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金子兜太選海程秀句鑑賞 498号(2013年12月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2013/12/6
鮎食べて碩の小石持ち帰る
麻生圭佑子 愛知

 日常生活(鮎食べて)の中の一つの詩(磧の小石持ち帰る)である。 何故、小石を拾って持ち帰ることが一つの詩を感じさせる行為なのであろうか。何か人間の心の中にある大切なものの印としての小石だというふうに考えられる。一般的に女性は恋人などから宝石を贈られるのが好きなようであるが、あれももしかしたら宝石そのものの金銭的な価値ではなく、何か大切なものの印としての価値なのであろうと思う。だから、金銭的価値で喜んだり喜ばなかったりする女性は詩人の資質が無いのである。


2

鑑賞日 2013/12/7
ギロチンありし国のシャンソン白桃食ぶ
石川まゆみ 広島

 歴史は善い方向へ進んでいるのか、悪い方向に進んでいるのか。三歩進んで二歩下がるというふうだとしても善い方向に進んでいるものだと思いたいものである。特定秘密保護法案が国会を通過した。これは間違いなく二歩下がったものである。近い将来三歩進む日が来ることを願う。そしてその日には心置きなく白桃にかぶりつきたいものである。


3

鑑賞日 2013/12/7
朝顔やわたしの影の波打際
伊藤淳子 東京

 わたし達は常に根源的な質問に立ち返る。「わたしとは何か」あるいは「わたしは誰」。しかし何時も輪郭のはっきりした答えはやって来ない。そこにあるのはわたしの影だ。自然の中のわたしの影だ。わたしというものと世界というものの関係の妙なる曖昧さを丁寧に詩的に書いている句のように思える。わたしの影が世界の波打際に立っている。


4

鑑賞日 2013/12/8
白白と鹿の眼窩に落花かな
内野 修 埼玉

 この一枚の絵、あるいは映像から何を感じるか。それは個々の自然物と自然物(ここでは鹿と落花)の個別性を越えた深深とした交わりである。


5

鑑賞日 2013/12/8
土以上に父は土です梅雨最中
大沢輝一 石川

 都会の人はただ土に憧れているだけ、農民はただ土をいじくっているだけ、というような意味のことを嘗て自然農における賢者である福岡正信氏が言った。憧れているだけでもなく、いじくっているだけでもない土とは何か。それがおそらく「土以上に土」であることだろう。単なる物体でもなく、単なる観念でもない土というものが存在する。その存在を作者は父に感じたのだろう。


6

鑑賞日 2013/12/9
わが影のひと口の水油照り
大高宏充 東京

 油でりの日に含むひと口の水の鮮明な印象。「わが影」というのは実際の自分の影を見ているのかもしれないし、油照りで自分自身も影のようにぼーっとしてしまっている状態なのかもしれない。


7

鑑賞日 2013/12/10
広辞苑の上に兎のぬいぐるみ
岡崎文都 東京

 例えば学生時代や独身時代に使った広辞苑が本棚の上に置かれている。結婚して子どもが出来た今となっては、その広辞苑を開く機会もだんだん少なくなってきた。その広辞苑の上には子どものための兎のぬいぐるみ置かれている。そんな人生の歩みの一場面を想像してみるのである。


8

鑑賞日 2013/12/10
ただ聞いている人といる夕端居
川西志帆 長野

 「ただ聞いている人」というのが、あまり話に乗ってこない無関心な状態なのか、あるいは大いに感心があるが話に口を挟まないで聞いている状態なのか、で句の味が変る。前者の場合は滑稽味のある句となり、後者の場合は安らぎ感のある句となる。どちらの味もいい。


9

鑑賞日 2013/12/11
おしゃべりな熊蝉みたい母卒寿
河原珠美 神奈川

 譬えの面白さ。作者が九十歳という母の元気な長寿を心楽しく思っていることは間違いない。


10

鑑賞日 2013/12/12
西日中書棚の昭和灼けて居る
城至げんご 石川

 過去の思い出の物を眺めたりあるいは過去の物事を懐かしんだりするのは、やはり夕日の中が相応しい。しかしこの句では夕日は夕日でも西日という強い現なる光りを感じさせる言葉であるから、懐かしむというよりはむしろ時の流れを呆気にとられて眺めているという現実感がある。あるいは時の流れを客観的に突き放して眺めている強さがある。「昭和灼けて居る」という言い方も即物的な強さがある。


11

鑑賞日 2013/12/12
仙人掌の花ひと差し指で弾くピアノ
北上正枝 埼玉

 「仙人掌の花」と「ひと差し指で弾くピアノ」が響き合う。控えめで、どちらかといえば内気な人が、時折見せる、キラリとした美しさ、という感じの響きである。


12

鑑賞日 2013/12/13
むしろ玄し蔦のひたすらなる青は
北村美都子 新潟

 玄(くろ)とルビ

 おそらくこの作家を色彩で表わすとすればその基調は青かもしれない。それも緑を帯びた青。そしてこの作家にはひたすらなるものがある。つまりこの作家はひたすらなる青だと形容できるかもしれない。そしてひたすらなる故にこの作家には心情の深さがある。


13

鑑賞日 2013/12/14
遊ぶって蚯蚓のすみか探すこと
河野志保 奈良

 おそらく子供の教育で一番大事はことはのびのびと遊ぶことであろう。熟で算数や英語や習い事をすることは二の次だ。スポーツ教室で水泳やその他を訓練するも二の次だ。遊ぶことが一番大事。遊ぶって何。パソコンゲームをやること?んそれも偶にはいい。本当のことを教えてあげよう。遊ぶって蚯蚓のすみかを探すことさ。


14

鑑賞日 2013/12/14
虫干を飛び越え父の部屋に行く
こしのゆみこ 
東京

 前の河野さんの句もそうであるし、この句もそうであるが、昭和のある意味良き時代に子ども時代を過ごした年代の人の共通の懐かしい思い出であろう。まだまだ人間と自然の交流が日常的に感じられた時代。家族の時代。三丁目の夕日の時代。思い出ぽろぽろの時代。


15

鑑賞日 2013/12/15
蜘蛛の糸忖度なる語すでに死語
小宮豊和 群馬

 忖度(そんたく)とルビ

 辞書によれば忖度は他人の心をおしはかることとある。もし忖度ということが正確になされる世なら、その世は他者に優しい世となるであろうし、忖度ということが自分勝手になされるかあるいは全くなされない世であれば、その世は生きづらい世となるのかもしれない。今の世がまるで蜘蛛の糸に引っ掛かってどうしようもなくこんぐらがっているように見えるのは、この忖度という語がすでに死語となってしまっているからなのかもしれない。


16

鑑賞日 2013/12/16
烏瓜テニス仲間のように躁
小山やす子 徳島

 まあまあ生活にゆとりがあって健康的で明るいという感じがあるテニス仲間。利害関係もない趣味のサークルであるから、秋晴れの日などに集えばみんな子どものようにはしゃいで躁状態になることもある。陽に照らされて明く集う烏瓜のようである。


17

鑑賞日 2013/12/16
狼の残響のごと釣瓶落し
白石司子 愛媛

 ああ過ぎ去ってしまったあの野性の日々。じりじりとギラギラと照りつけるあの夏の日々は既に過去のものになってしまったのか。そう、まるで釣瓶落しのようにあの目眩くエネルギーに満ちた青春の日々は終ってしまったのかもしれない。今はその残響のみが響いている。狼の残響のごと。


18

鑑賞日 2013/12/17
吾死なば無住の庵青くるみ
末岡 睦 北海道

 おそらくこれこそ一賢者的生活者の一感慨に違いない。住むなら庵程度がいい。くるみの木陰の庵ならなおいい。本来われわれの住居は大空を屋根として戴く大地そのものであるからである。肉体も仮の住まい、庵も仮の住まいであるからである。青くるみが清々しい。


19

鑑賞日 2013/12/17
潔く母生きている麦の熟れ
鈴木八駛郎 
北海道

 「麦の熟れ」がいい。日本の麦の自給率は5%くらいだろうか。何もかもが経済的金銭的な価値で計られる現代に於ては麦などを作っても割に合わないのである。しかし割に合うかどうかで生き方を決めていると人間も社会も浮ついたものになってゆく。尊厳も個性も失われて我々は何処に向っているのか分らなくなってしまう。おそらくこの「母」は潔く個性的に尊厳を持って生きているに違いない。


20

鑑賞日 2013/12/19
牛蛙に耳の傾く僧の酒
関田誓炎 埼玉

 まあ俺も一応僧の身である。僧の身であるが、どうにもこの酒というものに眼が無い。酒もそうだし女も金も嫌いな方ではない。ったくお釈迦さまでも気がつくめえが、実際僧なんてものは大したもんじゃねえ。あーあ、牛蛙が鳴いてらあ。実際俺なんざ牛蛙にも劣っているのかもしれねえなあ。なあ牛蛙よ。あーあ、少々酔っぱらってきて呂律が回らなくなってきた。寝なくちゃなんねえぞ。明日もどこそこで法事があるそうだからな。まあ俺自身もよくは分らねえ経の一つでも唱えておきゃいいだけだがな。なあおい牛蛙よ、よく鳴くじゃねえか。おめえの鳴き声は俺の経よりはましかもしれねえぜ。・・・等々管を巻いているこの僧は案外立派な僧だと言えるかもしれない。


21

鑑賞日 2013/12/20
夏の蝶フクシマに空っぽの砂場
芹沢愛子 東京

 本来遊んでいるべき子ども達のいない森閑としたフクシマの砂場。そこに夏の蝶が一つ来ている。あまりに美しい夏の蝶。そして本質の失われてしまった虚の空間。神の化身であるこの夏の蝶は人間が為してしまった業を眺めている。


22

鑑賞日 2013/12/21
水晶体にメス薔薇暗しぼうと紅し
十河宣洋 北海道

 眼球の水晶体にメスを入れる手術をした。薔薇を見れば暗くぼうっと紅いというのである。人体の感覚器官に傷をつけると世界の見え方は少し変ってしまうということ。もし脳そのものが何らかの変化を受けると、おそらく世界はがらりと違った様相を現わすのかもしれない。世界を見たり聞いたり感じたり考えたりしているのは個々人の脳である。ゆえに脳が変れば世界は変る、少なくもその見え方は変る。だから百人いれば百の世界があるということ、少なくも百の世界観があるということである。世界ということと人間の脳の不思議な関係である。


23

鑑賞日 2013/12/21
敗戦忌こめかみ青く太く父
竹田昭江 東京

 ものを食っている父のこめかみが青く太い。戦中戦後を生き抜いてきた人間の有する質。われわれその後の世代の人間には到底適わないある質をこの父の世代の人は有している。彼は黙々とものを食っている。人間は黙々と食い、そして生きてゆけばいいのだ。そう教えられているようだ。


24

鑑賞日 2013/12/22
夏野かな何もしないという理想
田中雅秀 福島

 まさに何もしないというのは理想だ。しかしこれが難しい。何もしないでおこうと頑張ることは逆に頑張ることをしているということになるからである。そもそも何もしないでおこうと意志することが既にしていることであるからである。だから老子は無為の為という矛盾形の言葉を言った。おそらく人間以外の自然界における動植物は何もしていない。動物が餌を漁るのも交尾をするのも、彼等はそれを作為的に為しているわけではなく、何もしない結果から生まれた行動なのである。ああ夏野かな。木々が微風に揺れている。


25

鑑賞日 2013/12/23
生かされて言霊つかむ木下闇
田浪富布 栃木

 実体が先ず有って、それを言葉で表現できた時に認識として確かさを持つ。だから実体と言霊と言葉とは三位一体であるべきものである。最近ではやたらと実体の伴わない言葉が多く発せられることが多い。実体が伴わないけれど或る程度の言霊作用であたかも実体があるように錯覚させられることがある。つまり言霊作用は悪用されうる。アンダーコントロールだとか積極的平和主義だとか・・・ミクス云々というような言葉等々はそれだろう。会話ロボットに「愛してます、愛してます」と言われて一時的には言霊作用で少しそういう気になったとしても結局は実感の伴わない虚しさだけが残る。
 ところで、この句においては先ず実感があり、その曰く言い難いところのものを「生かされて」「言霊」「木下闇」という三つの言葉の組み合わせから生まれる言霊で表現した。


26

鑑賞日 2013/12/23
うつぶせは沼の淋しさ夕薄暑
月野ぽぽな 
アメリカ

 最初読んだ時は美しい叙情だと思った。しかしそれだけではなかった。読み込んでいくうちに何だか胸が締めつけられるような孤独感が立ち上がってきた。人間は「うつぶせは沼の淋しさ」という言葉で表現されるような淋しさに耐えられるものだろうかという疑問が起った。「夕薄暑」さえもこの切なさを強めてくる効果があることに気付いた。


27

鑑賞日 2013/12/24
空蝉や節電のような蓄電のような
董 振華 中国

 この宇宙を電気的なエネルギーの体系的な一つの全体だとすれば、あらゆる物質はその中の一つの電気的振動に過ぎないのかもしれない。空蝉。蝉の抜け殻。もしそうだとしたら、君はその電気的エネルギーを節約している存在のようにもみえるし、じっとエネルギーを蓄える期間をすごしているようにもみえる。


28

鑑賞日 2013/12/24
ナガサキよ首なき像を噛む蜻蛉
中村 晋 福島

 作者は福島の人である。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマという事象は何だか得体の知れない首の無い像のようなものが引き起した事象なのかもしれない。われわれがそれに噛みつこうとしても、それは何処吹く風とばかりに立っている。何故ならそもそもそれには噛まれる首そのものが無いのだから。この「首なき像」の象徴性は高い。そしてその無気味さ。そしてこれはまた人間の内に潜む悪魔的なるものの象徴なのでもあろう。
 もしかしたら長崎には実際に被曝したそのような像があって、それからの発想なのかもしれない。


29

鑑賞日 2013/12/25
老人は姿勢を正す冷房車
中村孝史 宮城

 肉体的な意味でもあろうし、また心理的なものであるかもしれない。私などもそうであるが、老人にとってはあまり冷房がきついと膝が痛くなったり腹が痛くなったりして却ってリラックスできない。またある年代以上の人にとっては、こんなに電気を使ってギンギンと冷房しているということがあまりに贅沢のように思えてどこか余所行きの気分になる。


30

鑑賞日 2013/12/25
鬼蜘蛛をやんわりと踏む廊下かな
仁田脇一石 宮崎

 オニグモは大型の造網性のクモである。体長は雌で30mm、雄でも20mmに達する、とWikipediaにある。
 偶然に鬼蜘蛛を踏んづけてしまったのか、あるいは気付いていながら態と踏んづけたのか考えている。偶然ならば「ぐしゃと」であると思うし、蜘蛛を踏んづけるのは気持ちの良くないものであるから態とということも考えにくい。だから「やんわりと」踏んづけたというのは、足を踏み下ろした瞬間に何かを踏んづけたと気付いて力を抑制したということではないだろうか。人生という廊下を歩く時にも、鬼蜘蛛を踏んづけてしまったと思ったら、その瞬間、やんわりと力を抑制するのがいいのかもしれない。


31

鑑賞日 2013/12/26
鞴の音のように夏過ぐ老いなるや
藤野 武 東京

 鞴の喘ぐような音、その音のように夏が過ぎてゆく。今までは気の流れエネルギーの強弱など意識しなかったが、今はその喘ぎの音が聞こえるようだ。これは老いだろうか。これが老いというものだろうか。そしてやがてこの気の流れが止まってしまう死というものが訪れるのだろうか。老いとは何だろうか。死とは何だろうか。私という形に凝縮された気がエネルギーがだんだんと衰えやがて消滅してしまうのが老いや死というものなのだろうか。そもそも私とは何なのだろうか。私は何。


32

鑑賞日 2013/12/26
震災忌わたしは捨て石にもなれず
本田ひとみ 埼玉

 海程で知る限りでは、作者は震災以降、福島から埼玉へ住所が変っている。おそらく避難をなされたのだろう。その作者が、ああ自分は捨て石にもなれなかった、と言うのは実感がこもる言葉である。そしてこれは日本人の持つ両面性の美しい方の性質が表れた言葉であると思う。震災時の日本人のとった誇り高く思い遣りのある行動は外国でも称賛の的になったそうであるが、この句は日本人のそういう部分に由来するものであろう。一方で官僚の一部やオンリー金志向の財界人や権力志向の政治家達に代表される醜い部分の日本というものもあるが、そういう部分の人達には、この句を骨の髄から味わってみろと言ってやりたいものである。無駄か。


33

鑑賞日 2013/12/27
鯖ひらく晩年の未知ひらくごと
前田典子 三重

 晩年の未知を開くという態度あるいは思想はとても素敵なことではないか。何しろ人生最大の未知あるいはメステリーは死であるから、確実に死に近づいてゆく晩年は人生において最もスリリングな時期である筈であるとも言える。「鯖ひらく」を譬えとして使ったのは俳諧的な味がある。


34

鑑賞日 2013/12/27
晩夏つまり赤胴色の祖父がいた
三浦二三子 愛知

 晩夏という言葉の中に深く分け入ってゆくと、そこに赤胴色の祖父がいた。晩夏はつまり赤胴色の祖父である。「には」というような言葉ではなく、「つまり」という言葉がアニミズム的な面白さの由縁である。「晩夏は赤胴色のおじいちゃんだ」というような台詞ならアメリカンネイティブが発してもおかしくないし、現代人にとっては新鮮な思想であると同時に価値のある思想である。


35

鑑賞日 2013/12/28
朝粥のさざなみに草笛の灯し
森央ミモザ 長野

 私なぞはいつもがっついてものを食う方だから、粥にさざなみを感じるようなことはあまり無いのであるが、そういうふうに感じるのはどういう場合なのかを考えてみた。日常生活に忙しい時ではなくて、ゆったりとした時間の中で、ふうふうと熱い粥を吹きながら食べるような時ではないか。例えば入院中で病院食を食べる時などはどうだろう。日常から切り離されたある意味ゆったりと落ち着いた時間である。もっとも病院食で熱いものは出ないかもしれないからどうかなとも思うが、とにかく食べるものをじっくりと落ち着いて黙想的に見ながら食べているような時間を感じる。そんな時にふと草笛の音が聞こえてきた、あるいは草笛の音の記憶が想いだされてきたというのではないか。この草笛の音は作者の記憶の中の何か明るく懐かしい場面を見せてくれる灯しのような働きをしたのではなかろうか。


36

鑑賞日 2013/12/28
船上のごとき夏野に傾ぎけり
守谷茂泰 東京

 「カラマーゾフの兄弟」の中でイワンがアリョーシャに「大審問官」の詩を語る章がある。その章の中で分れて歩いてゆくイワンを見ながら、アリョーシャにはイワンが妙に傾いで見える、という場面がある。あれ程理知的で盤石に見えた論者イワンの存在自体が大地のような存在のアリョーシャの前では傾いで見える、というようなことをドストエフスキーは言いたかったのではないか。この句を読んで、そんなふうにあの場面が思えてきた。


37

鑑賞日 2013/12/29
雲の峰鞍なき白馬曳き入れよ
柚木紀子 長野

 作者は長野の人だから白馬というのは白馬岳だという見方も出来るし、そうではなくて白い馬の形をした雲だという見方も出来るし、そうでもなくて実際の白馬だという見方も出来るだろう。いずれにしろ雄大な自然景が見えてくる。


38

鑑賞日 2013/12/29
今朝の秋雲ひとつなく乳房あり
佳 夕能 富山

 人間の可笑しみの味というか、洒落た四コマ漫画を見たときの味わいというか、この落し方は何か人間の本性に触れるような洒脱さがある。


39

鑑賞日 2013/12/30
ふくしまや虹を観念的に画く
若森京子 兵庫

 「虹を観念的に画く」というのはまさに原子力発電の発想そのものではないか。すべてが絵に描いた虹のようなものであろう。安全でクリーンで安い。これらは全て絵空事であったことが露呈してしまった。観念で描いた虹は現実の虹ではなかった。人間は作り上げた観念にしがみつきたがる傾向があるが、それが観念であるに過ぎないと解った時には、さっさとその観念を捨てるべきだと思う。安倍首相がアンダーコントロールなどという発言をしたり、原発輸出などということを考えるのは、彼はまだ観念を脱していないからだろうか。現実が見えないからだろうか。観念的なアベちゃん。


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