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金子兜太選海程秀句鑑賞 499号(2014年1月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2014/1/13
門火焚く膝つくわれの齢かな
新井娃子 埼玉

  門火とは〈盂蘭盆(うらぼん)のとき、死者の霊魂を迎え送りするために門前でたく火。迎え火と送り火。〉と辞書にある。

 人間は死ぬとどうなるのか。彼の一切は消滅してしまうのか。彼の魂は尚存在するのか。これは人間の持つあらゆる問題の中心にある問題である。故にあらゆる宗教はさまざまな物語を作ってこの問いに答えようとしている。盂蘭盆という行事が仏教に由来するものなのかどうか私はよく知らないが、言えるのは、この行事が死に纏る物語として日本人が大切にしているものの一つだということである。さて、この「膝つく」という行為は歳をとって膝が弱ってきたという意味もあるだろうし、更にはこの大切な物語に対して跪きたいという年齢になってきたということでもあるような気がする。


2

鑑賞日 2014/1/14
月白や鏡のわれを訝しむ
伊藤 歩 北海道

 「此奴は誰だろう」あるいは「これが私なのだろうか」というように、鏡を覗くときに何時も鏡像と自己とのギャップを感じている私には、この「鏡のわれを訝しむ」という感じ方がよく解る。鏡を見る時に我々は自分の外面的な形を見るわけであるが、それは単に自己の微かな反映を眺めているに過ぎないのかもしれない。自己とその反映、それは月と月白の関係に似ている。


3

鑑賞日 2014/1/15
秋桜ラッパ鳴らして柩行く
梅川寧江 石川

 死は悲しむべきことか、あるいは祝うべきことか。おそらくその両方だろう。生身のその人にもう会えないということは悲しい。しかし、その人が兎にも角にもこの生という仕事をやり終えたということは祝うべきことであろう。死という祝祭の楽隊が行く。悲しみのラッパを鳴らして行く。秋桜が見ている。


4

鑑賞日 2014/1/15
名月を戴きこの家肉食す
榎本祐子 兵庫

 どこか遠くから狼の遠吠えが聞こえてきそうな雰囲気の句である。


5

鑑賞日 2014/1/16
燕帰る小さき傷みを匿して童よ
大上恒子 神奈川

 童(こ)とルビ

 「燕帰る」というある淋しさと小さな喪失感を伴った季感が「小さき傷みを匿して童よ」と微妙に精妙にそして健気に響き合う。


6

鑑賞日 2014/1/16
水面つつくトンボの青さ私に老い
柏原喜久恵 熊本

 妙なことだが、私は若い頃には早く老人になりたかった部分がある。老人というものが深い智恵に満ちている存在に思えたからだ。そして今老人と言える年代にさしかかってみると、逆に若いということが眩しくそして新鮮なもののように思えることがある。結局この若さ青さということと老い熟すということは相補う関係にあるのだろう。


7

鑑賞日 2014/1/17
隠し事あれば饒舌とろろ汁
加藤昭子 秋田

 この人は今日はいやに饒舌だわ、妙に明るそうにどうでもいいことをぺらぺらぺらぺらと喋っている。また何か隠し事があるに違いない。見え見えだわ。こちらは少し黙って見ていてやりましょう。そのうち耐えきれなくなるに決まっている。あらあら今度はとろろ汁をずるずると啜りだしたわ。ったく下手な役者みたいねえ。まあそれなりに可愛いところもあるにはあるんだけどねえ・・・


8

鑑賞日 2014/1/18
放射能まみれの飽食蓮は実に
金子斐子 埼玉

 放射能まみれの飽食・・これはよく分る、そしてこの感覚を持続できている作者の感受性に敬意を表する。テレビにはグルメ番組が溢れ、スーパーには食品が溢れ、更に毎日毎日大量の食料が廃棄されているという。しかしそれらは実は放射能にまみれている。何だか我々の文明は紛い物のような気がしてならない。ねえ、蓮の実よ。


9

鑑賞日 2014/1/20
わたくし山羊でありましたのに椅子の脚
加納百合子 奈良

 内容といい口調といい面白い句だ。物語があり、また何ともいえない可笑しみがある。


10

鑑賞日 2014/1/20
啄木鳥や旅の男に小銭増ゆ
木下よう子 
神奈川

 旅の俳諧師、旅の絵師、寅さんのような旅の的屋、あるいは旅の先々でバイトしながら放浪している若者等々、そういう種類の旅にある男を想像する。そういう種類の旅は不安であるが、またスカッとした自由がある。先の命が不安であるが、いくらかの小銭があれば不安は取りあえず解消されて、彼は自由の境地に羽ばたく。何しろ大空そのものが彼の屋根であり大地そのものが彼の居間なのであるから。ああ同類の啄木鳥が木を叩いている、小銭も増えたことだ、さあその打音のリズムで歩いてゆこう。


11

鑑賞日 2014/1/21
猪喰う家族底ぬけに愉快なり
小池弘子 富山

 猪(しし)とルビ

 人間は本来自然と共生していれば何の心配もいらない。一段歩の田があれば五人家族は楽に食っていける。野山には衣食住の材料が揃っている。食わなくてもいいが時に肉を食いたければ猪なり何なりを獲って食えばいい。私は現代を不安の時代と見ているが、そのそもそもの原因はこの生かされている自然を信頼できなくなることから来ている気がする。どう見ても、株価の上がり下がりに一喜一憂している人間は神経症的だと言わざるをえない。この猪を食っている家族は自然というものに対して大きな信頼というものがある家族のような気がする。彼等が底抜けに愉快なのも当然なのである。


12

鑑賞日 2014/1/21
蝙蝠葛頭にからまりし異郷かな
児玉悦子 神奈川

 蝙蝠葛(こうもりかずら)・・ツヅラフジ科の蔓性(つるせい)の落葉多年草。山地に自生。葉は三角から七角の盾(たて)形で、コウモリの翼を広げた形に似る。雌雄異株。夏、淡黄色の小花をつける。(goo辞書)
 下の蝙蝠葛の写真はhttp://hana-zukan.net/0010ko/00012.htmより


13

鑑賞日 2014/1/23
秋服の釦冷たし別れを言ふ
小西瞬夏 岡山

 この秋服を来ているのは自分か、あるいは相手か、ということで随分と印象は違ってくる。自分だとすると、この別れはこれから耐えてゆけるだろうかというような孤独が待っている別れのような気がする。一方、この服は別れる相手が着ているものだとすれば、相手の行く末を心配しているような思い遣りの句だという印象になる。相手の服装をいろいろ整えてやっている作者の姿が目に浮かぶ。私は後者のように思うのだが。


14

鑑賞日 2014/1/23
大寺の奥より新秋やってきた
坂本春子 神奈川

 大きな寺の建物のひんやりした感じであるとか、あるいは寺というものが持つ脱世俗的な新鮮さの中に作者は新秋を感じたのではあるまいか。異常気象ということもあって最近の夏はことに猛暑である。新秋ということなど感じられないままに、日常のごたごたを過ごしていかなければならない今日この頃の私達であるが、時にはこのごたごたを離れて非日常的な時空に身を置いてみることは、大きな視点で時間の流れを把握あるいは発見する助けになるかもしれない。「やってきた」という言葉にその出会いの新鮮な感じが表れている気がする。


15

鑑賞日 2014/1/24
泥川が澄んで壊れた墓映す
佐々木昇一 秋田

 台風だとか豪雨だとかの災害の後の光景のような趣がある。荒れ狂う風雨そして泥流がさまざまな人間の営みの結果である事物を壊していってしまった。元通りに澄んだ川が壊れた墓を映している。変化して止まない自然と壊れやすい人間の営みを静まった感官で眺めている。


16

鑑賞日 2014/1/24
曼珠沙華発条のごとくに反抗期
佐藤紀生子 栃木

 無垢な状態で生まれた子が恰も発条が巻かれるようにぎりぎりと巻かれてゆく。社会というシステムの部分的なエネルギーとして組み込まれる為に巻かれてゆく。しかしある時彼は自分が小さく小さく巻かれてゆくことに耐えられなくなる。そもそも自分は何なのだ、自分の無垢性はどこに行ってしまったのだと、恰も巻かれた発条が弾けるように弾ける。これがいわゆる反抗期ということなのかもしれない。そしてこのことは赤く弾けるように咲く曼珠沙華のように実は美しく自然なことなのである、と作者は言っている気がするのであるが。


17

鑑賞日 2014/1/25
村芝居斬られた順の腹拵え
佐藤二千六 秋田

 作者は秋田の人。今年はあの辺りは豪雪であると聞く。そんな厳しい環境の中でもどっこい人は楽しみを見つけて生きている。楽しみが無くては人間は生きられない。そして思う、株価の値上がりを楽しみにする事と、斬られた順に腹拵えをする事は、どちらが害の無い楽しみであろうかと。


18

鑑賞日 2014/1/25
夏の星犬の寝床を焼いている
佐藤美紀江 千葉

 夏の星の下で犬の寝床を焼いているというのである。何ゆえ犬の寝床を焼いているのだろう。例えばダニ等の駆除の為に焼いているのだろうか。あるいは死んでしまった犬の弔いの一部としての行為なのかもしれない。おそらく後者だろう。その方がその状況に「夏の星」がしんしんとよく響くからである。


19

鑑賞日 2014/1/27
コンビニの上にペガサス弁当買う
重松敬子 兵庫

 ペガサス・・ギリシャ神話で、翼を持つ神馬。ペルセウスに殺されたメドゥサの血から生まれ、ゼウスの雷の運び手や、英雄ベレロフォンの愛馬として活躍。また、ミューズたちの住むヘリコン山に、蹄(ひづめ)の一蹴りでヒッポクレネの霊泉をわき出させた。のち、天上の星座になったという。
 ペガサス座・・北天の大星座。4個の星の描く大四辺形が特徴。10月下旬の午後8時ごろ、天頂付近で南中する。名称はギリシャ神話の神馬ペガソスにちなむ。(以上goo辞書より)

 神話的な雄大な世界と、日常的な世界の対比。われわれが日々営んでいるこの小さな生も実は宇宙的な神話の世界の一部なのかもしれない。


20

鑑賞日 2014/1/27
校訓やらホルマリン漬やら秋暑し
白石司子 愛媛

 私にはこの句において作者は学校教育のある面に対して皮肉を言っているように思える。自然で天然に生まれた子どもを校訓という鋳型にはめ込み、ホルマリン漬のように生気のないものにしてゆく。パキスタンの少女マララ・ユスフザイさんが主張している教育の必要性とは本質的に全く違う方向性を持ちかねない今の日本の学校教育に対しては、私は概ねこの皮肉に賛成である。あーあ、秋が暑い。


21

鑑賞日 2014/1/28
夜を覗けばじつにあけすけ蟋蟀鳴く
関田誓炎 埼玉

 禅的な表明である。私の理解ではこうである。世界には何も隠されたものはないし、妙な神秘的な意味付けもないし、魑魅魍魎も居ないし、地獄もなければ天国もない。在るのはスカッとしたあけすけさのみである。方法はただ一つ、見ればいい、覗き込めばいい。そうすればそこにはただ蟋蟀が鳴いているだけである。この蟋蟀の鳴き声を拈華微笑ともいう。


22

鑑賞日 2014/1/28
遠花火母には別のパスワード
高木一惠 千葉

 どうだろう、例えばこれが「夫には別のパスワード」だったり「妻には別のパスワード」だったりしたら、強い感じの炎が胸に兆したかもしれないし、あるいは氷の冷たさが胸に兆したかもしれない。この場合は母という絶対的に結ばれている対象だから、その母が別のパスワードを持っているという事実を、遠花火を眺める時のように、余裕を持ってまた仄々と眺められたのではないだろうか。遠花火が丁度いい。


23

鑑賞日 2014/1/29
秋の薔薇くづるるごとく稿重ね
田中亜美 神奈川

 あらゆる思考系は結局崩れる為にあるのかもしれない。それがどんなに美しい体系であろうと、結局秋の薔薇が崩れてしまうごとくに崩れる。砂浜で子どもが砂の城を作り、最後はぐしゃっと足で踏んづけて壊す。作る時も子どもは歓喜の中にいるし、壊す時も子どもは歓喜の中にいる。それが完璧な城であればあるほど、その両方の行為における喜びは大きい。壊す為に作る、あるいは捨てる為に得るというのは矛盾している行為に見えるが、実は人間の大方の行為はこういう構造を持っている。実際、人間は死ぬ為に生きている。


24

鑑賞日 2014/1/29
桐一葉人とは美しき病
月野ぽぽな 
アメリカ

 例えばモーツアルトのことなどを思う。「モーツアルトは美しき病だ」と言えば、かつて私が彼の音楽にそれこそ麻薬患者が麻薬を求めるように魅かれていた事実の説明が上手くつく。美しいから魅かれる、しかしどうにもならない切なさに落ち込んで這い上がれなくなる。まさに美しき病だ。もしかしたら村上春樹などもこの「美しき病」という部類に入るのではないかと最近思っている。
 要するにこの「人とは美しき病」というのは、ある種の、あるいはある時の「人」について真実なのであるが、それはまた「桐一葉」と形容できるような人であり時間であることは間違いない。


25

鑑賞日 2014/1/30
長き夜や息子はますます謎になる
峠谷清弘 東京

 アインシュタインはその晩年において「私は最初この宇宙の謎を解き明かそうと思って研究を始めたが、今となってはその謎は深まるばかりだ」という意味のことを言ったという。このことはおそらく一般的な真実かもしれない。違う言い方をすれば「無知の知」ということであるが、俳句ではそれを卑近な例でさらっと言ってのける。この作家はそういうことの名手かもしれない。「長き夜」が人生そのものの暗示のようにも受け取れる。


26

鑑賞日 2014/1/31
流星や被曝者被爆者と握手
中村 晋 福島

 ひ‐ばく【被曝】
[名](スル)放射線にさらされること。「原子力発電所の事故で―する」
 ひ‐ばく【被爆】
[名](スル) 1 爆撃を受けること。「空襲で―する」 2 原水爆による攻撃を受けること。また、その放射能の害をこうむること。「核実験で―する」「―者」
                     (以上goo辞書)

 中島みゆきの歌の中で私の好きな歌に「流星」というのがある。「流星」という言葉だけの問題ではなく、あの歌の雰囲気とこの句の指し示す世界が似ていると思った。地を生きる人と地を生きる人の出会いである。             


27

鑑賞日 2014/1/31
口開くは酷暑の鳥葬後のわれ
野田信章 熊本

 人間以外の生き物は自らの屍を他の生き物に差し出す。食物連鎖あるいは生態系的な意義においてはこの方法が一番自然で合理的だ。ところが自分は他の生き物よりも偉いと思い込んでいるケチな人間は屍を他の生き物に差し出さない。こういう意見に対してわれわれは何と答えたらいいだろう。ただただ口を開いて「われわれは臆病者なんです」と告白するしかないのかもしれない。


28

鑑賞日 2014/2/1
多勢の肉焼けており海桐の実
野原瑤子 神奈川

 海桐(とべら)と読むようである。

 多勢でバーベキューなどをしている場面であろうか。まさか、原爆や戦争やテロの場面ではなかろうが、そんなことも頭を過る。


29

鑑賞日 2014/2/3
オクラねばねばおとこは始末の悪い獣
橋本和子 長崎

 そう言われてみればそうである。ねばねばと執着が強くて未練がましくて潔くない。始末の悪いものだと解っていながら、原発一つ止められない。まるでストーカーみたいだ。願わくば女よ、そんなねばねばした男を食ってしまってくれ。食えばそれなりに美味い味がするかもしれない。オクラのように。


30

鑑賞日 2014/2/3
むしかりの白き花群月を掃き
疋田恵美子 宮崎

 むしかりの花群に月が配された一つの景色であるが、そこにむしかりの花群が「月を掃き」という関係性を持たせたことによって、この景色がまことに生き生きと命あるものに変わった。この「月を掃き」というような新鮮な表現はどこからやってくるものだろう。


31

鑑賞日 2014/2/4
草ひばり遊牧の娘の乳硬く
日高 玲 東京

 グローバル経済の広がりの中で、いわゆる都市文明の垢のようなものに如何にわれわれの眼が覆われてしまっているかということが、この句を読むとよく分る。余りにも沢山のガラクタに取り囲まれてご満悦のわれわれは今この大地の娘のシンプルさを愛せるだろうかという問題である。経済とは何か、文明とは何か、シリコンの入ったぶよぶよの乳房とは何かという問題である。


32

鑑賞日 2014/2/4
流灯よ土には浅く浸み入る雨
藤野 武 東京

 色彩とリズム感のある美しい画面だ。無常感を伴った美しさとでも言おうか。もしかしたら、美しさというものは常にその奥に無常という観念を潜ませているのかもしれないと思った。


33

鑑賞日 2014/2/5
帰省子の凭れてゆきし柱かな
前田典子 三重

 物の本当の価値というものは、その物が大切な人の思い出に繋がるところにあるのかもしれない。昨今、例えばブランド物を身に付けることや持つことに価値を見出す傾向がある。これは価格の高いものは良いもの、デザインの優れたものは良いものという観念に繋がっていて、それなりにその人にとっては価値があるのであるが、やはりこれは一段低い価値観であると思う。価格の高い宝石よりも大切な人の思い出に繋がる小さな石やビー玉の方に価値を感じるということは往々にして起る。「帰省子の凭れてゆきし柱」ということから、人間にとっての物の価値とは何かを考えている・・・


34

鑑賞日 2014/2/5
折れやすいからだや芙蓉廻ってます
三井絹枝 東京

 「君は芙蓉の精か」と話し掛けたくなるような句である。常々この作家は植物への親和性あるいは憑依性が高いと思っていたが、まさにその真骨頂の句であると言いたくなる。


35

鑑賞日 2014/2/6
逝くまでの風筋太き青田かな
武藤鉦二 秋田

 健康的で大地に根ざした人生観が表現されている句であるような気がする。


36

鑑賞日 2014/2/6
啄木鳥や三度三度の飯作り
森 鈴 埼玉

 家庭の事情でこの一年ばかりの間私は一人暮しをしている。当然三度三度の飯作りをしなければならない。糖尿病という持病もあるので、あまり粗雑なメニューも作れないので厄介だ。面倒だと思えば面倒であるが、生活にリズム感を与えてくれるという良い面もある。まあ、啄木鳥さんと同じことをしていると思えば楽しくもなってくる。


37

鑑賞日 2014/2/7
いなびかり男子を軽々背負投げ
諸 寿子 東京

 例えばアベノミクスのことをアホノミクスなどと言って批判している経済学者の浜矩子さんなどが思い浮かんだ。いのちを守る性である女性としての資質を背景として、知性豊かにまた舌鋒鋭く、ふやけてしまった古い頭の男性原理的な経済政策を斬ってゆくやり方はまさに‘いなびかり投げ’とでも言いたくなるような小気味よさがある。


38

鑑賞日 2014/2/7
九月尽ねずみの通る部屋に夫
らふ亜沙弥 
神奈川

 これも一つの良い解決法かもしれない。私の家では猫を飼っているが、それはねずみ対策である。妻がねずみが出るのを嫌がるからである。私はペットを飼うのはあまり好きではない。むしろねずみが出てもいいくらいに思っている。猫を飼うときはそのことで妻と議論になったが、結局常のごとくに、妻の言うとおり猫を飼うことになった。この句においては「じゃあ、俺がねずみの通る部屋で寝ることにするよ」「まあそれならいいわ」という具合に解決したのかもしれない。九月の終りの事である。


39

鑑賞日 2014/2/8
野葡萄や内耳に軍靴のひびきあり
若森京子 兵庫

 森山良子の歌った「さとうきび畑」という歌を思い出した。あの「ざわわ ざわわ ざわわ・・・」という歌である。あの歌の思いを俳句的に縮めるとこの句のようになるのではないかと思った。場面が「さとうきび畑」ではなく「野葡萄のある野」であるが、思いは同じである。戦争は絶対にしてはいけないという思いを新たにした。


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