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金子兜太選海程秀句鑑賞 484号(2012年7月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2012/7/13 | |
つばくらめ綺麗な土をみちのくへ
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石川和子 栃木
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ロマンティックな句である。ディズニー童話のお姫さまが恋する人を想って燕に話しかけているような雰囲気である。 |
鑑賞日 2012/7/13 | |
かもめよこぎって雪暗のオルガン
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井手郁子 北海道
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詩である。詩情ではなく詩そのものといったらいいだろうか。あるいは詩情ではなく情そのものという言い方もできるだろうか。要するにエッセンスそのものが書かれている気がする。私の中では「かもめよこぎって雪暗のオルガン弾き」というような表現と比較して考えているのであるが。 |
鑑賞日 2012/7/13 | |
やわらかき球体の鳥冬の掌に
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一ノ瀬タカ子
東京 |
個人的な感想になってしまうが。実は『海程』の海花集の挿し絵は私の妻が描いたものである。下の絵。 |
鑑賞日 2012/7/14 | |
齢とは置物のようです春の雪
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稲田豊子 福井
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真の意味で私とは何か。たとえば歳を取るということは私というものの属性なのか。私は歳をとってしまうものなのか。いやいやそんな筈はない。歳を取るということは真の私とは別物であり、そこに置かれている置物のようなもの。静かに明るい春の雪が降る中での観照の句である。 |
鑑賞日 2012/7/14 | |
百姓兼禰宜に道草の花匂う
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今福和子 鹿児島
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「百姓兼禰宜」というのが個人的には好ましい。百姓兼俳人であるとか、百姓兼画家であるとか、百姓兼政治家であるとか、百姓兼学者であるとか、そんな風にみんながなれば、少なくともそんな風な意識をみんなが持てば、この国ももう少しのんびりしたものになるのではなかろうか。道草の花の匂いを感じられるような国になるかもしれない。 |
鑑賞日 2012/7/16 | |
みちのくのまるごと愛し囀れり
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宇川啓子 福島
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〈愛〉は[いと]とルビ ああ福島よ。福島の人よ。福島の子ども達よ。とんでもないものに汚染されてしまった福島の大地よ森よ。怪物に犯されてしまった女性福島よ。ああ小鳥達よ。囀りたまえ。せめてせめて鎮魂の囀りを。 |
鑑賞日 2012/7/16 | |
貝塚ともなれや焼牡蠣飽かず食う
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内田利之 兵庫
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永い永い生物の歴史の中の一瞬、俺は焼牡蠣を食っている。ヒトという種とカキという種の妙なる出会い。この出会いに飽きることもなく、俺は焼き牡蠣を食い続けている。 |
鑑賞日 2012/7/17 | |
蝶が湧く洞のあり誰にも言わぬ
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榎本祐子 兵庫
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楸邨の「鰯雲人に告ぐべきことならず」を連想した。楸邨の句の場合は、社会と個人の関係の中での葛藤がその根底にある言葉であるように思うが、この句の場合は、人間存在そのものがはらむ葛藤あるいは秘密が書かれているのではないかと感じる。人は誰でも「蝶の湧く洞」をその内奥に持っている。 |
鑑賞日 2012/7/17 | |
あちこちに夫のマスク遺言なきに
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加地英子 愛媛
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マスク=仮面というような連想が働いてしまう。妻と夫という最も親しい関係である筈の間柄においても、そこには告げることのできない秘密があるというような心理劇を感じてしまう。その意味で8の榎本祐子さんの句を違う立場から眺めた句であると言えるかもしれない。 |
鑑賞日 2012/7/18 | |
出て行ったままにしてある燕の巣
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河西志帆 長野
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作者の生きる態度がこういう句を書かせるに違いない。潔く、しかし本質的に情が深い。 |
鑑賞日 2012/7/18 | |
中島偉夫氏逝く
彼岸は春か句集未然と微笑みぬ |
河原珠美 神奈川
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何とも滋味のある表現である。彼はおそらく彼岸でも此岸でも味わい深い存在としてあるだろう、ということが想像できる。 |
鑑賞日 2012/7/18 | |
吾より生る東西南北春の辻
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北村美都子 新潟
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作者は瞑想的な人ではなかろうか。そうでなければおそらくこのような観照は起らない。宇宙の全てが自己から派生したものあるいは自己の延長であるという感じ方はすなわち宗教的である。アートマン(真の自我)はブラフマン(宇宙我)であるということを思う。 |
鑑賞日 2012/7/19 | |
三月の荒涼に熟れ構われず
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京武久美 宮城
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日本政府がフクシマに対して取っている態度は棄民政策であることは確かである。汚染地帯の人は勝手に放射能に晒されていろというのである。この句の作者は比較的汚染が少ないであろう宮城の人であるが、宮城といえばやはり地震津波の被害地である。同じ日本政府のやることだからどうせ手厚い復興の手当てなどなされる筈もない。 |
鑑賞日 2012/7/19 | |
悼・永井微寒氏
“生き下手で寒い”と言ひし夕月や |
小林一枝 東京
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身につまされるものがある。この「生きべたで寒い」という状況は日本の庶民とくに東北の被災地の人達が負わされている状況に通じるものがある。そして彼らが震災時に見せた謙虚で慎ましい態度はまさに「夕月」の美に通じる美しさがある。美しい者が寒い状態、それが今の日本であるのではないか。 |
鑑賞日 2012/7/20 | |
春の風邪被曝電線垂れている
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清水茉紀 福島
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オーム真理教はサリンを撒いた。東電は放射能をばら撒いた。オーム真理教は故意にサリンを撒いた。東電は未必の故意によって放射能をばら撒いたといえる。サリンによって直接的に二十人あまりが殺された。放射能によって、間接的にではあるが、おそらく百人単位の人が既に殺された。放射能によってこれから十万単位の人が病気で苦しみ、死期を早めることになるだろう。放射能汚染によって十万単位の人が最終的に故郷を棄てることになるかもしれない。放射能汚染によって日本のある部分の国土が失われてしまった。オーム真理教の幹部達は裁判で死刑の判決が確定している。東電の幹部達は裁かれもせず、のうのうとしている。オーム真理教の事件と福島原発事件の本質的な違いは無いのではないか。国家権力に逆らって事件を起したか、国家権力には一応逆らわなかった形で事件を起したかの違いだけである気がする。 |
鑑賞日 2012/7/20 | |
雪明り軍服の父喪服の母
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白井重之 富山
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父と母の生きた歴史的な時間が、雪明りの射すこの現在の時間と同質化したように其所にある。時間というものの不思議さを感じている。 |
鑑賞日 2012/7/21 | |
父の忌や梅の枝に褌むすぶ
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鈴木八駛郎
北海道 |
「むすぶ」とあるから越中褌のように紐のある褌かもしれない。干して乾かすということだろう。梅の木といういわば風流の代表のような木の枝に褌をむすぶという一つの俳味であるが、それだけではない生きてあるということへの思いの深さが句の奥にある。紅梅の赤、そして血の赤が梅の匂いとともに仄かに感じられる。 |
鑑賞日 2012/7/22 | |
余震なお倒木が抱く蝌蚪の水
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高木一惠 千葉
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倒れてもなお小さな生命を守ろうとしている倒木、というふうに擬人的に受け取ってしまうのは、私が現代の日本の政治の冷酷さや電力会社などの企業の身勝手さを感じていることの裏返しだろうか。つまり、日本の政治は福島の民をそして子ども達を放射能から守らずに棄ててしまったということ、電力会社は福島の人達がまだ路頭に迷っている状態なのに、ろくな補償もせずに、金もうけのために更に原発再稼働などといういのちを危険に晒すようなことをはじめようとしている、ということなどである。 |
鑑賞日 2012/7/22 | |
風花や口を出でたるもの儚し
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武田美代 栃木
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「口を出でたるもの」というのはつまり言葉だと受け取った。ああ時として、言葉の軽さよ不確かさよ儚さよ。まるで風花のように人の前を通り過ぎてゆきそして消えてしまう。 |
鑑賞日 2012/7/23 | |
木の葉無き木々展翅無きガラスケース
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田中亜美 神奈川
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こういう句が作れるというのは、ものと対話する能力、あるいはものに沈潜してゆく能力が優れているということかもしれない。魅力あるマチエールの抽象画を見ている感覚がある。 |
鑑賞日 2012/7/24 | |
あるがまま朝の生まれるくらしかな
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田中昌子 京都
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こういう暮らしがいいなあ。あるがままに朝が生まれ、そして全てのやって来る事柄を肯定できるような暮らし。もちろんやって来る事柄には幸運なこともあるだろうし不運なこともあるだろう。しかしそれらをひっくるめて肯定できるような生きる態度。ある意味では世界に対して何も言わない受動的な態度と受け取られかねないが、おそらくそうではない。何故なら自分自身も世界の一部であるのだから、自分の中にやって来る外界に対する不満や怒りをも受け入れてプロテストしてゆくことも、あるがままの一部と見做せるわけである。例えば今回のいのちに対するあまりにもひどい軽視により原発再稼働を決めた愚鈍な政府に対する抗議のデモに参加している人々にとっては、デモに参加することが、自分の中に起ったあるがままの怒りのあるがままの表明なのであるから、彼らは自然のあるがままをあるがままに生きているということになる。そして逆にこの局面で何もしないで原発維持政策を容認してしまうということは、あるがままの姿とは言えないだろう。何故なら、あるがままということの前提には、いのちへの愛おしみがあるはずだからである。 |
鑑賞日 2012/7/24 | |
風が吹きずーっとむかしも狩をして
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遠山郁好 東京
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自然に発語されたかのようなさっぱりとした書き方。時間的にも空間的にも句の内容が大きく、しかもロマンがある。とても好きな句である。 |
鑑賞日 2012/8/2 | |
遥かなる夫征きし日や苗代寒
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徳永義子 宮崎
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作者の個人的な状況は分らない。この夫は戦場に征き帰らぬ人となったのだろうか。あるいは無事復員して来られたのだろうか。その辺りの事情によって受ける感じは大分違うと思うが、いずれにしても、戦争というものが人間の心に刻印する印象の強さは計り知れないということだろう。何十年たった今になっても、その日常の中にふっと顔を覗かせる。「苗代寒」の日常的具体が重い。 |
鑑賞日 2012/8/2 | |
偉夫急逝春雨は音立てぬもの
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中尾和夫 宮崎
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彼は何処へ逝ってしまったのだろうか。春雨の中に融け入ってしまったのだろうか。そうに違いない。音を立てずに静かに春雨が降っている。この春雨の存在感はまるで彼そのもののようではないか。彼は何処かへ行ってしまったわけではない。彼は普遍の存在になったのだ。この春雨がそうであるように。 |
鑑賞日 2012/8/2 | |
母子草ふくしま去らぬ父祖たちに
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中村 晋 福島
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美しくも哀しい民衆の姿。この美しさは果して本当に犯されてしまったのだろうか。ぎらぎらとした欲望の野獣である原発に。民衆は草のようだ。自然の脅威に対して身を低くすることが彼らの智恵であった。根付ける土地を離れないことが彼らの強さであった。さて今回はどうなのだろうか。母子草よ。どうなのだろう。 |
鑑賞日 2012/8/3 | |
春愁やポストに海抜の文字
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中山蒼楓 富山
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要するに津波対策として記された文字なのであろう。四季折々の美しい風物に恵まれた日本。しかし地震の多発地帯でもあり、豪雨や台風や津波などの災害多発地帯でもある。そしてまたこの度、原発災害という新たな脅威に日本人は晒されていることに気付いた。この「春愁」は個人的な愁いではなく、心ある日本人全体が抱いている、ある乾いて虚ろな愁いの感じなのではなかろうか。 |
鑑賞日 2012/8/3 | |
田を植える機械の音の機械的
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服部修一 宮崎
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私は農というものは、産業の一形態としてのみ捉えるべきではないと思っている。産業の一形態に過ぎないのなら、経済的に見合わなければ棄てればいいのであるが、そうはいかない。農を通して人間は土地や自然との深い交感があり得るのであるし、またそのような農の姿がこれから追求されるべきものだと思っている。そのような私の視点からみればこの一句はいわゆる近代農業あるいは近代文明への痛烈な批判の一句のように思えるのであるが。 |
鑑賞日 2012/8/3 | |
みなづきの魚啼くようにおしゃべり
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日高 玲 東京
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現実を見て言葉にしたというより、一枚の絵の中に入り込んで言葉にしたというような感じがある。みなづきの魚達が描かれた一枚の絵である。 |
鑑賞日 2012/8/4 | |
雪柳闇に葬ること甘美
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廣島美恵子 兵庫
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「闇に葬ること甘美」というのが実にいいなあ。現代人は闇の甘美さ闇の安らぎを忘れてしまっている。むしろ怖れているといった方が適切かもしれない。光と闇はコインの裏表であり、闇を理解しなければ本当は光も理解できない。光ばかりを追い求めると人間は恐怖に支配されて痙攣的になってくる。心理的あるいは内的な意味において、自分自身も含めて存在全体を一度闇に葬ってみるといい。その時本当の光が見えてくるかもしれない。雪柳の光が美しい。 |
鑑賞日 2012/8/4 | |
鶴帰るプルトニウムの火のかなた
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堀之内長一 埼玉
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「プルトニウムの火」で一番に思いつく場所は青森県の六ケ所村の核燃料再処理工場である。ここはまさに使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出す場所であるからである。青森県の上空あたりを帰ってゆく鶴達の姿が思い浮かぶのである。ところで放射能汚染のことなどを考えていると、この鶴達が青森県の上空あたりで萎えて一羽また一羽と墜落してしまうというような幻影が心を過るのは私だけだろうか。 |
鑑賞日 2012/8/4 | |
友癒えよ陸奥癒えよ梅真白
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本田ひとみ 埼玉
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ああこの人間的な願い。今までの災害や災厄ならばこのような自然の力に託した人間の願いは叶えられてきた。ところが今回の原発災害においてはどうなのだろう。自然そのものが目に見えない形で汚染されているという。人間はその自然そのものから逃げなければならない状況だともいう。 |
鑑賞日 2012/8/6 | |
谷底の空なき水の春の色
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水野真由美 群馬
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空も見えない鬱蒼とした谷底であろうか。そこを流れている小さな水にも春の色があるというのである。おそらく人間はどのような暗い状況にあってもこの「水の春の色」に象徴されるものを感じることが出来なければ生きてはゆけない。抽象性が高いので、様々な現実の場面に当てはめて感じ取ることの出来る句である。例えば日本の政治的社会的な暗さの場合、いじめに悩んでいる人の場合、あるいは病気に苦しんでいる人の場合等々・・。 |
鑑賞日 2012/8/6 | |
春の鳶想像力の円を出ず
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三田地白畝 岩手
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人間のマインドの限界を春の鳶という具体的なものを使って書いた。短い言葉で物事の本質を言い当てるという俳句の特性を感じる一句である。 |
鑑賞日 2012/8/6 | |
初鶯手にのせて湯に入ります
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三井絹枝 東京
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初鶯の可愛らしさ。ああ愛しい愛しいという思い。それらをこのような虚構に仕立て上げる作家の力量。この作家はまさに裸で自然に向きあっている感がある。いや、向きあうというよりむしろこの作家自体が自然現象だという感じさえする。 |
鑑賞日 2012/8/7 | |
だまし絵のなかのふくしま夕桜
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武藤鉦二 秋田
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原発安全神話から始まって事故になった。そして事故になった今、巧妙な基準値引き上げによって健康に対する安心神話が作られている。これから数年後数十年後に出てくる放射線による様々な病気に対しては、どのような神話が作られるのだろう。これらはすべて人々の錯覚を利用しただまし絵のようなもの。これらのだまし絵を描いたのは誰か。そこに美しく咲いている夕桜よ、もしかして君さえもだまし絵なのでは・・。 |
鑑賞日 2012/8/7 | |
しゃぼん玉草間弥生が真ん中に
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村上友子 東京
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草間弥生さんは、たくさんの小さな丸によって絵を構成してゆく画家である。何故彼女はたくさんの小さな丸を描くのだろう。彼女にとってそれは重たい現実から逃れて一つのメルヘンの世界に行くための手段なのかもしれない。子どもがしゃぼん玉をたくさん飛ばす時に子どもの心がメルヘンの世界に誘われるように、彼女はそういう世界を追い求め続けたのかもしれない。そしてすでに彼女はしゃぼん玉のような存在になっているような気もする。 |
鑑賞日 2012/8/8 | |
着ぶくれの妻よ無敵の要塞よ
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室田洋子 群馬
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句だけを読むと男性がその妻のことを詠んだと思ってしまう。ところが作者は女性であるから、この妻は作者自身のことであろうか。だとすればこの「よ」は呼びかけるような「よ」ではなく、自分のことを誇らしげに言っている「よ」ということになる。もちろん戯けているのであるが、こうなるともう夫は為す術がなく退散する他はない。まことに健康的な頼もしい妻である。 |
鑑賞日 2012/8/8 | |
薄味の蜆汁かな心霊写真
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渡部陽子 宮城
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いわゆる心霊写真というものを薄味の蜆汁に譬えている。その譬えの面白さ秀逸さである。 |
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