表紙へ 前の号 次の号
金子兜太選海程秀句鑑賞 485号(2012年8・9月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2012/8/9
蜃気楼見た見た見たと反芻す
阿川木偶人 東京

 蜃気楼を見た、ということ。何処で見たか。どんな蜃気楼であったか。自分は見てどのように感じたか。その時自分は何をしていたか。蜃気楼とは何か。自分とは何か。様々な文芸が、蜃気楼を見たということについて様々な表現をするだろう。ここでは、蜃気楼を見たということを五七五というリズムに乗せて書いた。蜃気楼という言葉の豊かさと五七五というリズムが勝負である。


2

鑑賞日 2012/8/10
吾を生みし体内薔薇色聖五月
安藤和子 愛媛

 吾を生みし体内が薔薇色だという把握。そして聖五月とうものに結びつけた把握。私達の連綿と続く生そのものが健康で美しく聖なるものであるという感じ方。圧倒的な生の肯定の思想である。


3

鑑賞日 2012/8/10
岩牡蠣ほうばる月をほうばる
泉 尚子 熊本

 生というものは何と豊穰なものか。その豊穰さをほうばっている、満喫している。「月をほうばる」という把握がポイント。


4

鑑賞日 2012/8/11
花片栗半分は秘密の日常
伊藤 和 東京

 半分は秘密の日常。どこかしら小説のような趣があるが、おそらくこれは多くの人にとっての事実ではないか。一見平凡な人生を送ったとしても、そこには解き明かすことのできない謎がある。人生はミステリーである。例えば小さな片栗の花がある、われわれはこの片栗の花の物語の半分も知らないだろう。


5

鑑賞日 2012/8/11
忘れものあるごと蛇をやり過ごす
伊藤淳子 東京

 私達は自分の意識全体の半分しか知らない。その知らない半分を無意識と言ったりするが、その領域は意識の領域よりも深く自分の本質的な部分に関わっているものなのかもしれない。この句はその部分に触れて書いているような気がする。その部分を蛇が通り過ぎたという感じがするのである。そしてまた蛇というものの象徴性、すなわち人間の根源的な性力を象徴するもの、ということを考えると、一見さらっと書かれた日常句のような表現の中に、人間の心理への深い洞察が含まれているような気がする。また「やり過ごす」という行為から、この作者のある意味達観したような生き方が伺える。


6

鑑賞日 2012/8/12
花菜の黄愚行もありし祖を囲む
井上湖子 群馬

 祖の墓のまわりに花菜が咲いている景色を思い浮かべる。こういう景色はいいなあ。自然の中、といっても、花菜であるから人間の耕す畑であろうか、その一画に墓があって祖先が眠っているという景色。自然の中の人間の営み。豊かに人間的である。「愚行もありし祖」というのも人間的である。単なる「花菜」ではなく「花菜の黄」であるのは、より視覚的あるいは絵画的である。


7

鑑賞日 2012/8/12
羽抜鶏の王なり正しき喉仏 
榎本祐子 兵庫

 鶏に喉仏があるのかどうか私は観察したことがないので分らないが、私はむしろ羽抜鶏になぞらえてこういう人物像をえがいた感じを受ける。毛髪などは禿げ上がって無いが、喉仏正しき立派な老人である。なお喉仏は西洋ではアダムのリンゴなどと呼ばれているらしい。


8

鑑賞日 2012/8/13
春愁は河馬のあくびのごときもの 
大谷昌弘 千葉

 これは一種の悟りの言葉のようなもの。達観した禅者にこれを言われたら、何を自分はくよくよと愁いに沈んでいたのだろうと目の前が開けるかもしれない。


9

鑑賞日 2012/8/13
匂玉の闇にふくろう青みゆく 
大西健司 三重

 勾玉は縄文弥生時代の耳飾りである。Wikipediaによれがその形の由来は様々な説があるらしい。

* 動物の牙で作った牙玉を基とする説
* 胎児の形を模したとする説
* 魂の姿を象ったとする説
* 巴形を模したとする説
* 月の形を模したとする説
* 形そのものに意味があったとする説
* 破損した耳飾を再利用したとする説

 時代のことや形状のことなどに想いを馳せながら「勾玉の闇」という言葉を味わっている。そしてそういう自分が「ふくろう青みゆく」という状態に重なってゆくのを感じている。


10

鑑賞日 2012/8/14
にんげんや花火のように核を持つ
岡崎正宏 埼玉

 「人間というものはしょうもないものだ。我ながらどんでもない代物を作ってしまったと思う。火を見つけたくらいはまだいい。そのうち地球のあちこちを掘りちらしてエネルギーを使い放題に使っているかと思えば、今度は核エネルギーの秘密を探り出して、どんでもない破壊をやり出しおった。奴等は俺が与えてやった地球を汚染し破壊し尽くしてダメにしてしまうつもりだろうか。いや、奴等につもりなんかありはしない。奴等も最初は花火でも作るようにほんの気軽に核エネルギーをもてあそび出したに違いない。そう、俺がほんの気軽に少し美しいものを作ってやれと思って、俺の姿に似せて奴等を作ったように。」と神は呟いているかもしれない。


11

鑑賞日 2012/8/14
美人画の団扇かざして亡父が来る
加古和子 東京

 私の記憶では昔の団扇の図柄というものは美人画が多かったようだ。だから、「美人画の団扇」に艶のようなものを感じると同時に懐かしい扇風機以前ガスコンロ以前の昭和の時代を思いだしてしまう。


12

鑑賞日 2012/8/15
黄菖蒲や観測隊のように岸 
柏原喜久恵 熊本

 黄菖蒲が観測隊のように岸に並んで咲いているという風景が見える。「観測隊のように」というイメージを飛躍させた譬えの面白さである。また「岸」と添えたことによって風景が具体的になった。


13

鑑賞日 2012/8/15
父消えて我に緑夜をうつすかな
川田由美子 東京

 心の中の映像としての父がフェードアウトしてゆき、そこには緑夜のみが残った。父は緑夜であり、我もまた既に殆ど緑夜と一体だ。まるで父が我に緑夜をうつしていったみたいだ。


14

鑑賞日 2012/8/17
深海に散り入るさくら麻酔いま
北村美都子 新潟

 手術をするために麻酔を受けた時の感じだろう。それを「深海に散り入るさくら」と表現した。とても美しい。また麻酔をした時にさえ自分の意識を冷静に眺めてられているという事実は素晴らしい。


15

鑑賞日 2012/8/17
魂抜けるとは陽炎に魅かれること
京武久美 宮城

 素直に首肯ける内容である。陽炎というものは空気と光の戯れにより起る触ることの出来ない現象であり、果して実体が有るのか無いのか定かでないようなものである。実体が有るのか無いのか定かでないようなものに人間は魅かれる存在である。例えば神というものはそうであろう。それが有るのか無いのかはっきりしないが、有るすれば価値があると認められる存在に魅かれること、あるいは愛することは、そのものに自分のお魂を委ねることであり、自分の魂が抜けることである。


16

鑑賞日 2012/8/18
一輌貨車に散るだけ散った桜かな
小林一枝 東京

 まあ何てこと、この一両貨車は桜の花びらだらけだわ。それにしても何て惜しみない放出なのかしら。まるでまるで桜はこの一両貨車に恋しているのかしら。


17

鑑賞日 2012/8/19
一山の一樹あまさず新樹光
清水喜美子 茨城

 恵み。あまねき恵み。あまねき天の恵み。尊いという主観語を使っていないが尊いということが感じられる。これが存在を写生するということの力か。芭蕉の

あらたうと青葉若葉の日の光

と比較してみると面白い。

 ところで原発事故以来、放射能によって汚されてしまった自然のことがなかなか頭から離れずに

フクシマ以後青葉若葉の涙かな

などと作ったりしてしまった私である。


18

鑑賞日 2012/8/19
身の内の隠沼いくつ青き踏む
下山田禮子 埼玉

 〈隠沼〉は[こもりぬ]とルビ

 「身の内の隠沼いくつ」という内面の把握力に魅かれる。「青き踏む」との対照もあり、内面というものを抱えているこの厄介な人間というものがあらわに表現されている。


19

鑑賞日 2012/8/20
田螺のあくび農学博士に伝染かな
白井重之 富山

 〈伝染〉は[うつる]とルビ

 田螺が棲んでいるようなのんびりした田舎の景色が見えてくる。実験室という可能性もあるが、やはり田舎の風景の中の出来事の方が私にはいい。「農学博士」というのは実は農学博士という渾名の人物である可能性もあるような気がするが、そんな戯けた感じを抱かせるのも、句全体にユーモアの雰囲気があるからだろう。


20

鑑賞日 2012/8/20
国生みの矛にもぐらの春の土
高木一惠 千葉

 春先に畑などを耕していて、その鍬の先の土の中からひょっこりともぐらなどが出てくることがある。そんな事実を日本書紀に書かれている国生みの物語に結びつけて戯けたのかもしれないし、もしかしたらそもそも人が何かを耕すために入れる一鍬はまさに〈国生み〉という行為そのものに違いなく、人それぞれの生そのものが神話だという素敵な思いが作者に有るのかもしれない、などと思った。


21

鑑賞日 2012/8/21
嚔して畜生と言ふ黄砂降る
田中 洋 兵庫

 嚔したり石に躓いた時に思わず「チクショウ」と言うのは、チクショウの本来の意味である畜生(けだもの)という意味で使うのではなく、ただちょっとした掛け声として使われる場合が多いのではないか。「クソ(糞)」だとか外国人なら「oh,my god!」と使ったりするのと同じである。言葉本来の意味を考えながら言葉を使っているわけではない。この句の面白さはその本来の意味を強調するように「畜生」と表記した点にあるのではないか。「嚔して畜生と言ふ」というのはまことに不思議なことである。


22

鑑賞日 2012/8/21
離別時来て百日紅の真赤
董 振華 中国

 〈時来〉は[ときき]とルビ

 「離別」への万感の思いが「百日紅の真赤」で表現されている。さらにその思いが、「時来て」と強調されることによって、極限にまで高められている。離別の時には、その対象の全てが完全であり、そしてその対象の全てが愛おしい。私自身の死の時へさえも思いが及ぶ。“絶品”と言いたい句である。


23

鑑賞日 2012/8/23
雨蛙こいつは無職吾は無学
豊原清明 兵庫

 人間はおそらく誰もが、いずれは無職になり、そして自分は無学だという自覚に至る筈である。そうでなければ、例えば自分は学識が有ると思っている人、つまり知ってるつもりになっている人は、到底雨蛙の境地には至らないであろう。


24

鑑賞日 2012/8/23
被曝の土に被曝の翅を蝶が曳く
中村 晋 福島

 つい先頃、福島の蝶の翅と眼に異常が出ているという報告を琉球大学のチームが報告したとのニュースがあったことを思いだした。この句の作者は福島の人であるが、直感的に様々な気配を自然界に感じているのだろうか。われわれ人間は自然界に対して何と痛ましい事をやったものだろう。


25

鑑賞日 2012/8/24
カッコーの声入りごはん炊けている
中村祐子 秋田

 カッコーの声入りごはんが炊けていますから、さあ高原にいらっしゃいと、高原に招待されているような気分がする。


26

鑑賞日 2012/8/24
駅弁の中までずっと春の田です
丹生千賀 秋田

 作者は前の句の中村さんと同じ秋田の人であり、句の内容もまた同じく旅への誘いのような雰囲気であるから、これらは同じ旅への同行中の句ではないかと勝手に想ったりしている。・・・いいなあ、春の田の風景を見ながら駅弁食って高原に行き、さらにカッコーの声入りごはんを食うなんて。しかも俳句仲間と同行しているなんて・・・


27

鑑賞日 2012/8/25
ふっと誕生仏のくらさ森林浴
野田信章 熊本

 森の中に入った時のあの感じ。原初的な、生まれる前あるいは生まれた時のような感じ。その感じを「誕生仏のくらさ」と言い止めた面白さ。そして読者は想ったりする。仏が生まれる時に、彼はふと、ああ生れるんじゃなかったと一瞬のくらさに浸ったのかもしれない、と。


28

鑑賞日 2012/8/25
地にカメラ大仏の掌に四十雀
野原瑤子 神奈川

 これだけのピックアップされた少ない言葉で、その場の景を完全に書き取っている。これが俳句の写生というものだろう。


29

鑑賞日 2012/8/26
ブロッコリー敵意ひとつが抜きん出る
橋本和子 長崎

 ジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)はブロッコリーが大嫌いであったそうである。「ブロッコリーは嫌い。二度と食べない。ポーランド市民がソ連と闘ったように私もブロッコリーと闘う」と発言したことに怒ったブロッコリー農家から、トラックで大量のブロッコリーを送りつけられたこともあって、世界のニュースになったこともあるらしい。定かではないが一般的に欧米ではブロッコリー嫌いが多いということも言われているらしい。
 ところでこの句の作者はブロッコリーが嫌いなのだろうか。それは定かではない。しかし、一般的に敵意などというものはブッシュがブロッコリーに抱いた敵意のようなものだ、というような寓意がこの句にはあるような気もする。


30

鑑賞日 2012/8/26
よみがえるものに黙読著峩の花
平塚幸子 神奈川

 この黙想的な雰囲気がいい。著峩の花もこの雰囲気に相応しい。


31

鑑賞日 2012/8/28
種蒔いて素手の感情よみがえる
堀之内長一 埼玉

 「素手の感覚」なら常識的だが「素手の感情」としたところが味噌であり、快いのである。そしてこれはおそらく東洋的な知恵による一つの洞察であろう。われわれはあまりにも西洋的な知識重視の分析思考に慣れてしまって、知性は頭に宿り、感情は胸に宿り、感覚はそれぞれの部首に宿るものと分けて考えてしまいがちであるが、実は知性も感情もあらゆる場所に遍満しているというのがもっと深い東洋的な洞察なのではなかろうか。


32

鑑賞日 2012/8/28
放射状に爆発つづくさくらかな
マブソン青眼 
長野

 作者はあの福島原発事故以来ずっと原発のこと放射能汚染のことを書き続けている。坂本龍一氏は反原発集会において「福島の後に沈黙しているのは野蛮である」と語ったという。おそらくそうである。ましてや言葉に生きている文人ならばなおさらそうかもしれない。戦後に虚子は「俳句はこの戦争に何の影響も受けませんでした」と言ったそうであるが、それはある意味では分る。何故なら、戦争というものは自然そのもの大地そのものを永続的に汚染することはなかったからである(広島長崎は核によって汚染されたが、これは原発事故問題と本質的に同じなので一応除外すればの話であるが)。ところが原発事故問題(及び原爆の問題)は花鳥諷詠派の俳人にとってみても関係ないとは言えない筈である。何故なら原発事故は自然すなわち花鳥そのものを汚染するからである。しかも半永続的に汚染する。しかもその原因となる膨大な量の核廃棄物が日本には存在していて、その処理方法さえ見つけられない状況なのであるから。したがって直接的に書くにしろ自分の中の態度として保つにしろ、俳人ならば坂本龍一氏の言葉を一度は重く受け止めておく必要があるだろう。
 さてマブソンさんのこの句である。さくらが咲くときのあるいは散るときのエネルギーを感じて書いたものと受け取れる。すなわち自然が孕む根源的なエネルギーが感じられるのである。そしてこの句に至る彼の句作を眺めてみれば、このさくらの爆発のエネルギーは彼自身の中に溜りに溜ったもやもやと鬱屈した状態の爆発だったのかもしれないとさえ思うのである。
 最後に敬意を表してマブソンさんの原発関係の句を並べてみたい。

(ちご)の頬に遅春のなみだ放射能と
鳥に春菜やる原爆の前日か
原発や蜂ひたすらに花なめる
花のうへ花散る吾児よごめんなさい 〈原発事故〉
三歳で「セシウム」覚え春時雨
花陰やプルトニウムの話など
(こ)に教えん原発のこと銀河のこと
みどりごの実桜拾ふセシウムも
パパの帽実桜百個はひるかな
子規鳴けよ原発囲む死の森に
梶の葉に「ケーキたべたい」「脱原発」
節電中エレベーターに天道虫
父子愛に半減期無し葡萄剥く
人の子も仔猫も空気被曝かな
東電より届く光の火取虫
蓼の原聖母像にもセシウムか
はつ秋のしやぼん玉往く相馬かな
松陰に寝て食ふセシウムストロンチウム
禅師墓に線量計置く冬薔薇
言ふまじき畏怖のあれども鰯雲
蝉聞くやトイレの中も線量計
魔起してからはじめての白鳥来
湯けむりが露と成るホットスポットかな
木守柿放射能といふ重さかな
線量計しばらくOFFに初参り
ふくしまのはなしのあとも春のチョコ
冴え返る反核デモの太鼓に穴
校庭より盗難アラーム原発忌
地球てふ小さき刑務所原発忌
雀の巣百四十万ベクレル
3号機爆発の日ぞホワイトデー


33

鑑賞日 2012/8/29
中途半端に慣れるは怖し蜥蜴の尾
丸木美津子 愛媛

 私がこの句から連想するのはやはり原発のことである。安全神話に慣らされて福島原発事故が起ってしまった。そして福島の汚染地帯は蜥蜴の尾のように切り捨てられてしまった。そしてまたまた大飯原発の再稼働というとんでもないことを政府や原子力村はやりはじめた。今回は前程ではないにしろやはり中途半端な安全神話を彼らは作りはじめた。うっかりしているとわれわれもそれに中途半端に慣らされていく怖れがある。今度事故があったらどの地域が蜥蜴の尾のように切られてしまうのだろうか。この場合の蜥蜴の尾はおそらく数百年の間、場合によっては数万年の間、元通りになりはしない。


34

鑑賞日 2012/8/29
しゃぼん玉名誉教授の髭に爆ぜ
三松玲子 神奈川

 ほのぼのとしたユーモア。しゃぼん玉は勝手に好きなところへ飛んでゆきぶつかって爆ぜる。遠慮などはない。しゃぼん玉は自然物の一部だからである。ぶつかった相手が人間社会では一応偉い人とされる名誉教授であるというところがユーモアとなる。


35

鑑賞日 2012/8/30
しんぞうがとととぽぽぽと子猫かな
茂里美絵 埼玉

 中七のオノマトペの面白さに尽きる。
 下は我家の飼猫の小さいころの写真であるが、句の猫はもう少し小さい猫の感じである。


36

鑑賞日 2012/8/30
白菜を抱えて乳房つぶれけり
森 美樹 千葉

 健康的な日常の健康的なエロス。


37

鑑賞日 2012/8/31
ハンカチの木よ雨空は生まれたて
守谷茂泰 東京

 創造は日々あたらしい。そして詩人や芸術家はそれに気付かせてくれる。


38

鑑賞日 2012/8/31
ポタージュに緑のパセリまるで恋
吉村伊紅美 岐阜

 いいなあ
 何だかどろどろとして分けの分らない愚鈍な世界に
 このようなさわやかな恋がたくさんあればいいのに


表紙へ 前の号 次の号
inserted by FC2 system