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金子兜太選海程秀句鑑賞 483号(2012年6月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2012/6/16
人だかりは苦痛の一匙夕時雨
宇田蓋男 宮崎

 「人だかりは苦痛の一匙」という感じ方は私などにもよく解る。ところでこの「夕時雨」は「人だかり苦痛の一匙」ということの譬えだろうか、あるいは逆に「人だかりは苦痛の一匙」から逃れた時のほっとした感じだろうか。私は後者のようである気がするのであるが。


2

鑑賞日 2012/6/16
蕗の薹瓦礫の山のどん底や
江井芳郎 福島

 私の最近思っていることを重ねて飛躍的に鑑賞すればこうなる。
 「瓦礫の山」はわがもの顔に日本を支配しようとして利権に群がる財界や政界や官僚や偽文化人、いわゆる原子力村の面々の頭の中のことである。彼らの脳味噌は瓦礫の山で出来ている。「蕗の薹」は素直で健気な庶民のことである。あまりにも素直で騙されやすいので、この巨大な瓦礫の山に押しつぶされてしまうかのようである。
 願わくばこの小さな蕗の薹の群れが猛々しい蕗の群れに育って瓦礫の山を覆い尽くしてしまえ。


3

鑑賞日 2012/6/16
被曝地背負う雪山高し真白し
大内冨美子 福島

 悲しくも美しい風景である。またこんなことも思う。原発事故が起るずっと以前から原発の危険性を訴えてきた少数の人達がいる。例えば小出裕章氏のような人達である。彼らは自分の損得や世間的な出世に関係なく真実を言ってきた。まるで「被曝地背負う雪山」のようである。彼らは品格があり高潔だ。


4

鑑賞日 2012/6/17
左義長や新聞燃える燃えない字
大沢輝一 石川

 「燃えない字」というのが印象的である。それぞれの読者によってそれぞれの字が思い浮ぶかもしれない。どうしても自分の心にこびりついて消すことのできない事象を表わす文字のことを思う。私にとってはどんな文字であるかと考えてみた。「原発事故」「フクシマ」「放射能」という文字が浮ぶ。何故ならこの原発事故という事象は未来世界を暗い悲惨なものとして描きうる材料を気付かせる決定的な切っ掛けを作った事件だからである。水に流してしまうことの出来ない事象、左義長の火で燃やして清めてしまうことの出来ない事象を暗示する出来事だからである。


5

鑑賞日 2012/6/17
姪嫁ぐ髪がヨットのかたちして
大高俊一 秋田

 おそらくヨットのかたちを連想させる髪形のファッションがあるのだろう。風にそよぐ純白のウェディングドレスなども連想する。爽やかな出発というイメージもあるし、またある種の滑稽感もある。


6

鑑賞日 2012/6/18
虎落笛人が住んでいて荒れる家
大高洋子 東京

 「人が住んでいて荒れる家」の形態は様々あるだろう。掃除もされないで何となく汚らしい家。冷蔵庫の中のものが腐っていたりして何となく臭い家。そんな状態の極端なものがいわゆるゴミ屋敷であろう。これらは全てその家に住む人の心の虚しさからやってくる。心の中に淋しい風が吹き荒れ虎落笛が鳴っているような状態である。
 ところで今の日本はゴミ屋敷である。広島原爆で放出された放射性物質の百万倍近い放射性物質が置いてある。すなわち原発からの核廃棄物のゴミである。これらのゴミは捨てようがない、捨てる場所がない、捨てる方法がない。何十万年という長さで存在するゴミである。まさにこれは、日本人の心が荒んできてしまった結果ではないだろうか。


7

鑑賞日 2012/6/18
小気味よき冬晴れ引っ掻きたいような
木暮洗葦 新潟

 「引っ掻きたいような」で決まり。読んでいて思わず笑みがこぼれるような諧謔味がある。


8

鑑賞日 2012/6/19
冬紅葉わが手に託さる喉仏
加地英子 愛媛

 〈語源由来辞典〉によれば 
・・・・「喉仏」と呼ばれるようになった由来は、その形状が座禅をしている仏様の姿に見えるためである。
宗派により異なるが、火葬場で骨上げする際、最初に歯を拾い「足」「腕」「腰」「背」「肋骨」「頭部」の順序で骨壷に入れ、最後に故人と最も縁の深い二人が喉仏を拾うのが一般的である。・・・・

  http://gogen-allguide.com/no/nodobotoke.html

とある。私はこういうことは知らなかったのであるが、知った上であらためて句を眺めてみると、「冬紅葉」という言葉がとてもよく響いていることが解る。


9

鑑賞日 2012/6/19
天に星地にちちははのおでん種
門脇章子 大阪

 胸のあたりを快くつっつかれてあたたかくなるような句である。中七のリズムや表記の適確さにもよるだろう。


10

鑑賞日 2012/6/19
わが発声不安定なり葱のようなり
柄沢あいこ 
神奈川

 座五を「葱のよう」で収めれば五七五と整うが、それでは葱のように不安定な発声という感じに相応しくなくなってしまう。このような微妙な違いが表現出来るというのは、作者が自由な俳句風土にいるということだろう。


11

鑑賞日 2012/6/20
恋猫の声のぶぎぶぎ僕もぶぎ
川崎千鶴子 広島

 一昔前にブギという小気味よいリズム感のある音楽が流行ったらしい。例えば日本では「東京ブギウギ」というような曲があった。おそらくこの句の「ぶぎ」は作者にそのようなリズム感や連想があったのではないだろうかと推測している。日常の中の心浮かれるような時間を感じる。「僕」という言い方もそんな心持ちを反映しているようで軽快である。


12

鑑賞日 2012/6/20
伏す鮃観て繊細な昼のデート
木下ようこ 
神奈川

 私は水族館のような場所を思う。それもあまり観客のいない平日の昼間の水族館。「繊細な」としか言いようのない二人の時間。水槽の中には鮃等が静かに伏している。寡黙であるが、ときおり「鮃が伏しているわねえ」「そうだねえ」というような呟きのような会話があったりする。


13

鑑賞日 2012/6/21
慇懃にタワシがあり猟師は老ゆ
久保智恵 兵庫

 〈猟師〉は[またぎ]とルビ

 私は毎日一回は食事作りやその食器洗いをする。その時にやはり昔ながらのタワシは一番使いやすい。手触りも使い心地もいいし、長持ちするし、見栄えもどこか滑稽で愉快である。
 身体を使って仕事をする人は概ね威張っていなくて慇懃でさっぱりしていて気持ちのいい人が多い。それにひきかえ、何処かの国のお偉方は威張っていて慇懃無礼でねちねちとして掴み所がない。


14

鑑賞日 2012/6/21
マフラーをゆるめて夜がもうひとつ 
河野志保 奈良

 「夜がもうひとつ」ということが様々な想像をかき立てる。寛いだ夜。瞑想的な夜。親しい人との親密な夜。様々であるが、「マフラーをゆるめて」がふわーっとした夜の感じを演出していて、嫌らしい感じの妄想が膨らまない。これが「ネクタイをゆるめて」などだと、如何にもという感じでくどくなる。


15

鑑賞日 2012/6/22
ねんごろにすずしろきざむ日のはじめ  
小長井和子 
神奈川

 いとしいものを扱うように丁寧に大根をきざんでいる朝の様子である。このようにごく普通の日常の物事に親しみと充実感を持っていられることが幸せということである。
 ところで現在日本で起っている事態はというと、この大根はどこの産地のものだろう、この大根は放射能で汚染されてはいないだろうか、子どもに食べさせて大丈夫だろうか、と心配しなくてはならないということであるから、原子力村の面々の罪は深い。


16

鑑賞日 2012/6/22
木枯や楯なる山に海が鳴る  
坂本春子 神奈川

 私は長野の山中に住んでいるが、「楯なる山」という感じ方はよく解る。台風の時などにも私の所は強い暴風に曝されたという経験があまりないように思う。実際、他の地域の方には申し訳ないが、昨年の風による放射能汚染の広がりの際にも、長野県は高い山によってその汚染をかなり食い止められたと聞く。


17

鑑賞日 2012/6/22
雄鶏のまなぶたくしゃと遅日かな  
重松敬子 兵庫

 ああいいな。「遅日」という時間感覚そのものがいい。私もそのうち「雄鶏のまなぶたくしゃと」というような洒落た切っ掛けを見つけて遅日というものを描いてみたいものだ。
 ところで、何でも速い方がいいという価値観の中で、東京大阪間を一時間で結ぶというリニア中央新幹線が計画されているというが、実はこれは原発5基分の電力を消費する代物であるらしい。


18

鑑賞日 2012/6/23
この瓦礫雪の覆うは祭祀とも 
柴田美代子 埼玉

 岩手県や宮城県あるいは福島県などの瓦礫だろうか。多かれ少なかれ放射能で汚染されているはずである。これらの瓦礫問題にしてもそうであるが、原発問題全般において、私の場合原子力村の利権に群がる人々の強欲と愚かさに対する怒りが先だってしまって、このような立派な句、つまり祈りの感情に基づくような句が作れない。彼らを許し、大きな祈りの感情に満たされるような時が私にも訪れるのだろうか。


19

鑑賞日 2012/6/23
九十の序につき末黒野に遊ぶ
清水喜美子 茨城

 私は六十の半ばにさしかかった歳なのであるが、やはり死ということは意識している。おそらく九十ともなればそれはもっと日常生活そのものに入ってくる意識に違いない。「末黒野に遊ぶ」ということが、その意識を象徴しているような気さえする。


20

鑑賞日 2012/6/23
家族揃えばぶつかり合って冬ごもり
鈴木修一  秋田

 おそらく人間にはある親密さを共有できる集団に属することが必要である。経済的な価値が最優先するような社会においては、そのような親密さの絆がだんだんと断ち切られてゆく。親密さの味を忘れてゆくにつれ心が荒んでくる。心が荒むにつれ一層お金に頼らざるを得なくなる。一層お金に頼りはじめると一層親密さの絆が断ち切られてゆく。悪循環である。この悪循環の成れの果ての象徴が原発の事故だということも言える。あの事故の結果、地縁血縁はもとより、大地と人間の縁そのものさえが断ち切られてしまった。
 この句には人間が忘れてゆこうとしている親密さの典型が描かれている。


21

鑑賞日 2012/6/24
言の葉は瓦礫にならず龍の玉
瀧 春樹 大分

 東日本大震災では沢山の瓦礫が出た。おまけに福島原発事故も加わったからその瓦礫は放射能を帯びている。実に厄介な代物である。人間の欲望によって作りだされたものは結局瓦礫に過ぎない。一方真正な感覚や情から生まれた言葉は瓦礫にはならず、むしろ龍の玉のような美しいものになる。そういうことである。


22

鑑賞日 2012/6/24
たそがれの鬼のくるぶし芽吹くかな
田口満代子 千葉

 不思議な存在感がある。しかしそれを言葉で言い止めることができない。おそらくこれは、女性の心に去来する光と陰を男性が理解できないということに似ているのではないだろうかと言い訳している。つまり概ね男性(男性性)は単純で明解であるが、女性(女性性)は複雑で神秘的であるということである。


23

鑑賞日 2012/6/25
夢殿に真っ直ぐに来て余寒かな
竹田昭江 東京

 ある物を得れば、あるいはある事ができれば自分は幸せになれるだろうと確信していたとする。そしてそのある物を得たり、ある事を成就したりすることに直線的に突き進んで行くとする。しかし、いざそのその通りになった時に、得られるであろうと思っていた幸せはどこにもなかった、ということは多くの人が経験することに違いない。そのような心理的事実を、この句によって思い出した。


24

鑑賞日 2012/6/25
黝き崖ゆくことも春曙 
田中亜美 神奈川

 〈黝〉は[あおぐろ]とルビ

 自分の内的な状態を「黝き崖ゆく」というふうに表現したのも上手いし、枕草子の冒頭の言葉のもじりを混ぜたのも上手い。何よりも、春曙の薄明りが黝い崖にだんだんと満ちてくる実感があるのがいい。


25

鑑賞日 2012/6/25
入江めく真昼の愛撫つわの花 
月野ぽぽな 
アメリカ

 内容がとても豊富であるのでなかなかコメントするのが難しい。何か言えば、それが舌足らずになってしまう気がするのである。それでも舌足らずなコメントを一つ。
 愛撫とは旅情であり、愛とはつわの花のごとき真実である。


26

鑑賞日 2012/6/26
如月の月影少年の猫背来る
董 振華 中国

 作者は中国人で中国に住んでいるのであろう。私たちが現代の中国についてニュースなどで知っているのは、なりふり構わずに自己主張して経済発展や軍備拡張にいそしむ国というような負のイメージが強いが、それらはやはり情報の一端に過ぎないのだろう。人々の心の中にはこの句に表わされているような詩情が流れているに違いない。


27

鑑賞日 2012/6/26
日常を左右にこぼし水温む
根岸暁子 群馬

 「日常を左右にこぼし」という表現がとても豊かだ。ゆっくりとした季節の進みとともにある日常の愛おしさ充実感。「水温む」が快い。
 それにつけても、このような日常を奪われてしまった被災地の人々や放射能に怯えながらこれから何十年も生きなければならない人々のことが頭から離れない。


28

鑑賞日 2012/6/27
国宝とふ小さき器よ雪が降る
野崎憲子 香川

 国宝でとふ小さき器。細部まで神経が行き届いて完成された美がそこにある。しかしそれは単に技巧的に優れているというだけではなく、そこには自然の豊かさが加わっているような美である。きっと、そのような器であろうと想像する。何故ならこの句自体が細部まで神経が行き届いていて、しかも自然を感じさせるからである。
 ちなみに、そういう意味でも「小(ち)さき器」と読みたい。


29

鑑賞日 2012/6/27
よき前歯持ちて死にゆく白菫 
日高 玲 東京

 「よき前歯」と「白菫」が微妙に響きあい通じあうところに妙なるものがある。そして、この死にゆく人の形容としての「白菫」。美しい人であり、美しい死に方である。


30

鑑賞日 2012/6/27
冬の蜂石積むように動いてる 
福原 實 神奈川

 譬えの面白さ。ゆっくりと重たそうに動く冬の蜂。このような譬えが閃くのは、おそらく作者自身が石を積んだ経験があるか、あるいは石を積む作業をじっくりと観察したことがあって、そのことが印象深く残っていたのかもしれない。


31

鑑賞日 2012/6/28
蕗の薹あるいは装飾パネルかな
藤江 瑞 神奈川

 さてこの部屋はこのままでは殺風景であるがどうしようか。そうださっき散歩していて採ってきた蕗の薹でも飾ろうか、いやいやそれとも現代風に装飾パネルでも飾ろうか。というような場面なのであろうか。とにかく「蕗の薹」と「装飾パネル」の取りあわせで、現代生活の良い側面、すなわち多くの人が自然や芸術に親しめるという側面、を垣間見る感がある。


32

鑑賞日 2012/6/28
セシウム降り積み母は葱畑に小さし
藤野 武 東京

 作者は東京の人であるから、この句の母も東京に住んでいるのであろうか。あの原発事故では東京でもかなりの汚染になっているらしいから、そうかもしれない。実に腹立たしくやり切れないことである。
 あの地震や津波の際に日本人の庶民のとって行動の受容性が美徳として海外でも称賛されたそうである。この母にもそのような美を感じる。受容し、耐え、自分を小さくすることができる人。
 しかし私は腹立たしい。藤田祐幸氏は「福島原発事故以前には、私は日本人は事故が起らない限り、原発の危険性に気が付かない愚かな人々なのだろう、と思っていた。しかし現在、私は思っている。原発事故が起っても日本人はまだ愚かなままだ、と。」というような意味のことを言っている。政府や電力会社は原発再稼働をするという。
 ああ、母よ。


33

鑑賞日 2012/6/29
牡蠣舟や透きとおる声出すかな
三井絹枝 東京

 ああいいな。海。そして海とともに生を営む人達。誰かが透きとおる声を発した。辺りの空気そのものが透きとおっている。
 人間には海があればいい。人間には大地があればいい。人間には透きとおった空気があればいい。ああ、それにしても原発。


34

鑑賞日 2012/6/29
天文学っておおむね静かふきのとう
宮崎斗士 東京

 とても魅力的な把握だ。大きな空と小さな蕗の薹という構図の風景も見えるし、私たちが潜在的に抱いている天文学への憧れの気持ちを快く刺激してくる。表現が現代的で垢抜けしていて明るく透明だ。


35

鑑賞日 2012/6/30
べたっと昼月とてつもなき大マスク
茂里美絵  埼玉

 表面的には風俗の一つをコミカルに書いているように見えるが、「べたっと」だとか「とてつもなき」などの言葉のニュアンスを味わっていると、何か深刻なことを暗示しているようにも私には思えてくる。春には人々は花粉症のためにマスクをする。冬になるとインフルエンザのために人々はマスクをする。鳥インフルエンザという恐怖もマスクをする原因となる。極め付きは原発事故による放射能から身を守るためにマスクをする汚染地帯の人達や原発作業員。さらには、この人の真心はどこにあるのだろうかと思えるような、まるで仮面(マスク)を付けているような、政治家や原子力村の人の顔。現代はマスクの時代なのかもしれない。べたっとしたとてつもない大きなマスクの時代なのかもしれない。


36

鑑賞日 2012/6/30
微笑とも白鳥載せし水輪とも
柳生正名  東京

 〈微〉は[み]とルビ

 感覚的には微笑というものと水輪というものが似ているというのは誰でもしばしば思いつくことに違いない。この句が感覚の域を越えて意味性を帯びてくるのはやはり「白鳥」ということだろう。微(み)笑を発することができる人の中心に在るのは比喩的にいって白鳥だからである。


37

鑑賞日 2012/6/30
逢うとすぐ背を叩く癖節分会
山口 伸  愛知

 庶民的で人懐こいタイプの人物像が浮んでくる。このような人物を思い浮かべて私は今心が和んでいる。「節分会」が相応しい。


38

鑑賞日 2012/6/30
浮島現象アンニュイな日向ぼこ
若森京子  兵庫

 誰でもが経験するような心の状態を書いたものであるが、「浮島現象」というその状態を表現する新しい言葉を見つけたことが味噌。「アンニュイ」という片仮名言葉も、深刻さに沈み込まない客観性を句に与えている気がする。


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