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金子兜太選海程秀句鑑賞 486号(2012年10月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2012/10/5 | |
五月晴れ鏡に暗き鼻の穴
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阿川木偶人 東京
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「五月晴れ」と「鏡に暗き鼻の穴」の対比がとても印象的である。優れた写生であると同時に、優れた心理描写である可能性もある。 |
鑑賞日 2012/10/5 | |
ほしゃほしゃの象の毛梅雨の晴れ間かな
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阿保恭子 東京
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梅雨の晴れ間の小明るい感じの心の状態に、ほしゃほしゃとした象の毛が妙に親近感をもって映ったのかもしれない。その時の心の状態が外界の事象を切り取る。それが味のある写生であるということかもしれない。 |
鑑賞日 2012/10/6 | |
山畑の岳父は鏃か黒黄金虫
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有村王志 大分
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〈黒黄金虫〉は[くろこがね]とルビ。 譬えの秀逸さ。山畑への距離感やこの岳父の野性味等が実感として伝わってくる。 |
鑑賞日 2012/10/7 | |
お尻から並べてみせる田植唄
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市原正直 東京
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今ではこういう場面は、実際の田植ではなく、田植踊りのような伝承的な演芸のような場面なのではないか。いずれにしろ「お尻から並べてみせる」が面白い。生すなわち性すなわち生産にまつわる華やいだ感じ。映画「七人の侍」の最後の方にこんな場面があったことを思いだした。 |
鑑賞日 2012/10/7 | |
腸壁にポリープ崖に燕の巣
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井手郁子 北海道
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体内という自然界で起ることは外の自然界で起ることと同じようなことだろうか。そう考えたいとも思う。だから癌なども自然現象の範疇に入れたい気持ちもある。(ただし、放射線による甲状腺癌などは自然現象とは言えないだろうが。)おそらくこのことは医療の発達した現代人が生や死に向い合う時の一つの大きな問題であろう。 |
鑑賞日 2012/10/8 | |
水羊羹森のしずけさのつづき
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伊藤淳子 東京
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ああいいな。森のしずけさの記憶を心の中および身体の中に湛えながら水羊羹を食べるひととき。作者の瞑想的な生活の一部が垣間見える。 |
鑑賞日 2012/10/9 | |
入道雲そもそも大志なかりけり
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内田利之 兵庫
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大志という言葉は聞こえがいいが、おそらく二つの意味がある。良いほうの意味は、人の幸福の為に何かやりとげたいというような意味で、悪いほうの意味は、自分の欲を大いに満たしたいという意味である。悪るいほうの意味の大志はむしろ大野心であるとか野望というような言葉が適切かもしれない。余談であるが、大阪のあたりに日本維新の会というのが出来たが、私はあれは日本野心の会と言うほうが合っている気がしている。 |
鑑賞日 2012/10/10 | |
止めときな腹いせの酒梅雨の川
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宇野律子 神奈川
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誰かに言っている。言い聞かせているのかもしれない。その人は梅雨の川のような状態なのかもしれない。すでに大量の酒を入れてまさに氾濫しようとさえしているではないか。もうたくさんだ。私は今、今年の集中豪雨のことなどを思いだした。そしてこの句はその事を言っているのかもしれないとも思った。腹いせの酒を飲むように雨をたくさん飲んで溢れる川よ、もういい加減に、止めときな。 |
鑑賞日 2012/10/10 | |
舐めて貼る鳥の切手や遍路宿
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榎本愛子 山梨
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私は今或る遍路宿に泊っています。そう人生とは遍路のようなものですね。ここはその長い旅路の一つの宿なのでしょう。私は久しぶりにあなたに手紙を出しています。あなたは私のことを忘れてしまったでしょうか。そしてあなたは昔居たあの場所にまだ住んでいるでしょうか。ああ、私の手紙がしっかりとあの人へ届くように、鳥の切手を貼りましょう。舐めてからしっかり貼りましょう。鳥さん鳥さん、さああの人の元へ私のこの手紙を届けておくれ。 |
鑑賞日 2012/10/11 | |
忌日なり頬に草あかり水あかり
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榎本祐子 兵庫
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今日鑑賞した金子先生の「いのちと共に葡萄七粒の甘さ」と結局は同じような味わいの句である。両句とも、生きてあるということは祝福されてあるということだという感じが伝わってくる。そしてこの句の場合、[頬に草あかり水あかり」という表現にとても引きつけられる。 |
鑑賞日 2012/10/11 | |
本流も支流も放射能ホタル
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大高宏充 東京
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原発事故から一年以上も経ち、だんだんと人々の関心が薄れ、メディアでもそのまだまだ変らない深刻さを伝えることが減り、財界や官僚や政治家達は再び原発を保ち続けるという方向で物事を進めてしまっている。そもそも放射能は目に見えないものであるから、忘れてしまいがちなものであるが、知的感受性が強い人は忘れることが出来ない。本流も支流も何処も彼処も放射能に汚染されてしまったのであり、そこに棲息するホタルもしかりであるということを。 |
鑑賞日 2012/10/12 | |
赤紐を林間学校へと通す
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小野裕三 神奈川
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どうもよく解らない。「赤紐」とは何だろう。辞書で引くと・・・1 赤い色のひも。2 大嘗祭(だいじょうさい)などの神事のとき、小忌衣(おみごろも)の右肩につけて前後に垂れ下げた赤色のひも。古くは赤1色、のちには蝶や鳥を描いた赤色と黒色のひも。3 舞人が青摺(あおず)りの小忌衣の左肩につけたひも。・・・等と出ている。あるいは焼き鳥屋などで呼ぶ心臓の中おちの部分だろうか。とにかくその「赤紐を林間学校へと通す」というのであるが、依然よく解らない。 |
鑑賞日 2012/10/13 | |
瑠璃蜥蜴この縦横なもの忘れ
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門屋和子 愛媛
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「この縦横なもの忘れ」という大らかさがいい。この大らかさの中でこそ瑠璃蜥蜴の存在感が妖しくも光るのだろう。 |
鑑賞日 2012/10/13 | |
満開のさくら切字のつかいかた
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金子ひさし 愛知
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満開の桜を見ていると、切れ目など無いように見える。考えてみれば存在というものに切れ目などはそもそも無いのだ。しかし人間が物事を把握するためには二元的に見るより他はない。それ故に俳句では切れということが強調される。この句を読んで、こんな抽象的な論が頭に浮んだ。〈存在論的切れ字論の要旨〉とでもしたらどうだろう。 |
鑑賞日 2012/10/15 | |
汝が形見かな月光の花辛夷
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北村美都子 新潟
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あなたが植えてくれた辛夷の花が咲いています。月の光に照らされて白く光っています。あなたは既に逝ってしまいました。私はまだいきています。あなたの辛夷の花を見ながら今私はあなたのことを想っています。 |
鑑賞日 2012/10/15 | |
日を溜めてどくだみが咲く再起期す
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京武久美 宮城
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宮城の人であるから「再起期す」というのはあの大震災に関係している言葉なのであろう。派手な花ではなく「どくだみ」という清楚な花であるのがいい。またどくだみは雑草のように何処にでも咲いて薬効もあるという連想も伴うもので、それが尚いい。「日を溜めて」というのもいい。 |
鑑賞日 2012/10/15 | |
桃咲けば闇絢爛と石切場
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小長井和子
神奈川 |
「闇絢爛と」という把握がいい。最近では真の闇ということは殆どないから、実際はこれが真の闇であるかどうかは分らないが、真の闇であると受け取りたい。真の闇であれば桃の姿は見えないのであるが、そこに桃が咲いていると実感するだけで闇は絢爛として匂い立ってくるのである。石切り場という設定も真の闇と受け取れば尚引き立つ。桃の姿は見えないというのが私の鑑賞のポイントである。 |
鑑賞日 2012/10/16 | |
人間ぽいねゴーヤあちこちからまった
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小林寿美子 滋賀
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ゴーヤの蔓は伸びて伸びてあちこちからまる。そしてあのゴツゴツのデコボコの実が成る。この実の様といい、あの蔓の絡まりようといい、まさに人間みたいだ。軽く「人間ぽいね」といって笑える句であるが、実に人間や人間社会の本質を捉えている。 |
鑑賞日 2012/10/16 | |
母在れば麦は飴色火吹き竹
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小林まさる 群馬
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セピア色の過去という表現があるが、飴色の過去という表現があるとすれば、こっちの方がより生生しい実感があるような気がする。幼い頃の母との思い出。麦は飴色に稔っている。飴色の火吹き竹で火を起す母。 |
鑑賞日 2012/10/16 | |
喪に服す一村ありて山開き
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佐藤鎮人 岩手
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「山開き」は夏の季語で、一般の登山者の為の開山祭のことであるらしい。しかしこの賑わいの傍らには喪に服す一つの村があるというのである。作者は岩手の人であるから、この喪に服す一村は昨年の大震災のことに関連しているように思う。人間の営みの大きな流れということか。 |
鑑賞日 2012/10/17 | |
草木瓜の花胸熱く八十路なり
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篠田悦子 埼玉
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「胸熱く八十路」という状態に共感するし、また再確認させられている。人間は誰でも老いてゆく、そしてその先には死が待っている。一般的にはこのことを嫌なことと見做す風潮があるが、実は全く逆ではないのか。死がどうして嫌なものだと分るというのだろう。それは全く素敵なことなのかも知れないのではないだろうか。はっきりしていることは、それは人生最大の神秘であるということである。われわれは恋人に会う時のように死を迎えるべきではないだろうか。歳を取るにつれて胸が熱くなってくるのは当然なことなのではないだろうか。ああ、草木瓜の花でさえこんなに美しい。 |
鑑賞日 2012/10/18 | |
吾の歳や一茶は死んで蛙鳴く
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霜田千代麿
北海道 |
一茶は六十五歳で死んだそうだ。俺ももうその歳を越えてしまっているなあ。蛙が鳴いていらあ。そういえば一茶は帯夥しい数の蛙や小動物の句を詠んだっけ。人間も生きたり死んだり、そして動物も生きたり死んだり。同じだなあ。 |
鑑賞日 2012/10/19 | |
もう田植え終えたかチェンバロ奏者
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新宅美佐子 愛媛
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チェンバロ奏者でありながら百姓仕事もするような人物が思われる。現代においてはこのような種類の人は増えているのではないか。そしてこれは理想的な人物像に思えてくる。宮沢賢治などもこのような人々の構成する社会を目指していたのではないか。つまり個々の人間が社会の一部の歯車として存在するのではなく、その人間がすなわち一つの世界を持っているような社会である。 |
鑑賞日 2012/10/20 | |
人の背は瀬音に黙し黄せきれい
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鈴木修一 秋田
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単に「人」だとか「人間」だとかではなく「人の背」がやはり上手いと思う。一つの具体的な場面がはっきりと見える。その先にある人間一般というものも当然含まれてくる。抽象から具体ではなく、具体から抽象ということが俳句では大事なのではないか。 |
鑑賞日 2012/10/21 | |
金星過るいのちのかたち人や蜘蛛
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鈴木康之 宮崎
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金星が過るという一つの宇宙的な事象を目の当たりにしたときに、翻って、では、この宇宙に存在している〈いのち〉というものは何だろう、という想念の流れの中に作者はいたのではないか。 |
鑑賞日 2012/10/22 | |
手で隠すものに感情竜の玉
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芹沢愛子 東京
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成程なあと気付かされる。「手で隠すものに感情」という部分である。人間は手作業を通じてその知的な営みを発達させてきたのであるということも考え合わせて、肉体の部位の中で知的なものの代表は手であると思えてきた。そして感情は知的なものの制御によって守られなければならないからである。そしてこのことに関連しての「竜の玉」の比喩性・想像性は高い。 |
鑑賞日 2012/10/22 | |
書くという小さな疲労バラが咲く
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高山紀子 秋田
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ものを書いている人には実に共感できる句ではないか。何の為に書くのかといえば、いわば「バラが咲く」のを見たいからである。バラが咲くのを見れば、書くという神経の疲れる作業も小さな疲労それも快いものになる。 |
鑑賞日 2012/10/23 | |
折り鶴も解けば紙片震災忌
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瀧 春樹 大分
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大震災あるいは大災害というものは自然によるあるいは神による、解くという行為なのかもしれない、とこの句を読んで思った。我々人間が作りあげたと思っているこの文明も我々自身も、大自然や神の力によって解かれてしまえば形が無くなってしまう。それは折鶴がただの紙片になってしまうようなものである。 |
鑑賞日 2012/10/23 | |
沢蟹や宴のような島の雨
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田口満代子 千葉
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この島に今雨が降っている。甲羅が雨に濡れてつやつやと光り沢蟹達も活き活きとしているようだ。ああ、もしかしたらこれは宴なのかもしれない。神々の、あるいは沢蟹達の。ある一つの啓示の瞬間である。もしかしたら俳句を作るということは絶え間なく我々に降り注いでいる啓示ともいうべきを気付き書き留めてゆくことなのかもしれない。 |
鑑賞日 2012/10/24 | |
春隣黄河の音に我の音
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董 振華 中国
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春も間近くなると黄河でも雪解け水で水量が増えごーと高鳴るように流れるのだろうか。句は黄河のエネルギーと自分の中のエネルギーの一体性を感じているというスケールの大きな心情の表明となっている。 |
鑑賞日 2012/10/24 | |
本能は水に映れりほうたる
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野崎憲子 香川
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本能とそれを見ている澄んだ意識。この意識が意識されている時に、本能は最大限に自由に振るまい、そしてバランスのある抑制も起る。人間存在のあるべき姿を詩的に美しく書いたように思える句である。 |
鑑賞日 2012/10/24 | |
夏の川老人やおら水切りす
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平山圭子 岐阜
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思わず笑いが催される句である。つまり人間という動物の可笑しさが表現されており、そういう人間に対する共感が湧いてくるからだろう。 |
鑑賞日 2012/10/25 | |
器量とは勁さのしなり柳に芽
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廣島美恵子 兵庫
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〈勁〉は[つよ]とルビ この「勁」という字を持ってきたことが手柄だろう。ぴんと張りつめてつよい、というような意味であり、勁弓[けいきゅう]だとか勁健[けいけん](強く健やかであること)だとか勁草[けいそう]だとかの言葉がある。漢字や言葉の意味に対する素養があり、人生に対する考察の積み重ねを普段行っている人が、ふと柳の芽を目にしたときの感動を得て、こういう句を作ることができたのかもしれない。 |
鑑賞日 2012/10/26 | |
ひとりとはこの世にひとり芹の花
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水野真由美 群馬
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好感の持てる句だ。このさっぱり感。この潔さ。この人に阿る感じの無さ。不思議と孤独感だとか淋しい感じはない。芹の花が美しい。 |
鑑賞日 2012/10/26 | |
朝掘りのたけのこ縄文土器と有り
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茂里美絵 埼玉
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静謐な目で切り取られた〈人間の土地〉の一風景。眺めていると、湿り気を帯びた竹の子の息を感じる。 |
鑑賞日 2012/10/27 | |
原発なくとも蝶の寝息と暮らす
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柳生正名 東京
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[蝶の寝息と暮らす」という実感にはぐくまれた思想が、おそらく脱原発さらにはあらゆる環境問題を解決する思想になるべきものだろう。蝶の寝息と暮らした経験のある人にとっては原発はむしろ邪魔なものである筈である。〈蝶の寝息と暮らせ〉という言葉を原発反対の一つのスローガンにしてもよいくらいだ。 |
鑑賞日 2012/10/27 | |
苔の花まとひ淋しく寄せ墓に
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安井昌子 東京
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「寄せ墓」というのは、たくさんある先祖の墓を一つにするというアとであろうか。想像するに、そこにはその人がどういう人だったのかということも分らない小さな墓もあるだろう。古かったりあるいは誰も手入れをしなかったりで苔むしている墓もあるだろう。そういうような墓に今は苔の花が咲いている。故人はどんな想いで長い年月を過ごしたのだろうか。淋しくはなかったろうか。今までは小さかろうが苔がむしていようが、それなりに一つの墓として存在したが、今は一つの墓に纏められようとしている。あなたという人が居たであろうことも忘れられてしまうのだ。 |
鑑賞日 2012/10/28 | |
新樹光一管のごと水飲みくだす
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山本 勲 北海道
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水を飲みくだした時の感じとして、自分自身が一管になったみたいだというのであろう。外界は新樹光に満ちている。自分は単なる一管で、そこを水が通ってゆく。あれこれの思考もなく、あれこれの感情もなく、そこには新樹光と管と水の流れがあるばかり。まことに禅定の時と言える。 |
鑑賞日 2012/10/28 | |
夜の雲の愚かに白しニセアカシア
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柚木紀子 長野
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疎外感といったらいいだろうか。自然や外界の事物が親しくない感じ。総てのものが嘘くさい感じ。自分自身さえ嘘くさい。暗愚たる自然。暗愚たる人間。 |
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