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金子兜太選海程秀句鑑賞 482号(2012年5月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2012/5/15
宇宙雑音僕らの空に鰤起し
油本麻容子 石川

 寒鰤漁のころに鳴る雷を鰤起しというのだそうである。北陸地方では豊漁の前兆であるとされているらしい。作者は北陸の人であるから実感として鰤起しという言葉を感じられるのかもしれない。それが宇宙の雑音のようだというのである。バリバリというような音の感じであろうか。鰤も人もそわそわとして落ち着いていられない感じがある。 


2

鑑賞日 2012/5/15
仏飯の乾きも冬の旱かな
新井娃子 埼玉

 「仏飯の乾き」という事象を拾い上げたのがいかにも俳諧である。どことなく芭蕉の「から鮭も空也の痩も寒の内」という句に響くものがある。


3

鑑賞日 2012/5/15
黄落の人集まるを辺という
伊藤淳子 東京

 〈辺〉は[ほとり]とルビ

 「辺という」という把握。大ぶりで豊かな詩情がたゆたう。作った句というより、作家の存在そのものという感じさえする。


4

鑑賞日 2012/5/15
福島は冬噛みしめて踏みしめて
宇川啓子 福島

 いわゆる放射線管理区域に相当する被曝地である福島に暮すということは、おそらく被曝地でない私などには想像も出来ない感じがあるであろうと思う。単なる春夏秋冬の中の一つの季節である冬というよりは常に「冬」であるようなピリピリとした感覚があるのではなかろうかと想像する。その「冬」を「噛みしめて踏みしめて」生きるというのである。このリフレインを読んでいると、私の内側の奥で涙が兆す。ああ何て人間は愚かなことをしてしまったのか。人間は人間にとってオオカミである、という言葉が思いだされる。


5

鑑賞日 2012/5/16
冬麗や完璧な横顔の過ぐ
榎本祐子 兵庫

 目元涼やかで麗しく、高からず低からず鼻筋は通り、広すぎもしない額は広く知性的であり、ほど良くキリッと結ばれた口は意志的であると同時に受容性がある・・というような具体的な想像はさておき、とにかく「冬麗」という言葉に相応しい完璧な横顔が過ぎていったというのである。きりっと引き締まった美を感受する瞬間が眩しく、また胸が高鳴る。


6

鑑賞日 2012/5/16
団地へと丁寧に来る寒波かな
小野裕三 神奈川

 かなりいろいろな要素が味わえる句である。擬人性、諧謔性、庶民の日常性等々。そして全体的にはやはり寒波の持つ清潔な感じがある。


7

鑑賞日 2012/5/16
「座れ」とは叱咤にほひの桜餅
門脇章子 大阪

 人と人との関わりにおける一つの場面が見える。「座れ」とは父親の言葉であってもいいし、私などは禅の師の言葉ととっても味わいがある。ただ一言「座れ」といい、あとは何も言わない。その時間から「桜餅」の匂いが立ち上がってくる。


8

鑑賞日 2012/5/16
紅葉さささ栗鼠遁走の尾であったか 
柄沢あいこ 
神奈川

 自然の営みに触れて、あっと驚き、嬉しくなる瞬間。植物も動物も人間もみんな一つのワンダーランドに住んでいる。


9

鑑賞日 2012/5/17
ゆきまろげ眉を落とすとは怖し 
河西志帆 長野

 諧謔の味であるが、どことなく世界あるいは人間の怖さを暗示しているような雰囲気っがある。大きく見れば、世界の創造の過程における不備、すなわち神の失敗というような連想が働くし、具体的に見れば、例えば抗癌剤による脱毛というような連想も働く。


10

鑑賞日 2012/5/17
魚の目を踏んづけてゆく恵方かな 
川野欣一 兵庫

 まさに滑稽の味。原発問題などに絡めてみれば、知性も矜恃も優しさも何もかもおっぽり出して自分の欲の為に突進してゆく人間達を漫画的に描いたような感じさえする。人間観察の味といってもいい。


11

鑑賞日 2012/5/17
雪化粧母の化粧は一度きり
城至げんご 石川

 清楚に年齢を重ねた母親像が感じられる。作者はそんな母親を美しいと思っており、また尊敬の念で眺めている雰囲気がある。そしてその美しさは人工的でない大自然の美しさに通じるものであるという感じである。


12

鑑賞日 2012/5/18
きのうとはちがう星あるつららかな 
こしのゆみこ 
東京

 子どもの頃は毎日毎日が新しい発見の連続だった。大人になるにつれて世界は見慣れたものになっていって、終いには陳腐なものになってしまう。というような生ではありたくない。世界は驚きと発見に満ちているということを実感していたいものだと思った。この句を発見した時の作者のように。
 待てよ、とも思う。あの原発事故以来、私もそうであるし、多くの多感な俳人達もそうであろうと思うが、世界は変って見えてくるようになってしまった。「きのうとはちがう星ある」というのは、そのような事実を言っているのかもしれないとも思えるのである。


13

鑑賞日 2012/5/18
元旦や犬の喧嘩の頼もしき 
小林一枝 東京

 活気のある一年の夜明け。健康的で屈託のない年の始まり。腹に一物もない率直な犬達の喧嘩。殊に昨年の原発事故以来の腹に一物も二物もある人間達の駆け引きを見ていると、この犬達の世界の有り様、すなわち自然本来の率直な有り様に頼もしささえ感じる。


14

鑑賞日 2012/5/18
踏絵拒む人の眩しき春の夢 
小柳慶三郎 群馬

 羲のため、愛のため、価値あるもののために、過酷な運命を引き受ける人は幸いである。その人は眩しき春の夢を見るからである。


15

鑑賞日 2012/5/18
桔梗摘む吾にかすかな余震かな
佐藤美紀江 千葉

 地震多発国日本。同時に大量の原発を抱えこんでいる日本。唯一の原爆被爆国日本。そして原発被曝国でもある日本。もしこの先大きな地震や余震があれば、日本の国土は汚されつくしてしまう危険性の中で我々は暮らしているという。地面のかすかな揺れに対しても我々はとてもナーバスになっている。「桔梗摘む」などという優雅でのんびりとした行為に屈託なく遊べる日々は過去のものになってしまったのであろうか。


16

鑑賞日 2012/5/19
柚子は黄に癌取ることも若さかな
篠田悦子 埼玉

 作者自身のことなのかもしれないし、あるいは金子先生の癌手術成功を寿いでいるのかもしれない。いずれにしろ積極的な生観である。「柚子は黄に」がどうにも明るい。


17

鑑賞日 2012/5/19
山国やおとこの重さと思う雪
清水喜美子 茨城

 山国の雪のことを、男の重さと思う、というのである。どうにもエロティックであるし、また生の重さをこのように捉えることが出来れば、それは生きるコツと言えるかもしれない。


18

鑑賞日 2012/5/19
荒星や夫に尋ねる我が予定
下山田禮子 埼玉

 「荒星」という言葉が、句の内容をググっとあるいはキラリと引き締めて効果的である。句の内容は、こういう夫婦関係であるとしか言い様がないし、あれこれ言うのは野暮である。


19

鑑賞日 2012/5/19
寒鴉ああと片鳴き清貧なり
十河宣洋 北海道

 「片鳴き」という言葉の微妙なニュアンスがこの句のいのちではないか。誠実な人間の止むに止まれない生の在り方、そしてその深い心情を感じてしまう。ドストエフスキー好きの私としては、「貧しき人々」や「虐げられし人々」の誠実で好ましい登場人物を連想してしまう。感動的な作品。


20

鑑賞日 2012/5/20
冬の噴水サラダ感覚の眺望
高橋明江 埼玉

 思いもかけない比喩であるが解る解るという比喩の発見は句の出来方の一つであろう。「サラダ感覚の眺望」という比喩がそれである。おそらくこのような比喩は毎日食事の用意をする主婦の日常感覚から生まれるものなのではないか。逆にいえば、日常が詩でなければ、このような比喩は生まれない。


21

鑑賞日 2012/5/20
風紋といふを仔鹿の過ぎにけり
田中亜美 神奈川

 読んでいると、いわゆる日常を離れた気持ちのよい時空を追体験させてくれる。この作家の場合は日常の詩であるというよりは、むしろ詩空間そのものであるという感じがある。詩的空間の持ち主、あるいはある詩的思想の持ち主とでもいったらいいのだろうか。


22

鑑賞日 2012/5/20
旅に寝て我は一枚の雨音
月野ぽぽな 
アメリカ

 〈即物的に書かれた漂泊感である〉という評はどうだろう。旅の句であるが、無常感というのでもなく、流離の感じでもなく、心細さでもない。漂泊という外面的な状況を感覚的に楽しんでいる風情もある。この作家は本来かなり揺らがない人であるという感がある。


23

鑑賞日 2012/5/22
父の肩で見聞きしたこと春の水
董 振華 中国

 子どもの頃に父に背負われていた事どもの想い出が「春の水」という季語で美しく表現されている。要するに春の水のような想い出なのである。


24

鑑賞日 2012/5/22
自画像は嘘ついてゐる温め酒
長尾向季 滋賀

 この自画像は嘘をついているなあ、しかしそれほど大した嘘ではないし、人を傷つける嘘でもないし、嘘も方便ということでまあいいか、というような庶民の感覚のような気がする。「温め酒」からそう感じるのである。


25

鑑賞日 2012/5/22
木の実こつんこつんあばら家の吾に
中島まゆみ 埼玉

 戯けの要素もある庶民感覚の句で共感できる。おそらく上昇志向の強い人やエリート意識のある人にはこのような軽快で音楽的な戯け心は持てないだろう。


26

鑑賞日 2012/5/23
寒に入る目下のところただの猫
中塚紀代子 山口

 戯けの味。目下のところ自分はただの猫である。でもそのうち化け猫になるかもしれないぞ、でもやっぱりただの猫でずっといるかもしれない。つまり目下のところただの猫。軽快な口調が楽しい。


27

鑑賞日 2012/5/23
シリウスの白よフクシマただ寒き
中村 晋 福島

 原発事故のことを思えば、人間は人間にとって狼である、という言葉が思い出される。被災者の苦悩を眺めながら、自分の欲望のために原発を推進してきた人達は責任を感じることもなく白を切り続けている。シリウスなどという立派な言葉を彼らに使いたくは無いのであるが、この狼達が白を切り続けているのは確かである。


28

鑑賞日 2012/5/23
生きるとは冬の土手行く腕の振り
中村孝史 宮城

 健気だなあと思う。あの震災以降健気な日本人の姿を見て誇りに思うのであるが、おそらくこの美徳は庶民だけのものだろう。お偉いさんになると人間は皆この健気さというものを失ってしまうのは何故だろうか。


29

鑑賞日 2012/5/23
雪野原唄の行きたい所まで
西又利子 福井

 この状況はおそらく多くの人が経験したことのある状況であろう。面白いしまた真実だと思うのは「唄の行きたい所まで」という表現に込められた実感である。自分が唄を唄いだしたのであるが、そのうち唄が唄を唄っている状態、唄が歩いている状態になり、自分はそれをただ傍観しているというような観照が起る。


30

鑑賞日 2012/5/24
猪も鴉も素足ひかり巻く
野崎憲子 香川

 美しい一つの自然観照だ。猪や鴉といった、いわゆる雪月花というような美しいとされているものではない自然物から立ち上げていって「ひかり巻く」というような美的観照に至らせているのは俳諧的、あるいは一元論的である。「素足」という言葉が感動的である。


31

鑑賞日 2012/5/25
野に白露仮設に結露フクシマよ
野田信章 熊本

 原発事故を起したのは人間の愚かさである。愚かさの特徴の一つは想像力の無さに違いない。〈想定外〉という言い訳はまさにそのことを言い当てている。この句の作者は熊本の人であるから、もし現地に行って作った句ではないとすると、その想像力の豊かさに感服する。もし現地に行って作ったのであるとすれば、その熱意に感服する。


32

鑑賞日 2012/5/25
髭三日剃らず漂う初霞
堀之内長一 埼玉

 日常性の逸脱の感じ。私たちは日常の決まり事をこなしてゆくことで正常な意識を保っていられる面がある。この日常性を逸脱してしまうと心がおぼつかなくなり取り留めもなくなってしまうことがある。だから日常性つまり日常のリズムはとても大切なものだ。その反面、日常の決まり事に埋没してしまって見えなくなっているものもある。そしてその見えなくなっているものが実はとても大事なものであることも多い。日常と非日常は相補の関係にあるのかもしれない。そんなことを考えた。


33

鑑賞日 2012/5/26
手のひらに会津山塩白鳥来る
本田ひとみ 埼玉

 この作家は福島の人であったが、あの福島原発事故以後住所を埼玉に変えている。放射線被曝を避けての住所変更だろうと思う。いつの日か福島に戻る時が来るのだろうか。分らない。この句は福島に一時帰宅した折りの句なのだろうか。地霊に祈るような「手のひらに会津山塩」という言葉、そして「白鳥来る」と結ぶ。その祈りと望みが伝わってくる。


34

鑑賞日 2012/5/26
神仏に屠蘇酌む人間淋しくて
舛田 長崎

 人間を愛せば淋しい。人間を信じられない。おそらくこのことは、誠実な人が必ず直面する問題ではなかろうか。誠実に実存しようとすれば、人間は必ずこの問題に突き当たる。そして神仏に屠蘇を酌む場合もあるだろう。
 しかし待てよと私は考えてみる。神仏とは何だろうか。多くの西洋人や東洋人が拝む神仏の代表はキリストとブッダであるが、彼らはそもそも一人の人間であったと私は考える。そうだとすれば人間も捨てたものではないと思えるのであるが。 


35

鑑賞日 2012/5/26
裸木に耳あり残照のふくしまなり
武藤鉦二 秋田

 福島は復活するだろうか。私は除染は不可能だと思っている。原発によって作りだされた核廃棄物の放射能は絶対に消すことが出来ないからである。正確にいえば〈除染〉という言葉ではなく〈移染〉という言葉を使うべきだ。放射能によって汚染されたものを単に他の場所に移すだけだからである。そんなゴミ捨て場が地球上にあるだろうか。福島県の原発周辺のほぼ全ての山河が汚染されてしまったのであるが、この膨大な汚染物を何処か安全な場所に移す術があるだろうか。
 「残照のふくしまなり」という言葉がしんしんと胸に染みる。「裸木に耳あり」という。裸木は何に耳を傾けているだろうか。


36

鑑賞日 2012/5/27
餅にかび罪のごとあり戦中派
安井昌子 東京

 罪の意識というものが真っ白い餅に生えた黴のようなものだという譬えが、如何にもそうかもしれないと首肯かされる。
 今まで四十数年にわたって稼働してきた日本の原子力発電所の放射性核廃棄物の総量は広島原爆110万発分にもなるのだという。そして人間はそれを無毒化できない。しかもそれら核廃棄物はそれが自然に無毒化するまで数万年単位の長さで管理しなければならないのだという。日本の国は膨大な借金を子孫につけとして残してしまうという議論があるが、この放射性核廃棄物の問題はそんなこと以上に決定的に深刻なつけを子孫や地球環境に残してしまう気が私にはどうしてもするのである。この原発を稼働させてしまった私たち世代の人間は将来何万年にもわたって餅に生えた黴のごとくの罪の意識を持って暮していかなければならないのか。しかしそれならまだいい。このことに責任ある世代の人間はせいぜいあと数十年しか生きないということが実に何とも歯痒い。


37

鑑賞日 2012/5/27
雪暗れの何ほどもなく母を訪う
横地かをる 愛知

 力みなく、さりげなく、殊更の意識もなく、大切なことをわきまえている人の日常性。それを俳句の神様が書き留めたという感じである。


38

鑑賞日 2012/5/27
夕暮れのじやがいも数へられてをり
横山 隆 長崎

 何のかんの言ったって俺達ゃじゃがいも。でこぼこごろごろ大きいの小さいの、大した違いはない。何処かに神様でもいて、夕暮れにでもなれば、俺達じゃがいもは奴に数えられている。


39

鑑賞日 2012/5/27
頭脳という厄介なもの鬼やんま
若森京子 兵庫

 リーガル天才秀才という漫才師がいた。彼らのギャグに「ええい、教養がじゃまだ」というのがあった。まことに頭脳というものは厄介なものである。しかしまた「頭脳という厄介なもの」と考えているのも頭脳である。この果てしない思考のスパイラル。ああ厄介だ厄介だ・・ああああああああ・・鬼やんま。


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