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金子兜太選海程秀句鑑賞 488号(2012年12月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2012/12/6
敗戦忌高さの違う窓に人
有村王志 大分

 敗戦以後さまざまなことがあったなあ。焼け野原を皆で右往左往していた時代。それから経済成長の時代がやって来て、何はともあれあっという間に人々はそれぞれの建物に納まった。立派な高層マンションの高価な高階に住む人もいれば、安アパートの二階に住む人もいる。地べたを皆で這い回っていた時代とは大きく違ってきた。良い時代なのだろうか。


2

鑑賞日 2012/12/7
被曝樹へこの坂下る葉月かな
石川まゆみ 広島

 知性的で透明感のある日常詩である。知性的であるとは何か。おそらく人間の愚かさの歴史を忘れないということではないだろうか。知性的である人は常に一種の透明感を纏っている。また知性的であるとは、何でもない日常をその質をもって生きているということである。


3

鑑賞日 2012/12/8
そうめん流しわが確信の薄濁る
石田順久 神奈川

 〈薄〉は[ささ]とルビ

 往々にして確信というものは現実に対応できないものである。何故なら確信というものは固まったものであり、現実は流動的であるからである。その辺りの心理的な事実をこの句はそうめん流しという具体を捉えて上手く表現したように思う。薄(ささ)というルビが効いている。


4

鑑賞日 2012/12/8
落蝉と落蝉の距離近すぎる
泉 尚子 熊本

 「近すぎる」という言葉が出てくる背景には作者の何らかの状況があるのかもしれない。例えば私などがそうであるが、最近近親者で死ぬものが連続しているが、そのような目で見ることも出来るかもしれない。いずれにしろ、存在と死という事象を衒いなく提出している感がある。


5

鑑賞日 2012/12/10
浮くという在り方黒苺つぶしながら
上原祥子 山口

 黒イチゴというのはキイチゴの一種らしい。それをつぶすというのはジャムでも作っているのだろうか。例えば庭を掃くというような何でもない日常の行為の中で人は瞑想という言葉で表現できるような非日常の時間を生きることがある。それはおそらくどんな行為でもいいのである。「浮くという在り方」と作者が書いているのは、この瞑想的な時間のことであると私は感じる。日常の中に存在する非日常的な時間を作者は書いているのではなかろうか。


6

鑑賞日 2012/12/12
涙もろい母よ微震よ明易し 
榎本愛子 山梨

 不安なる感情。何かがはっきりしない、心許ない、不安なる時代を象徴するような一句であると言えるのではないか。


7

鑑賞日 2012/12/12
星祭おつりのやうな日々と言ふ
小川久美子 群馬

 おつりのような時間、あるいはおまけのような時間、それが最も祝福された時間なのではないか。そしてその時間を喜ぶということが祭ということの本質なのではないか。もっと儲けたいだとか、もっと力を手に入れたいだとか、もっと名と挙げたいだとか、もっともっとという欲が全てを台無しにする。おつりのような時間を楽しみなさい、と老子も言っている。これはいわば賢者の句である。


8

鑑賞日 2012/12/13
向日葵の闇の底まで被曝せり
小沢説子 神奈川

 感受性がとても豊かな作家に違いない。被曝ということの本質を魂の奥を覗き込むように書いている。人間は誰しもが自分ではなかなか気が付かない闇を抱えて生きている。感受性のある人は3.11の原発事故以来その自分の闇を暴き出された感じを持つのではなかろうか。
 問題は、そういう感受性の無い人達が今も政界や官界や財界を大手を振って闊歩しているということである。


9

鑑賞日 2012/12/13
額より幼にもどる白雨かな
狩野康子 宮城

 私達はそもそもが子どもである。母の子ども、世界の子ども、あるいは神の子どもと言ってもいい。しかし普段は日常生活の煩わしさでそのことを忘れてしまっている。そしてふとある瞬間にそのことを思いだすことがある。白雨に打たれて額から幼にもどるなんて、何て素敵な瞬間だろう。


10

鑑賞日 2012/12/14
空蝉のぎゅっと抱いてる抱き枕
川崎千鶴子 広島

 言っている内容は、一茶の「露の世や露の世ながらさりながら」と同様であるが、その表現はグロテスクというか、即物的である故に現代アート的な迫力がある。


11

鑑賞日 2012/12/14
鞠突きに儚い性のかおりする
菊川貞夫 静岡

 性(さが)とルビ

 ある時代、例えば貧乏ゆえに女の子が売られてゆくような時代の、何とも愛しく哀しい一場面であるような気がする。ルビは振らなくても面白いのではないかと思った。


12

鑑賞日 2012/12/15
浦上のどこ曲っても八月九日
木村宣子 長崎

 浦上というのは長崎の爆心地である。同じタイムスリップの句として兜太の「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」が思いだされてしまう。「曲」という文字の故だろうか。兜太句が主観的意志的であるのに対してこの句は客観的に眺めている感じがあるが、その故かこの句の方が眩暈感が残る。


13

鑑賞日 2012/12/16
ほがらかに覚めれば夏は無精髭
京武久美 宮城

 ゆったりとほがらかに生きようじゃないか。そんなにあくせくときっちり生活する必要はない。髭というのはそもそも伸びるもの。さあ夏だ。太陽とともにほがらかに行こう。


14

鑑賞日 2012/12/16
向日葵が我だけを見るスリルかな
河野志保 奈良

 生きてゆく中で、そこにスリルがないとしたら、それは何てつまらないことだろう。自分にとって何か特別に大事なものがあると気付いた時、あるいは何かが自分を特別なものと見做してくれていると気付いた時、人間はスリルを感じる。これは恋の句だ。


15

鑑賞日 2012/12/17
茄子の花きのうと同じ人と逢う
児玉悦子 神奈川

 日常ということだろう。日常ということが、実はとても価値あることだということだろう。一見地味であるがよく見ると茄子の花がとても美しい。


16

鑑賞日 2012/12/17
刃こぼれのよう魚眼レンズに稲びかり
小長井和子 
神奈川

 物象感でもあろうし、また自分が魚だった頃に水面の稲光を見た時はこんな感じだったような既視感も起る。


17

鑑賞日 2012/12/18
蚊がふたつ石垣りんさんの顔あり
小林一枝 東京

 石垣りん氏のことをあまり知らないのでWikipediaで調べてみた。

 石垣 りん(いしがき りん、1920年(大正9年)2月21日 - 2004年(平成16年)12月26日)は、詩人。代表作に「表札」。
東京都生まれ。4歳の時に生母と死別、以後18歳までに3人の義母を持つ。また3人の妹、2人の弟を持つが、死別や離別を経験する。小学校を卒業した14歳の時に日本興業銀行に事務員として就職。以来定年まで勤務し、戦前、戦中、戦後と家族の生活を支えた。そのかたわら詩を次々と発表。職場の機関誌にも作品を発表したため、銀行員詩人と呼ばれた。『断層』『歴程』同人。
第19回H氏賞、第12回田村俊子賞、第4回地球賞受賞。教科書に多数の作品が収録されているほか、合唱曲の作詞でも知られる。

そして詩をひとつ

〈表 札〉
自分の住むところは
自分で表札を出すにかぎる
自分の寝泊まりする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない
病院へ入院したら
病室には石垣りん様と
様が付いた
旅館に泊まっても
部屋の外に名前は 出ないが
やがて焼き場のかまにはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私がこばめるか?
様も
殿も
付いてはいけない
自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る
精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない 
石垣りん
それでよい

http://homepage3.nifty.com/ja8mrx/rinnmokuji.htmより


18

鑑賞日 2012/12/19
見舞いの妻十ほど欠伸して帰る
今野修三 東京

 十(とお)とルビ

 明るい日差しの病室が思い浮かぶ。やがて私は河の流れを思う。河の流れもだんだん下流になるとその流れもゆったりと遅くなる。動いているかいないのか分らない程である。そんな時間の中に身を委ねていると、当然のように欠伸が出てくる。明るい日差しの午後である。


19

鑑賞日 2012/12/19
流氷にうつむき髪を洗うなり
斉木ギニ 千葉

 精神の若々しい句だ。われわれは精神の儀式として髪を洗う。老いるにつれて精神の周りには垢がこびりついてくる。みずみずしい精神が再び現出するために髪を洗おう。流氷にうつむき髪を洗おう。


20

鑑賞日 2012/12/20
稲の花父のさむそうなネクタイ
佐々木 宏 
北海道

 稲の花は咲いているのかいないのか分らない程に目立たない花である。あの稲の花の感じとさむそうな父のネクタイが哀感を帯びてよく響き合う。ところでその稲の花を咲かせる稲が実は日本の一番大事なものを支えているのである。おそらく日本の国土・食料・文化すべてである。


21

鑑賞日 2012/12/20
被曝して蝉声林立果てもなし
清水茉紀 福島

 地上に出てからの短い一生を精一杯鳴きながら生きる蝉の声というものは、私達に「生きてある」ということの或る意味を伝えてくれているようだ。被曝して、いわば生の尊厳を蹂躙されてしまったと感じている作者は、より一層生への愛おしさを感じているのではないだろうか。


22

鑑賞日 2012/12/21
抜け殻は見えず噂のやまかがし
高木一惠 千葉

 あのやまかがしは何処に行ったのだろう。例のあの奴さ。一時はいろいろな場所に登場して噂になったあの奴さ。脱皮でも果たしたのだろうか。それにしては抜け殻さえも見えないじゃないか。
 作者の意図とは違うかもしれないが、どうも私にはあの原発事故直後にいい加減な事をテレビで曰っていた人物を思い浮かべてしまう。


23

鑑賞日 2012/12/21
パソコンの指示の恐ろし冷房裡
田浪富布 栃木

 私は田舎者であるが、それでもごく偶に東京などに出て電車などに乗ることがある。その時に驚くのは、多くの人がケータイを覗き込んで何かをやっていることである。もしかしたら彼等はケータイを使っているのではなく、ケータイに使われているのかもしれないなどと思う。人間が使うのに便利なものが、いつの間にか人間を使っているというのは恐ろしい。しかしその現象は現に起っている。くわばらくわばら。


24

鑑賞日 2012/12/22
ポリープがたちはだかるよ行々子
田村勝美 新潟

 何をやるにつけても、やらないにつけても、たちはだかって喧しいのだ。お前にはポリープがあるポリープがあるポリープがある・・・・。まるで行々子のようだ。


25

鑑賞日 2012/12/22
壁に火蛾奥に武器売る男たち
月野ぽぽな 
アメリカ

 こういう社会性を帯びた句に出会うと少し嬉しくなる。我々は否応なく社会という壁に囲まれて生きているのだし、そしてその壁には常に火蛾が飛んでいるのだから。こういう題材を扱わないとしたら、俳句はお座敷的なちんまりとしたものになってしまう。


26

鑑賞日 2012/12/23
八月や骸となりしものあまた
中尾和夫 宮崎

 愛とは記憶を大事にすることである。その意味では昨今は愛が薄くなってきている感がある。つい昨年有った大震災や原発事故の記憶さえ薄くなってきている気がする。ましてや原爆や戦争の記憶はなおさらである。愛が薄くなると人は大局的な見地を失い痙攣的な思考に陥る。「八月や骸となりしものあまた」ということを忘れてはならない。


27

鑑賞日 2012/12/23
米寿まだ水切り遊び負けたくない
長島武治 埼玉

 人の一生が対称性を持っていると感じられる人は幸せなのではないだろうか。誕生と死という祝祭の対称に挟まれて、子どもと老人という対称、そしてその真ん中の生がある。死と誕生が同質性を持つと同様に、老人と子どもは同質性を持つ。


28

鑑賞日 2012/12/24
水着着て十指多しと思わんか
中村孝史 宮城

 魚曰く。


29

鑑賞日 2012/12/24
看板に畑と案山子貸します
中村真知子 三重

 さあさあどんどん商売をやってください。看板に畑だって案山子だった貸しますよ。すべてが損得で勘定される世の中、畑を耕したって何の価値もない。お互い得をしましょうや。案山子だって雀っこを追っているよりは看板になった方が実入りがいいに決まっている。・・・と世相を皮肉っている。


30

鑑賞日 2012/12/27
蛇が行き人間行き大賀蓮開花
野田信章 熊本

 人間(ひと)とルビ

 蛇がやって来ては行く。人間もやって来ては行く。彼らは我々は何処からやって来て何処に行くのか。何故彼らは我々はやって来てそして行くのか。哲学者諸君、そんな思索は君等を価値ある場所に導くことはない。今此処にこうして在ることを祝えばいい。大賀蓮が咲いているではないか。大きな時の流れと、今此処での実存の美しさ、という二つの問題を投げかけてくるような雰囲気の句である。


31

鑑賞日 2012/12/27
死者生者どちらがかなし茄子の花
前田典子 三重

 茄子の花がとても美しい。結果的に茄子の花の美しさを見いだした句と言えるかもしれない。茄子の花はそもそも日常性を感じる花であるが、あの薄紫色はかなしみを吸い込んだ色なのかもしれない。


32

鑑賞日 2012/12/27
図書館できらきらする子青葡萄
宮崎斗士 東京

 「教室できらきらする子」も悪くはないと思うが、どちらかと言えば「図書館できらきらする子」の方が私は希望を感じる。今の教育事情を考えてそうなるのだろう。他者との競争できらきらするのではなく、自分の創造性や想像性をはばたかせることにきらきらするのであるから。君等はまだ青葡萄のように熟していないかもしれないが、やがて熟して多くの人の滋養となる実になる可能性が君等にはある。


33

鑑賞日 2012/12/28
艶話のようには死ねぬ夕かなかな
武藤鉦二 秋田

 ひぐらしというものは艶のあるいい声で鳴くものだ。ひぐらしも蝉の一種だから、これも短い生を愛おしんで鳴いているのかもしれないけれど、それにしても艶がある。艶を持って生き、艶を保って死ぬというのは素敵だろ。しかしなかなか艶話のようには死ねないぞ。


34

鑑賞日 2012/12/28
言葉にも運動神経あめんぼう
室田洋子 群馬

 お笑いなどを見ていると、言葉をまるで運動神経の産物のように機敏に使える人がいる。言葉にもおそらく運動神経のようなものがあって、あの人達は訓練の結果それが発達しているのかもしれない。
 あめんぼうが水面をスーッと動く。スッと止る。スッスッと動く。スーッと動く。随分機敏な運動神経だ。そもそもあめんぼう自体が運動神経みたいな形だ。


35

鑑賞日 2012/12/29
銀やんま近づく我を寂しがる
森央ミモザ 長野

 寂しさというものも、詩に結晶すると、こんなにも美しいものかと思う。銀やんまよ。


36

鑑賞日 2012/12/29
羽音澄む蜻蛉も十字懸垂も
柳生正名 東京

 随分繊細な感受性の句だなあと思う。例えばテレビの音を消して、体操選手の演技をじっと見ていたりするとしたら、こんな繊細な感覚に出会うことが出来るだろうか。おそらく粗大な神経の私には無理だろう。


37

鑑賞日 2012/12/30
鬱蒼と東京暮らしや南瓜煮る
安井昌子 東京

 上五中七を受けての「南瓜煮る」が印象的だ。いのちの色のような温かい黄色。いのちを養うそのほかほかとした感触。いのちの味わいそのもののようなその自然な匂い。何が何だか分らない世の中で南瓜を煮るという行為は確かなことであろう。


38

鑑賞日 2012/12/30
授乳の汀しずかに被曝の波寄せる
若森京子 兵庫

 これは福島第一原発周辺の乳児を持つ母親の心の奥に潜む実感ではないだろうか。兵庫に住む作者がよくぞその辺りの実感を掬い取って書けものだと思う。女性の内側には、いのちを育む者としての、共通の共振する琴線のようなものが存在するのかもしれない。


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