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金子兜太選海程秀句鑑賞 494号(2013年7月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2013/7/4
山頭火好きの船長花に酔ふ
伊佐利子 福岡

 山頭火好きな人というのは、もしかしたら、旅という名の自由に憧れ憧れるタイプの人かもしれない。世間の柵から抜け出て何もかもほっぽりだして旅の空の下に身を置きたいと実は思っている人かもしれない。だから、もしかしたら、彼は船員といういわば旅に生きる職業を選んだのかもしれない。しかし、職業であるからにはいろいろ不自由で嫌なこともあるに違いない。偶には酔っ払いたくもなる。そして同じ酔うなら美しいものに酔うのがいい。花に酔うのがいい。


2

鑑賞日 2013/7/5
有袋類のごと赤子を抱き花見かな
石川和子 栃木

 いのちを守りそして育む母性というものを一番象徴している形は有袋類かもしれないと思った。あんな重たいものを抱えて、男のわれわれにとってはほっぽり出したくなってしまうかもしれないなどとも思う。子が生れると同時に母性が生れるとも言われるが、やはり母性というものは世界を支える力そのものの現われかもしれない。この若き母親に最敬礼したい気持ちだ。


3

鑑賞日 2013/7/6
冬鳥よわがさざなみを言葉とし
伊藤淳子 東京

 われわれの内面には湖が在ると言った詩人がいた。また、ヨガとは心のさざなみを抑えて静かな湖面に戻すことであるという意味のことがパタンジャリのヨガスートラには書かれている。俳人は心のさざなみを言葉にする。その言葉は美という質を帯びたさざなみとなる。何故だろう。その秘密は冬鳥だけが知っているのかもしれない。美しい句だ。


4

鑑賞日 2013/7/7
時代という愛しき器雛あられ
金子斐子 埼玉

 愛(かな)とルビ 
 とんでもない嫌な時代だなどと文句ばかり言うことが多いが、でもこの時代に生きてあることが自分にとっては一番相応しいと結局は思う。この時代この状況に文句を言うが結局は愛しているのだろう。憎らしいけどとても愛しいのだ。われわれはそんな時代という器に盛られた様々な色や大きさの雛あられだという発想がまた楽しい。この雛あられを食べるのは誰なんだろうという想像も起る。


5

鑑賞日 2013/7/8
水ぬるむころうしろから人がくる
金子ひさし 愛知

 此道や行く人なしに秋の暮   芭蕉

を思い出した。この句は、先人も無く、同行者も無く、もしかしたら後継者も居ない、いわば孤独な道行きの句である気がする。そんな境涯に「秋の暮」がよく響いている。一方、この金子さんの句は「うしろから人がくる」という状況に「水ぬるむ」がよく響いて、芭蕉句とは対照的に人間的な繋がりの兆しの中に希望が見えるあたたかくほっとするような雰囲気がある。


6

鑑賞日 2013/7/9
訛つよき母はふくよか蜆汁
鎌田喜代子 
神奈川

 方言のことはよく分らないが、作者は神奈川の人だから、おそらく何処か地方の実家に帰られた時のことだろうか。そう考えると、訛つよき母がふくよかだというだけでなく、それも含めて産土全体のふくよかさが伝わってくる感じがする。懐かしく豊かでほっとするような空間に包まれる感じがする。蜆汁がいい。


7

鑑賞日 2013/7/10
夏つばめ手の鳴る方になど行かぬ
川西志帆 長野

 この反骨精神が気持ちいい。気持ちいいというかもはや必要だ。手の鳴る方にばかり行けば日本は駄目になる。世界は駄目になる。俺たちゃそもそも夏つばめのように自由な飛翔を約束された存在だ。脅しや甘言には乗らぬ。あんたらが手を鳴らす方には行かぬ。・・大袈裟に解釈してしまっただろうか。


8

鑑賞日 2013/7/11
ハスキーボイス帽子屋の窓に雪かな
木下ようこ 
神奈川

 越路吹雪かジュリエット・グレコかはたまたジャニス・ジョップリンか、ハスキーボイスと言われると、一昔前の歌手の名前が浮かんでくる。殊にシャンソン歌手にハスキーボイスは多かったような気がするが、どうだろう。「帽子屋の窓に雪」という情景と相俟って、とにかくそういうような一昔前の詩的風情の町を歩いているような感じに誘われる。


9

鑑賞日 2013/7/12
動かざる樹々ひたすらの早春や
小林一枝 東京

 早春感の一つといえるかもしれない。こういう早春もあったなあと思わされる。作者の内面の在り方の投影だとも言える。若い心だけが持てるひたむきさと言ったらいいだろうか。いつまでもこんな心を持っていられるというのは素晴らしい。


10

鑑賞日 2013/7/14
足利屋篤がつんのめってる花菜風
小林まさる 群馬

 足利屋篤(あつちやん)とルビ

 足利屋篤氏は三月に亡くなられているそうであるから、この句は追悼の思いも込めて作られたのだろう。如何にも親しい、そして如何にも明るい、俳諧的な追悼句である。そして親しく明るいゆえにだろうか、却ってその悲しみが深く感じられて涙が出そうになる。


11

鑑賞日 2013/7/14
荒星や真顔で話す吾子が好い
小原恵子 埼玉

 我が子の一つの成長の瞬間を作者は感じているに違いない。人は真顔になって物事に真向わなければ成長できないからである。荒星を辞書で引くと〈木枯しの吹きすさぶ、荒れた夜の星〉と出ているが、まさにぴったりの季語であろう。


12

鑑賞日 2013/7/15
春来れば爺のため咲くお婆さん
佐々木昇一 秋田

 昔話のお爺さんとお婆さんのような雰囲気がする。微笑ましくのどかである。もしかしたらこの爺は作者自身のことかもしれないとも思う。また、作者には、花咲爺という言葉も過ったかもしれないと思う。


13

鑑賞日 2013/7/15
もの思えば春の瀬音を妊りぬ
柴田美代子 埼玉

 意味としては、ある希望が胸に宿ったということであろうが、「春の瀬音を妊りぬ」という新鮮で詩的な表現に魅了される。こういう表現が出てくるというのは、やはり作者が女性だからだろうか。


14

鑑賞日 2013/7/17
九穴のしまいは墓穴はだれ雪
清水 瀚 東京

 九穴とは口・両眼・両耳・両鼻孔・尿道口・肛門の九つの穴のことであるらしい。そんな人体を持った人間も最後には死んで骨になって墓穴に入る運命だ。そのことを戯けの精神で言ったもの。「はだれ雪」を敢て解釈すれば、その形状がぼこぼこと穴が開いているようでもあるし、またいずれ全て融けてしまう運命にあるという類似がある。


15

鑑賞日 2013/7/17
パン包む原発写真の新聞紙
清水茉紀 福島

 命を脅かすものと命を育むものの日常的な同居状態が象徴されている。日常的な事物を扱ってさらりと原発のことが描かれているというのが却って現在の福島の苦境が表現されていて重たい。


16

鑑賞日 2013/7/18
猪の目の遠き色なり両神山なり
白石司子 愛媛

 両神山(りょうがみ)とルビ

 この猪の目の色は金子兜太その人の目の色であるような印象を受ける。彼は近くも丁寧に見るが、おそらく同時に遠いところも見ているに違いないのである。両神山の更に向こうの遠い空を。


17

鑑賞日 2013/7/19
冬の雷重心低き山の宿
新城信子 埼玉

 旅吟であろう。「重心低き山の宿」という表現で起伏の多い山の斜面にへばり付くようにある宿という景色を想像する。またもしかしたら作者は普段高いビルのたくさんある風景に馴染んで生活しているのかもしれないなどと思った。


18

鑑賞日 2013/7/19
朝日に鹿われに水面の冬の音
関田誓炎 埼玉

 静かで祝福された風景の中に居るという感じである。何故かクリシュナムルティーの描写する瞑想的な風景が思い出された。


19

鑑賞日 2013/7/20
海って光なんだ春の自転車も
芹沢愛子 東京

 この口語調が新鮮で好ましい。口語調でも軽く流れてしまわないのは、中味の感動が濃いからだろう。しっかりとした感動を口語で平明に書くというのは、私の理想の句作りでもある。その為にはこの作者のように、若い新鮮な心を保っている必要が先ずあるだろう。


20

鑑賞日 2013/7/21
蛇裂きて鷹の子育て余念なし
高木一惠 千葉

 インドのカーリー女神を思い出した。一方では彼女は人々に慈しみと惠を与える優しい母であり、他方では血を滴らせながら殺戮を行なう殺戮者である。また、大自然というものを考えてみてもいい。自然は時に荒れ狂う凶暴な側面を見せるかと思えば、人々にとてつもない惠と安らぎを与える母なる大地でもある。一事が万事というが、この句は一事を言って万事を表現していると思った。


21

鑑賞日 2013/7/22
断層は地球の生傷みちのく忌
瀧 春樹 大分

 殊に日本は生傷だらけ。何故なら日本は世界でも指折りの地震地帯だから。それも新しい生傷でいっぱいだ。また地震が来れば、そして必ずやって来るが、その生傷の口がぱっくりと開くのは目に見えている。そんな日本では昨日の参院選で、唯一原発推進の党である自民党が圧勝してしまった。犠牲になったみちのくの霊魂に申し訳ない。


22

鑑賞日 2013/7/22
曳航のさみしさに似て黄砂降る
田口満代子 千葉

 実に微妙な感受性だと思う。絵画でいえば、原色ではっきりとあるいは荒々しく描かれているのではなく、中間色でたゆたうように描かれた風景という感じである。漂泊感もある。


23

鑑賞日 2013/7/23
大絵図のむかしの田植え数珠つなぎ
舘岡誠二 秋田

 言葉によるイメージの喚起力というものは大したものだ。アニメーションのように活きた人物達が田植えをしている姿がまさに動いている映像が見える。もちろん感動を伴って適切に表現された言葉ということである。この場合は「数珠つなぎ」ということだろう。


24

鑑賞日 2013/7/23
桜蘂声失うを美と呼んで
田中亜美 神奈川

 「美と呼んで」が私には「美と呼んでよ」とか「美と呼んでちょうだい」とか、半願望や半命令のように聞こえる。もちろんそう言っているのは桜蘂である。わかったわかった、君のことを美と呼ぶよ、君は美しいよ、と言いたくなる。


25

鑑賞日 2013/7/25
足利屋篤可愛くなって春の底
谷 佳紀 神奈川

 〈訪えば既に意識なく〉と前書。

 人間は無垢からやって来て無垢へと帰ってゆく。その中間では無垢でいられないというのは残念であるようにも思えるし、人間はその期間演技を楽しんでいるのだと考えればまた楽しい。とにかくもう演技をする必要もなければ、その為に緊張する必要もない。赤ん坊のように無垢になり可愛くなってリラックスしていいのだ。そして春の底をあるがままにゆらゆらと漂えばいいのだ。


26

鑑賞日 2013/7/25
逃水のくるぶし見えている異郷
月野ぽぽな 
アメリカ

 長野県出身でアメリカ在住の作者。当然この「異郷」というのはアメリカのことであろう。異郷の地に長く滞在するというのはどういう心持ちがするものだろうか。日本人で日本に長く居る私にとっても日本及び日本人というものがよく理解できないものも有るのだから、異郷においては尚更その異郷を理解し把握し抱くのは難しいことであろう。まるで逃水のように逃げてゆく。蜃気楼のようにゆらゆらとしている。くるぶしのあたりが見えているので掴まえられるよういてですぐ逃げてしまう。もしかしたら、この世界自体はわれわれにとっては異郷なのかもしれない。われわれはそもそも異邦人なのかもしれない。


27

鑑賞日 2013/7/26
春耕や郷里の影に月の光
董 振華 中国

 光(かげ)とルビ

 中国の郷里での作であろうか。中国に行ったことのない私は想像するしかないのであるが、山水画にあるような幽玄な景色の雰囲気がある。そこでは自然に溶け込むように暮す人々の生活があるのだろうか。日本で聞く中国のニュースは殺伐な政治的なもの経済的なものばかりであるが、この句にあるような風土とそこでの人々の営みがあることを知らされると、とても嬉しくとても穏やかな気持ちになる。


28

鑑賞日 2013/7/27
花筵の孫軍靴履くなよ
中島まゆみ 埼玉

 大声で言ったのではなく、ボソッと言った、あるいは心の中で呟いたという感じである。8・3・4 という破調がそういう感じを与えるのかもしれない。孫と言えば、戦争を知らない子どもたちの子どもの世代であろうか。今、彼らの間には社会の鬱屈感からか、戦争へのムードが高まっている部分もあるらしい。そんな社会への祖母の心の声かもしれない。


29

鑑賞日 2013/7/27
宮古島にも下町がある猫の恋
中原 梓 埼玉

 宮古島(みやこ)とルビ

 そう言われてみれば、猫の恋というものは下町に相応しい気がしてきた。気取らない庶民性のある恋。寅さんの恋などを連想する。作者は宮古島に居て、恋猫の声を聞き、下町の風情を感じたのだろうか。あるいは実際に下町のような場所があったのだろうか。あるいは下町という呼び名の場所があったのだろうか。


30

鑑賞日 2013/7/28
生き返るために死はあり花は葉に
福原 實 神奈川

 花は葉になり、やがて色づき、そして枯れる。春になるとまた花が咲く。四季の巡りである。ぐるぐると巡る。植物も種から芽が出てやがて木になりそして種に戻る。あらゆる世界の現象はこのように円環運動をしているに違いない。されば人間とて同じはず。生れ育ち年老いそして死ぬ。その先は再び生まれるというのが宇宙の法則に適っているはず。


31

鑑賞日 2013/7/29
山茱萸あかり呼捨ての友もういない
堀之内長一 埼玉

 呼捨てで呼び合ったあの友は死んでもういなくなってしまった。私はまだ生きている。死んであるということと生きてあるということの境界を照らすように山茱萸の花がほの明るく咲いている。


32

鑑賞日 2013/7/29
雫かな老梅の話しています
三井絹枝 東京

 世間的な人間関係の中での通り一遍の会話というものも、まあ必要ではあるが、それ程心を潤すほどのことはない。体裁ばかり繕って表面的な話ばかりをしているとだんだんと心も乾いてくる。生きてある醍醐味や感動も忘れて枯れたようになってゆく。作者は誰かと老梅の話をしていて、生きてあることの一つの甘露の雫のようなものを味わったのではないかと推測する。老いてなおみずみずしい花を咲かせている老梅の話。


33

鑑賞日 2013/7/31
逆上がりは菜の花の色祖父がいた
宮崎斗士 東京

 思い出ぽろぽろというか思い出ぽろりというか、懐かしい昭和の景色のセピア色の古写真が急に色彩を帯びて活き活きと動き出す。


34

鑑賞日 2013/7/31
御詠歌の終いは梟呼ぶごとし
武藤鉦二 秋田

 御詠歌というものを知らなかったのでyoutubeで聞いたみた。そもそも御詠歌というのは仏教信仰に基づく歌謡であるらしいが、それに日本の風土感や土俗性が加味されたような感じのものだと思った。この句における「終いは梟呼ぶごとし」というのは、万物に神が宿るとする多神教的なあるいは原初的な心情の表現かもしれないと思った。


35

鑑賞日 2013/8/1
出さぬ文で舟折っている夕ざくら
茂里美絵 埼玉

 文(ふみ)とルビ

 実に老練で熟達した技法で、実に若々しくみずみずしい女性の心情が書かれているという感じである。「舟」という言葉の象徴性もたっぷりだし、「夕ざくら」の抒情も浸るほどある。


36

鑑賞日 2013/8/3
波音を繭と思いぬ春の駅
守谷茂泰 東京

 作者は東京の人であるが、この春の駅は波音が聞こえるのだから、どこか地方へ出かけた時の句であろうか。小さな旅、春の駅、波の音。その波音を繭だと思ったというのである。昆虫の幼虫が成虫になるまでの一時期、中でサナギとして休眠する為の繭。作者はこの波の音に、柔らかく優しく自分の中の何かを育むような感じを抱いたのであろうか。


37

鑑賞日 2013/8/3
春眠に風倒木があり醒める
柳生正名 東京

 私達が日々生きていく上で、その大きさは様々であるが、「風倒木」に出会うことは多々ある。それは一つの覚醒の切掛けになり得るものである。時にはその人の人生の方向を変えてしまうようなものもある。例えば山本太郎さんが原発事故というものに出会ってしまったのも、大きな風倒木に出会ってしまったようなものである。「泰平のねむりをさます上喜撰 たった四はいで夜も眠れず」というのもまあ同じようなものかもしれない。日常の小さな同じような出来事はおそらく個人個人の生の中で数えきれない程あるに違いない。柳生さんの句はこのような事実を「風倒木」という自然現象を使って一般性を持たせて書いてある。


38

鑑賞日 2013/8/4
如是我聞生の白子に箸揃え
矢野千代子 兵庫

 畏まっていながら、実は非常に艶めかしくてエロティックなことを書いている。このギャップが面白いし、実は生というものはそういうものかもしれない、実はあらゆる経典の真髄はそういうものかもしれない。


39

鑑賞日 2013/8/4
氈鹿に代りて佇たな春の雪
柚木紀子 長野

 氈鹿(かもしか)、佇(た)とルビ

 古人(いにしえびと)のような雅(みやび)な風格がこの作者にはある。あまりにも美しい春の雪、あまりにも立派な風格の氈鹿、古の大地にタイムスリップしたような気分になる。


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