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金子兜太選海程秀句鑑賞 495号(2013年8・9月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2013/8/8
夕蛙人の目玉はもう御免
阿川木偶人 東京

 人の目玉に出くわすのはもう御免ということだろうか。確かに地球生命体にとって人は害ばかりを為しているからなあ。作者は東京の人であるが、毎日毎日夥しい数の人の顔顔顔目玉目玉目玉を見ているとうんざりして嫌になるということもあるかもしれない。


2

鑑賞日 2013/8/9
黒髪の緩きウェーブ百千鳥
有田莉多 東京

 黒髪の豊かな女性の傍に居る。彼女は佇っているのかもしれないし、あるいは寝そべっているのかもしれない。ゆったりとしたウェーブの黒髪に見とれている。いつまで見ていても飽きない。この黒髪が世界全体であるような感覚になってゆく。ふと気がつくとどこかで百千鳥も鳴いているようだ。


3

鑑賞日 2013/8/10
生きるとは朝が生れる鳥交る
安藤和子 愛媛

 私達の日常は、生きてあるということに対するこのような素直な実感を持てない程に混乱している。朝が来て当たり前と思っている。ああ今日も朝になってしまった、嫌だ嫌だと思う人もいるかもしれない。日々があまりに辛いので自殺を考える人もいる。いじめやハラスメントに悩む一日が始まったと思う人もいる。ああ今日も彼奴に会わなければならないと一日を憎む人もいる。奇妙な世の中である。ああ今日も朝が生れた、鳥達が嬉しそうに交わっている、生きてあることは何て幸せで充実したことだろう、という実感は原初的なものである。ブッダが菩提樹の樹の下で朝を迎えて悟りを開いた時の実感とおそらく同質のものだろう。


4

鑑賞日 2013/8/11
藤房や意志なきまま揺れ離る郷
伊藤 和 東京

 離(さか)、郷(さと)とルビ

 民というものの本質を深く詩的に捉えているような気がしてならない。意志を持たないもの、それは民である。意志なき故により大きな力に翻弄されて揺れる。それは藤の花のように意志なき故の美しさがある。もしかしたら東日本大震災に取材して出来た句なのかもしれない。


5

鑑賞日 2013/8/12
技比べせむとや並びし蟻地獄
内田利之 兵庫

 「遊びをせんとや生まれけむ,戯れせんとや生まれけん」という梁塵秘抄の歌を踏まえているに違いない。それを俳句的にもじったものである。「技比べ」や「蟻地獄」という言葉を使い、この歌の世界観を更に広げている。この世界観は人の心を解放してくれるものがある。


6

鑑賞日 2013/8/13
牛飼いの老爺被曝の牛を抱く
大西健司 三重

 切ない。被曝の牛だって抱きたくなるという人間の性が切ない。こんな事態になっても原発政策を押し進めていくという人間の性が切ない。そしてその政権を過半数の人々が支持するという人間の性が切ない。もしこの牛が肉牛だとすれば、そもそも殺す為に飼ってしかも可愛がっているという人間の宿命が切ない。若々しかった牛飼いもやがて老爺になってしまうという時の流れも切ない。


7

鑑賞日 2013/8/14
でこぼこの老兵ここに葱坊主
岡崎万寿 東京

 「でこぼこの老兵」とは作者自身のことを言っているのだろうか。戦争を体験なさった方なのだろうか。あるいは人生の場そのものを戦場に譬えたのだろうか。いずれにしてもでこぼこのような来し方でこぼこのような自分というものをしみじみと思いながら今この葱坊主の前に佇っている感じである。
 あるいは、老兵は複数の人でその様子がでこぼこであり、その様子がこの葱坊主みたいであるというのかもしれない。


8

鑑賞日 2013/8/15
筍茹でる七人家族の頃ありき
加地英子 愛媛

 「母さん、三丁目の八百屋に筍が出ていたので買ってきたよ」「お帰りなさい、まあずいぶん大きな筍ねえ、今晩の夕食は筍にしましょうね」「わあ、筍だ筍だ、ねえねえお母さん、筍の皮をちょうだいね、梅干しを筍の皮に挟んでしゃぶるんだ」「ねえねえ、みーちゃんにもみーちゃんにも」「はいはい、沢山あげるから、みんな仲良くね、隣のぶちゃんやしんちゃんにもあげなさいね、そうそうこの筍沢山あるからお隣にもお裾分けしましょう」というような会話が思い出されてきた。そういえば私の家も、祖母、父母、兄弟四人の七人家族であった。近所の家も大方そんなふうであった。みなそれなりに貧乏で質素でそして楽しかったのである。


9

鑑賞日 2013/8/16
春昼や我が名見あきし人ばかり
門屋和子 愛媛

 何が不満足なのか指摘できないが何かが不足しているというような、活き活きした時間の流れが止まったような妙な感覚を抱くのが春昼という刻なのかもしれない。焦って苛つくわけでもないし、かといってゆったりと落ち着いているわけではない。例えば放物はその頂上においては殆ど水平に止まっているような動きをするが、春昼とはそんな刻なのかもしれない。


10

鑑賞日 2013/8/17
想さやと下降す藤の実が青し
北村美都子 新潟

 「想さやと下降す」がとても繊細で丁寧な心理表現である。人間はどうしても上昇志向になりやすく、いわば精神に緊張を強いて生きてしまう傾向があるが、ある時ふと一種の悟りのような状態が訪れて、心の緊張が解けてゆったりとリラックスした時間になることがある。まさに「想さやと下降す」というような心理状態である。その時には、藤の実が青々と目にさやかに映るであろうに違いない。


11

鑑賞日 2013/8/18
幸福感抱いて気ままに春の暮
京武久美 宮城

 今の日本ではなかなか幸福感というものを抱けない状況にあるような気がする。何故なら幸福感を抱くには基本的に自分の周りの環境が幸福な状態である必要があるからである。要するに自分だけが幸福であるということは不可能だからである。しかし人間は時々は幸福感に包まれる必要がある。そうでないと息が詰まってしまうからである。そして幸福感が無いと人間は自由で気ままな感じにはなれない。作者はその稀に訪れる自由で気ままな幸福感を味わっているに違いない。春の暮がそういう気分に相応しい。


12

鑑賞日 2013/8/19
桐の花巨石を運ぶ村人たち
児玉悦子 神奈川

 まだ神々が生きていた巨石文化の時代の景色か、あるいは神なる王の墓を造るために巨石を運んでいる風景か、人間の歴史を俯瞰した時に見られる一シーンであるような気がする。大型の建設機械などの無かった時代、まだまだ村落共同体が機能していた時代、桐の花はその風景の一部であり、また人間の歴史を見ている証人でもある。


13

鑑賞日 2013/8/20
今は昔獣のごとく青き踏む
小原恵子 埼玉

 意味の解釈として三つくらいの可能性がある気がする。一つは作者自身の若かりし青春時代の回想である。その場合性的エネルギーの発露ということも含めた生への憧れの強さの回想ということになる。二つ目は、例えば私の子どもの時は殆ど裸足で過ごしていたし、遊べる時は常に外で遊んでいた、春ともなれば今まで遊べなかった分まで取り戻すぞとばかりに青きを踏んで野で遊んだものである。ところが今の子ども達はゲームや熟やケータイや何やらで外で裸足で遊ぶなどということはあまりない。あああのような時代は今は昔となってしまったなあということである。三つ目の解釈は歴史を俯瞰して作者は古代人あるいは原始人の時代のことを懐かしく考えているというものである。それぞれの解釈にそれぞれの味がある。


14

鑑賞日 2013/8/21
歯の生えぬ子より大きな兜折る
近藤好子 愛知

 無事に大きく育って欲しいという願い。子あるいは孫の誕生が嬉しくてしかたがないのである。そしてまた様々な心配も当然ある。厳しくて生き難い世の中であるし、途中で挫折しないだろうか、曲った道に迷い込まないだろうか、健康な身体でいられるだろうか、様々な願いを込めて折られる大きな兜である。いやいや願いは一つ祈りは一つ、健康であればいい。


15

鑑賞日 2013/8/22
サクラガサイタサクラガサイタ死ぬ人も
笹岡素子 北海道

 戦前のある時期(1933年〜1940年)に尋常小学校で使われていた国語読本(サクラ読本という愛称)の冒頭には「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」という文があったらしい。また〈同期の桜〉という特攻隊に好まれた兵隊ソングは「貴様と俺とは同期の桜  同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟  みごと散りましょう  国のため」という歌詞から始める。
 この句はどうも最近の日本の妙なナショナリズムの台頭を批判しているようだ。威勢よく華々しい物事の裏面には必ず暗く悲しい事実があるということ。アブナイアブナイということ。
 あるいは、そのような社会批判を抜きにしても、普遍的な事実としての生死ということ。


16

鑑賞日 2013/8/23
近くから私を見れば霞なり
佐々木昇一 秋田

 まさに、私は誰か私は何かと私に近づけば近づくほどそれは霞んでくる。おそらく、私とは何なのか、という問いは人間に課せられた永遠の問いである。


17

鑑賞日 2013/8/24
四姉妹の一人色黒芋雑炊
篠田悦子 埼玉

 作者は自分自身の姉妹のことを言ったのかもしれないと推測している。今の若い世代では四姉妹などということはあまりないからである。ちなみに団塊の世代である私も四姉妹ならぬ男女混合の四兄弟である。私の世代はそれこそ芋を洗うような状態で子どもは育った。一学級五十人六十人というようなこともあったし、家庭では一人一人に勉強机が有るなども稀であった。茶の間のちゃぶ台でみんなで勉強したものである。そんな風に芋のようにごろごろと育った四姉妹が年齢を重ねて会って、みんなで芋雑炊を食っているという図が思い浮かんだのである。中には色黒の奴もいるだろう。とにかくわれわれは芋みたいなものだから。


18

鑑賞日 2013/8/25
寝たっきりも命の塊日常有り
釈迦郡ひろみ 
宮崎

 動いたり活動したりする人はそれなりに命のエネルギーが発散したり流れたりするが、寝たっきりの人はまさに命のエネルギーの塊となるかもしれない。命のエネルギーが沈潜し命の重みの塊となるかもしれない。存在感のある日常。


19

鑑賞日 2013/8/26
君たちの正論新じゃがに近い
白石司子 愛媛

 新じゃがというのはとても美味である。そして皮がまだ薄くて柔らかいのか、皮を剥かなくてもタワシなどで洗うとすぐに真っ白く眩しいような肌になる。この「君たち」というのは若者たちに違いない。まだ初々しくて世間の垢に覆われていない眩しいような若者たちに違いない。


20

鑑賞日 2013/8/27
目借り時はがき一枚ふっと孤独
新城信子 埼玉

 読む人にとって解釈の幅があるだろう。私は現代の孤独の一つのかたちのような気がする。一応満たされている日常を送っているが、何処かしら現実を自分の目で見ているのではないような感じがする。自分とは何か、自分は何処に繋がっているのか。郵便受けにやってきたのは印刷されたはがきが一枚。ふっと感じる孤独。


21

鑑賞日 2013/8/29
沈黙のはじめに春の放射能
高桑婦美子 千葉

 春夏秋冬、季節は巡る。時には厳しくもあるがやはり美しい日本の四季だ。寒い冬の季節が去り春が来る。やがて花花が咲き小鳥達も囀ることだろう。さて、その時に放射能のことが脳裏をかすめる。今、私達日本人がどうしても逃れられない問題である。ほんとにどうしたらいいのだろうか。この現実を前にした時に私達は黙り込んでしまわざるを得ない。かつてレイチェル・カーソンは「沈黙の春」という予言の書を書いた。農薬問題と放射能問題はやはり根っこは同じであろうと思う。今私達は沈黙の春に居ると言えないだろうか。


22

鑑賞日 2013/8/30
木下闇さっきの雨が瞬いた
竹田昭江 東京

 新鮮なものに出会ったという感じ。それは「さっきの雨が瞬いた」という手垢に汚れていない新鮮な表現からやって来る。おそらく無垢な心の状態であるときに、このような新鮮な出会いと新鮮な表現が生まれるのだろう。いつもこのような無垢な感覚を維持したいものだ。


23

鑑賞日 2013/8/31
花ノ冷エ雨ニモ負ケテ籠リケリ
竪阿彌放心 秋田

 私も宮沢賢治は好きなのであるが、彼はあまりにも清すぎて寂しいものさえある。完璧過ぎるほど清く強くなろうとしていた感じを受ける。彼が長生きしていたら、世の汚れや弱さも受け入れて完璧ではなく完全なるものになっていたのではないかと思うと、彼の早世が残念である。雨ニ負ケルこともあるだろうさと思うわけである。ただ、雨ニマケタッテイイジャナイカ人間ダモノという相田みつお調になるとくさいものがある。雨ニモ負ケテ籠リケリくらいが丁度いい。


24

鑑賞日 2013/9/1
藤垂れて先進国という疲労
田中亜美 神奈川

 言い得て妙だ。言われてみれば日本は相当草臥れている。当然だろう。日本は原点を忘れている感じがあるからである。それを忘れてただ闇雲に突っ走れば疲れるのは当たり前だ。そしてそのシステムの中にいる私達も相当に疲れている。日本はそして私達はもっとみずみずしい朝の光の中に立たなければならない。藤の花よ。


25

鑑賞日 2013/9/2
北京の古き良き多岐多様柳絮飛ぶ
董 振華 中国

 この句の内容は推測して語らなければならない。私が北京を知らないからである。古い街というものは合理的に整理区画されていない場合が多いしおそらく道路なども狭いのではないか。そういう路地路地に昔の文化の匂いがするような店々が残ったりしている。また街並みそのものにも昔の時間が流れている感じがして懐かしいものがある。とにかく紀元前からの歴史を背負う都市であるのであろうから、その重なった文化的な香りというものは相当なものがあるのであろう。路地の所々には柳の木の古木なども生えているかもしれない。「古き良き多岐多様」というごてごてとつっかかったような言い方が成功していて、逆に文化の言い尽くせない多様性を感じさせる。「柳絮飛ぶ」もいいなあ。


26

鑑賞日 2013/9/3
雨は祖母接骨木の窓細く開け
遠山郁好 東京

 「雨は祖母」の「は」が何ともいえない詩情を作っている。祖母自身が雨あるいは雨の精であるような感覚。あるいは祖母の命が雨の如くに細くなっているという感じ方かもしれない。祖母のいのちは窓の外の雨と同質である。この窓は病院の窓かもしれないという連想も働く。


27

鑑賞日 2013/9/4
手花火の火花チリチリ我が脳
徳永義子 宮崎

 脳(なずき)とルビ

 「なずき」という言葉は脳や脳髄の古名であるらしい。そしていかにも脳物質のぷよぷよと柔らかい感じの音感がある。この「なずき」という言葉を使ったことがこの句の手柄なのだという気がする。人間の精妙な心理作用を司っている物質が「なずき」という音を持っているというのは如何にもという感じがある。手花火のチリチリとした火花が何かしらの心理的作用元を暗示するものだとして、それがなずきに響いているというのは如何にも痛そうだ。


28

鑑賞日 2013/9/5
ミツバチの中にもニートいるらしい
中村真知子 三重

 生物学者の福岡伸一さんの本の中でこのような内容のことを読んだことがある。もしかしたらアリだったかもしれない。彼等の集団の中には必ず一定の割合で働かないで遊んでいる個体がいるらしいのである。そして、その働かない個体が、その種の進化の過程でとても重要な役割を持っている、というような内容であったような気がする。この句の作者の情報源がどこだかは解らないが、それをニートというような流行り言葉を使って軽快に愛らしく書けたことが手柄であろう。


29

鑑賞日 2013/9/6
陽炎や人がときどき入れ替わる
根岸暁子 群馬

 いわゆる無常観であるとか、儚い人の世というような受け止め方ではなく、むしろあたたかい客観性のような見方がある気がする。人の目線ではなくむしろ陽炎の目線から見ている感じを受けるからかもしれない。「人は」でなく「人が」となっているのも客観だという感じである。〈あたたかい客観〉と言いたい。


30

鑑賞日 2013/9/7
福島に生きる畦塗る祖を塗る
藤野 武 東京

 祖(おや)とルビ

 TPP問題などにおいて、もっと産業としての農業を強めるべきだというような議論がある。しかし、そもそも農業は産業ではないのである。産業以上のものあるいは産業以前のもの、つまり日本の風景であり日本の文化であり、我々の血であり肉であるのである。それを捨ててしまって単に金の価値だけで農というものを推し量っていいものだろうか。零細といわれる多くの農民達はべつに金の為に農をやっているのではなく、祖先から受け継いだ血や肉を守るために農をやっているのである。田圃や畑は彼等にとってそして我々にとって祖先の身体そのものなのである。この句はそういうことを言っている。この句においてはその場所が福島である。汚され犯されてしまった祖先の身体。それでも尚彼等は畦をすなわち祖を塗る。いじらしいと見るべきなのか、悲しいと見るべきなのか、強い意志と見るべきなのか。とにかく涙が出てくる風景であり行為である。


31

鑑賞日 2013/9/8
ぼくんちにせんせいあのね団子虫
堀真知子 愛知

 子どもにとって世界は新鮮である。そしてまた彼等はまだ世界を信頼している。ゆえに彼等の言葉にはおそらくどんな言葉にも詩があり信頼がある。そしてそういう言葉に感動して掬い上げることが出来た作者はやはり無垢で新鮮で優しい眼差しを保持しているということだろう。「団子虫」がいい。


32

鑑賞日 2013/9/9
野遊びのあの子編集者のセンス
宮崎斗士 東京

 野遊びをしているあの子は編集者のセンスを持っているなあ、というのである。どういうセンスだろうか。想像してみるに、小さな生き物や石ころや棒切れやその辺りに生えている植物など、大人なら見過ごしてしまうような事物の間に関連性を見いだし創造性豊かな物語の中で遊んでしまうというようなことだろうか。子どもは自然の中で創造的に生き生きと遊ぶのが本来上手い。そのような生き生きとした野遊びの子の姿が想像できて楽しい句である。


33

鑑賞日 2013/9/10
雪べらの突立っている喪の戸口
武藤暁美 秋田

 日常というものに折り込まれている死。当たり前のごとくに日常と同居する死。雪国の冬の日常は雪の始末から始まる。喪の当日も当たり前のように雪掻きという日常的行為と同居する。個的な死というものは永遠の日常という織物の一本の横糸に過ぎない。生とは永遠の日常だと言えるのかもしれない。


34

鑑賞日 2013/9/11
巣を覗く真昼の透明な背のび
森央ミモザ 長野

 例えばアンドリュー・ワイエスのように自然を成熟した透明なマチエールで描く女流画家がいたとすれば、その画家が描いた少女像とでも言いたくなるような完成された美くしさがある。


35

鑑賞日 2013/9/12
筍や見えない過去が根の如く
山田哲夫 愛知

 否定的に見れば、人間の業の深さということである。肯定的に見れば、根を持つことの大切さということである。読む人によってその受け取り方が二つに分れるのかもしれない。おそらく佳い俳句というものは善悪を言うのではなく、事実そのものを投出すのだ。存在そのものを書くのだ。具体物によってそのことを書くのだ。有るということの重み深みを感じさせる句である。


36

鑑賞日 2013/9/13
思考といいがたし春の土堀りはじめる
山本 勲 北海道

 この「春の土堀り」が難しい。これは耕しではないのだろう。耕しなら耕しと書くはずだ。何のための土堀りか。もしかしたら行のようなものかもしれない。土堀り瞑想というのがあったような気がする。何の実用的な目的もなくただ穴を掘るのである。そして結局また埋め戻す。考えてみればわれわれ人間がやっている仕事というものは結局その行為そのもの以外の目的などありはしないのかもしれない。われわれがやっていることの本質はシジフォスが山の頂きに岩を運び上げるような行為なのかもしれない。何のためにわれわれは行為をするのか、何のためにわれわれは生きるのか。思考では解決できない問題である。しかし尚われわれは春になると土を掘りはじめる。哲学的な句。


37

鑑賞日 2013/9/14
羆らし薔薇薔薇薔薇嗅ぐつもりらし
柚木紀子 長野

 羆(ひぐま)とルビ

 作者は長野の人である。長野には羆はいないはずである。北海道に旅行にでも行った時に出会ったのだろうか。何故こんなことを詮索するかといえば、この句に臨場感があるからである。「薔薇薔薇薔薇」は驚きあるいは戦きの発語とも、あるいは羆によって散らされる薔薇の状態であるとも受け取れる。羆の黒と薔薇の赤の対比も印象的である。


38

鑑賞日 2013/9/15
こちら向く春のフクシマ放れ牛
横地かをる 愛知

 政府は着々と原発の再稼働に向っている感じがある。また世間はオリンピックだといって浮かれている。待ってくれと言いたい。俺達のことを忘れてほしくない。君達日本人はそんなに薄情者なのか。そんんなに忘れやすいのか。そんなに浮かれたいのか。・・・俺はフクシマ放れ牛・・・。


39

鑑賞日 2013/9/16
汗かくと虫寄ってくる蛇逃げる
らふ亞沙弥 
神奈川

 汗をかくと何故蛇が逃げるのかなどという野暮な詮索は無用である。むしろこの“何故”がニヤリと楽しい。全体のこの軽妙な発語が楽しい。


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