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金子兜太選海程秀句鑑賞 490号(2013年2・3月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2013/2/9
鬼くさし銀杏掃き寄す日課かな
阿久沢達子 群馬

 「鬼くさし」というのは「鬼臭し」であろうか。それ以外どうも考えつかないので、そうだとして見るしかない。
 人間の内面というのは層になっている。一番外側の層は日常的な層である。その層の内側の層には鬼が住んでいる。天使も住んでいる。さらにその層の内側もある。普通われわれは日常的な第一の層に住んでいて、あたかも自分の中には鬼など居ないというような顔をして生きている。しかし居るものは居る。天使でさえ居る。ドストエフスキーの小説が面白いのは、殆どこの第一の日常的な層を無視して、鬼と天使が同居する層の物語を書いているからだ。しかも彼は更にその奥の層のことまで書いている。
 どうも話がとりとめも無くなりそうなので止めるが、この句の場合、われわれの日常性の内側に潜むものを示唆している雰囲気がある。


2

鑑賞日 2013/2/10
浴室の紅葉は造花癌病棟
足利屋 篤 群馬

 作者はこの句を書く時に何を感じて書いたのだろうか。最新医療における、あるいは病院というもので扱われる、人間のいのちの造花性というようなものだろうか。いずれにしても、病院という場においてこそは、本物の花を置いておいて欲しいものである。たとえそれが萎れて死んでしまうものであったとしても、そういうことも含めてそれは美しいのであるから。


3

鑑賞日 2013/2/11
行き場なき漂流家族秋出水
石川青狼 北海道

 福島原発事故で放射能の溢れから逃げ出した漂流家族を思う。もしこの放射能の漏れを秋出水に譬えるなら、これは途轍もない規模の秋出水であろう。しかも季節は冬に向っている。彼らには全く先が見えない。福島原発事故は偶然にも現在の規模で納まっているが、決して終息したわけではない。もし強い余震などで4号炉の使用済み核燃料プールが崩壊したなら、首都圏を含む何千万という数の漂流家族が出る可能性が現在もあるという。


4

鑑賞日 2013/2/12
絶筆の推敲のあと霜雫
石川まゆみ 広島

 「霜雫」という譬えが見事である。いのちそのものの消え入る感じであるとか、この絶筆を遺した作家の文筆に寄せる思いであるとかが、見事に伝わってくる。


5

鑑賞日 2013/2/13
分去れや捨てきれぬもの紅葉す
市川正直 東京

 分去(わかさ)とルビ

 別離の為の一つの美学。名言集に残したいくらいだ。


6

鑑賞日 2013/2/14
とんぼ飛ぶ音なくてこの日常感
伊藤淳子 東京

 瞑想的な日常感。日常が瞑想の質を帯びているのでなければ、それは真の瞑想とは言えないだろう。そして瞑想というものは常に沈黙の質を帯びている。作者の成熟した生の在り方が想像できる句である。


7

鑑賞日 2013/2/15
人体は冬の装置のごと清し
岡崎正宏 埼玉

 「冬の装置」という把握が現代的である。私はこの句を見て、金子兜太の

人体冷えて東北白い花盛り

という句を思い出した。兜太の句の祝祭的な雰囲気に対して、岡崎さんの句は日常観照的な雰囲気であるが、両句の思想的な基盤はおそらく同じであろう。東洋的なものである。


8

鑑賞日 2013/2/16
枇杷の花土舐めて土確かめる
奥山和子 三重

 作者自身のことを書いたのか、他の人物のことを書いたのかは分らないが、ともかく「土舐めて土確かめる」という行為はいわゆる篤農家の行為である。彼は土と一体なのだ。土は彼の身体の延長なのだ。農というものは単なる産業ではなく、土というものは単なる設備ではない。彼の身体即ち心でもある。「枇杷の花」が相応しい。


9

鑑賞日 2013/2/17
豆を打つ冬眠の蛇起こさぬよう
小池弘子 富山

 立春の前日の節分の日の夜に日本人は豆を打って鬼を追い払うという行事を持つ。一般的には大声で威勢よく豆を打つのであろうが、作者は冬眠の蛇を起さぬように丁寧にそっと打つというのである。母性的な優しさの句であると言えようか。


10

鑑賞日 2013/2/18
ひたすらなるものに落日冬の水
児玉悦子 神奈川

 生きてある或る澄んだ意識の時に人が落日に出会うと、人はその美しさに魅了される。そして人はこの落日のようにひたすらに生きたいと願う。「冬の水」は澄んだ意識の象徴である。


11

鑑賞日 2013/2/19
秋出水胡座会議が決裂す
佐々木昇一 秋田

 「胡座会議」という言い方の面白さ。秋田の方にはこういう言い方があるのだろうか、それとも造語だろうか、とにかく言い得て妙だ。「秋出水」は、秋出水のように、あるいは秋出水があったから、あるいは秋出水に関した胡座会議が、決裂した、といろいろ取れるが、その辺りは付かず離れずでいい。


12

鑑賞日 2013/2/20
こころとは器なり飯包む葉っぱ
篠田悦子 埼玉

 飯(いい)とルビ

 日本語で心という言葉はあいまいである。マインドと訳されたりハートと訳されたりし得る。一般的には胸の辺りにあって温かいもの良いものというような感じであるが、逆に邪悪な心というような言い方もある。作者は定義する、こころとは器なり、と。飯を包む葉っぱのようなものである、と。私の感じでは、このこころは愛という言葉にも置き換えてもいいようなおおどかな概念である。


13

鑑賞日 2013/2/21
秋の男象の皺みて小半日
柴田美代子 埼玉

 いいなあと思う。私はどちらかと言えば、次から次へと何かやっていなければ気が済まない性格なので、逆にこういう人物に憧れる。彼は象の皺に何か豊かな物語を見ているのかもしれないし、詩や歴史や一つの哲学を感じ取っているのかもしれない。いやいやこういう見方自体が私のせっかちなものの見方なのかもしれない。彼はただ象の皺を見ていて、あらゆる想念から自由なのかもしれない。確実に言えることは、この句におけるこの人物には、悲観的なものは何もないということである。


14

鑑賞日 2013/2/22
鼻から管紅葉が窓にぐにゃぐにゃ
十河宣洋 北海道

 「鼻から管」というのは何かの病気で入院した時の処置であろう。作者自身のことであろうか、あるいは誰かを見舞った時のその誰かのことだろうか。「紅葉が窓にぐにゃぐにゃ」という表現からすれば、やはり作者自身のことである感じがする。戯けている感じがあるからである。どんな場面でも戯けることが出来るというのは俳諧的あるいは禅的であると言えよう。


15

鑑賞日 2013/2/23
柚子は黄に音沙汰は水影のよう
田口満代子 千葉

 時の流れというものを女性的な感性で書きとっている。感傷や無常感のようなものはない。現在もそして記憶として残っている過去も美しいのだ。


16

鑑賞日 2013/2/24
車窓に星ぶつかりくるを潤といふ
武田美代 栃木

 随分と錬って作った句のような気がする。もしそうでないなら、作者は普段から漢字に対する素養や興味があるに違いない。こういう風に言われてみると、「潤」という漢字が抒情を秘めた一つの生命体のように見えてくるから不思議である。


17

鑑賞日 2013/2/25
カナリアとカナリアの籠寒林に
田中亜美 神奈川

 先月号に同じ作者の次の句があった。

円錐と円錐の影夏逝けり

 今月号のこの句とその構造がよく似ている。二つのものがある。その二つのものの一つは他の一つに付随している。円錐が有るから円錐の影があり、カナリアがいるからカナリアの籠がある。円錐の無い円錐の影は存在しないし、カナリアがいなければそもそもカナリア用の籠は存在しない。実体とその影、あるいは実体とそれの器。では我々のこの世界は果してどっちなのだろうか。この世界は実体であるのか、それともその影あるいはその器なのであろうか。「夏逝けり」も「寒林に」もその辺りの確としない心の有り様を表わしているように思えるのであるが。


18

鑑賞日 2013/2/26
天高く落ちたくなった池がある
谷 佳紀 神奈川

 そうだ、われわれは一度は落ちたほうがいいのかもしれない。何処に、天にある池に。あるいは、天があくまでも高くそして自由に感じる時、われわれには落ちたくなる池が見えて来るのかもしれない。次の句が思い浮かんだ。

古池や芭蕉飛び込む水の音    仙ガイ和尚


19

鑑賞日 2013/2/28
訛りしみじみそして秋刀魚の刺身かな
田村勝美 新潟

 「訛り」と「秋刀魚の刺身」の親和性も勿論そうだが、この句の味を引き立てているのは「・・しみじみそして・・」という口調にあるのではないか。私の父は新潟の出身であるが、あの辺りの訛りを思い浮かべながら読むと、その風土に身を浸している感じになる。


20

鑑賞日 2013/3/1
舌に骨なくて紅葉山果てなし
田村行子 栃木

 難しい句だ。難しいというのは、「舌に骨がなく」という事実と、「紅葉山果てなし」という事実が離れていて、そこに見えてくるものがなかなか掴めないということである。逆に言えば、たくさんのものが見え過ぎということもあるかもしれない。例えば、私が最初に見えたものは、あたかも舌に骨が無いようにぺらぺらぺらぺらと果てしなく喋る評論家のような人物である。彼の議論は骨格の無い軟体動物のようであり、また良く言えばどこまでも果てしなく続く紅葉山のようでもある。でもこんな受け取り方がぴったりとしているわけではない。


21

鑑賞日 2013/3/2
銀漢はびしょ濡れのまま街の上
月野ぽぽな 
アメリカ

 感覚が冴えていると言ったらいいだろうか。あるいは、若々しい、鮮らしい、余分な思考に蔽われていない、と言ったらいいだろうか。要するに、自然の事物との生(なま)な交信がある。


22

鑑賞日 2013/3/3
冷え性の稗の種ですわたくしは
遠山郁好 東京

 自己紹介すれば、わたくしは稗の種です。おまけに冷え性です。この滑稽感。


23

鑑賞日 2013/3/4
蛇穴へさうして誰もゐなくなる
長尾向季 滋賀

 痛快さ快さがある。終末論であるとか終末的な世界観というものは、もしかしたら誰もがある程度持っていて、そしてある程度それを楽しんでいるのではないだろうか。そうして誰もいなくなる世界、を誰もが快く想像しているのかもしれない。そうでなければ、この句の快さというものは説明できない。


24

鑑賞日 2013/3/5
男体山も介護の仲間顔を見す
中島伊都 栃木

 男体山(なんたい)とルビ。

 人間同士が親密である。また、というか、それ故に、人間と自然が親密である。


25

鑑賞日 2013/3/6
待ちし子はとんぼがえりよ雨月なる
長野祐子 東京

 句意はあきらかである。「雨月」というものが心情によく響いているし、また「なり」と強く切らないで、「なる」と続くように軽く止めたのも心情の微妙さが上手く出ているような気がする。


26

鑑賞日 2013/3/7
亡夫の髪なでたくて居る無月かな
中村道子 静岡

 亡夫(つま)とルビ。

 昨日の長野さんの句の場合、生きている人の不在であり、「雨月」であったが、今日のこの句の場合は亡くなってしまった夫を思いながらの「無月」である。この微妙な心情の差を味わうべきであろう。この句においては「亡夫の髪なでたくて」という皮膚感覚あるいは肉体の感覚が、「無月」感とバランスを保ってリアリティーがある。


27

鑑賞日 2013/3/8
寝物語に犀の生き死に無月なり
日高 玲 東京

 「無月なり」と強く言い切っているから、この無月は無月の夜という単なる背景ではなく、何か意味がありそうだ。例えば、生物の一つの例として、犀の生き死にを語ったとしても、それは生物の在り方の枠組みを語っただけのことであって、生死ということに於ける何の結論も出てこない。それはこの夜の空に月が無いように手応えが無い、というようなことだろうか。そう考えると、生命の歴史というようなものは「寝物語」のように夢か現かはっきりしない、というような主調があるのかもしれない。


28

鑑賞日 2013/3/9
月白や玄米二合研いでます
平野八重子 愛媛

 さっぱりしたいい句だ。小賢しい意味付けが無く、日常の詩が流れている。俳句を生きるということの究極の目的は、詩を生きる、ということかもしれない。


29

鑑賞日 2013/3/10
辺境の華だよ父の木の実独楽
堀之内長一 埼玉

 中央と地方、あるいは一神教と多神教、あるいはグローバル経済と地域経済。最近はこれらの対立概念のせめぎ合いが随所に見られるのではないか。結局、全体と部分という問題であるが、全体の無い部分はあり得ないし、部分の無い全体もあり得ないのであるから、おそらくこれらを対立するものとして捉えると間違いを犯すことになる。敢て言えば、ある部分を取りだすと、実はそこが全体の中心であったというような在り方が望ましい。別の言い方をすれば、中心が何処にでもある無限大の円というような全体の在り方である。
 分けが分らないと言われるかもしれないが、この句を読んで、そんなことを考えたのである。


30

鑑賞日 2013/3/11
穴まどい母のことばに傷つく子
本田ひとみ 埼玉

 こういうふうな「穴まどい」という言葉の連想の仕方もあるのだなあと思った。つまりこれは女性というか母性というものの子どもに対する同情心のなせるところのものだろう。母のことばに傷つく子は、安心できる場所を見つけられない穴まどいのようだ、というのである。


31

鑑賞日 2013/3/12
首塚や字余りのよう雁の声
武藤暁美 秋田

 首塚というものの圧倒的な存在感。雁の声も聞こえるのだが、それはまるで字余りのよう、添え物のようである、というような感じであろうか。


32

鑑賞日 2013/3/13
月明り短信ときに短剣なり
村上友子 東京

 感性鋭く完成度の高い俳句である感じ。「月明り」と「短信」、「月明かり」と「短剣」がそれぞれとてもよく響きあっている。凡々たる日常性の中に、時にやって来る、短剣のような鋭い光を帯びた短信。それは正に日常性に眠りこけているわれわれに、月の光の覚醒を促すような種類の短信かもしれない。


33

鑑賞日 2013/3/14
秋思かなきりんの首の雨だれ
室田洋子 群馬

 「きりんの首の雨だれ」という面白い題材を発見したことが味噌であり、現代風のお洒落な秋思になっている。


34

鑑賞日 2013/3/15
日本とう冷めた雑炊朝まだき
森 鈴 埼玉

 日本はまあ冷めた雑炊のようなものだというのである。この譬えを借りれば、アベノミクスはその雑炊を再び熱して熱くするようなものである。おそらく鍋の底のところで焦げ付くに違いないと私は思う。いずれにしても夜明けは遠い。


35

鑑賞日 2013/3/16
鶏頭花ひとりは一方的に紅く
森央ミモザ 長野

 二人あるいは何人か居て、そのうちの一人が一方的に紅いという状態は、なるほどそういうことがあるなあと思う。片思いという状態、あるいは一人だけが議論に熱中して浮き上がっている状態等々。KY状態の一つと言えるかもしれない。このような人間同士の一つの状態を、鶏頭の一つの紅い花にかぶせて表現したのが上手いし、そんな人間の事象など全く考えないで、鶏頭の花達のことだけをアニミズム的に書いたのだと受け取っても面白い。


36

鑑賞日 2013/3/17
墓囲ふ鄙の饂飩は足で踏み
柳生正名 東京

 饂飩(うどん)とルビ。

 グローバル経済の時代にあって、生も死もある程度その地域で完結しているような山村の風景といったところだろうか。作者はそういう地域に法事のようなもので出かけたのかもしれない。こういう地域社会の良いところは、これからも残ってゆくだろうか。それとも、われわれの郷愁の中にだけ存在するものとなってしまうのだろうか。


37

鑑賞日 2013/3/19
親父たるもの一本道の黄葉紅葉
山内崇弘 愛媛

 問い、親父たるものは如何に。答え、一本道の黄葉紅葉。この離れた答えの味である。禅的な味と言ってもいい。


38

鑑賞日 2013/3/20
どんよりと老人が居て放屁虫
山口 伸 愛知

 「どんよりと老人が居て」と何やら深刻な雰囲気を醸し出しておいて、「放屁虫」と落とす。とても可笑しい。


39

鑑賞日 2013/3/21
鼬に会釈やや加速する日常
若森京子 兵庫

 我々は日常から離れることは出来ないし、また離れる必要も実はない。いずれにしろ我々はこの日常というある意味厄介なものと付き合っていかなければならないのであるが、時にはこの日常というものを何とかしたい、何とかならないものかと思う。そんな日々の中で、ふと、日常が軽くなることがある。そんな時には我々は、鼬に会釈をするものなのである。
 金子兜太にも次のような句がある。

高きに登る黒牛と狸に会釈    『東国抄』   


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