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金子兜太選海程秀句鑑賞 491号(2013年4月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2013/3/30
木菟や正にまじめに鬱っぽく
阿保恭子 東京

 正(ただ)とルビ。

 ある人物を形容しているのか、あるいは木菟そのものの描写なのか、どちらとも言えると思うが、とにかく「正にまじめに鬱っぽく」している人物あるいは性格というものが世の中にはあるなあ、ということ。


2

鑑賞日 2013/3/31
手をかけずそうして物は枯れてゆく
石山一子 埼玉

 諦観という言葉が相応しい句かもしれない。万物は生成し流転しそして消滅してゆくことの繰り返しである。人知や人為ではどうにもならないものである。この句はそうした事を大袈裟に書かないで、軽く戯けた雰囲気をもって書いているのが、いかにも俳諧的である。


3

鑑賞日 2013/4/1
ざざ漏れの晩節冬至かぼちゃ煮て
市原光子 徳島

 私なども、こんな筈じゃなかった、もっときれいにまとまって漏れの無い晩節を迎える筈であった、などと思うことが多々ある。そうは思っても、否応なく季節は巡り、日常は進んでゆく。冬至かぼちゃも煮なければならないわけである。しかし、おそらく、かぼちゃを煮るというような日常の行為の中にこそ、実は永遠の時間が存在しているのだということも時々観照されることがある。「ざざ漏れの晩節」という言い方と「冬至かぼちゃ煮る」のコンビネーションが実にいい。


4

鑑賞日 2013/4/2
悪役の居ない台本マスクする
上田久雄 石川

 「悪役の居ない台本」と「マスクする」の間にどんな関係があるかを見つけることが肝要なことのような気がする。マスクするを仮面をつけるという意味に取れば、それは悪役の居ない台本を書くようなものだと言えないだろうか。つまり、本当の姿は隠しておいて奇麗事で生きがちな私達の在り方を暗示しているように見えるのだが。


5

鑑賞日 2013/4/4
冬の寺微塵はひかりまみれなり
大高宏充 東京

 私の好みとしては、古寺がいい。冬の古寺。それも小さな寺がいい。そんな小さな古寺に座っていると、埃や塵が光を帯びて見えてくる。ああ、存在は荘厳されていると感じる瞬間である。「ひかりまみれ」という表現が素敵である。


6

鑑賞日 2013/4/5
枯蟷螂まだ斧あげてわが身かな
岡崎万寿 東京

 人間の上下関係というのではなく、人間のタイプの分け方としてのカーストというものはあるかもしれない。もしかしたら作者はクシャトリアあるいは武士の性格を持っているのかもしれない。クシャトリアは老いても尚闘う姿勢を崩さない。


7

鑑賞日 2013/4/6
一人ぼっちの堂守金色落葉かな
柄沢あいこ 
神奈川

 この一人ぼっちの堂守は果して孤独だろうか。いわゆる孤独あるいは孤立とは違うような気がする。彼は一人ぼっち状態を受け入れむしろ楽しんでいるのかもしれない。彼は金色落葉を眺めている。あるいは彼自身が金色落葉である。


8

鑑賞日 2013/4/7
煮凝りの家族がまたぐ虚無地獄
京武久美 宮城 

 愛は水のようなものであると言われる。低いところ低いところを選んで流れ込んでゆく。愛は身を低くする者、謙虚な者のところに流れる。愛は流体である。煮凝りは固まってしまっている状態であるが、つまり愛というものが流れなくなってしまっているということの象徴であるとも受け取れるが。


9

鑑賞日 2013/4/7
「9条」は摘んではならない冬すみれ
河野志保 奈良

 見つけた
 人間の良心を見つけた
 人間の素朴を
 人間の素直を
 理想を
 尊厳を
 寛容を
 希望を
 見つけた
 憲法「9条」を見つけた
 冬すみれを見つけた


10

鑑賞日 2013/4/8
ジョルジュ・ルオーに
基督も道化師も青冬の街 
小長井和子 
神奈川

 道化師は基督である
 貧困者は基督である
 虐げられている人は基督である
 ルオーよ君はそう言いたかったのではないか
 君のその熱を帯びた厚いマチエールにそう感じるのだ
 この青い冬の街に佇み、私は今そう感じるのだ


11

鑑賞日 2013/4/8
素白という椿ありけり逢いたし
小林寿美子 滋賀

 花を愛する人はその花に人格を感じているのかもしれない。そうだとしたら、素白という名の椿があれば、逢ってみたいということが私にもよく分る。無垢な心を持った清楚な人。そんな人には何時だって逢いたいものである。


12

鑑賞日 2013/4/9
手の届く処に聖書秋出水
小林晋子 秋田

 何時も聖書を読んでいる信仰者というようにも受け取れる。あるいは、手の届く処に聖書があるが、案外それだけである程度満足して、実際には殆ど読まない人、という感じもある。どちらもそれぞれ優れていると思うし、いずれにしろ「手の届く処に聖書」と「秋出水」のバランスの取れた落ち着いた雰囲気がある。


13

鑑賞日 2013/4/9
うずくまる藁塚藁塚たるに倦み
小宮豊和 群馬

 先ず、藁塚の積まれた刈田が目に浮かぶ。それから、あーあ俺はうずくまるばかりでもう藁塚であることにうんざりしたよ、という藁塚の呟きが聞こえて来て、そこはかとない滑稽感を感じる。更に、藁塚の姿に、東北のような地方の利用され押しつけられ捨てられる農民の姿というようなものが重なってきて、そうだそうだもううずくまることはない、立ち上がって独立した方がいい、と応援したくなる気持ちが湧いてくる。


14

鑑賞日 2013/4/10
豪雪停電狐の嫁入りのように母
佐々木宏 北海道

 具体的には、停電して、ロウソクやあるいは行灯のようなものを持ちだしてきて使っていると、その最中にふと母が狐の嫁入りの時のような雰囲気を醸し出したというのであろうか。停電というものは面白いものである。突然に電気が無かった頃の、ある意味、懐かしい記憶が蘇ってくる。夜ともなれば尚更であるし、豪雪ともなれば更なるものがあるかもしれない。現代人は闇ということを忘れてしまっているが、闇には人間を癒す力も人間の想像力を掻き立てる力もある筈なのである。敢て言えば、現代人はもっと闇の力を取り戻すべきではないだろうか。


14

鑑賞日 2013/4/10
豪雪停電狐の嫁入りのように母
佐々木宏 北海道

 具体的には、停電して、ロウソクやあるいは行灯のようなものを持ちだしてきて使っていると、その最中にふと母が狐の嫁入りの時のような雰囲気を醸し出したというのであろうか。停電というものは面白いものである。突然に電気が無かった頃の、ある意味、懐かしい記憶が蘇ってくる。夜ともなれば尚更であるし、豪雪ともなれば更なるものがあるかもしれない。現代人は闇ということを忘れてしまっているが、闇には人間を癒す力も人間の想像力を掻き立てる力もある筈なのである。敢て言えば、現代人はもっと闇の力を取り戻すべきではないだろうか。


15

鑑賞日 2013/4/10
すれ違う焚火の匂いする父と
佐藤紀生子 栃木

 作者がすれ違ったものは、本質的には何だろうか。焚火の匂いのする父の本質は何だろうか。ある懐かしい記憶、原初的な記憶の一部ではないだろうか。現代の日常生活では忘れてしまっている人間の魂に呼びかけてくるような記憶ではないだろうか。


16

鑑賞日 2013/4/12
枯葉着て眠りこけたい一日です
釈迦郡ひろみ 
宮崎

 作者は疲れているのかもしれない。実際、真面目に生きようとすればするほど疲れてしまう世の中だ。何もかもぶん投げて、温かそうな枯葉の中に潜り込んで眠りこけたい日もある。


17

鑑賞日 2013/4/12
豊頬の古代の面や冬の蔵
新城信子 埼玉

 豊かな頬をした古代の面が冬の蔵の中に眠っていたのを見つけたのだろうか。感受性と想像力の豊かな人であれば、豊かな心の古代人の面影と現代の冬の蔵で出会ったというのは一つの啓示的な場面でありうる。


18

鑑賞日 2013/4/13
白昼夢雪の地平へ母を置く
菅原和子 東京

 白昼夢の中で雪の地平へ母を置いたというのである。どのような祈りなのか、どのような願いなのか、正直言って私には理解の及ばないものがあるが、イメージとしては母と娘が戯れているような、あるいは祝福された時空の中で娘が母を相手におままごとをしているような雰囲気がある。


19

鑑賞日 2013/4/13
髪切って頭にしみる刈田かな
鈴木修一 秋田

 髪を切った時の頭の感じと刈られた後の田の感じがよく似ているということだろう。人間と自然の親密性が土台にある気がする。


20

鑑賞日 2013/4/14
彼岸花日本にヒト住めぬ場所
瀧 春樹 大分

 失われてしまった国土。失われてしまった山河。失われてしまった故郷。我々は彼岸花を捧げてそれを弔うしかないのか。悲しい現実だ。


21

鑑賞日 2013/4/14
深読みも亀裂のひとつ冬鴎
田口満代子 千葉

 深読みも亀裂のひとつだと作者は感じている。解釈すれば、もっと物事を単純に見ようということかもしれない。もっと物事を無垢な目で見ようということかもしれない。例えば朝になれば日が上るように、例えば母親が我が子を抱きしめるように、例えば冬鴎が空を滑空するように。


22

鑑賞日 2013/4/15
百済という在に機関区草雲雀
竹内羲聿 大阪

 行政上の地名ではないが、大阪市に百済という地名が残っているそうである。作者は大阪の人だからその場所のことかも知れない。とにかく、百済という在に機関区があり草雲雀が鳴いているというのである。過去から現代に到る人間の歴史が自然という空間の中で共に息づいている、ということであろうか。具体的で飛躍した言葉の取りあわせが印象的である。


23

鑑賞日 2013/4/15
鴨は水鳥魚屋に吊られたり
竪阿彌放心 秋田

 鴨が魚屋に吊られているのを見た時のハッとした覚醒の印象とでもいったらいいだろうか。もしかしたら我々俳人は〈ハッとした覚醒の印象〉を言葉の世界に招き入れようと努力しているのかもしれない。


24

鑑賞日 2013/4/16
流木は光の棲家冬はじめ
月野ぽぽな 
アメリカ

 光の澄んだ初冬の空気の中で流木を眺めている作者。作者はアメリカ在住であるがそもそもは信州人であるらしい。おそらく自分自身流木感のようなものもあるに違いない。そしてその流木感を今は光を受けて楽しんでいるのかもしれないと思った。


25

鑑賞日 2013/4/16
冬蠅を逐う手よ核に逐われし手
中村 晋 福島

 もしかしたら我々は常に何かに逐われ、そして何かを逐っぱらうという輪廻の中に生きている存在なのかもしれない。しかしやはりその逐う奴が核だというのはあまりにも腹が立つ。その手は巨大な利権構造の中にいる奴等の自分勝手な欲望の手だからである。そう考えると、冬蠅を逐う手は実に優しい手であると言える。


26

鑑賞日 2013/4/17
夜神楽へ臨時列車の来ておりぬ
中村真知子 三重

 この句には現代の風潮の一面が切り取られて描かれている気がする。つまり、現代人はすぐブームに乗る。何だかよく分らないが他人が行列を作っていると何はともあれ自分も並んでみたくなる。何か大事なものがそこにあるのではないかと錯覚する。そして、文化というものは自分で作るものだと思わない。やたらと過去の文化遺産にしがみつく。温故ということは大事なことであるが、知新というガッツがあまりない。


27

鑑賞日 2013/4/17
急がずとも身辺すでに冬ざるる
成田恵風子 福井

 何も死に急ぐことはない。季節は自ずと巡って、死の季節もやってくるのだから。自ずから成るものに身を任せておくのが一番いい。春夏秋冬と巡って、ほら今では既に冬ざれている。


28

鑑賞日 2013/4/18
蛇穴へ自分史やはり秘めたままに
長谷川順子 埼玉

 この句もやはり「蛇穴へ」という季語の絶妙な味だろう。


29

鑑賞日 2013/4/18
古九谷の壺に山霧一泊す
浜 芳女 群馬

 旅情。我々は時間の旅人でもあるし空間の旅人でもある。歴史の中の一コマに仮住まいし、空間の中の或る場所を借りて一拍しているに過ぎない。山霧が旅情を深める。


30

鑑賞日 2013/4/19
弱法師を舞うた昔よもがり笛
日秋英子 兵庫

 弱法師(よろぼし)、舞(も)とルビ

 辞書によると弱法師とは「謡曲。四番目物。観世十郎元雅作。大坂の天王寺で高安通俊が、諦観に身を置く弱法師という盲目の乞食に会い、それがわが子の俊徳丸と知る」とある。この物語も、また謡曲のことも殆ど知らないので、なかなかこの句の情趣に追いつくことはできないが、それでも少しはその雰囲気が分る気がするのは「もがり笛」の持つ情趣であろう。


31

鑑賞日 2013/4/19
選挙終えセシウムしみる枯野かな
マブソン青眼 
長野

 この作家の放射能への感受性は大したものである。私などはどちらかといえば鈍感な方だから、もちろん原発には反対なのであるが、理屈で反対している部分が大きい。殊に長野は比較的に低線量の地域であるから、「セシウムしみる」という感受性はなかなか持てない。とにかく原発か反原発かの決定的な境目は、いのちへの感受性の問題だろう。


32

鑑賞日 2013/4/20
灯ともし頃あまたのわれと影を踏む
水野真由美 群馬

 時間や空間を越えて自己が統合されてゆく感じのとても心あたたかい懐かしさに浸されるような句である。どういうわけか、この句を読んだ瞬間に、映画「思い出ぽろぽろ」の最後の場面が目に浮かんだ。


33

鑑賞日 2013/4/20
疲れたかな一羽の冬かもめに夢中
宮崎斗士 東京

 一羽の冬かもめの飛翔を眺めている。少し動きが鈍くなってきたようだ、高く飛翔していたのがだんだんと低くなってきた、今にも止まりそうだ、疲れたのかな。もっともっと美しい飛翔を続けてくれればいいのに、でもやはり休むことも必要だろうな。そういえば〈かもめのジョナサン〉はどうしただろう。彼は美しい飛翔を寝食も忘れて研究していたが、彼のような存在は可能だろうか。いや、やはり疲れるのが自然だろう。とにかくとにかく一羽の冬かもめに夢中になっている私。


34

鑑賞日 2013/4/21
収縮も弛緩も飽きてなまこかな
武藤鉦二 秋田

 収縮することにも弛緩することにも飽きてなまこがごろんと居る。人に諂って身を縮めて生きることにもうんざりしたし、かといって日がな一日何処にも出かけないで何もしないでふやけているのにも飽きてしまった俺みたいだ。


35

鑑賞日 2013/4/21
栗甘し硬しコクトーの詩篇のよう
村上友子 東京

 我家は栗がたくさん獲れてすぐには食べきれないので、網の袋に入れ吊して保存している。そうすると乾燥して、茹でてもかなり硬い状態になる。しかし噛みしめて食べれば、硬いながらも甘くて美味しい。この句は素敵なコクトー詩論ではないだろうか。コクトー詩を殆ど知らない私が言うのも妙だが。


36

鑑賞日 2013/4/22
あのゴリラひとを枯葉のように視る
茂里美絵 埼玉

 動物園のゴリラだろうか。てめえら俺をこんな檻の中に閉じ込めやがって、俺様が嬉しいとでも思ってんのか、アホめ、てめえらに食事を世話をしてもらって俺様が喜んでいるとでも思ってんのか、この野郎、てめえらなんかそうだなもういのちというものがねえ枯葉みてえなもんじゃねえか、俺様は水分のたっぷりある森の中に住んでいたんだぞ、こんちくしょう、てめえらなんか、枯葉だ枯葉だ枯葉だ・・・水っ気のねえ枯葉だ。


37

鑑賞日 2013/4/22
能面打ちの座るところまで冬日
山本昌子 京都

 静かなる黙想的な時間の流れ、いや、むしろ時間というものはここでは止まっているのかもしれない。能面も能面打ちも冬日も、この黙惣的な時間そのもの、黙惣的な存在そのものなのかもしれない。


38

鑑賞日 2013/4/23
冬幻ほどなる鬱よ息ひけり
柚木紀子 長野

 息(いこ)とルビ

 大ざっぱな言い方になるが、鬱というものは過剰なる死の観念が招くものなのではないだろうか。逆に躁というものは過剰なる生の観念が招くように思える。そして私は思う、死というもの自体が幻であると。


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