を諾って生きなければならないのだろう。


27

鑑賞日 2014/4/16
闇討のように鹿鳴く峠道
中村真知子 三重

 「闇討」だとか「鹿鳴く」だとか「峠道」だとか、雰囲気としては江戸時代あたりにタイムスリップしている感じである。現在日本は人口減少が進んでいるという。悲観的に見る人もいるが、私は案外良い面もあるのではないかと思っている。現在はあまりにも人々が犇めき合って、夜も明るすぎる。だから却って人々は憎み合い競争しあい逆に孤独になる。人口減少で人々の周りに闇の領域が増え、また鹿の鳴く峠道等等が増えれば、もう少し人恋しさというものが何なのかということを日本人は理解できるかもしれない。


28

鑑賞日 2014/4/16
木守柿になりたい人は登りなさい
並木邑人 千葉

 木守柿になりたい人は登りなさい
 私は嫌だな、だってあんなに高いんだもの
 木守柿になりたい人は登りなさい
 私は嫌だな、だってあんなに一人なんだもの
 木守柿になりたい人は登りなさい
 それならみんなで登ろうよ
 みんなで登れば怖くない
 おいおいそれは木守柿とは言わないぜ

 日本人というのは群れて行動するのが好きだ。そうしていないと不安なのかもしれない。だから「空気を読む」という言葉が生まれる。また逆に「赤信号みんなで渡れば怖くない」などという言葉も生まれる。観察してみれば、悪というものは個人のレベルではあまり起らないが、集団では起りやすいということがある。皆がやっているのだからかまわない、俺だけに責任があるというわけではない、ということである。もしかしたら、原発を推進するということなどにも、このような意識が存在している可能性がある。事故が起ったって俺だけの責任ではない。放射能が未来に残るとしてもそれは誰かが責任を持つだろう。だって周りのみんなの空気がそうなんだもん、というわけである。これが村というものの実体なのではないか。いわゆる原子力村である。しかし木守柿のような人物も確かにいることはいる。来年の為に未来の為に今は一人か二人であるが真実を伝えようという人である。例えば高木仁三郎氏や小出裕章氏などである。もし将来の人間が実り豊かな生を送れるとしたら、この木守柿のような孤高の人物に負うところが大きいだろう。
 この句から連想して上を書いたのであるが、おそらくこの句からは人それぞれ違った連想が働くに違いないし、私の連想も少し無理があるかもしれない。何故なら高木氏や小出氏はおそらく「なりたい」から登ったのではなく、「ならざるをえなかった」のだと思うからである。


29

鑑賞日 2014/4/17
日々いとしアイソン彗星くだけ散る
平野八重子 愛媛

 作者がどのくらいのお歳の方か解らないが、おそらく私(昭和22年生まれ)とそれ程違わないだろう。要するに老年に差しかかる年齢である。「日々いとし」というのはこの年代の人の持つ実感かもしれないと思う。何故か。おそらくそれはまもなく現象としての自分というものがくだけ散ってしまうということをうすうす感じる年代だからではないだろうか。どこか遠くの天域でアイソン彗星がくだけ散っているらしい。


30

鑑賞日 2014/4/17
父母は昼を瞑り白ふくろう
古舘泰子 東京

 おそらく亡くなられた父母のことなのではないか。亡くなった人が昼を瞑(ねむ)っているというのは、その表記を含めて素敵だ。そして私は勝手に想像しているのであるが、この白ふくろうは作者は番の白ふくろうをイメージしているのではないか。
 私事になるが、私の父母は仲が良かった。嘗て一度も喧嘩というものをしたことがない。私の家の台所にはその父母が談笑しながら寄り添っている一枚の写真が掛けてある。私の中では彼等が何処かへ逝ってしまったという感覚はない。彼等は常に存在しているという感覚がある。考えてみれば、存在していたものが非在になってしまうということはあり得ない筈なのである。


31

鑑賞日 2014/4/18
見舞ふべき人あり新藁匂ひくる
前田典子 三重

 見舞うべき人、つまり大事な人であろう。その人が病に倒れているのであろうか。頭の中はその人のことで一杯になっている。その時に新藁の匂いがしてくるというのである。
 ドストエフスキーの「白痴」にムイシュキンがエパンチン家の令嬢達に、死刑囚が刑場に引かれて行く場面を話すところがある。この死刑囚はもうすぐ死刑になるという時に、むしろ周りの風景の些細な部分が妙にはっきりと印象的に目に映る、というような話である。人間には確かにこのようなことがあるかもしれない。つまり、これから大事なことが運命づけられているという時に、それとは一見無関係な事柄に対する感覚が妙に鋭く働くということである。
 この句を読んでそんなことを思った。


32

鑑賞日 2014/4/18
ブーゲンビリア父の言葉が百咲いて
舛田子 長崎

 父上は亡くなられているのだろうか。その父への思い。かなり経ってから、あるいは自分が父と同じ年齢になってから、父の言葉や心情がよく理解できるようになるということはある。ブーゲンビリアの花に託して「父の言葉が百咲いて」という表現が明るくまた切ない。
 ちなみにブーゲンビリアは魂の花とも呼ばれているそうである。   

 Yahoo知恵袋に次のような問いと答えがあった。
 ブーゲンビリアは「 魂の花」とも呼ばれているようです。なぜなのでしょう?ネットで検索してもわかりませんでした。その 理由をご存知の方がおられましたらお教えくださいませ。
 ベストアンサーに選ばれた回答
 yakebokkui_pk4さん
 原産地での謂れは不詳ですが、日本人の年配の方にとっては、太平洋戦争時に沖縄や南太平洋での激戦で亡くなられた大勢の日本人や日本兵への『鎮魂花』としての意味合いが強いのではないでしょうか。

ブーゲンビリア
http://www.flower-toya.jp/info/200211.htmlより

33

鑑賞日 2014/4/19
湯の中の乳房はかなし三冬月
三井絹枝 東京

 三冬月(みふゆづき)とルビ

 三冬月(みふゆづき)とは陰暦12月の異称であると辞書に出ていた。すごいきれいな言い方があるものだなあと思った。そしてこの言葉を自分の俳句の中に見事に埋め込むものだなあと感心した。この作家の場合は俳句の中に言葉を埋め込むというよりは、自分の身体の中に埋め込むと言ったほうが適切かもしれない。この作家の印象は自分の身体が俳句になっているという感じだからである。俳句を書くというのではなく、俳句になるという印象だからである。


34

鑑賞日 2014/4/19
鰤大根婆鼻歌の反戦歌
村上 豪 三重

 私はいわゆる戦争を知らない子ども達の年代である。しかし戦争を知らない子どもであるということを意識している年代でもある。戦争を知っている年代、戦争を知らないということを意識している年代、戦争を知らない年代と分けられるかもしれない。この句は、戦争を知っている婆の鼻歌を戦争を知らない子どもであると意識している作者が聞いているという構図であるような気がする。真に戦争を知っていれば、無意識のうちに鼻歌となって反戦歌が出てくるのかもしれないと思ったからである。平和が永く続いて鰤大根などをつついていたいものである。


35

鑑賞日 2014/4/20
ふっと草枯れの感覚パン焦げる
森内定子 福井

 パンの焦げる匂い。いい匂いだ。生きてあることの一つの実感とでもいえそうないい匂いだ。作者はそれを「ふっと草枯れの感覚」と感じた。随分と精妙な感覚だなあと思う。あるいは「ふっと草枯れの感覚」と「パン焦げる」は直接的な繋がりではないのかもしれない。「ふっと草枯れの感覚」がするような季節の移り変わり感の中に作者は感じ入っていた。その時にパンが焦げたというのかもしれない。そしてその微妙なある関係性を句にしたのかもしれない。いずれにしろ「ふっと草枯れの感覚」という把握は魅力的である。また臭覚が支配する句であると言えるかもしれない。


36

鑑賞日 2014/4/21
貧乏神も煤けて囲炉裏火を守る
安井昌子 東京

 夜も煌々と明りをつけ、大量のエネルギーを消費しないと成り立たないと思っている現代においては、この句の貧乏神のような精神がむしろ必要なのではないか。現代においては殆ど忘れられてしまった価値がこの句の裏にはひそむ。囲炉裏火を守るということに象徴される瞑想性ということである。現代は生きてあることの瞑想性を忘れた時代であると言えるかもしれない。スローガンとして「原子の火より囲炉裏火を」というのはどうだろう。


37

鑑賞日 2014/4/21
寄鍋や我が足軍靴履きし日も
山本光胤 大阪

 賢者も愚者も過ちを犯すが、賢者はそれを繰り返さないが愚者は何度も繰り返す、と言われる。国家や民族のレベルでもそういうふうに言えるかもしれない。賢い民族は同じ過ちを繰り返さないということである。私の父も軍靴を履いた年代であったが、既に亡くなってしまった。父は戦争体験について殆ど語らなかった。もう少し戦争というものについて聞いておけばよかったと思う。私自身が愚かにならない為に。


38

鑑賞日 2014/4/22
落葉降らすベンチと僕は無関係
横山 隆 長崎

 「落葉降るベンチ」ではなく「落葉ふらすベンチ」であるから落葉とベンチの間には親密な関係性がある。そういう関係性に満ちた世界に対して作者は「僕は無関係」と言っている。一種の疎外感だろうか、あるいは無縁感だろうか。自分が座る場所ではないと言っているのだろうか。分る気もする。現代社会に居心地良く座っている人は逆に少ない気がするからである。そういう風に社会批判的にこの句を眺めることも出来そうであるが、それにしては「落葉降らすベンチ」というのが詩的過ぎるとも思える。また、この句を読んだ時に五輪真弓の「恋人よ」の場面が思い浮かんだのであるが、そういう失恋の時の詩と取れなくもない。


39

鑑賞日 2014/4/22
手も足も饒舌になる老父の菊
吉村伊紅美 岐阜

 この老父は菊作りを楽しんでいる方ではないだろうかと想像する。何だか老父が自慢の菊と戯れている感じ、お喋りをしている感じ、更には踊っている感じさえする。愛は人によっては身体表現にまで高揚することがあるということかもしれない。


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