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金子兜太選海程秀句鑑賞 500号(2014年2・3月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2014/2/9
木の実降る敗者の歴史読みつぐ夜
石川義倫 静岡

 「勝者の歴史」ではなく「敗者の歴史」であるのがいい。今日は都知事選の投票日である。誰とは言わないが、「世界一を目指す」だとか「最高のオリンピック」だとか言う人は大地から浮いてしまっている感じがする。「勝つと思うな思えば負けよ」という言葉もあるし「負けるが勝ち」という言葉もある。そもそも木の実が降るとき、木の実は放下しているのであり、即ち大地に対して負けを受容しているのであるから。そしてそれは豊穰の礎であるから。


2

鑑賞日 2014/2/10
訳もなくぶつかり歩くわが晩秋
石川青狼 北海道

 どうだろうか、この不条理とも見える世で、周りの空気を読んで、事を荒立てないように、偽の笑いを浮かべながら生きてゆくというのは。あちらこちらにぶつかりながら歩いてゆくのはむしろ真実味があるような気がする。「悪い奴程よく眠る」という映画があったが、この生き難い世で、何にもぶつからずにすんなり生きている人はどこか怪しいものがある気さえする。
 いずれにしてもこの句は次の句のもじりだろう。

春寒やぶつかり歩く盲犬    村上鬼城


3

鑑賞日 2014/2/11
紅葉狩り攻撃的な猿に遭う
伊東明夫 神奈川

 猿というものはこちらが弱いと察すると攻撃的な態度をとる。また、男より女を軽く見るということも確かである。畑などに私が行くと逃げるが、隣のおばさんが行っても逃げないのである。猿が人間に近いのか人間が猿に近いのかは分らないが、このような猿の行動を見ていると、どうも今の政治家達のことが連想されてならない。


4

鑑賞日 2014/2/12
黄落や逆光に鋭き人の声
伊藤 巌 東京

 自然、そしてその中の人間存在ということ。そもそもそういうふうに分けて認識しているのは人間だけかもしれない。気持ち良く黄落の中を歩いているときには、おそらくそういう識別は働いていないのかもしれない。自然と一体になってただ歩いているだけなのかもしれない。そのとき、その逆光の中に鋭い人の声が聞こえた。ああ、われわれは自然と対峙した人間存在であることを自覚する。


5

鑑賞日 2014/2/14
夜更かしに紙の音して鼬の気配
伊藤淳子 東京

 異空間あるいは異時間の入り口にこの主人公は立っているという気がする。理性で制御された日常ではない場所の入り口。考えてみれば、この作者は、存在と非存在、あるいは実と虚、あるいは日常と非日常の隙間を描写するのが上手い作家である気がする。


6

鑑賞日 2014/2/14
原発のそば圧倒的な舟虫よ
稲葉千尋 三重

 いわば知恵の実を食べてしまった人間の作りだした死の施設である原発と、ただただ生命の命ずるままに繁殖し群がる舟虫達の対比が提示されている。ああ、生命とは何か、世界とは何か、創造とは何か。


7

鑑賞日 2014/2/15
村芝居歩くところを走ってる
大口元通 愛知

 もしかしたら文化全体が代理文化とでも呼べる傾向にあるのではないか。つまり、専門家でない人は専門家が作ったものを楽しめばいいという形である。文学や芸術やスポーツ等々あらゆる分野でその傾向はあるかもしれない。果ては恋愛さえも他者が演じたり書いたりしているのを楽しめば事足りるという現象さえあるのではないか。そういう意味では読者がまた作家であることの多い俳句の世界は特殊であり、価値があるかもしれない。下手だって何だっていい、自分自身がやることに価値があるのである。真の文化の形はそういうものかもしれない。この句を読んで、そんなことを思った。


8

鑑賞日 2014/2/16
鶏頭の種を熊野にこぼしおり
大西健司 三重

 面白いなあ。何だかエロティックだなあ。何でかなあ。言葉って面白いなあ。


10

鑑賞日 2014/2/17
若冲をあつく語りて夜長かな
岡田弘子 愛知

 以下Wikipediaより
 伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう、 正徳6年2月8日(1716年3月1日) - 寛政12年9月10日(1800年10月27日))は、近世日本の画家の一人。江戸時代中期の京にて活躍した絵師。写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」として曾我蕭白、長沢芦雪と並び称せられる。

プライス・コレクションの「紫陽花双鶏図」

11

鑑賞日 2014/2/18
詩を捨てて生きるか夜の曼珠沙華
尾形ゆきお 千葉

 ギヴィックの「詩を生きる」という題名(もしかしたらこれは邦訳名かもしれない)の本がある。内容は忘れてしまったが、この題名だけは印象深く覚えている。存在する全てのものは詩を生きていると言えないだろうか。その詩のほんの一部を言葉という限定されたものに移したものが所謂人間が書く詩というものなのかもしれない。だから、言葉による詩を捨てて生きることは出来るかもしれないが、もっと深い意味での詩を捨てることはできないような気もするのであるが、どうだろうか、君、夜の曼珠沙華よ。


12

鑑賞日 2014/2/18
衣被一方的に何か言う
小沢説子 神奈川

 何だか可笑しみのある句である。その何だかが分らないところが可笑しいのかもしれない。ここに登場する、一方的に何か言う人の持つ味なのかもしれない。それは衣被のもつ味に似ている気もする。ぶっきらぼうで素っ気無く旨味もないような顔をしているが、これが食ってみるととても旨いのである。思い返してみると確かにそういう人物が思い浮かぶ。


13

鑑賞日 2014/2/19
小鳥来るうっとり浮いて浮御堂
門脇章子 大阪

 この句を読んで、浮御堂というのがどんな姿をしているのかネットで検索してみた。がっかりした。この句から連想される、夢見てたゆたうような姿を期待していたからである。現実の姿というものはどうしていつも繋がれたような姿をしているのだろうか。つまり現実は詩に劣るということか。


14

鑑賞日 2014/2/20
古里の白萩のよう鼻濁音
狩野康子 宮城

 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という成句があるが、その反対の意味の言葉は何だろうかというようなことを考えている。つまりこの鼻濁音をときどき発する人物は作者にとって古里のような雰囲気を持っていると感じられているのではないだろうか。だからこの人物の時折挟む鼻濁音があたかも古里のあの懐かしい白萩のように感じられたということなのであろう。高齢でしっとりと落ち着いて包容力のある聡明な女性像が思い浮かぶのであるが。


15

鑑賞日 2014/2/21
カフェテラス小鳥の声に小鳥来る
刈田光児 新潟

 人間にとって都市というものが必要ならば、このようなカフェテラスが存在し得るような都市がいい。すなわちその中に緑がたくさんあり、小鳥達がやって来られるような都市である。このようなカフェテラスで午後の紅茶でも飲みながら、友人と語りあったり、一人で洒落たミステリーでも読んでいたいものだ。


16

鑑賞日 2014/2/22
もの忘れ以て木の葉の夥し
北村美都子 新潟

 子どもの頃、私達にとって世界はまことに新鮮だった。あらゆるものが珍しく神秘に満ちていた。そしてその珍しき物事の名を一つ一つ覚えていった。そして逆にだんだんと世界の新鮮さは失われていった。だんだんと知ってるつもりになってゆくからである。歳をとりもの忘れが起るようになる時に、それを肯定的に捉えることが出来る祝福された人にとっては、世界は再び新鮮なものになるのかもしれない。木の葉の夥しさに感動できるようになるのかもしれない。
 今、私は私の義母のことを思い出している。もの忘れの激しくなった義母が時々私の田舎の家に来ることがあったが、彼女は平凡な里山を見てさえ、綺麗だ綺麗だと感動していたものである。


17

鑑賞日 2014/2/24
蕎麦すする案山子みたいな気分屋と
京武久美 宮城

 ソチオリンピックが終った。良い面と悪い面を見せてもらった感じだ。良い面は例えば上村愛子の表情から汲み取れるものである。それは彼女がメダルと取れなかったことで一層見えてきた物事の本質である。何かに打ち込んでやるということの本質である。それはメダルなどでは計れない価値である。その価値が単なるメダルというものに貶められているというのが悪い面である。その一つの例が森元首相の浅田真央に関するあの低劣な発言である。 
 http://www.tbsradio.jp/ss954/2014/02/post-259.html 参照
 それから日本人というかマスメディアはオリンピックオリンピックと騒ぎ過ぎである。もうあの震災のこと原発事故のことは忘れてしまったかの如くである。キナ臭い政治情勢や深刻な環境問題などは忘れてしまったかの如くである。一億総白痴化という言葉があったが、一億総気分屋という感が無きにしもあらずである。この句の言葉を借りれば、一億総案山子化とでも言えるかもしれない。気分が向けばこっちへ向く、また違うことが起ればそっちへ向く。まるで何処かの国の首相のようだ。


18

鑑賞日 2014/2/24
河西回廊梨売りの祖の素朴な目
黒岡洋子 東京

 以下Wikipediaより(写真も)

 河西回廊(かせいかいろう、河西走廊、甘粛走廊)は、東は烏鞘嶺からはじまり、西は玉門関、南北は南山(祁連山脈と阿爾金山脈)と北山(馬?山、合黎山および龍首山)の間の長さ約900km、幅数kmから近100kmと不規則な、西北-東南方向に走る狭く長い平地である。回廊の形を為し、黄河の西にあるために河西回廊と呼ばれる。地域では甘粛省の蘭州と、6,500m級の祁連山脈を水源とする、砂漠河川に潤されるオアシス都市群、「河西四郡:武威(かつての涼州)、張掖(甘州)、酒泉(粛州)、敦煌(瓜州)」を包括する。民族では漢族、回族、モンゴル族、ユグル族、チベット族など多くの民族が居住する。漢の武帝が河西を開闢し、武威、張掖、酒泉、敦煌の四郡を列して以来、内陸の新疆に連なる重要な通路であり、古代のシルクロードの一部分として、古代中国と西方世界の政治・経済・文化的交流を進めた重要な国際通路であった。

 中国といえば、日本では軍事や政治情勢あるいは経済的な側面しかあまり報道されないが、実は昔から延々と続く大地に根ざした素朴な目をした人々が住んでいる筈だと思っていたが、この句を読んで、然り然りという感じで嬉しかった。だって中国は老子の国だもの。


19

鑑賞日 2014/2/27
パンプキンパイ異形の娘が待っている
笹岡素子 北海道

 「異形の娘」をどう取るかということである。例えば素顔とは程遠いメイクをしているとか、髪の毛も様々な色に染めているとか、要するに親としては呆れるような格好をしている娘というふうに私は受け取った。とにかく親にとっては異形の娘である。しかし娘であることに変わりはないから、愛していることに変わりはない。まったく私の娘は異形なんだからと言いながらもパンプキンパイを作ってやるのである。


20

鑑賞日 2014/2/28
全略と誤記してよりの虫しぐれ
柴田美代子 埼玉

 前略と書くところを全略と書いてしまったというのである。そして作者はこの誤記の案外の面白さを味わっているのではないか。人間社会のもろもろの煩わしさを全略としてしまいたい気持ちは誰にでもある。そしてそういうことが実際に起った時には何が残るだろうか。おそらく其処には存在の詩としての虫しぐれが響き渡っているのかもしれない。古今東西悟りの引きがねというものは多様であるが、一つの誤記がそれになり得るというのは面白いことである。


21

鑑賞日 2014/3/1
塩むすび包む原発新聞紙
清水茉紀 福島

 日本人にとっての米は単なる食料以上のものである。われわれの日常であり、歴史であり、大地そのものであるのかもしれない。その米で作った塩むすびを原発の記事の載っている新聞紙で包む。フクシマ以後のこれが現実であろう。そしてわれわれはこの現実から目を背けてはいけないのであろう。考えてみれば、原発の事が記事になっているうちはまだいいのかもしれないのである。それが記事として書かれなくなってしまう事態になることが一番危惧される。秘密保護法案という悪法が運用されれば、そういう事態もありうる。どんなに不都合で嫌な現実であっても現実は見ていた方がいい。


22

鑑賞日 2014/3/1
陰なしの人形あそぶ菊の中
白井重之 富山

 陰(ほと)とルビ

 陰なしの人形と表現したことで、人形というものの持つ気味の悪い物体感がよく出ていると思う。その人形が遊んでいるというのだから余計に気味が悪い。菊人形があまり好きではない私だからこんな感想が出てくるのかもしれないが、それだけ句にリアリティーがあるということだろう。本質を見抜く作者の描写力。


23

鑑賞日 2014/3/2
秋暑し国家民草花林糖
高桑婦美子 千葉

 自然の成り行きか、あるいは地球にとっての癌だともいえそうな人間の所為か、近頃の異常気象は即ち異常である。秋だというのに暑くてしょうがない。また、そもそも国家というものは民草の為に存在するべきものであるが、近頃というかいつの世でも、民草は国家によって踏みにじられる。これは民草が愚かなのか、あるいは国家というものがそもそも化け物のような質を帯びる必然を持っているのか。ああ何だかんだよく解らない。とにかく解っているのは、この花林糖が美味いということである。茶でも飲もう。


24

鑑賞日 2014/3/3
我らかつて森にゐたりと雄鹿鳴く
田中亜美 神奈川

 オリンピックが終った。人は何故闘争的な競技に熱中し胸を高鳴らせることが出来るのだろう。また、他の動物には無い、性や暴力への異常な興味は何処からやって来るのだろう。もしかしたらそれは失われてしまった野性への無意識の憧憬の表出なのかもしれない。かつてわれわれが森に住んでいた頃には、これほど異常な性や暴力への志向は無かったかもしれない。何故ならそこには既に野性がたっぷりと有ったからである。


25

鑑賞日 2014/3/4
ふたりにかえるしずくのようつがいかな
田中昌子 京都

 窓ガラスについている二つのしずくが一つになりすーっと落ちる。そんな映像が浮かんできた。
 男は女を求め、女は男を求める。陽は陰をもとめ、陰は陽を求める。何故か。おそらく根源に還りたいという欲求があるからである。宇宙の始まりと終わりは陰も陽もない一である。陰と陽の分離が起るから即ちエネルギーの顕現があり生々流転が起る。生々流転への欲求と根源に還りたいという欲求のバランスの上にこの世は成り立っている。それは恰も、種子が芽をだし生長して花を咲かせ受粉して種子を作り再び地に還るというようなものである。だから、既に顕現しているわれわれには常に根源に還りたいという欲求がある。故に愛を希求する。さてさて、しち面倒臭いこのような議論は抜きにして、句は美しく詩的にそのことを言っている気がするのである。


26

鑑賞日 2014/3/5
まだかたちなどなく朝の水澄めり
遠山郁好 東京

 神話の中の創世期のような趣がある。
 世界の始まりから終わりまで、あるいは植物の種子から種子までの巡り、あるいは朝から始まって夜に終わる一日の過程、あるいは人の誕生から死まで、これらはどこかで皆似ている。精妙なものから始まって粗大になりそしてまた精妙なものへと還ってゆく。形無きものから始まって形をとりそしてまた形無きものへと還ってゆく。澄んだものから始まって濁りそしてまた澄んだ状態へ戻ってゆく。おそらく一日の人の心の状態も同じように巡るのかもしれない。朝のうちは無垢でまだ何の形もとっていない。澄んだ秋の水のようである。


27

鑑賞日 2014/3/6
うそ寒や自動販売機礼を言ふ
長尾向季 滋賀

 役所広司演ずるあのコマーシャルのことを言っているのだろう。そろそろ寒さが身にしみる季節になってきた。ああうまい具合にここに自動販売機がある。温かい缶コーヒーでも飲んで暖まろう。指導販売機というものは何て便利なものなのだろうか。有りがたい有りがたい。このような事の全体に作者は嘘臭さを感じていることも確かである。現代文明全体に存在するある嘘臭さである。「うそ寒」という季語を上手く使って書いた皮肉たっぷりの佳句。


28

鑑賞日 2014/3/7
月追って時々俳句ずっと酒
中村道子 静岡

 世の中にはこういう人がいてもいい。というか、いたほうがいい。近頃日本はあまりにもぎすぎすした管理社会になってゆく気がするが、このようなバガボンドのような人がいなければ駄目だ。月追って時々俳句ずっと酒、それでいーのだと言いたい。イメージとしては山頭火のような人物を思い浮かべる。


29

鑑賞日 2014/3/8
目覚めては働くこがらしの風下で
中村裕子 秋田

 三十年以上も前になるだろうか。中川柿園という人の本に次のような意味のことが書いてあった。
 例えば木枯の中で牛蒡を掘っている。寒い。そして指先が冷たい。しかしその冷たさにも味というものがある。冷たさの味というものがある。
 この言葉が、私が田舎で百姓仕事をやってみようと思った時の一つの後押しとなった。この句を読んで、そんなことを思い出した。ところで「木枯の中」ではなく「木枯の風下」と書かれていることが妙に詩的なのは何故であろうか。


30

鑑賞日 2014/3/10
 追悼 兼近久子様に
永遠に大正区は華 満月や
廣嶋美恵子 兵庫

 おそらく大正区は兼近さんの住んでいたところだろうと思う。大阪市大正区である。
 兼近久子さんの句をいくつか。

平城山よも一睡われも一睡
長駆するあめんぼうなり二十五菩薩
晩秋美し手紙のような手を出して
菜畑なんぞ筵の母は敵なりし
榧の花とおし馬の眸は藍色
風化の村涙壺ほのかに青し
春の雁一羽は兄のヴァイオリン
三椏咲き満員電車の亮わたし
少年兵いちじく一本偽りぬ
並の金魚に愛傾ける時間かな


31

鑑賞日 2014/3/11
紅葉かつ散る草食獣のかたわらに
堀之内長一 埼玉

 見えてくるのは、平和性のある地上のイメージであるし、またその風景は神話性も帯びている。言語で自然を表現しようとするとき、我々はどうしてもそれをある程度抽象化せざるをえないが、この句においては「草食獣」という程よい抽象化が成功して神話性を帯びるものになっている。


32

鑑賞日 2014/3/12
思慮の父献身の母蚯蚓鳴く
本間 道 新潟

 「蚯蚓鳴く」の部分がしんみりとした思い出の感じ、あるいは虚々実々の微妙な感じとも受け取れる。
 思慮の父献身の母、一つの理想的な夫婦像あるいは家族像である。あまりにも理想的な像なので現実のものとは思えないくらいである。どこか遠い過去のある場面での美しく懐かしい記憶としてあるのかもしれない。私には殊に自分自身を顧みても「思慮の父」という部分が有り得ないもののように思えてしまう。ああ蚯蚓が鳴いている。


33

鑑賞日 2014/3/13
秋耕の側を徐行し霊柩車
松本ヒサ子 愛媛

 われわれは常に死と隣り合わせで生きている。というか、死の無い生はないし、生の無い死はない。生と死は一体である。われわれは日々生を耕しそして死を耕しているとも言える。この句はそういうことをさり気なく書いている。


34

鑑賞日 2014/3/14
ずうっと紅葉ずうっと黄葉の浮遊かな
汀 圭子 熊本

 紅葉黄葉の季節を日常から離れて小旅行しているという趣がある。日頃われわれは土着感のあるあるいは現実感のある日常を営んでいるわけであるが、小旅行などをする時には日常のあらゆる柵から解き放たれて一種の浮遊感に浸ることがあるのではないか。
 あるいはまた「ずうっと紅葉ずうっと黄葉」というのが時間的な「ずうっと」であると見ることもできるだろう。その場合作者はあまり日常のごたごたに煩わされないで季節の移り変わりに酔えるような日常生活を送っている人とも考えられる。


35

鑑賞日 2014/3/15
本音とは昏き水なり石蕗の花
茂里美絵 埼玉

 前半の昏さに反比例して石蕗の花の明るさが印象的である。私はこの明るさを本物が持つ明るさと受け取った。真実が放つ明るさの象徴と受け取った。真実の明るさを持つ花は本音の水を吸い上げてしか咲かない。本音というものが如何に昏い水に見えようが、おそらく其処にしか真実の花を咲かせる滋養分は無いのである。


36

鑑賞日 2014/3/16
白蓮やときどき邪魔な自尊心
森由美子 埼玉

 自尊心。自らを尊ぶ気持ち。良いことのようにも思えるし邪魔なもののようにも思える。おそらく「自」というものの在り方が問題のような気がする。自分は尊いが他者は尊くないというふうに自と他を差別して使う場合の自尊心は邪魔なもののような気がするし、他者もそれぞれの自分であり、自分を尊いと思う時は他者それぞれの自分も尊いのだと思える時の自尊心は良いもののように思える。例えば愛国心は良いものか悪いものか。他国の人もそれぞれ自分の生まれた国土と民を尊いものと思っているというのが解った上で自分の国土と民を愛する愛国心は尊いものだろうし、自分の国だけが一番尊くて価値があるというような愛国心は邪魔なものであろう。愛だとか正義だとか自尊心だとかいうような概念には時々そういう見当違いが起きやすい。だから作者は白蓮の花を見ながら言う、ときどき邪魔な自尊心、と。


37

鑑賞日 2014/3/17
ご陵の辺耳目消すよう芋茎刈る
矢野千代子 兵庫

 私自身はどちらでもいいのだが、一般的に日本人にとっては聖なるものとしてあるいは一つの求心力として天皇の存在は必要なものなのであろう。そのあたりを見抜いてマッカーサーは天皇を残したのだろう。聖別されたものとしての天皇の墓が御陵である。当然御陵の辺は空気そのものが聖別されている。それゆえ庶民は芋茎を刈るときも耳目を消すように刈るわけである。そのあたりの天皇と庶民の関係が上手く描かれている。「ご陵」と「芋茎」の対比がいい。


38

鑑賞日 2014/3/18
噴水の悲しい先端車椅子
輿儀つとむ 沖縄

 「噴水の先端」という事物になすり付けることによって、センチメンタルな表現に陥らずに、「悲しい」という事実を客観視している。巧みである。


39

鑑賞日 2014/3/19
用もなく立ち寄る茸鑑定所
横地かをる 愛知

 この句を思わず面白く感じて微笑んでしまうのは、やはり人間そのものの面白さかもしれない。たとえば人間が用だけで出来ているとしたら何とつまらないことだろう。むしろ無用の部分に人間であることの何ともいえない味があるのではないだろうか。有用性ばかりが強調されがちな世の中で真の自由は無用性の中にこそあるのかもしれない。


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