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金子兜太選海程秀句鑑賞 497号(2013年11月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2013/11/4 | |
昼寝覚め目鼻確かむ被曝圏
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有村王志 大分
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恐ろしい図だ。こういう恐ろしい図が描けるというのは、逆にいえば、作者がいのちというものを愛おしく思っているからに違いない。 |
鑑賞日 2013/11/4 | |
日向灘七月心底明るい刹那だな
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石田順久 神奈川
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日向灘(ひゅうが)とルビ ああ愛しい。ああもったいない。ああこの刹那。ああ七月の日向灘は心底明るい。 |
鑑賞日 2013/11/5 | |
人をさす無垢のその眼よ夏あざみ
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石山一子 埼玉
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時折自然は人間を刺す。刺すくらいならまだいいが、時には襲いかかってくることもある。この不条理を受け入れられるかどうかは、哲学的あるいは宗教的な大問題でもある。しかしおそらく自然の側は常に子どものように無垢であるに違いない。難しいが、このことを常に確認しておくことは大切なことであろうと思う。そんなことを考える切掛けにこの句はしてくれた。また次のような句も連想した。 少年来る無心に十分に刺すために 阿部完市 |
鑑賞日 2013/11/6 | |
雲の峰たれにもひとつうしろ山
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江 津 神奈川
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「雲の峰」がすなわち「うしろ山」の態を表わしているとみたい。意識されているかされていないかに関わらず、誰にでもあるこのうしろ山はあたかも雲の峰のようにもくもくと増大して止まぬエネルギーを持っている。そのエネルギーがその人の背後でその人を突き動かしている。 |
鑑賞日 2013/11/6 | |
蕗や自我くたくたに煮て おやすみ
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榎本祐子 兵庫
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蕗も自我もあまり煮詰めすぎると美味くない。どうにも食えない代物になってしまう。その状態になってしまったのを取り戻そうとしてあたふたと手を加えてもどうにもならない、却って事態はますます手が付けられなくなる。そこでストップして「おやすみ」をしたほうがいいのだ。「おやすみ」の前で一字分開けたのが、このストップ感が出て実にいい |
鑑賞日 2013/11/7 | |
紅白饅頭でもなくあらゆる朧かな
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大谷 清 山梨
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世の中のことは二元的には割り切れない。ましてや、例えば善と悪と分けて、その善の側に自分が立っているなどとはとても言えない。われわれは存在という朧の中に放りだされた無知で無力で小さな者である。 |
鑑賞日 2013/11/7 | |
果樹園は梅雨の電球より静か
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大野泰司 愛媛
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面白い譬えだなあと思う。こういう譬えがどこから生まれるのか聞いてみたい気がする。内容としてはかなり老熟した果樹園であるという印象がある。若い溌剌とした果樹園ではなく、慌てず騒がずじっくりとその養分を蓄えていく果樹園といったところだろうか。 |
鑑賞日 2013/11/8 | |
鳥だった肉片を焼く川開き
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奥山和子 三重
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「鳥だった肉片」という言い方が面白い。というよりドキっとさせられるものがある。スーパーなどで鳥肉や豚肉や牛肉が「鳥だった肉片」「豚だった肉片」「牛だった肉片」という名で売られていたとしたらどうだろう。「豚だった肉片を三百グラム下さい」だとか「今日は神戸で育った牛だった肉片でおいしいすき焼きを作りましょう」という言い方をしたらどうだろう。われわれの意識も相当変るだろう。食の本質を感じる方に変るだろう。われわれはそもそも野性であるということを思い出す方向に変るだろう。この句、野性の匂いがする。 |
鑑賞日 2013/11/8 | |
桑の実よ友は法華寺みちを曲った
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加納百合子 奈良
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私達は解決のつかない生を解決のつかないそのままに生きている。この世とは何か、あの世とは何か。世俗とは何か、本当のこととは何か。 法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。元は真言律宗に属したが、平成11年(1999年)に同宗を離脱し、光明宗と称する。(Wikipedia) |
鑑賞日 2013/11/9 | |
身体ははるかなる闇舞う蛍
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柄沢あいこ
神奈川 |
おそらく作者は蛍が舞う闇との一体性を感じている。このはるかなる闇の中で私という個人はどこに行ったのか。今まで身体として意識してきた私という個別姓はこの大きな闇のどこにもない。ただただ闇が広がり、そして蛍を見ているという意識だけが残っている。 |
鑑賞日 2013/11/9 | |
竹夫人がんじがらめになっており
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川西志帆 長野
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いかにも情が深いこの作者らしい句で、微笑ましい。籠枕の別名である竹夫人という言葉の妙味を引きだしている。 |
鑑賞日 2013/11/10 | |
夏茱萸やあひづちのごと掌のくぼみ
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木下ようこ
神奈川 |
人体は自然に属するだろうか、あるいは人間に属するだろうか。おそらくその両方に属している。いやむしろ仲介役であるといった方がいいかもしれない。人体は自然の恵みに対して素直に感応する。何故なら人体は自然にも属するからである。人間はこの自然と人体の感応を邪魔しない方がいい。自然と人体のこの微妙な関わり合いを、ただ眺めているのがいいのだろう。 |
鑑賞日 2013/11/10 | |
箱庭に人の気配を作りけり
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こしのゆみこ
東京 |
箱庭療法というものがあるらしい。限定された枠の中に自由にものを配置することによっての自己表現、あるいは個性の発現によるセラピーである。これはどこか俳句と似ていないだろうか。俳句療法という言葉があってもいいくらいであろう。もしかしたら句会というものは、言葉による仲間療法の一形式ということなのかもしれない。ところでこの作者は「豆の木」という小さな俳句グループを主催しておられるが、そのことは箱庭に人の気配を作るということと、作者の個性として通底しているものがあるような気がする。 |
鑑賞日 2013/11/11 | |
味噌蔵にまろびし母の朧かな
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児玉悦子 神奈川
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かつては日本人の代表的な食べ物であった味噌。日本の土から生まれた大豆や米から作られた味噌。その味噌を醸成する為の味噌蔵。この味噌蔵もまた日本の木と土から出来ていた。今ではどうだろう。大豆は殆どが輸入品であり、このままでは米もまた大方輸入になってしまう可能性もある。木もまた輸入材が多く、逆に日本の森林は荒れているという。多くの食品がそうであるように、味噌もまた工場で大量生産され多くの化学的食品添加物にまみれて流通しているのではないだろうか。多くのファーストフードが氾濫する中で、そもそも味噌はあまり食べられない時代になってゆくのかもしれない。プラスティックな時代、ロボットの時代、人間はだんだん土から離れてゆく。 |
鑑賞日 2013/11/11 | |
胸中の湖に空蝉吹かれきて
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小長井和子
神奈川 |
人間が抱える普遍的な主題を、小さな詩的物語を提示して客観的に表現している。実に上手い。 |
鑑賞日 2013/11/12 | |
コワレモノ注意蛍ガ生マレマス
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小西瞬夏 岡山
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いのちというものが蔑ろにされる傾向がある現代に対する、ブラックユーモアのような警鐘である。 |
鑑賞日 2013/11/12 | |
罪や功や花活けし辺に入院
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小林一枝 東京
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人間はそもそも性悪なのか性善なのかという生きてゆく態度を決定するような大きな問題から、今食事をした方がいいかもう少し後にした方がいいかという些細なことまで、私達は常に二元対立の中で生きている。ところで作者は「これは罪なのだろうか、あるいは功なだろうか」という問い掛けをしているが、これはいかにも仏教的であると思った。西洋的なマインドの人なら「これは罰なのだろうか、それとも恵みなのだろうか」と問うかもしれないからである。 |
鑑賞日 2013/11/13 | |
田蛙やまもちゃんあっちゃん出て来いよ
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小林まさる 群馬
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しんちゃん、でんちゃん、のぶちゃん、ぼうぼう、とくちゃん、ゆうちゃん・・・これは私が子どもの頃に遊んでいた近所の子ども達の名前である。よく遊んだ。遊びたくなると、その子の家の前で「でんちゃんはー」「とくちゃんはー」というふうに叫ぶ。こういうふうに仲間を集めて、めんこやベーゴマや陣取りやエビガニ釣りやその他ありとあらゆることをして遊んだ。女の子が入ればゴム跳びやまり突きやおはじきや竹なんごをした記憶もある。エビガニ釣りといえば、よく蛙の皮を剥いで餌にした記憶もある。実は私も群馬県生まれの群馬県育ちであるから、作者と同じような遊びをした可能性が大いにある。 実は後で気がついた。この作者の最近の句に 小堀葵氏逝く というのがあるから、この句友達に呼びかけているのだと分った。 |
鑑賞日 2013/11/13 | |
雑巾のように母在り夜の鶴
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佐藤鎮人 岩手
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何歳くらいの母上であろうか。既に容色はなく、長い人生を働きに働いてきて、使い込まれた雑巾のようになっている。しかし作者のその母に気品と気高さを感じている。おそらく人間が尊厳を持って年老いてゆくというのは、こういうことだ。 |
鑑賞日 2013/11/14 | |
月に霜きれいな蹠のような
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猿渡道子 群馬
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蹠(あしうら)とルビ どんなに物理学や天文学が進んでも、人間が認識できる宇宙は全体のほんの一パーセントにもならないのではないかと思う。神話的に言えば、われわれは神の蹠しか見えていないに違いない。 |
鑑賞日 2013/11/14 | |
長崎
人として棒立ちの汗爆心地 |
篠田悦子 埼玉
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人としての感受性が薄れてゆく時代である。格差がますます広がり、好戦論がまかり通り、人の命など何のそのと原発政策が押し進められている時代、われわれはもう一度この句に表明されている人としての感受性を取り戻さねばなるまい。 |
鑑賞日 2013/11/15 | |
老いてこそ命かがやく西瓜に刃
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末岡 睦 北海道
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西瓜に刃を入れる時のわくわく感だろう。こういう実感を持つ人は案外多いのかもしれない。つまり一般的にいえば、会社や子育てから解放され、これから自由に好きなことをやれるというわくわく感を味わう人である。 |
鑑賞日 2013/11/15 | |
入り来ては蛇おとなしき座禅堂
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竪阿彌放心 秋田
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この作者はその名前からして座禅を習慣的になさる僧のような人なのであろうか。自らが座禅堂で座禅をしている。そこにスーッと蛇が入ってくる。その蛇もまた瞑想的な時空に共にあり静かであるというのである。自己と周りの世界が一体になるという真に瞑想的な時間である。また蛇というのは人間の生来持つ性的エネルギーの象徴であるから、蛇がおとなしいというのはそれなりの重層的な意味があるだろう。 |
鑑賞日 2013/11/16 | |
無口なるわれの特技は茄子の馬
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舘岡誠二 秋田
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自分を低くして戯ける。これは案外成熟した大人の味であり、人生経験豊かな人のしたたかさの味である。 |
鑑賞日 2013/11/16 | |
悼・村上護さん
白桃を剥きて無頼派うつくしく |
田中亜美 神奈川
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村上 護(むらかみ まもる、1941年11月28日 - 2013年6月29日)は、日本の文芸評論家、俳人。愛媛県大洲市生まれ。愛媛大学卒。1972年、初の著書『放浪の俳人 山頭火』がベストセラーになり、以後文学者伝記、また種田山頭火、尾崎放哉といった放浪の俳人の伝、俳句に関する著作が多い。2013年6月29日、膵臓がんのため死去[1]。71歳没。(Wikipediaより) 村上護氏の俳句をネットで少し拾ってみた。 初旅やいのちの峠越えて海 |
鑑賞日 2013/11/17 | |
ホタルブクロ生まれる前に聴いた声
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月野ぽぽな
アメリカ |
可愛らしい小さなホタルブクロ。・・ホ・タ・ル・ブ・ク・ロ・・懐かしく抱かれるような響きだ。私が生まれる前に囁かれた声のような響き。・・あ・な・た・は・ま・も・ら・れ・て・い・る・の・よ・・・そうだ、もしかしたら、今もずっと、私はこの声に守られている。 |
鑑賞日 2013/11/17 | |
悪あがきみたいな寝相熱帯夜
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峠谷清弘 東京
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この作者の真骨頂のような句だ。人間の可笑しさ、足掻き、哀しさ、それらを観察する手腕。 |
鑑賞日 2013/11/18 | |
被曝の戸も住み替る代ぞ青大将
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中村 晋 福島
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被曝した家の住人が居なくなるというのは分るが、その家に新たに人が引っ越してきて住むというようなことがあるだろうか。作者は福島の人だから、そういう事例を見ているのかもしれない。あるいは、住む人が居なくなったので、これ幸いと青大将が住んだということかもしれない。いずれにしろ「草の戸も住替る代ぞひなの家」という芭蕉の奥の細道にある句を皮肉混じりにもじった文明批評の句であろう。 |
鑑賞日 2013/11/18 | |
滅相な少女のあくび梅雨上る
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中村孝史 宮城
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この場合の「滅相」は、あるはずのないこと、とんでもないさま、というような意味であろう。そんなあくびを少女がしたので、呆気にとられて見ていたら、梅雨が上ったというのである。このギャグのような唐突感が楽しい。 |
鑑賞日 2013/11/19 | |
蘭奢待なる酒酌みて月を消す
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並木邑人 千葉
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蘭奢待(らんじゃたい)とルビ 蘭奢待 奈良時代に中国から渡来し、正倉院御物として伝わった名香木。長さ約1.5メートル、重さ11.6キロの極上の伽羅(きゃら)の朽ち木で、心部は空洞。「蘭奢待」の3字の中に「東大寺」の3字を含むので東大寺ともいう。黄熟香(おうじゅくこう)。(goo辞書) もし私が酒を嗜む人であったら、おそらくこの酒を飲みたくなる。そして月を消す程に酔うてみたいと思う。もし私が玉泉堂酒造の宣伝部の責任者だったら、この句を宣伝文句として採用したかもしれない。出荷している酒屋にこの句を貼り出しておいてもらえば、ぐっと売り上げが伸びるに違いない。 |
鑑賞日 2013/11/19 | |
ファスナーに男手を借るパリー祭
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新田幸子 滋賀
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パリ祭と云えばシャンソン。数少ない知っているシャンソン歌手の中で、好きな歌手と云えばジュリエット・グレコかもしれない。自由や平等に目覚めた芯の強い女性という感じを受ける。彼女なら言うかもしれない。「ねえ君、ちょっとこのファスナーを上げてくれない」 |
鑑賞日 2013/11/20 | |
夏の朝のんのん喋ってから坐禅
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丹生千賀 秋田
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坐禅というとしかつめらしくやるもののような雰囲気があるが、案外このように気楽に行われるべきものなのかもしれない。瞑想行の四段階として、ダーラナー・ドゥヤーナ・サビカルバサマーディー・ニルビカルパサマーディーというステップがある。ダーラナーというのは心の中にある雑念を全て吐きだすこと。ドゥヤーナというのは対象物に向って心が集中してゆくこと。サビカルバサマーディーというのはその対象物と心が一体化すること。ニルビカルパサマーディーとはその対象物の痕跡さえも無くなることである。この句における「のんのん喋る」というのは瞑想の導入部のダーラナーに当るかもしれない。ところで「のんのん喋る」というのは擬態語としておもしろい。女性雑誌に「のんのん」というのがあるらしいが、それからの発想だろうか。 |
鑑賞日 2013/11/20 | |
螢とぶ北斗七星のあたり
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野崎憲子 香川
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この作者のある一面がよく出ている句だと思える。北極星の目印としての北斗七星。そのあたりに螢がとんでいるというのである。私はこの作者に、北極星を目指しているような資質があるのを感じるのである。言ってみれば、魂の航海者のような資質である。 |
鑑賞日 2013/11/21 | |
耳鳴り否夏コオロギの爆心地
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野田信章 熊本
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現実と非現実ということ。耳鳴りも夏コオロギの声も原爆を落されたという重たい事実の歴史も、すべて非現実のようでもあるし、しかし現実でもある。われわれは虚実皮膜の間に住んでいる。 |
鑑賞日 2013/11/21 | |
流木を束ねたよう爆心地に旅人
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室田洋子 群馬
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無機的なあるいは虚無的な映像が浮かぶ。全ての有機性や生命性を奪ってしまう原爆の残像のようでさえある。 |
鑑賞日 2013/11/22 | |
水中花水の意のままなるがよし
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森内定子 福井
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あるがままあるいはなるがまま、レット・イット・ビーあるいはレット・ゴーということ。手放し状態、あるいは自然の流れに身を委ねるということ。そういう一つの悟りの認識を水中花に託して書いた。 |
鑑賞日 2013/11/22 | |
言霊という地響きや書を曝す
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山本光胤 大阪
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書物を広げて虫干しをしているときに、目に入ってくる言葉の数々が言霊となって地響きのように響いてくるように感じられるというのである。人間とは言葉を操り、また言葉によって操られるものである。言葉によって戦争さえも起される。今年もまた流行語大賞のシーズンがやってきた。私的な感想を言えば、今年のワーストワンはアベノミクスだと思う。この言葉によって人々は操られ、そして戦争という事態にまで至ってしまう状況が作られている。どうせ言葉に操られるのなら、重厚な古典の中の地響きを発するような言霊に耳を傾けたいものである。 |
鑑賞日 2013/11/23 | |
一夫一妻脱ぎにくそうな蛇の衣
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らふ亜沙弥
神奈川 |
陰陽のバランスから考えて、一夫一妻というのはエネルギーの在り方としては最も完成された姿のように思える。完成形であるということがある程度理解されているから、一夫一妻ということが法制化されていることが多いのだろう。しかし本質的な意味で一夫一妻という陰陽バランスが成就されるのはなかなか難しい。現代における未婚率の増加はその難しさを示しているのかもしれないし、あるいは現代は何かエネルギーバランスが大きく崩れた社会になって来ていると言えるのかもしれない。まさに蛇がその衣を脱ぎにくい社会なのであろう。 |
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