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金子兜太選海程秀句鑑賞 489号(2013年1月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2013/1/17
わが影に翁入りくる秋暑かな
伊佐利子 福岡

 「わが影に翁入りくる」をどう取るか。男の老人に近づかれて暑苦しいというのだろうか。あるいは自分の影法師が男の老人めいてきて何となく暑苦しいというのだろうか。芭蕉は翁と呼ばれていたそうであるから、この翁は芭蕉のことであるなどということはあるまい。どうも難しい。


2

鑑賞日 2013/1/17
みみず鳴く不意のプロペラぎこちなき
石川和子 栃木

 何のプロペラなのだろうか。ヘリコプターか飛行機か。とにかく何かでかい機械であろう。そのプロペラの不意の音がぎこちなく、小さい小さいみみずが鳴いているようだというのである。まあ人間の技術力なんてそんなところかもしれない。


3

鑑賞日 2013/1/18
赤とんぼ素足を洗う葬の家
一ノ瀬タカ子 
東京

 赤とんぼがやって来て葬の家で素足を洗っている。彼は曾てこの家に縁のあった者なのかもしれない。彼は死者を懐かしんでやって来たのかもしれない。可愛らしくも素朴で純粋な悼みの仕草である。


4

鑑賞日 2013/1/18
青田の鷺染め抜かれたる寂しさは
伊藤 和 東京

 「染め抜かれたる寂しさ」などという表現は男性にはとても表現できまい。女性性の本質が丁寧に書き取られたとてもいい句だ。男性的な句として細谷源二氏の「べらぼうに青く孤独なきりぎりす」を思い出した。


5

鑑賞日 2013/1/19
灯下親し縄文土器に耳二つ
伊藤友子 埼玉

 縄文土器とお話しをしている感じ。縄文土器を眺めていれば、時代の隔たりを越えて、彼はさまざまなことを語りかけてくるようだ。こちらが話しかければ、彼との会話さえ成り立つ。彼は聴く耳も持っているからだ。秋の夜の灯の下、とてもいい時間だ。


6

鑑賞日 2013/1/19
備中鍬のわれは蟹股草ひばり
稲葉千尋 三重

 「鍬を持つ」などではなく「備中鍬」というより具体的で土着的な言葉がいい。さらに、根を持って生きてきたことの証しであるような「蟹股」という言葉。草ひばりの声が爽やかに響く。
 ちなみに備中鍬とは刃先が何本かに分れている鍬で、土中に深く入りやすい為、荒起しなどに使う。


7

鑑賞日 2013/1/20
月明のセシウム光りおるならむ
大口元通 愛知

 あの福島の被爆地では今もこの月明の中でセシウムは放射線を放って不気味に光っていることだろう、というのである。セシウムの放射能の半減期は三十年だという。つまり六十年で四分の一、九十年で八分の一にしかならない。そして放射線というものは肉眼では見えないし、臭いもないという厄介なものである。今我々に必要なものは、想像力なのかもしれない。詩人の感受性と言ってもいい。


8

鑑賞日 2013/1/20
ひかりごけのひかりは鹿に沁み入るかな
大谷 清 埼玉

 神秘的あるいは神話的な光に満ちた空間とでも言ったらいいだろうか。この世界では啓示は光として現れる。そしてそれを受け取るものの身体に沁み入ってゆく。


9

鑑賞日 2013/1/21
茄子の馬九人も乗って傾きぬ
大野美代子 愛媛

 ユーモアである。そもそも盂蘭盆の行事だとか様々な法事などはユーモアの精神で執り行われるべきものなのかもしれない。そもそも我々の生死そのものが、如来の掌の上で遊んでいるようなものだから。


10

鑑賞日 2013/1/21
われに秋草たっぷり遺し夫の忌
加地英子 愛媛

 「秋草」を庭などに生えている始末しなければならない邪魔なものと取るか、野に生えていて秋の花などを付けている好ましいものと取るかで、鑑賞の入り口は変ってくる。しかし、入り口は違うとしても結局、夫への親しみがこの句の表現しているものであるのは確かなことである。
 さて、どうだろうか、もし夫への親しみが失われてしまわないとすれば、夫が逝ったことによって、本質的な何かが失われたと言えるだろうか。夫への親しみが、自分にとって夫というものの本質だとすれば、それは失われるものではないのであるから、結局夫は何処へも逝っていないということになる。このような事実が、永遠のいのち、あるいは不滅の愛、ということの謎解きである気がする。


11

鑑賞日 2013/1/22
津波怖しと児は月光に息を継ぐ
狩野康子 宮城

 大自然の持つ力は圧倒的に恐ろしい。我々人間はその力の前には全く無力である。しかしまた同時に、大自然の美は圧倒的に美しい。その美の前に於ても我々は全く無力である。おそらく我々はこの大自然の児なのだ。この恐ろしくて美しい大自然の児なのだ。


12

鑑賞日 2013/1/22
鳥に空砲人に彷徨黒葡萄
刈田光児 新潟

 世の中には無駄なことが多いなあ。全く人間の世は無駄で出来ているようなものだ。それにひきかえこの黒葡萄の実体感はどうだ。


13

鑑賞日 2013/1/24
畏友呼べば風に耐えてる蛇の衣
小林まさる 群馬

 畏友(とも)とルビ

 この畏友は病気か何かでかなり弱っている状況なのであろう。まさに死なんとしているのかもしれない。「風に耐えてる蛇の衣」という譬えが実感があり秀逸である。


14

鑑賞日 2013/1/24
父いまも陛下の赤子彼岸花
小柳慶三郎 群馬

 亡き父の墓前に居るような雰囲気がある。我々は概ね何かの赤子であり、そういう自覚を持てることは幸せなことだとも言える。その何かを神と呼ぶ人もいるだろうし、仏と呼ぶ人もいるだろうし、あるいは存在と呼ぶ人もいるかもしれない。一昔前の人は天皇を神としていたのだから、陛下の赤子であったのは当然のことであり、そのことに疑いを持たなかった人は、ある意味ではとても幸せな人であったのかもしれない。彼岸花の赤が目に染みる。


15

鑑賞日 2013/1/25
寝姿は野武士なるこの糞爺い
佐々木昇一 秋田

 人間というものの味わい、ユーモアの句である。何回も読んでいるうちに、この糞爺いに親しみや尊敬の念さえ湧いてくる。


16

鑑賞日 2013/1/25
すっ裸の嬰セシウムの風はやまない
清水茉紀 福島

 これが現実だ。このひりひりとした現実を感受性豊かに書き取っている。感受性とはおそらく単なる感覚ではないだろう。そこには想像力と共感力が働いている筈である。何故ならセシウムは人間の感覚器官では感じられないものだからである。


17

鑑賞日 2013/1/26
残る月私という潦
白石司子 愛媛

 気が付いてみたら、いつの間にか周りの者はみんないなくなってしまった。残っているのは月が一つだけ、その月の影が私という潦に映っている。孤独感でも孤絶感でもない「独り在る」という曰く言い難い境地である。句の字数の少なさも句の印象に一役買っている。


18

鑑賞日 2013/1/26
老人の鏡に雨の金木犀
関田誓炎 埼玉

 何か美しい。「雨の金木犀」というのはそのものがもちろん美しい。それに「老人の鏡に」と付けたことによって、更に句全体が引き立って美しい。俳句とは不思議なものだ。


19

鑑賞日 2013/1/27
嘆きの壁伝うヤモリにカシオペア
田井淑江 東京

 人生における様々な苦しみや悲しみ、そして時折現れる希望や安らぎ。そのような事柄を一つの景あるいは一つの映像として具体的に表現している感じだ。


20

鑑賞日 2013/1/27
へちま忌や筆談の文字正されて
高木一惠 千葉

 筆談の文字を正されてしまった。まあそれもいいじゃないか。人生は諧謔である。真面目に滑稽である。我々は皆痰のつまった仏のようなものである。・・というような味がする。


21

鑑賞日 2013/1/28
抜群の鳥の記憶や石蕗の花
田口満代子 千葉

 決まった句である。「石蕗の花」が決めているのであるが、どうしてそうなのかは分らない。「石蕗の花」以外には無いのかと言われてもそれもよく分らない。結局、詩の本質というものは説明不可能なものなのかもしれない。とにもかくにも石蕗の花がきりっと美しいではないか。


22

鑑賞日 2013/1/28
浪速津という陽炎の貨車溜まり
竹内羲聿 大阪

 ああ浪速津という所に行ってみたい。そう思わせる魅力がこの句にはある。しかし、とも思う、この陽炎の貨車溜まりがある浪速津という場所は作者の裡に有ったものだから、行けはしないと。


23

鑑賞日 2013/1/29
円錐と円錐の影夏逝けり
田中亜美 神奈川

 静謐でモダンな一枚の絵画を見ているような気持ち良さと叙情がある。モランディーの静物画のある物にこんな雰囲気のものがあった気がする。違っているかもしれないので見ないことにしよう。


24

鑑賞日 2013/1/29
日にいくたび陽は戦争の上とおる
月野ぽぽな 
アメリカ

 作者がアメリカ在住の所為だろうか、グローバルな視点で世界を眺めている。そしてその視点を根っこで支えているものは、いのちへの共感であろう。そうでなければこのような構図の句は生まれ得ない。


25

鑑賞日 2013/1/30
床前に明月もニコニコ二コと
董 振華 中国

 李白の詩に次のようなものがあるらしい。

床前看月光  床前(しょうぜん)月光を看(み)る
疑是地上霜  疑うらくは是(こ)れ地上の霜かと
挙頭望山月  頭(こうべ)を挙げては山月(さんげつ)を望み
低頭思故郷  頭を低(た)れては故郷を思う

 「看月光」の部分を「明月光」、「望山月」を「望明月」としている版もあり、現代中国では明月光、望明月とする版を統一小学校教科書で習うので、この版が一番ポピュラーである。(Wikipediaより)

 句はこの詩のもじりであるが、全く違う趣の句となっている。李白の詩が人生的であるのに対して、この句は存在的であると言えようか。


26

鑑賞日 2013/1/30
フルーツポンチにびわの実ありし亡夫とありし
中島まゆみ 埼玉

 亡夫(つま)とルビ

 フルーツポンチにびわの実があったなあ、あの時は亡夫と一緒にあったなあ、というのである。フルーツポンチにびわの実があったという、些細ではあるが具体的な事実を鮮明に描くことによって、亡夫とともに過ごした時間への思いが切々と伝わってくる。全体はディテールに含まれるということであろう。


27

鑑賞日 2013/1/31
新米を一合研いで海鳴りや
丹生千賀 秋田

 作者は秋田の人。海辺に住んでいて、そして一人暮らしなのだろうか。句には意識の切れ味と言えるようなキリッとしたものがある。


28

鑑賞日 2013/1/31
佐渡浮かぶ海は素風の器だな
長谷川育子 新潟

 気持ちがいい。この海の風に吹かれていると私は素の私になってゆくようだ。遠くには佐渡も浮かんでいる。素の佐渡島。素の海。それもこれもみなこの心地よい風の所為だろうか。


29

鑑賞日 2013/2/1
クラシックホテルの馬丁晩夏光
日高 玲 東京

 私の暮しとは縁遠い珍しい職業だ。彼の人生はどのようなものなのだろう。彼の日常はどのようなものなのだろう。クラシックホテルがある。馬がいる。馬丁がいる。晩夏光が満ちている。


30

鑑賞日 2013/2/1
蝮蛇草に朱い実父にのどぼとけ
藤原美恵子 岡山
 連想の飛躍。 
マムシグサの花 マムシグサの実

 http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden
/HTMLs/mamusigusa.html
より


31

鑑賞日 2013/2/2
海境ははるかなるもの良夜かな
堀之内長一 埼玉
 海境(うなさか)を辞書で調べると〈海神の国と人の国とを隔てると信じられていた境界。海のさかい。海の果て。〉とある。
 地球儀を持ち、また地球は太陽の周りを巡る一つの惑星に過ぎないという知識を持ってしまった現代人にとって、この句にははっと気付かされるものがある。知ってるつもりを戒める詩的実感があるからである。知ってるつもりになってしまうと、詩的でなくなる、神話が無くなる、自然への畏怖がなくなる、功利主義になる。尖閣問題などももっと詩的に神話的に解決できないものか。

32

鑑賞日 2013/2/2
 小堀葵氏を悼む
立待ちの葵の月の嗚咽かな
本田日出登 群馬
 「葵の月」という言い方が神秘的で、句全体を格調の高いものにしている。「立待ち」で葵氏への厳粛な尊敬が感じられる。そして「嗚咽かな」という座五に、失われてしまったという思いの押えきれない感情がある。品格のある万感の句と言えようか。

33

鑑賞日 2013/2/3
秋立つと萬金丹をこぼしけり
前田典子 三重
 萬金丹については「鼻くそ丸めて萬金丹」というような言葉くらいしか知らないが、辞書で引くと〈 伊勢国、朝熊(あさま)山で製し、解毒・ 気付けなどの効果があるとされた薬の名。〉とある。作者は三重県の人であるが、あの辺りでは今でも服用されているのだろうか。とにかくこの萬金丹という言葉の響きが句に与える効果は大である。K音の連続による切れ味の中に秋の輝かしさのようなものを感じる。

34

鑑賞日 2013/2/3
かみなり落ちた旅した山に園の木に
間島貞子 大阪
 「かみなり落ちた/旅した山に園の木に」と読むか「かみなり落ちた旅した/山に園の木に」と読むか。私の場合は後者の読み方の方が素直に受け取れるのだが、どうだろうか。〈かみなり小僧の冒険〉というような感じになる。

35

鑑賞日 2013/2/4
親族は寄って酔うもの谷紅葉
水上啓治 福井
 親族というものの良い面を描いている。「酔うもの」という言い方のニュアンスには失われてゆくそのような価値観への郷愁があるのかもしれないとも思った。とにもかくにも「谷紅葉」が懐かしい。

36

鑑賞日 2013/2/4
蠍座や今宵わが髪乱れます
森 美樹 千葉
 「さそり座の女」だとか「みだれ髪」だとかある意味使い古された言葉を連想させるのであるが、このようにきっちり俳句としてまとめられると、そこにいわゆる情念を越えた、というか情念を観察している、意識の透明さのようなものが出てくるのは不思議だ。

37

鑑賞日 2013/2/5
旅という静かなうしろ鹿のうしろ
森央ミモザ 長野
 日本的な女性の心情というようなものだろうか。決して前に出しゃばらない。むしろ後ろという場所が彼女にとっては心静かな場所なのだ。しかし同じ後ろなら、世俗のごたごたした物の後ろよりも旅における鹿のうしろの方がいい。いや旅自体が彼女にとっては「静かなうしろ」と言いたくなる場であり時間なのだ。

38

鑑賞日 2013/2/5
杉菜抜いても確かに空地父の家
山本 勲 北海道
 おそらく父上は亡くなっていない。その空家となった父の家の庭の雑草の杉菜を抜いたのだ。そのように庭を手入れしても、結局この家はその主のいない空地に過ぎないのだ。父はこの空地を遺して何処に行ってしまったのだろう。

39

鑑賞日 2013/2/5
うしろより男声「ようそろ」冬近し
柚木紀子 長野
 声を掛けたのは地元の人、お百姓かもしれない、手ぬぐいで頬被りなどしていたかもしれない。「ようそろ」という言葉の親しげで温もりのある感じがいい。また対面しているのではなく「うしろから」という包まれた感じもいい。冬も近い信州の田舎の一情景という感じである。

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