表紙へ 前の号 次の号
金子兜太選海程秀句鑑賞 487号(2012年11月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2012/11/2
素麺を啜る母似の悪い癖
阿木よう子 富山

 〈麺〉は旧字。

 素麺を啜るのは悪い癖だろうか。私にはむしろ、素麺をぐちゃぐちゃと噛んで食べるほうが悪い癖のように思うのだが。あるいは、「素麺を啜る」と「母似の悪い癖」は切れていて、素麺を啜りながら何か他の母似の悪い癖のことを思っていたということだろうか。


2

鑑賞日 2012/11/2
風をためて母の門火は花のよう
飯島洋子 東京

 美しい光景だ。情念を含んだ美しさといえるようなもの。この母の情念なのかもしれない。昇華された情念。
 ちなみに門火[かどび]というのは・・盂蘭盆(うらぼん)のとき、死者の霊魂を迎え送りするために門前でたく火。迎え火と送り火。《季 秋》・・と辞書に出ているが、火を焚くことが難しい現在では殆ど行われないのではないか。だから、昔のことを思いだして作ったのだろうか。昔のほうが風情があったという例の一つかもしれない。


3

鑑賞日 2012/11/3
意地張るごと桑の実甘し村の跡
石川和子 栃木

 先ず諧謔味であるが、読んでゆくとだんだんといろいろな味が含まれているのを感じる。最終的にはこの桑の実への愛おしさである気がする。


4

鑑賞日 2012/11/3
笑うなよ石山を切り開く歓喜
伊地知建一 茨城

 私が想像する状況は、石がごろごろとある山を開墾して畑にするような場面である。つまり荒々しい自然を自分と親しい関係にしてゆくという行為である。それも大型機械を使ったものではなくて、鍬やスコップなどによって行うそれである。まことに効率が悪く見えるが、実はこういう行為の中にこそ、真に自然と親しくなったという実感の歓喜があるのであろう。自然を征服したという欲望の充足ではなく、自然と親しくなったという歓喜である。


5

鑑賞日 2012/11/4
ぼうふらやどこにでもすぐ腰下ろす
伊藤 歩 北海道

 私みたいだ。私も所構わず何処にでもすぐ腰を下ろす。緊張感が無いのだろうか、体力が無いのだろうか。句は、腰を下ろしたら水たまりの傍であった、その水たまりにはぼうふらがふらふらといた。ああ俺もぼうふらみたいなもんだなあ、といった感じだろうか。


6

鑑賞日 2012/11/4
感情のくぐもり朝のかたつむり
伊藤淳子 東京

 感情の整理がつかない。感情がどうもすっきりしない。当然、動作はにぶく、のろのろとなってしまうようだ。今朝の私はまるでかたつむりだ。


7

鑑賞日 2012/11/5
語部は吾が身語らず栗の花
宇川啓子 福島

 とても落ち着いた良い句だ。坦々と物語る味のある語部の姿が目に浮かぶようだ。栗の花がいいのだろう。 
 彼が栗の花に似付かわしいかどうかは分らないし、その話が語部と呼ばれる話の内容にふさわしいかどうか分らないが、原発問題の語部として小出裕章氏は優れている。事実を正確に伝えようとしている。情感が豊かである。しかし個人的な感情に支配されているのではなく、そこには全体のことを考えた無私の精神と自分の役割を自覚した覚悟がある。


8

鑑賞日 2012/11/6
父にまた鳥の影添う茅の輪かな
榎本祐子 兵庫

 茅の輪くぐりというのは一つのおまじないであるが、感受性の強い人にとっては、おまじないというものが強く働く場合があるのではないか。父が鳥の世界に誘われて行ってしまうというような幻影を見ることもあるかもしれない。この句にはおまじないというものの一つの特色が書かれている気がする。


9

鑑賞日 2012/11/8
麦秋や島に屈葬ゆえなくあり
大西健司 三重

 「ゆえなく」を考え出すときりがない。何故そのものが存在するかなどは、その源をたどれば、そもそも故など無いのかもしれないし、「ゆえあって」などとすれば、句が臭みを帯びてきてしまう。あるいは、例えば民謡の合いの手のような言葉と受け取ってもいいのでないか。句の内容を邪魔しない調子をつける言葉である。とにかく、屈葬のある島での麦秋という風情を味わいたい。


10

鑑賞日 2012/11/8
永訣の水に小さき牛蛙
大野泰司 愛媛

 斎藤茂吉の「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり」を思い浮かべざるを得ない。俳句と短歌の味の違いはあるけれど、共に輪廻転生ということを暗示している。全ての言葉が暗示に富んだ質の高い句である。「牛蛙」が俳諧的であると同時に可愛らしい。


11

鑑賞日 2012/11/9
植田残照神々しき母の皺 
加藤昭子 秋田

 申し分なく優れている。一枚の絵画にして取っておきたいくらいだ。リズムが少し気になるところではある。


12

鑑賞日 2012/11/10
熱帯魚水飲んで寝る老ふたり 
門屋和子 愛媛

 水槽に飼われた番の熱帯魚などを想像する。この番の熱帯魚に仲睦まじい老夫婦の姿が重なる。我々は常にある限られた空間の中に生きているわけであるが、この句ではその空間が光を帯びているのを感じる。


13

鑑賞日 2012/11/10
梅雨のマスト夢の大方は揺れる
柄沢あいこ 
神奈川

 青春性を感じる。夢の大方が揺れていたあの時代。大航海をしているつもりになっていたあの時代。いつか空が晴れるだろうとマストを見上げていたあの時代。


14

鑑賞日 2012/11/11
蟻の道長くて誰か叫喚す
刈田光児 新潟

 ああこれはいい句だ。普遍的な人間の現実を描いていて大きく客観的である。「誰か」としたのがポイントであろう。


15

鑑賞日 2012/11/12
人撮りて暗き男やアマリリス 
木下ようこ 
神奈川

 アマリリスが軽やかに明るく咲いている。それにしても人の写真を撮っているこの人はどうしてこう暗いんだろう。本当は人のことなど撮りたくないのかもしれないなあ。まあいっか。世の中はいろいろある。明るいアマリリスもあれば、暗い人もいる。バランスということもある。それにしてもアマリリスが咲いているなあ。


16

鑑賞日 2012/11/12
ぽっぺんぺこぺこあやに哀しき人だかり
栗村 九 千葉

 文明批評あるいは現代の世相への批評だという感じがする。何か本質的で大事なものを忘れてしまっていて、あちらに人だかりがあれば覗き、こちらに人だかりがあればくっついて行くというような文明・世相。「ぽっぺんぺこぺこ」はそんな感じを表わしているふうだ。やはりこのような文明・世相はあやに哀しいのではないか。


17

鑑賞日 2012/11/13
転々と連綿と生ききたりて夏
小林一枝 東京

 道を求めるものにとって何かの法が断絶するということはない・・という言葉を何かで読んだことがある。そしてその頃この言葉によって励まされ勇気づけられたことがある。誰の言葉だったのだろうか。どんな書物にあった言葉だったのだろうか。・・そんなことはどうでもいい。おそらく真実の言葉であるから、私は憶えているのだろう。今この句を読んで思いだしたのである。そして「夏」がいい。輝かしい陽光の夏がいい。


18

鑑賞日 2012/11/14
捨て畑は蛇の王国人は老い 
佐藤鎮人 岩手

 哀しい文明批評の句。創世記の物語を思いだす。蛇に騙されて知恵の木ノ実のを食べてしまったばかりに人間は楽園から追放されてしまった。その末裔としての現代人もまた妙な知恵のおかげで恵まれた国土を捨ててしまう。結局は蛇が勝ったということか。


19

鑑賞日 2012/11/14
御見舞の風鈴なんと耳障り
柴田和江 愛知

 諧謔味。要するに有り難迷惑ということであるが、この有り難迷惑というような現象があるのは人間のみである。その辺りのヒューマンな感じがとても愉快である。


20

鑑賞日 2012/11/15
白桃すする原発爆発の幻聴 
清水茉紀 福島

 福島の現実を描いているが、実はこれは日本社会全体が抱えている事実の象徴なのではないかとも思える。一見豊かに見える文明に身を浸しているが、実はとんでもない破滅の淵に我々は立っているのかもしれないのである。それを感じ取れるのは経済人でもなく政治家でもなく学者でもなく、詩人なのかもしれない。


21

鑑賞日 2012/11/15
牛蛙妻に親しく夕星あり 
関田誓炎 埼玉

 夫婦のいい時間。というか、妻が親しく感じられる時の夫の側のいい時間かもしれない。でも、人間には相互作用というものがあるから、妻の側もいい時間であると感じている可能性は高い。「牛蛙」は夫が自分のことを言っている感じもある。夕星が優しくこの二人の時間を包む。


22

鑑賞日 2012/11/16
遠い雷鳴園児五人に母五人
長島武治 埼玉

 いのちというものが大事にされなくなってきている時代の中で、この園児五人と母五人の物語はどうなってゆくのだろうか。「遠い雷鳴」に時代の不吉性や不安性を感じるのは私だけだろうか。


23

鑑賞日 2012/11/16
どこまでも青田や鋲など打ってない
丹生千賀 秋田

 例えばこの作家は普段画鋲を扱ったり接したりすることの多い職業(例えば教師のような)に着いていて、その生活感を持ちながらも素敵な風景に出会った時の解放感のようなもの。


24

鑑賞日 2012/11/17
白蛇ゆく猛烈にゆく源流へ
野崎憲子 香川

 この作家のベクトルを感じる。その大きさは大きく、その矢印は源流に向いている。清廉な求道者のようだ。


25

鑑賞日 2012/11/17
山中や蛇の眼光を景色とも
疋田恵美子 宮崎

 山中に踏み入って行った時の自分が野性と一体になっている感じとでも言おうか。そういう時には蛇の眼光さえもがごく当たり前の景色として受け取れるのである。


26

鑑賞日 2012/11/18
かまきり生まる温く曖昧な家
藤江 瑞 神奈川

 「かまきり生まる」と「温く曖昧な家」の配合は案外とても大きな比喩性があるのではないか。私には現代の日本社会そのものを譬えているように見えてしまう。さて、その時に、このかまきりは何を譬えていることになるだろう。


27

鑑賞日 2012/11/18
静かな湾の遠花火地は記憶せり
藤野 武 東京

 地は記憶した。そして地に繋がる自分もまた記憶した。何を。静かな湾の遠花火を。それに象徴される何かを。心が満ちてしかも静まったあの日に見た、遥か遠くであったけれども、確実な火である。本当の情熱とはこの句のように、静かで落ち着いた外面を保つ。どこやらのギャーギャー騒ぐ市長さんや元知事さんの狂気とは違う。


28

鑑賞日 2012/11/19
八手若葉過激な婆を目指すかな
堀 真知子 愛知

 「過激な婆を目指すかな」がとても愉快だ。「八手若葉」も微妙に関係して響いて快い。そしてまた、目指せ目指せと応援したくなる内容でもある。


29

鑑賞日 2012/11/19
水無月の夜汽車から見た流離の木
堀之内長一 埼玉

 水無月の夜汽車、旅情を誘うきれいな言葉だ。その夜汽車から流離の木を見た、というのである。孤の心への叙情とでも言ったらいいだろうか。


30

鑑賞日 2012/11/20
風蘭の傍歩いてゆく恋や
三井絹枝 東京

 〈傍〉は[かたえ]とルビ

 どんな恋なんだろう。それは風蘭の傍を歩いてゆくような恋である。


31

鑑賞日 2012/11/21
沙羅落花水の音激しくなる
宮坂秀子 長野

 沙羅というのは歳時記には夏椿のことと出ている。そもそもこの沙羅という名は釈迦に縁のある沙羅双樹に間違われて付けられた名であるとも言われる。「沙羅落花」と「水の音激しくなる」の配合である。美しい景の中に或る感情の高まりを感じてもいいし、私などは、もっと根源的ないのちの流れの音とでもいうべきものの高まりをも感じる。いのちへの絶唱とでもいいたい。


32

鑑賞日 2012/11/22
鮎かがやく運命的って具体的
宮崎斗士 東京

 かがやく鮎の物象感が印象的で魅力的だ。この物象感の魅力を中心にして「運命的って具体的」ということをぐるぐるぐると考えている。


33

鑑賞日 2012/11/22
天仰ぐ死者に青田の真直ぐなり
武藤暁美 秋田

 正直に真直ぐ生きてきた人だという感じである。この死者も、そしておそらく作者自身も。


34

鑑賞日 2012/11/24
萍のああじれったい男かな
武藤鉦二 秋田

 タイプの違う二人の人物像が鮮やかに書き分けられていてとても楽しい。この人間ドラマの楽しさは、相手を切り捨ててしまうのではなく、むしろ相手を理解しようとしていることから生じているのではないか。


35

鑑賞日 2012/11/24
青蚊帳にふわっと消えるからだかな
茂里美絵 埼玉

 青蚊帳の持つ雰囲気、そしてその存在感であろう。それを演出する為に「ふわっと消えるからだかな」と言っているような気がするのである。


36

鑑賞日 2012/11/26
祖を思うわれは薄暑に寝返りを打つ
森央ミモザ 長野

 〈祖〉という言葉は日本人にとってある意味〈神〉という言葉に近いのではないかと思った。そしてこれは我々と離れて天に坐す神ではなく、むしろ我々と繋がっている神である。平たく言えば〈とうちゃんかあちゃんじいちゃんばあちゃんひいじいちゃんひいばあ
ちゃん・・・〉なのであるが、この連なりは大地あるいは自然そのものという観念に連なり、結局存在の源という観念に連なるのではないかと思った。そんな風のことを考えながらこの句を読むと、我々は今、寝苦しくて寝返りを打たざるをえない時代状況にあることは確かである。


37

鑑賞日 2012/11/27
六匹の蟻が軍手に篤くたかる
矢野千代子 兵庫

 存在感。作者にとってこの句は何かを象徴しているのかもしれない。しかしその何かは何かという意味を詮索しても始まらない。ある心理的な重さを持った厚いマチエールの一枚の絵を眺めるように感受したらいいのではないか。


38

鑑賞日 2012/11/27
緑風の谷に生きをり最晩年
山岡千枝子 岡山

 物語の最後の場面で彼女は緑の風の谷に生きている。しかしおそらく其処は新しい物語の始まりの場所でもあるに違いない。何故なら其処には緑の風が吹き渡っているのだから。「風の谷の・・・」というような物語もあった。


表紙へ 前の号 次の号
inserted by FC2 system