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金子兜太選海程秀句鑑賞 493号(2013年6月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2013/6/7
『山月記』読む唇厚し冬深し
荒井まり子 京都

 『山月記』は中島敦の小説である。昔若いころに読んだことがあるが、忘れてしまった。主人公が虎になってしまうというような話であった記憶がある。おそらくこういう句はその作品の内容が解っていないと十分に味わえないとも思うのでWikipediaでそのあらすじを見てみた。以下。

唐の時代、隴西の李徴はかつての郷里の秀才だった。しかし、片意地で自負心が強く、役人の身分に満足しきれなかった。彼は官職を辞し詩人として名を成そうとするも、うまく行かず、ついに挫折。小役人となって屈辱的な生活を強いられたが、その後、地方へ出張した際に発狂し、そのまま山へ消え、行方知れずとなった。

翌年、彼の数少ない旧友で高位の役人であった袁?(えんさん)は、先を急ぐとて、人食い虎の危険をもかえりみず月が明るく残る未明に旅に立つが、その途中で虎となった李徴と再会する。李徴は茂みに姿を隠したままいきさつを語る。「昨年、何者かの声に惹かれ、わけがわからぬまま山中に走りこみ、気がついたら虎になっていた。人間の意識に戻る時もあるが、次第に本当の虎として人や獣を襲い、食らう時間の方が長くなっている。そこで君に頼みがある。まだ自分が記憶している数十の詩編を書き記して残してくれないか」。

袁?は素直に受け入れ、明るい月光の下、李徴の朗ずる詩を部下に書き取らせた。それらは見事な出来ばえであったが、(おそらく李徴の性格に由来する)非常に微妙な点において劣る所があるのではないかと袁?は思う。李徴は更に語る。なぜ虎になったのか。自分は他人との交流を避けた。皆はそれを傲慢だと言ったが、実は臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の為せる業だったのだ。本当は詩才がないかも知れないのを自ら認めるのを恐れ、そうかと言って、苦労して才を磨くのも嫌がった。それが心中の虎であり、ついに本当に虎になったのだ。

夜は明けかけていた。別れを惜しむ袁?に李徴は、残された自分の妻子の援助を袁?に依頼し、自分はもうすぐ虎に戻る、早くここを離れ、しばらく行ったら振り返るようにと言う。己の醜悪な姿を見せ、二度と再びここに来て会おうとの気を起こさせないために。袁?の一行が言われた通りにすると、朝明けの空ですっかり光を失った月の下に1頭の猛虎が姿を現わし、咆哮すると共に姿を消し、再びその姿を見せる事はなかった。

 ヒトラーのことを思った。彼はそもそも画家になりたかったらしいが、才能が無くて画家になれずに、そのことに大きな劣等感を抱き変な道に踏み込んでしまったという説もある。そして大量虐殺という結果である。どこかこの「山月記」の主人公に似ている気がしたのである。そしてまた思った、ヒトラーやこの小説の主人公に限らず、われわれには多かれ少なかれこのような心持ちが潜んでいるのではないかと、まさに人間の性というものは「冬深し」であると。「唇厚し」に関しては、私は作者が憮然たる面持ちで人間の性を沈思黙考している様が見えるのだが、どうだろうか。


2

鑑賞日 2013/6/8
気紛れに散らばる家族如月なり
飯島洋子 東京

 「散らばる家族」というのは、核家族化や独居老人が多いということや結婚しない人が多いということや出生率が低いというようなこと、つまり現代の家族状況全般について述べたもののような気がする。それを「気紛れに」と表現したところに諧謔的な味がある。「如月」という言葉の響きとも釣り合いが取れている気がするし、季節感も合っている気がする。


3

鑑賞日 2013/6/8
廃校のときどきしゃべる冬柏
飯土井志乃 滋賀

 人口がどんどん減ってゆく時代に取り残されたように存在する廃校が舞台である。季節は冬、その廃校で、そこに植えてある柏の木がときどきしゃべるというのである。ぽつりと想い出したように何かしゃべる。時代の流れの傍らに佇む柏の木が、淋しみもありまた少し可笑しみもある。


4

鑑賞日 2013/6/9
保育園児の作る豊胸雪だるま
五十嵐好子 東京

 子どもというのは何でも大人の真似をする。豊胸手術が盛んな昨今、あるいは豊胸ということが一つの大事な価値であるような風潮の昨今、子ども達はそれを真似しているのかもしれない。可愛らしい句であると同時に、風刺や皮肉が隠されている句でもある気がする。


5

鑑賞日 2013/6/9
久遠とはいつかは氷る水の底
伊藤淳子 東京

 「いつかは氷る水/の底」と受け取った。つまり、水の表面は氷るけれど水の底は氷らない。久遠とはそういうものだ、ということなのだろう。人間世界の移り変わり、あるいは生物の変化、あるいはこの宇宙さえもの変化であっても、それは水の表面が氷ったり溶けたりするようなものに過ぎない。とても想念の大きな句だ。


6

鑑賞日 2013/6/10
春の富士より頂けり野糞の座
内野 修 埼玉

 春の富士を見ながら野糞をしている。この場所はまるで野糞をしてくれと言わんばかりに快適な野糞の場所ではないか。これはまるであの春の富士が私に提供してくれたような感じさえする。ああ気持ち良いかな野糞。ああ春の富士よ。


7

鑑賞日 2013/6/10
ほとけのざすずなすずしろはだれ髪
扇谷千恵子 富山

 はだれ状態にある自分の髪を季節感とリズム感を駆使して軽快に笑い飛ばしている。まさに俳諧性の真骨頂。軽妙軽快な一発ギャグとも言える。


8

鑑賞日 2013/6/11
春一番くびれ自慢の少女達
大西宣子 愛媛

 「くびれ自慢」というのはウェストがくびれていることを自慢しているということだろうか。つまりスタイルの良さを自慢している少女達ということだろうか。おそらくそうだろう。無邪気だといえば無邪気だし、危ういといえば危ういことだとは思うが、とにかくそういうことが彼女達のいわば春一番なのである。


9

鑑賞日 2013/6/11
管で食摂り冬の虹見たという
狩野康子 宮城

 事実ははっきりとは分らないが、末期患者に対する胃瘻というような施術と理解しておく。その方“いのち”というテーマが鮮明になってくるからである。そして「冬の虹」がいのちの価値そのもの、あるいは命を越えた価値の輝きのように感じられてくる。


10

鑑賞日 2013/6/12
雑なわたしへ雪は降りますせつせつと
柄沢あいこ 
神奈川

 雑ということは裏返せば大らかということかもしれないからそれもまあいいじゃないか・・しかしあまり雑過ぎるのも周りとの軋轢もあって生きづらいかも知れない・・雑過ぎるというのはおっちょこちょいでミスが多いということだから・・もしかしたら雑であるとか丁寧であるとかそのものではなくて過ぎるというのが良くないのかもしれない・・ほどほどがいいのかもしれない・・つまりバランスということなのかもしれない・・しかしまあとにかく自分の欠点を知るのはおそらくとても良いことのような気がする・・雪は降りますせつせつと・・降る雪とわたしとの会話。何処かしらに軽い滑稽感があるのは、自己を客観視して作者が軽く戯けているからなのかもしれない。


11

鑑賞日 2013/6/12
春は忙しこころほろぼしていたり
川西志帆 長野

 私にはこの句はむしろ現代日本の状況の本質を表現しているように受け取れてならない。つまり、作者は自分自身のことを書いたのではなく、社会のことを書いたのだと受け取りたいのである。病んでいる日本の病根はここに在りということをずばり書いてもらったという気がするのである。「いたり」という言い切りに大きな視点を感じる。


12

鑑賞日 2013/6/13
自信なき記憶のように独楽まわる
久保智恵 兵庫

 実際記憶というものは独楽が回っているようなものかもしれないと思った。例えばコンピューターなどで記憶を司るのはハードディスクであるが、どうやらハードディスクの中では円盤のようなものが高速で回っているらしい。また人の一生を独楽が回るということに譬えれば、若い頃はそれは実に威勢よく回るが、歳をとるにつれてその回転速度はおそくなる。ゆえに、歳をとってくれば自ずとその記憶力は鈍る。おそらくこの句における独楽は威勢よく不動の姿勢で回っているのではなく、速度が遅いためによろよろという状態で回っているのではないか。


13

鑑賞日 2013/6/13
 海程五十周年記念大会
変哲の万歳の声雪解川
久保筑峯 千葉

 私は海程が現在の俳句界の中でどのような位置にありどのような評価を受けているか知らないが、海程の句を読んでから偶に他流の句を読むと、何だかあまり味が濃くない薄いという印象を受けることがある。これは海程の句が変っている、すなわち変哲だからだろうか。表面的に変哲なものを目指して書くのは良くないが、一生懸命に真実を書こうとして結果的に変哲に見えるのは素晴らしいことのような気がする。往々にして真実というものは普通と変って見えるものである。そういう意味で海程はこれからも変哲であって欲しいと思う。変哲の万歳の声が雪解川の音と混じり合って響いてくる。


14

鑑賞日 2013/6/14
青森牛蒡一米もありそうな
小松京華 神奈川

 一米(メートル)もありそうな青森牛蒡の存在感。私も牛蒡は毎年家庭菜園にも少し作るが、牛蒡は掘るのに厄介なのでなるべく短い品種を作ることにしている。この句にある一メートルもある牛蒡などは、それを掘り上げるのは私などはもうお手上げだろう。ところで青森牛蒡というのは種屋には出回らないので、昔からの地の品種かもしれない。つまりこの句は東北青森という地の中に深く土着したものの一筋縄では動かない逞しさの表現のような気がする。


15

鑑賞日 2013/6/14
春の雪山河に続く待ち時間
佐藤紀生子 栃木

 何処か田舎の小さな駅での待ち時間のような雰囲気がある。あまり遠くないところに残雪の春の山河が見えるような鄙びた駅。気持ちが良いのでこの待ち時間も一つの賜物のように思える。むしろ時間というものが無いかのようで、空間と時間と我との一体性が暗示される。


16

鑑賞日 2013/6/15
ぼんやり来て田に影飛行船
篠田悦子 埼玉

 結局この句は自分自身の存在が飛行船のようだと言っているような気がする。どこかのろくて、鷹揚で、ぼわっとふわっとしている飛行船。現在は昔ほどは使われない。その自分自身すなわち飛行船の影が刈り取られてしまった田に影を落しているというのであるから、これは時代あるいは時間の流れというものをぼんやりと自覚している風情ではないだろうか。スピード狂いの現代に合わない自分自身ということかもしれない。


17

鑑賞日 2013/6/16
春画展観て春愁を去なすかな
清水 瀚 東京

 去(い)とルビ

 私達の内奥には、何故私は生きているのか、何の為に、その必要があるのかというような問いが存在するのは間違いない。それは意識するしないに関わらずである。私達は意識の表面で日常をこなしているが、意識の内奥には常にこのような問いが在ってそれが時々頭をもたげて来る。そしてそのことは私達の生を無意味に無価値に感じさせたりもしてしまう。そういう現象が春愁や秋思なのではないだろうかとも思う。ところで性の営みというものはまさにこれぞ生の営みそのものであると言えるくらいに生に根差した行為であろう。だから、春画展を観て春愁(すなわち死の観念)を去なすというのは首肯ける。


18

鑑賞日 2013/6/16
湯冷めして海馬にひろがる荒野かな
白石司子 愛媛

 海馬というのは脳の部分で、本能的な行動や記憶に関与している部位らしい。その断面が海馬(タツノオトシゴのこと)に似ているのでそういう名が付いたらしい。
 この句における海馬も先ずはそういう意味で受け取るが、句を眺めていると、海の馬そのものが現れてきて、海の馬の目の前にひろがっている荒野が見えてくる。私達の脳の中に海の馬が存在していてそこに荒野がひろがっているというのは実に楽しくて雄大な想像ではなかろうか。湯冷めという日常的な場面とこの雄大で非日常的な想像との間の行ったり来たりが実に楽しい。


19

鑑賞日 2013/6/17
氷山の崩落茶の間に及びけり
須藤火珠男 栃木

 例えば茶の間でテレビを見ている。テレビの画面には氷山が崩落している映像が映し出されている。一方その茶の間では夫婦あるいは家族の間にちょっとした諍いが起った。まるで氷山の崩落が茶の間に及んできたようだ。そんなような状況を思った。作者はそんな状況を面白いと思って書きとめたのではないか。かなり以前にユリゲラーという人物がテレビの中でスプーンを曲げると多くの茶の間でも同じようにスプーンが曲ったというような事が流行ったが、そんなことを連想してしまった。もしかしたらそんなことも有るのかも知れない。


20

鑑賞日 2013/6/17
淡雪やわれに土偶のまろき腹
高木一惠 千葉
「縄文のビーナス」:縄文中期の代表的な土偶。長野県棚畑遺跡出土

Wikipediaより

 こんな土偶だろうか。作者がそういう歳かどうかが分らないが、妊娠しているのだとしたら、状況がぴったり合っている感じはある。ベテランの作家のような気がするから違うかもしれない。いずれにしても女性のふくよかさや大地性が感じられる句である。自然の恐ろしい顔ではなく、惠み深い顔である。


21

鑑賞日 2013/6/18
麗かやうららは頭痛持ちの歌
高桑弘夫 千葉
 頭痛持ちが稀に頭痛が無い時にはそんな気持ちになるのかもしれない。どんな気持ちかというと、うららうららうらうらら。と歌いたくなるような麗かな気持ちである。

22

鑑賞日 2013/6/18
片付かぬ胸の押入れ根深汁
武田昭江 東京
 胸の押入れというものが有るとすれば、それは意識的に片付けるべきものだろうか。あるいはそのまま放置しておけば自然に片付くものだろうか。この二つのケースがあるような気がする。放置しておけば自然に消滅してしまうような場合もあるだろうし、逆にその片付けるべきものが腐敗してしまってどうにもならなくなってしまう場合もあるかもしれない。人生の根深い問題である。

23

鑑賞日 2013/6/19
如月や鉛筆で描く原生林
田中亜美 神奈川
 鉛筆で原生林が描けるかなあと先ず思った。そもそも人間が原生林というような混沌とした奥深い現象を描き写すことができるのだろうかとも思った。そこで思い出したのが齋鹿逸郎という画家である。彼は鉛筆で大画面を描く。描くのは抽象的なものであるが、その膨大な作業から生れる画面はもしかしたら原生林と名付けるのが相応しいものかもしれない。彼の絵を見ていると人間は原生林だという気さえするのである。http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/bunka/30days/part8.htm
 さて句であるが、鉛筆で原生林を描くということに何か暗示があるとしたらそれは何だろうか。物事はシンプルでしかも複雑であるということかもしれない。原理あるいは本質は実にシンプルだが現象は実に複雑であるということかもしれない。そして人間というものは、この広大で複雑な宇宙を単純でシンプルな原理で理解しようと挑んでいる存在なのかもしれないと思った。齋鹿逸郎氏のことなどを思うと、そのような挑戦を続ける健気な人間はやはり美しいのではないだろうかと思った。「如月」という言葉が美しく響く。

24

鑑賞日 2013/6/20
忸怩とは父思うこと梅の花
中村孝史 宮城
 父に対して自分のことを恥じ入っているということだろうか。あるいは父のことを世間様に対して恥じ入っているということだろうか。いずれにしても自己と父性との関係は厄介なものがある。父性を原理にした国は危険だという説もある。そう言われれば戦争に突っ込んでいった時の日本は天皇元首制というまさに父性が強調された国だったのではないか。そしてあの頃の日本がやったことを考えれば(例えば従軍慰安婦の問題など)忸怩たる思いが確かに有る。

25

鑑賞日 2013/6/20
左義長に来し番長の老いにけり
中山蒼楓 富山
 番長であったからこそその老いには悲哀が漂う。年月が経つうちに昔の取り巻きとのそういう関係も無くなってしまったのかもしれない。だから彼は余計に老いを感じているのかもしれない。彼は人前に出るのが少し気恥ずかしいものがある。しかし彼は本質的に淋しがり屋だから左義長に顔を出してみた。

26

鑑賞日 2013/6/21
すべる橋絵踏みのように足を置く
梨本洋子 長野
 すべる橋を恐る恐る渡っているような危うい時代感覚が私にはある。そして逆に政権中枢に居る人は恐る恐る渡るべき橋をエイヤッと無造作に渡ろうとしている気がする。原発稼働やTPPあるいは憲法改訂という実に危ういすべる橋をエイヤッと渡っていいものだろうか。日本は落ちてしまうのではないか。実際これらは破戒行為ではなかろうか。渡るならそれは絵踏みのような破戒行為かもしれないという自覚が欲しい。私ならむしろ渡りたくない。

27

鑑賞日 2013/6/21
笹鳴や強迫的にメモっている
藤江 瑞 神奈川
 強迫的に何かをするというのは、自己の本来的な発現ではなく、何か恐れのような感情から出てくる行為なのかもしれない。強迫的にメモるというのは、本来自分が持っているべき知というものが、今その知識をメモっておかないと発現しないのではないかという恐れあるいは焦りから来る行為なのではないか。つまり、知識の集積が知であるという錯覚から来る行為であるに違いない。ホーホケキョという鳴き方が鶯の本来の鳴き方であると鶯が考えているのだとすれば、チャッチャッとしか鳴けない笹子はかなり焦って鳴いているのかもしれない。

28

鑑賞日 2013/6/22
動物好きの妻に大勢の親戚
北條貢司 北海道
 大らかで健康で世話好きで好かれやすい人物像が目に浮かぶ。当然彼女には親戚も多くしかもその親戚は彼女の周りに集まってくる。そして、この親戚関係は人間に限ったものでなく、動物達も含めた生きとし生けるあらゆる存在であるという気がしてくる。彼女は人間はこの地球家族の一員であるということを具現しているのかもしれない。

29

鑑賞日 2013/6/22
除染まだ冬日にふっと目を閉じる
本田ひとみ 埼玉
 放射能汚染は解毒することが出来ない。だから除染という言葉は誤解されやすいかもしれない。出来るのは移染である。そこにある汚染物を他の場所に移すことが出来るのみである。だからいわゆる除染にはその移染先の場所を確保しなければならない。この狭い日本の何処にそんな場所があるだろう。だから除染はなかなか進まない。悲観的に見れば、部分的な場所は別にして、除染というものは何千年何万年の単位で不可能なことなのかもしれない。絶望的に目を閉じてしまうしかないのかもしれない。ああ冬日よ。

30

鑑賞日 2013/6/23
闘鶏の土佐で深酒して父よ
松本勇二 愛媛
 小津安二郎監督の「東京物語」に笠智衆演ずる父親が昔の友達とぐでんぐでんになるまで深酒してしう場面があったが、この句を読んでそれを思いだして重なってしまう。普段は深酒など決してしない父。飄々として温和で優しい眼差しの父。ああ父よ、何故あなたは深酒などをしたのだろう。それも闘鶏の土佐で。そしておそらくまた日常の時は何事もなかったように過ぎてゆく。人が生れ人が死に、そしてまた日常の時は過ぎてゆく。

31

鑑賞日 2013/6/24
幼子二人に一つの枕薄紅梅
三井絹枝 東京
 この世に生まれ出て間もない二人の幼子は、まるで淡いパステルカラーのような薄紅色をしている。彼らは未だ人間の世の憎しみや怒りや不条理を知らない。彼らは未だ天使の薄い羽衣をまとっているかのようでさえある。

32

鑑賞日 2013/6/24
雪を酒で洗うて墓の微醺かな
村上 豪 三重
 雪との対話、酒との対話、墓との対話、まことに丁寧に書き取られている感じだ。この丁寧さは作者自身の生き方なのかもしれない。そして墓の微醺というような粋な表現に行き着く。

33

鑑賞日 2013/6/25
冬の雲光る気光る木ランナー
茂里美絵 埼玉
 何かの運動競技会を眺めて書いたというよりも、ランナー自身が書いたという印象を受けるのは、走っている時の外界の事物の気とランナーの気との一体感が「冬の雲光る気光る木」という言葉によって見事に表現されているからであろうか。

34

鑑賞日 2013/6/25
生き急ぐ夫にからむや零余子蔓
森由美子 埼玉
 一般的に言えるのは、男の方が生き急ぐ。つまり男は死に急ぐ。だから男は戦好き。概ね女はゆったり生きる。何故ならいのちの本質はゆったりしてるものだから。そしていのちは女が産む。女にとって男は馬鹿だ、何故にそんなに生き急ぐ、何故にそんなに戦を好む。。そして男は駄目にする、大地を地球を駄目にする。いっそ男は絡んでしまえ、零余子の蔓に絡んでしまえ。愛しい夫よ、あなたもまた、男のはしくれ、生き急ぐ。

35

鑑賞日 2013/6/27
象一頭黄蝶一頭我独り
諸 寿子 東京
 殆ど漢字ばかりを使って短く、しかも韻を踏んでリズムよく書かれた形式美が美しい。「我独り」とあるが孤独感や寂寥感ではなく、むしろ誇りのようなものを感じるのは、表現に堂々とした風格があるからだろうか。さらに、蝶の数え方が一頭二頭・・であるという発見から示唆されたある重要な考え方が句の裡にあるような気がする。おそらくそれは、あらゆる命は等価であるというような思想かもしれない。

36

鑑賞日 2013/6/27
銀閣も耳の後ろも冬ざるる
柳生正名 東京
 つまり自分の周りの事物がすべて冬ざれているということだろう。それを「銀閣も耳の後ろも」と具体的に書いたのが俳句的に上手いのである。例えば「寂しいなあ」というような言葉は誰でも言える。もしかしたらそういうふうに物事を抽象的に表現してしまうというのは人間特有の病なのかもしれない。「寂しい」と言ったところで寂しさが解消されるわけではないが、その寂しさを具体的に表現し得たら、もしかしたら寂しさが解消されるということがあるかもしれない。何故ならそれは人間の病である抽象性を脱却し得たということだからである。寂しさは人間特有の病の一種だという仮説は成り立たないだろうか。

37

鑑賞日 2013/6/28
融雪期掬いあげたる句の蒼さ
山本キミ子 富山
 季節の詩としての俳句というものへ誘われる。それからまた、句を「掬いあげる」というのは、良い句が出来る時の一つのコツではないかと思った。そこに在る泉の水を丁寧にまた祈るように両手で掬いあげるような感じである。そしてまた句が出来る瞬間というのは「融雪期」のようなものだと思った。内面の今まで固まってしまっていた詩的エネルギーがすっと融けるような瞬間である。そういう時にその詩的実在を掬いあげることが出来れば、おそらくそれが句である。そしてそういうふうに出来た句は、初めてお目にかかる事物のように手垢に塗れてなく、蒼蒼しく新鮮である。

38

鑑賞日 2013/6/28
星逢うて三歳童子佇ちてあり
柚木紀子 長野
 先ず、風景としての詩的空間がある。星逢いの夜空の下に三歳の童子が佇んでいるというのである。それからまた読んで行くと、この三歳童子は実は二つの星が逢ったことによって生れた子であるという事実に気付く。それは牽牛と織女の子と限定しても物語神話として面白いし、一般的に人間というものは星と星が和合して生れたものだという詩的神話と捉えても面白い。

39

鑑賞日 2013/6/29
清浄の雪降れ妹へ東北へ
六本木伸一 群馬
 壊されてしまった
 汚されてしまった
 犯されてしまった
 捨てられてしまった
 ああ清浄の雪よ降れ
 癒しの雪よ降れ
 妹へ
 東北へ

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