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金子兜太選海程秀句鑑賞 492号(2013年5月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2013/5/8
篤農の湯気たて尿る淑気かな
安藤和子 愛媛

 『海程』以外はあまり読んだことが無いが、敢て言えば、『海程』の素晴らしいところはこういう句が出てくるところだ。土の匂いのする句。土の匂いを忘れてゆきそうな経済や社会状況の中にあって、人間が本来忘れてはならない根っこの部分が描かれている。


2

鑑賞日 2013/5/9
昼灯し狐火のよう車間距離
伊藤はる子 秋田

 私のような田舎者が偶に都会に車で行ったりすると、道路を延々と続く車の多さに驚いてしまう。人間はこんなことをしていて大丈夫なのだろうかと心配になる。こんなに地球のエネルギーを使っていいのだろうか、こんなに炭酸ガスを出していいのだろうか、こんなに贅沢をしていいのだろうか、などと思ってしまう。これは虚構ではないのか、これは虚文明ではないのか、などと思ってしまう。もし、昼間に深い霧のようなものが出て、ライトを付けて走っているとすれば、そのライトが狐火のような非現実感を伴った灯に見えるかもしれない。


3

鑑賞日 2013/5/10
レクイエムみちのく広々冬の波
大内冨美子 福島

 沢山の命が失われ、そして今迄人が住んでいた場所に何もなくなってしまった海岸。そこにはレクイエムのように冬の波の音が聞こえる。このような未曾有の災害に出会った時には、人間にはレクイエムが必要だ。それがなければ人間は再出発することが出来ない。やって来てしまった運命を全て見つめ、受け入れ、悔悟するものは悔悟し、涙し、死者を弔い、きれいな心にならなければ人間は再出発することが出来ない。冬の波に聞き入れば、そんなレクイエムの音楽が聞こえてくるかもしれない。


4

鑑賞日 2013/5/12
鮟鱇の美男の口をすするかな
川崎千鶴子 広島

 鮟鱇というのは食べたことがないのでよく分らないが、その口の部分まで食べるのだろうか。それをすすりながら食べたということであろうか。美味い魚であるそうであるが、どちらかといえば形はグロテスクである。ユーモアの句であると同時に、涎の出そうなエロティシズムもある。


5

鑑賞日 2013/5/12
赤鼻のおじさん殖えてどんどの火
河原珠美 神奈川

 古き良き(悪いところもあっただろうが)地域共同体の姿というようなものが偲ばれる。寒いのでみな赤い鼻をしたおじさん達がやって来て、その年の無病息災と豊作を祈るどんど焼き。おそらくこの時代の米作や麦作は日本の風習や行事や風景にまで浸透していたに違いない。米や麦が単なる貨幣価値で計られる現代においては、このような行事も廃れてゆくのかもしれない。


6

鑑賞日 2013/5/13
蝋梅や母というもの隙だらけ
木村清子 埼玉

 うーん、そうかもしれないと思った。一般的には父親は理詰めで子に接するのに対して、母親は隙間だらけなのかもしれない。そしてそのバランスが子にとってみれば良いのかもしれない。

 ちなみに、蝋梅の花言葉は「先導」「先見」「慈愛」「優しい心」だそうである。


7

鑑賞日 2013/5/13
初鶏や力いっぱい泣く孫と
久保筑峯 千葉

 鶏がいて、孫がいて、正月がやって来る。人と人、人と自然が関わり合いながら、それぞれがそれぞれの場においてそれぞれの生を生きる。健康的な人間の在り方の原型かもしれない。だんだんとこの原型が失われていく世ではある。


8

鑑賞日 2013/5/14
ストーブが猫あたためる独学よ
河野志保 奈良

 この作者の状況は私の状況とほぼ似ているかもしれない。俳句に関しては、私は早朝に起きだしてやることが多い。そして当然冬は着膨れてストーブに暖まりながらやるのである。そして飼っている猫がまた当たり前のようにそのストーブの前に居る。そして私の場合も、まあ学というのもおこがましい気もあるが、すべて独学である。
 山口誓子に「学問の厳しさに耐え炭をつぐ」というのがあるが、私はこの河野氏の句の方がいい。心あたたまるものでない学問は学問の本質を逸脱する可能性があるからである。悪い意味のいわゆる学者というものの無味乾燥ぶりを見れば、このことは自明である。


9

鑑賞日 2013/5/14
老院に閉じこめられし文書くや
小林一枝 東京

 「老院」とは養老院のことであろうか。私はこういう施設の実態はよく知らないが、イメージとしては、年寄りばかりが一つの空間で年がら年中過ごすというのは、やはり不自然で窮屈な感じもある。でもまあ考えてみれば、この世のどんな場所も本質的には牢獄のようなものだと言えなくもないから、どこでも同じだと言えるかもしれない。問題はその場所で文を書くことが出来るかどうかということである気がする。「文書く」ということは即ち、いかに自分を創造性の中に置くことができるかということであろう。私は、作者がこの句の裏でニンマリと笑っているような雰囲気を感じる。


10

鑑賞日 2013/5/15
元朝や大志きれいに消せるペン
小林寿美子 滋賀

 私は使ったことがないが、今は消そうと思えばきれいに消せるボールペンがあるのだそうであるが、これはそのペンのことであろうか。ともかく、きれいに皮肉の効いた句である。時代の風潮に対する皮肉とも受け取れる。例えば私などが連想するのは憲法改正のことなどである。あの憲法の理念が大きな志と理想に満ちているということは誰でも認めることだろう。改憲論者の言い分はそんな大志や理想は現実に合わないということであろう。要するに大志などは捨ててしまって、現実を見よということだろう。大志や理想に現実を近づけてゆくのが人間としての心意気だと私は思うのであるが。


11

鑑賞日 2013/5/16
ふりむけば枯れているのは家だった
坂本春子 神奈川

 村上春樹が世界的に人気があるのは、彼の小説が時代の一つの特徴を表現しているからかもしれない。根無し草の時代、あるいは薄常(無常ではなく)の時代とでも言おうか。そこに幸福があるものと錯覚をして、やたらとモノとカネを追いかけて走り続けている時代である。しかし人々は本当のところ何も拠り所を持っていない。持っていないどころか、曾て持っていたものをも失っていく時代である。ふりむけば枯れているのは家だった、という時代である。


12

鑑賞日 2013/5/16
闇汁に頑固な父が義歯落とす
佐々木昇一 秋田

 つい笑ってしまう。可笑しい。頑固な父であることが尚更可笑しい。落としたのが闇汁の中だということは悲劇であるし、また落としたのが義歯だということは喜劇である。この句は上等な悲喜劇の味がする。人間というものは可笑しくてそして哀しい。


13

鑑賞日 2013/5/17
後頭部のごと墓あまた冬銀河
佐々木義男 福井

 並んでいる墓石がみな後頭部のように見えるというのである。そして空には冬の銀河が冴え冴えと見えている。何だか、この墓石達もみなあの冬銀河の方を眺めているようだ。私も眺めている。墓石達も眺めている。銀河も私達を眺めているとすれば、この句には生も死も含めた一つの交響がある。


14

鑑賞日 2013/5/17
根深汁猫のピアスがテーブルに
佐藤美紀江 千葉

 猫のピアスというものがあるのか、と最初びっくりしたが、現代ではそういうこともあるだろうと思いあたった。猫のピアスがテーブルに置いてある。そのテーブルで洋食ならぬ昔ながらの根深汁を啜っているというアンバランスの面白さ。


15

鑑賞日 2013/5/20
シリウスや子離れという離れ技
下山田禮子 埼玉

 俳句などでも二物の関係が付かず離れずにあるのが良いという言い方をするが、もしかしたら、子と親の関係もそんな関係が良いのかもしれない。うんと離れているように見えて、実はその関係は深い部分で強く繋がっている、というような関係が理想的だろう。まさに離れ技とでも言いたくなるような関係である。ところで我ら人間の事象とシリウスとはどんな関係にあるのだろうか。表面的には全く関係など無いように見えるが、もしかしたら存在の深いところで強く繋がっている可能性は大である。そうでなければこの宇宙の様々な事象はしっちゃかめっちゃかのばらばら状態であり、美とはかけ離れたものになってしまうだろう。あのシリウスの光を美しいと感じることが出来るのは実は我々は彼と深いところで繋がっているということの証しであろう。


16

鑑賞日 2013/5/20
落葉嬉々光の中に立ってみる
新宅美佐子 愛媛

 同じ現象を見ても、人間はそれを否定的に眺めることも出来るし、肯定的に眺めることも出来る。木々がその葉を落としているのを見て、あああんなにつやつやと緑だった葉、あんなに美しく紅葉した葉も全て散っていってしまうのだなあ、無常だなあ、無情だなあ、儚いなあ、つまらないなあ、と見ることもある。ある時、この作者には、木々がその葉を嬉々として落としているように見えたに違いない。実は生も死も嬉々としたものだという認識を深いところで感じたのかもしれない。そして思った、「光の中に立ってみる」と。


17

鑑賞日 2013/5/21
冬薔薇骨まで見える怪我をして
鈴木幸江 滋賀

 骨まで見える怪我をしたのは作者自身であるのか、それともある人物なのかと考えている。ある人物と見たほうが、私として分り易い。その人物は骨まで見える怪我をしてしまったけれど、慌てず騒がず落ち着いている。そんな人物を考えると、冬薔薇が見えてくるからである。


18

鑑賞日 2013/5/21
茶の花や紙人形のうすまぶた
瀬古多永 三重

 「紙人形のうすまぶた」への着目と、それを「茶の花」に結びつけた手柄だろう。「紙人形のうすまぶた」と「茶の花」の配合から受ける印象は、こまやかで清楚な人物像である。そしてどことなく世の儚さという雰囲気も漂う。


19

鑑賞日 2013/5/22
人参に鬚根熟女に白鳥座
十河宣洋 北海道

 随分と飛躍した発想あるいは連想だと思う。むしろキャンバスの上でコラージュを楽しんでいる雰囲気とでも言いたい。理屈ではなく、その明るくてユーモラスな雰囲気の取りあわせを楽しむべきなのかもしれない。敢て意味付けしてみれば、鬚根は人参にとって養分を得る大事な部分であるし、白鳥座あるいはそれに象徴されるようなものから熟女はその養分を得ているということになるかもしれない。


20

鑑賞日 2013/5/22
旧仮名は媚薬のごとし初神籤
高木一惠 千葉

 神籤は[みくじ]と読むのだろう。そのみくじが旧仮名遣いで書かれていた。それを媚薬のようだと感じたのであろう。はてさてそこにはどんな神託がどのような形の文字で書かれていたのだろうか。あるいは旧仮名文字が難しくて意味は分らなかったかもしれないが、とにかく後々まで身体や心がどことなくいわば痺れるような文字であったというのである。神託は解かれなければならない、痺れは解されなければならない。


21

鑑賞日 2013/5/23
生きる面倒死ぬる億劫あみだくじ
高桑弘夫 千葉

 あーあ、生きるも面倒、死ぬるも億劫、知に立てば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、向こう三軒両隣、浮き世浮き世のしがらみや、せめて阿弥陀のくじでも引いて、俺の運勢占おか、所詮この世は阿弥陀くじ、右と思えばあら左、はてさて何処に行き着くか、阿弥陀様さえ気が付くめえ・・・


22

鑑賞日 2013/5/23
お元日日の脚見んとていざりゆく
瀧村道子 岐阜

 いのちとしての人間は健気であれ、しかしユーモアを持って健気であれ、と教えてくれるような句である。


23

鑑賞日 2013/5/24
雪は降る立たされ坊主埋もるほど
竪阿弥放心 秋田

 やはりこういう情景を思いだすと、翻って現在の教育の荒れやその背景にある人心の虚ろさを思わざるを得ない。何が変ってしまったのだろう。おそらくこの虚ろさの根本にあるのは、他者を蹴落としてでも自分さえ豊かになればいいという競争原理が世を蔽っているからではないか。世界が幸せにならなければ、結局自分は幸せになれないという絶対的な法則を人々が忘れてしまっているからではないか。この句に私は良き時代の一つの情景を感じるのである。そこでは教師も立たされ坊主もそして降る雪も、ある一つの親密感の中にある筈なのである。


24

鑑賞日 2013/5/24
着ぶくれて本一冊分の独り言
峠谷清広 東京

 何故か「貧しき人々」の主人公ジェーブシキンを思った。私はドストエフスキー好きであるが、その作中人物の中でも好ましい人物の一人である。このジェーーブシキンという人物を形象できたことによって「貧しき人々」はドストエフスキーの出世作となったのであるが、おそらく私にはこの句に描かれた人物像とジェーブシキンが重なるのである。


25

鑑賞日 2013/5/25
冬の橋貌なしばかり映るかな
長尾向季 滋賀

 だんだんと「貌なし」の時代になってきたと言えるかもしれない。マイナンバー制度というものが法案として可決されたそうだ。国民は番号として認識される時代になってゆくということだろう。また自民党の憲法改定案には国防軍というものが規定されるようだが、軍隊というものの構成員である兵士は基本的には番号である。個性を持たない番号が死んでもすぐに交換可能なのである。これから我々は貌なしばかりが川面に映る寒い冬の橋を渡る時代になってゆくのかもしれないと思った。それはおそらく、貌が無いということが特徴の貨幣のみに価値を置いている我々自身の責任なのかもしれない。


26

鑑賞日 2013/5/25
水音の元気な家に嫁が君
中村真知子 三重

 とても活気があって皆が生き生きと生活している様子が手に取るように分るのは「水音の元気な家」という表現の卓抜さによるのだろう。そしてそういう家には元気な嫁がいることが多いのである。嫁が君の季語的な意味も加味して味わうと一層味がある。


27

鑑賞日 2013/5/26
木の家は淋しき巣穴冬の雷
中村裕子 秋田

 作者は秋田の人である。想像するに古い民家のような家なのであろうか。私の家もそうだが、建て付けも悪いから隙間風も入ってきて寒い。更に私の地方(長野の山間部)でもそうだが、家族もだんだん減ってきて年寄りの一人暮らしやせいぜい二人暮らしが多い。電気代や燃料費も高くなってきて節約生活を強いられる。これじゃまるで動物の巣穴に住んでいるみたいだ。人間世界の心理的な孤独感もあって淋しい限りである。人間は淋しいなあ。冬の雷様もごろごろごろごろ・・・


28

鑑賞日 2013/5/26
嫁が君八十路は睨み効かぬなり
長谷川育子 新潟

 まあ何れにしろ嫁が君が元気よく幅を効かせているほうが五穀豊穰子孫繁栄目出度し目出度しということを作者は分っていて戯けてみせたという雰囲気である。


29

鑑賞日 2013/5/27
しぐるるや関東平野に葱は倒れて
平田 薫 神奈川

 「関東平野」という具体的で大きな視点がいい。大きな視点といってもあまり大きすぎてはおそらく駄目で、関東平野くらいがちょうどいい。葱が倒れているのもいい。つまり情景がありありと目に見える。


30

鑑賞日 2013/5/27
春へもういろんな私信じよう
平野八重子 愛媛

 これは良いあれは駄目だと言わないで、みんな良いとして生きようということなのである。では、これとあれが矛盾している場合はどうなるのか。おそらくその矛盾もまた良しとしようということになるのかもしれない。つまり論理を越えたもっと大きなものに従って生きようということなのかもしれない。論理を越えたもっと大きなものって何だろう。おそらくそれは春を春たらしめている、自然を自然たらしめている何かである。


31

鑑賞日 2013/5/28
夜神楽だ津波で逝きし魂も来よ
藤野 武 東京

 実は私は神楽も夜神楽も見たことがないので、その実際の雰囲気は知らないのであるが、とにかくこの世は死霊も生霊も含めて、生きとし生ける有りとあらゆるものの祭りだというような感じ方捉え方はよく分る。


32

鑑賞日 2013/5/28
茫洋とありし老いたる勇魚取
堀之内長一 埼玉

 勇魚取[いさなとり]とは鯨取とも書いて、鯨を取ること即ち捕鯨のことであるらしい。ここではその人を指すのであろう。季は冬であるらしい。かつて広々として限りない海原の果てしない時間を過ごしていた勇魚取の老人。歳を取ってしまったこともあり、また捕鯨が禁止されてしまったこともあり、彼は所在ないのである。彼の目は彼の心は今なお彼の海原を彷徨っているようだ。何故かふと涙が湧いてくる。


33

鑑賞日 2013/5/30
一片の雪なり永久の別れなり
本間 道 新潟

 一片(ひとひら)とルビ。

 われわれはそれぞれが一片の雪のようなものである。溶けてしまえばそれが永久の別れであり、もうその人には会えない。存在のあまりの悲しさと美しさにどうにもならなくなってしまいそうな別れの瞬間を描いた句である。悲しくて美しくて鳥肌がたってくる。


34

鑑賞日 2013/5/30
はや三日蛇より長い坂上る
舛田 長崎

 蛇のようにくねくねと曲った坂道。その坂道は絶えず予測なく動いている。ぬるぬるとして滑りやすい。蛇には頭と尻尾があるが、その坂道は頭も尻尾も定かではない程長い。そんな坂道を上ってゆくのが人生というものかもしれない。


35

鑑賞日 2013/5/31
村じゅうのぶりこ噛む音嫁が来る
武藤暁美 秋田

 「ぶりこ」をネットで検索してみた。ハタハタの卵巣のことであるらしい。次のように出ている。

■普通卵巣は未成熟のものがうまい。秋田市で聞くと成熟した殻の硬いものがいいという。これを口に含んでガムのように噛み、エキスを楽しんでそとの皮部分を吐き出すのだ。
■昔水戸の藩主であった佐竹公が秋田に国替えになったとき、ブリの料理で正月を迎える習わしであったところを、ブリがとれないのでハタハタで代用した。その卵を「鰤子」と名付けた。
http://www.zukan-bouz.com/suzuki/wanigisuamoku/hatahata.html

 私の住んでいる鬼無里村(合併して今は長野市)と同じように秋田の村も今は過疎が進んでいることだろうか。とにかく人が減ってゆくばかりである。嫁など滅多にこない。だから、こういう句の気持ちは分る気がする。


36

鑑賞日 2013/5/31
草むしる蟋蟀の寝床もあるだろに
森岡佳子 東京

 蟋蟀の寝床もあるだろうに、まあ勘弁してくれよなあ、これもおそらく人間というものの業のようなもの、草をあまり生やしておくと、蛇などが住み着いておっかねえからなあ、まあまあ勘弁してやってくりょ。


37

鑑賞日 2013/6/1
冬耕のひとりが石となる日暮れ
山田哲夫 愛知

 冬の夕暮という一つの永遠。永遠ということは、時間が無い、あるいは時間が止まる、あるいは現在が全てというような状態である。この句はそういう時間感覚に誘う。


38

鑑賞日 2013/6/1
ぐるりに垂氷一戸の齢爛爛と
柚木紀子 長野

 垂氷(たるひ)、齢(よわい)とルビ

 この一戸の存在感。冴え冴えとした意識に捉えられた事物とでも言えようか。描かれた対象物は違うが、私は岸田劉生の“切り通しの図”を思いだした。

切り通し 岸田劉生
http://bunka.nii.ac.jp/Index.do

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