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金子兜太選海程秀句鑑賞 496号(2013年10月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2013/10/7
ナイターや笑窪の投手クローズアップ
五十嵐好子 東京

 妻と一緒に野球中継を見ていると面白い。野球の試合そのものではなく、人物評をやったり、何だかんだ細かいところに気がついて、それを楽しむ。こちらは試合そのものがどうなるか手に汗を握って見ているのに、彼女は試合の経過などはどうでもいいようである。そのギャップが面白いのである。この句の作者も女性であるが、まさにそんな感じなのかもしれない。


2

鑑賞日 2013/10/7
仰臥せし子規の宙あり蝶生るる
石川青狼 北海道

 宙(そら)とルビ

 旅に住み、そして俳聖とまで呼ばれるようになった芭蕉。健康でとても長生きして、尚現在も魅力的な句を作り続けている兜太。そして病を背負い早死にしながらも膨大な量の俳句や短歌を作った子規。それぞれがそれぞれの境遇をしっかりと生きてきた。この句は、病床における子規の場合を取り上げ、人間の可能性が物理的空間に関係なく広大なものだということを言っている。


3

鑑賞日 2013/10/8
ポッペン吹くよ国民学校同窓会
石田順久 神奈川

 ポッペンという玩具を知らないのでWikipediaで調べた。次のようにある。
 ぽぴんは、近世のガラス製玩具。ぽっぺん、ぽんぴん、ぽっぴんともいい、ガラス製なのでビードロともいう。首の細いフラスコのような形をしていて、底が薄くなっており、長い管状の首の部分を口にくわえて息を出し入れすると気圧差とガラスの弾力によって底がへこんだり出っ張ったりして音を発する。(Wikipedia)

ポッペン
ポッピンを吹く女

喜多川歌麿

 また、国民学校とは
 昭和16年(1941)公布の国民学校令により従来の小学校を改めて成立した、皇国民の基礎的練成を目的とする初等教育機関。昭和22年(1947)まで存続。
 とgoo辞書にある。
 句はどこか昔懐かしい昭和の雰囲気がある。


4

鑑賞日 2013/10/8
青葉照りてふ鏡の奥にわれ住まう
伊藤 和 東京

 考えてみれば、われわれ人間は生の自然の中ではなく心という鏡に映った自然の中に住んでいるのかもしれない。だから、人それぞれの自然観は大きく違う。この作者はこの句においてどこか典雅な趣の鏡の中に住んでいる感じである。


5

鑑賞日 2013/10/9
枇杷の実や六十路は唾を飛ばすなり
稲葉千尋 三重

 六十路といえば壮年と老年の間くらいだろうか。まだ枯れた感じはしないがいろいろなところにガタがきはじめている。もしかしたら、歯もかなり抜けているかもしれない。本人はまだまだ元気だと思って論戦などもする。ふと歯の隙間から唾を飛ばしている自分に気付いて、自分は六十路だということを自覚して少々気落ちしたりするが、まあまあこれもいいじゃないかと開き直って面白がる。俳句の一つもひねりたくなるというわけである。ちなみに私も六十路ではある。


6

鑑賞日 2013/10/9
油虫撃ちてし止まむ四つん這い
内田利之 兵庫

 まあまあそれなりに平和な時代の市井の民の滑稽詩の味がある。いつまでもこの「撃ちてし止まむ」の相手がゴキブリくらいのものである時代が続いてほしいものである。


7

鑑賞日 2013/10/10
猫黒し虞美人草を折り曲げて
内野 修 埼玉

 色彩鮮明でほのかな色香が漂うような一枚の日本画を見ているようだ。画題と伎倆の類い稀れなる遭遇とでもいえようか。拍手。


8

鑑賞日 2013/10/10
くちなわの寝息きこえる博多帯
大野美代子 愛媛

 博多帯をしてくちなわの寝息を聞いているのだろうか。あるいは帯は解かれて置いてあるのだろうか。どこかしら濡れ場のような雰囲気もある。情事の後のような感じもあるし、情事への期待という感じもある。このような連想は、くちなわが男性の性的象徴であるゆえに起るのだろうか。


9

鑑賞日 2013/10/11
思いったけ老鴬のソロ我一人
岡崎万寿 東京

 「思いったけ」というくだけた言い方が、いかにも庶民のものである俳句らしい。また「ソロ」という片仮名言葉も時代に相応しいものを探るという俳句の特徴の一つかもしれない。流行歌などもくだけた言葉や片仮名や英語混じりになってきている。追いついていけないものや素通りしてしまうものが殆どであるが、中には宇田多ヒカルのようななかなかパンチのある心に響く歌もある。そういうものには何か普遍的な内容があるのであろう。この句も然りである。


10

鑑賞日 2013/10/11
現実の蟻の二割のサボタージュ
奥野ちあき 
北海道

 心楽しい句である。実際生物学的にもそのようなことがあるらしい。そして案外そのサボタージュしている奴らが重要な役割を果しているらしい。蟻とキリギリスの話のように、蟻といえば勤勉でありそして、勤勉さだけが肯定されるような風潮が殊に日本にはあるようだが、キリギリスが、そしてまたサボタージュしている蟻が全体のバランスにとって大きな役割を果たしているのかもしれない。「現実」という言葉が、私には快く響く。

確か先月号にも同じような楽しい句があった。

ミツバチの中にもニートいるらしい    中村真知子


11

鑑賞日 2013/10/12
我が影の芯の部分へあめんぼう
門屋和子 愛媛

 具体的には、水面に映っている自分の影の中心の部分にあめんぼうがすーいとやってきた、というようなことである。そもそも水面に映る自分の影を見つめているこの作者は思索的な人に違いないと想像する。自分とは何か、自己とはそもそも何か、存在とは何か。そこへあめんぼうがすーいすーいと軽やかに滑ってくる。とても禅的な遭遇の場面ではないか。


12

鑑賞日 2013/10/12
梅雨多彩老衰という単純さ
狩野康子 宮城

 実にそうだなあと首肯かされる。「人間は食って糞して寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ」という一休の歌があったが、人間の一生は単純なことであり、何も難しく複雑に考えてあれこれ悩むことはないのである。多彩な自然環境の日本でこのような単純明解な悟りに至るというのも、これは自然のバランス感覚というものだろうか。


13

鑑賞日 2013/10/14
人声に興味津々青葉木菟
北村美都子 新潟

 飼われている青葉木菟であるような気もする。・・何でこの生き物は俺を捕まえてこんなところに閉じ込めておくのだろう。何か面白いことでもあるのか。それにこの生き物はどうにも複雑な声を発する動物だ。俺達の声はホーホー、ホーホーと単純で美しかった。それにこの生き物は俺に食べ物をくれたりしてべつに害を加える気もないらしい。不思議な奴等だ。そして俺に興味があるらしく、やけに見つめてくる。ほら今もあんなふうに俺を見ながら話している。・・彼は首を傾げつづけるのであった。


14

鑑賞日 2013/10/14
還暦の含羞あしなが蜂水に
木下ようこ 
神奈川

 還暦とは干支が一順して生まれた時の干支に戻ることである。つまり還暦ともなれば、人生のあらゆる場面に遭遇し酸いも甘いもかみ分けた人格という成熟したイメージがある。ところが現実の私はとてもとてもそんなふうではない。ああ私の人生は何だったのだろう。私は何なのだろう。恥ずかしい限りだ。そんな思いを抱きながら足長蜂が水にその長い足をつけているのを眺めている。


15

鑑賞日 2013/10/15
暗がりの牛なる私春の雷
木村清子 埼玉

 「暗がりの牛なる私」でどのような自分の状況を表現しているのだろうか。おとなしくて、気弱で、すばしこくない自分、そんな自分の周りには光があまり当らなくて薄暗い、というようなことだろうか。光の当る広い場所に跳びだして思いっきりその光を浴びてみたいのだが、自分の重さが邪魔をしてなかなかできない、というようなことだろうか。そんな状況にある自分に春の雷が鳴ったというのだろうか。


16

鑑賞日 2013/10/15
人焼くけむり春は駄菓子の七色に
小池弘子 富山

 楽しい風景である。小気味よく綺麗な風景である。と思って眺めているうちに何だか心の奥底から泣きたくなるような気持ちになる。しかし泣けないような妙な気持ち。何と表現したらいいだろう。天使にからかわれているような気持ちとでも言ったらいいだろうか。


17

鑑賞日 2013/10/16
不安とは とはとは綿毛とんでいる
小林寿美子 滋賀

 抱えている不安というものの実体を言葉で言い当てて、覚悟を持って真向うことが出来れば、おそらく不安というものは解消してゆくに違いない。ところが、不安というものはその実体を掴んだと思っても、すぐに手をすり抜けてふわふわとその辺りを漂う。まことに空中をとんでいる綿毛を掴むようなもどかしさがある。「不安とは」と問うその「とは」そのものが「とはとは」と空中を漂う趣がある。


18

鑑賞日 2013/10/16
暗闇へ山盛りにするさくらんぼ
佐藤二千六 秋田

 何かの儀式のような雰囲気。このさくらんぼは暗闇の大王への捧げ物であるというような雰囲気。もしかしたら作者はさくらんぼ農家なのかもしれないという推測。一般的にわれわれは日々のわれわれの働きの果実を神に捧げているというのが宗教的に一つの高度な意識であるが、その捧げる相手が暗闇の大王であっても変ではない。何故なら、神は暗闇の大王すなわち死を司るものでもあるからである。


19

鑑賞日 2013/10/17
被曝とう荒寥に在る新樹光
篠田悦子 埼玉

 あの原発事故以来、私達の意識は二つに引き裂かれたようにさえ思える。この美しい自然。何の屈託もなくそれを眺めていられた頃が懐かしい。今では、この自然を愛でる意識の背後に突き刺さるように存在する、この自然の秩序を内側から破壊してゆく放射能というものの存在を考えざるをえなくなってしまった。ああ新樹光よ。汝は何故今でもそんなに美しいのだ。私の思い違いか、汝は涙を湛えているようにさえ見えるのだ。


20

鑑賞日 2013/10/17
花筏とうに還暦曲りきる
下山田禮子 埼玉

 われわれは人生という川を渡る花筏のようなものなのかもしれない。否応なく花筏はその流れに添うように流れて行かざるをえない。そして還暦というカーブも曲らざるをえない。そしてそしてやがてはその要素である花びらも散り散りになり実体が無くなる。それにしてもやはり人生を花筏に譬えるというのはいかにも女性らしい。深い水の碧に花びらたちが美しく映える。


21

鑑賞日 2013/10/18
木の上が天と地の間青蛙
須藤火珠男 栃木

 今の子どもはどうか知らないが、私の子どもの頃はよく木登りをした。そして何だか気分が良かった。地上を見下ろしている気分であったし、またはるか遠くもよく見えるような気がしたし、空も近くなった心持ちがしたものである。作者は木に今木に上っているのだろうか。そこの枝には青蛙がいたのだろうか。


22

鑑賞日 2013/10/18
爆心柱きみ渾身の新樹なり
高木一惠 千葉

 新樹にみなぎるエネルギーを作者は感じている。だから「渾身の」という言葉で表現できた。さらに足りないで「爆心柱」という言葉まで持ってきた。あるいは、この「きみ」というのはある人物のことかもしれない。そしてこの「きみ」は爆心に居るような過酷な状況で闘っている人物なのかもしれない。しかし「きみ」には渾身の新樹のごとき若々しいエネルギーがある。


23

鑑賞日 2013/10/19
冠着は無人駅赤松の夏
田中昌子 京都

 冠着(かむりき)とルビ

 冠着駅(かむりきえき)は、長野県東筑摩郡筑北村坂井にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)篠ノ井線の駅。(Wikipedia)

 重厚な旅情とでも言ったらいいだろうか。真夏のある瞬間に感じるあの重厚な存在感。しかし自分は旅人であるという移り行く者としての思いが心の何処かに潜む。

 ちなみに冠着駅は冠着山(姥捨山)から来た言葉であると推測する。


24

鑑賞日 2013/10/19
男叩くように女は蚊をよける
峠谷清弘 東京

 まあある程度の割合で中年過ぎの夫婦はこんなものかもしれない。夫は妻の血を吸いたいが、妻は吸わせてくれない。ああうるさいなあ、べたべたとあまり私に近寄らないで、というわけである。夫は自分を蚊のようなものだと見做して、戯けの一句を書くしかない。


25

鑑賞日 2013/10/20
はつ夏に会う子よ清水汲み上げる
遠山郁好 東京

 或る子どもとの出会い。その子ははつ夏のように気持ちの良い子であった。はつ夏のように新鮮で生き生きとしている子どもであった。その子に会っていると、まるで清水を汲み上げる時のような何かとても清いみずみずしいものに触れた気がするのである。


26

鑑賞日 2013/10/20
クローバーに踏み込みまろび金婚なり
中尾和夫 宮崎

 仲の良い夫婦がともに長生きして来られたことの喜びが強く感じられる。「クローバーに踏み込みまろび」・・共に童心に帰って遊んでいるような雰囲気である。いいなあ。


27

鑑賞日 2013/10/21
リラ冷えや物申すとき口うごく
中村裕子 秋田

 「物いへば唇寒し秋の風」(芭蕉)を踏まえての句かもしれない。芭蕉句の方はやはり人生訓の匂いが漂うが、こちらの句はそういう匂いを拭い去って物事を客観的に即物的に感覚的に書いている。現代的な句であると言えよう。


28

鑑賞日 2013/10/21
代掻機田の切れ端を持ち帰る
西又利子 福井

 写生句であると同時にアニミズム的なものもある。私の個人的な思い入れの感想になってしまうかもしれないが、「田の切れ端」がまことに印象的である。まるで肉の一片のごとき感覚が起る。田は単なる米の生産工場ではなく、日本人の肉体の一部であると言える。


29

鑑賞日 2013/10/22
風の一日の駱駝に夏毛人に黙
野田信章 熊本

 共に旅する仲間としての駱駝と人。その旅のある風の強い一日のことを書いているが、その旅全体の質を表現し得ているような趣がある。この生の旅は詩情であると感じさせてくれる素敵な句である。


30

鑑賞日 2013/10/22
蟻の列津波の記憶引きずって
本田ひとみ 埼玉

 おそらく、あの3.11の大震災の津波のことは永い年月の間日本人の心に刻印された記憶として消えないだろう。見よ、この長い蟻の列さえあの津波の記憶を引きずっている、と感受性豊かな詩人は感じている。


31

鑑賞日 2013/10/24
八十八夜卵ほのかに翳りゐる
前田典子 三重

 例えば閉経期間近の女性が自分の体内で起っている微妙な変化を、種まき・茶摘み・養蚕などが忙しくなる八十八夜の時期に、感じ取っているのである、というような解釈もあるかもしれない。あるいはまた、虚子が「帚木に影といふものありにけり」と表現したように、八十八夜の明るい季節感の中で、鶏卵のほのかな翳りに物の存在の不思議を感じ取っているのかもしれない。


32

鑑賞日 2013/10/24
白い梅ふしぎそうに皆年をとり
三井絹枝 東京

 三井絹枝という不思議な作家のことを思っている。この作家はもののいのちというものに憑依する力があるのかもしれないなどと思う。この句の場合は、白い梅のいのちに乗り移っている感じがある。乗り移って書くから、そこに白梅のいのちが呟いているような趣が現出してくるのではないか。この作家にはもしかしたら巫女的な資質があるのかもしれないなどとも思う。


33

鑑賞日 2013/10/25
牛の鼻撫でふくしまの花まんさく
武藤暁美 秋田

 「ふくしま」という表記はいいな。「フクシマ」では原発事故のことだし、「福島」ではあまり原発事故が意識されない言葉になってしまうから。「ふくしま」という表記はあの事故のことも思わされるし、またそもそもの福島の優しさ豊穰さのようなものを感じる。そもそもの福島の豊かさを提示して、やはりこの句はその裏に潜む人間の不条理さを感じないわけにはいかない。


34

鑑賞日 2013/10/25
青嵐石に馬乗りして石屋
武藤鉦二 秋田

 何気ない風物の中の詩情。いやもしかしたらこの風景は何気なくないのかもしれない。石に馬乗りをして鑿をふるい石を彫る石屋というのは、だんだん失われてきた風景の一つなのかもしれない。鉋をかけている大工の姿を最近は殆ど見なくなったが、そのように機械化が進んだ現在に於てはこのような風景は無くなってきているように思うのだが。そういう意味では先の武藤暁美さんの句と同じような文明的な問題を孕んだ句である。このお二人はご夫婦だろうか。


35

鑑賞日 2013/10/26
ほたる飼うあにいもうとよナガサキ
茂里美絵 埼玉

 仄とあたたかく美しい。作者ご自身の幼い頃の体験によるものだろうか。ナガサキあるいはヒロシマあるいはフクシマというような悲惨でまた愚かな人間の現実の中で、それでもその中に残る信じられるもの全ての象徴として「ほたる飼うあにいもうと」がある。どのような状況の中でも、いやむしろ愚かで過酷な状況下であればあるほど、本質的に美しいものがより美しく感じられる。


36

鑑賞日 2013/10/26
此処はもうここではなくて夕焼ける
森央ミモザ 長野

 美的な資質を持っている人にはこういうことが起る。ある何か美しいものを見たり聞いたりした時に、意識が全く質の違う時空に運ばれてしまうのだ。此処は既に陳腐なここではなく、今は既に陳腐ないまではない時空に。おそらくそれが美というものの本質だ。


37

鑑賞日 2013/10/27
ほたるぶくろ星空のごと覗きこむ
守谷茂泰 東京

 星空といえば無限あるいは永遠という時間の象徴のようなものである。あの小さい小さいほたるぶくろを星空のごとく覗きこむということは、この作者はかなり内観的な人に違いない。


38

鑑賞日 2013/10/28
羅漢千体薄い下着のはりついて
矢野千代子 兵庫

 描写力が大したものである。


39

鑑賞日 2013/10/28
十薬や踵あたりに夜が来て
吉川真実 東京

 踵あたりに夜が来て・・・うーん、なかなかピンポイントで解釈できない。ああいう解釈もできる、こういう解釈もできるというふうである。何かしら不確かな、しかし軽妙に洒脱な現代絵画を見るような趣もある。


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