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金子兜太選海程秀句鑑賞 481号(2012年4月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2012/3/31
文明の孤児でありたし薄氷
阿川木偶人 東京

 解る気がする。もちろんこの文明はまやかしとも見える現代の文明であろう。「薄氷」を少し淋しい感じと取るか、あるいは、やがてこの薄氷が融けて春すなわち本物の文明の夜明けが来るという希望と取るか。


2

鑑賞日 2012/3/31
狐の提灯見しとう夫よ病むな
荒井まり子 京都

 あなたが病むなどはあり得ない。あなたが病むなどということは幻影だ。夫への万感の思い。世の不条理へのどうにもならない思い。「狐の提灯」が効いている。


3

鑑賞日 2012/4/1
生家なり陶の狸が落葉浴ぶ
石川義倫 静岡

 ユーモラス、懐かしさ、そして永続している過去の時間との遭遇感覚のようなものであろうか。


4

鑑賞日 2012/4/1
柞紅葉万朶の闇のひとかかえ
石田順久 神奈川

 「柞」はコナラやクヌギのことであるが、母の意にかけて用いる言葉でもある。そういうことを踏まえて読むと味わい深い。母なるこの大自然はそもそも一抱えの大きな闇を抱えているというニュアンスが出てくるからである。


5

鑑賞日 2012/4/2
猪に齧られている新塔婆
稲葉千尋 三重

 何処かしらニヤッとするものがある。人間世界の様々なしきたりや儀式も動物にとってみれば無意味なものであるということ。彼は新塔婆の新鮮な材木の匂いに引きつけられて齧ってみたくなったのかもしれない。われわれは時々、動物の目で世界を眺めてみるのも或る自由な感覚に遊ばせてもらえるのかもしれないと思った。


6

鑑賞日 2012/4/2
心臓手術せぬ一徹の煤払う 
上野昭子 山口

 夫のこと、あるいは父親のことではないかなどと推測しながら読んでいる。私もある程度そうなのであるが、こういう人がいてもいい。世はまさに過剰に死を怖れる時代だからである。過剰に死を怖れることはろくな結果をもたらさない。生も死も相対的なものに過ぎないという古の賢者の態度を現代人も少しは学んだ方がいい。そうすればもう少し穏やかな世界になる気がする。比喩的にいえば、それは世の中の煤を払うことになる。


7

鑑賞日 2012/4/3
「天福地福」語る夜長よ福島よ
宇川啓子 福島

 地震や津波を含めて自然の仕打ちに対しては最終的にはわれわれは祈るということしか残っていないのではないかと思えてきた。しかしおそらくこれは消極的なことでもなく敗北的なことでもない。どうにもならない自然の大きな力に対して謙虚に祈りながら生きるということは、生死を越えたもっと大事なものを獲得する力となるからである。
 しかし「福島」つまり原発事故に関しては待てよとも思う。人間の欲望や愚かさの結果としての原発事故に対して、同じ人間であるわれわれが手を拱ねいて祈るだけでいいものだろうかという疑問に突き当たるからである。


8

鑑賞日 2012/4/3
あきらかや尾行している夜の落葉
梅川寧江 石川

 感受性の強い人間の心理のある側面が具体的な描写によってありありと表現されている。雰囲気があるので夜の落葉道を歩いているという追体験も起る。


9

鑑賞日 2012/4/4
病む白鳥に母にこんなに月あかり
榎本愛子 山梨

 優しさの句である。自然の優しさ、生の優しさ、人間の優しさ。こんな優しさに出会えるとすれば、病むのもいいものだと思えてきてしまう。


10

鑑賞日 2012/4/4
もの忘れ芒にこつん風にこつん
榎本祐子 兵庫 

 こういう感性を持った人が「海程」にはいる。どういう感性かというと、句を作るというのではなく、むしろ句になってしまうというような感性である。そのものになりきってしまうというような感性である。禅定の境地の一つといえるかもしれない。羨ましい。


11

鑑賞日 2012/4/5
寒鯉に水の鎧の昏さかな 
加藤昭子 秋田 

 俳句は人間の精神にとって一つの安全弁だという言い回しを金子先生がどこかでしていた。つまり表現するということは、この面白くもない鬱々とした日常を乗り切ってゆくための手段であるということだろう。この句から受ける感じは、鬱々とした日常の感じであるが、「水の鎧」というような魅力的な言葉が表現できるということは、生は生きるに値すると思わざるを得ない。


12

鑑賞日 2012/4/6
田のまぼろしむかし軟派して
菊川貞夫 静岡

 田とは稲の刈り取られた稲の切株から新しい芽が出て状態の田んぼであるから作者の言わんとしていることは明白である。誰でもが経験するような事実を新鮮な譬えで表現した。田の新鮮さの中に佇む作者の姿が見えてくる。


13

鑑賞日 2012/4/6
急にふえた精霊蜻蛉よ空腹
木下ようこ
 神奈川

 「急にふえた精霊蜻蛉」と「空腹」ということが心の奥の方で響き合う。精霊としての蜻蛉と精霊としての人間が響き合うのだろうか。その世界に人間は飢え乾いているのかもしれない。


14

鑑賞日 2012/4/7
寒牡丹単純な言葉でいいのです 
木村宜子 長崎

 まことにそう思う。単純な言葉いいのです、と言いたいくらいである。複雑な言葉を操る人は実は何か一番大事なものが解っていないということもある。物事がよく解っている人というのは、子どもにも単純な言葉で大事なことを語りかけることが出来る人である。物事が平明単純であるゆえに、寒牡丹が鮮やかに目にしみる。


15

鑑賞日 2012/4/7
天狼星や津波の果の水明り
黒岡洋子 東京

 〈天狼星〉は[シリウス]とルビ

 透明な運命感あるいは運命観というようなものを感じる。あらゆる物事は過ぎ去る。過ぎ去らないものはない。そしてその果の果は透明である。心の中に天の天狼星に当るものを抱いている人は幸いである。


16

鑑賞日 2012/4/8
冬は牛ボオーッと連絡船の記憶
佐々木宏 北海道

 「冬は牛」が、冬は牛のようになっている自分、あるいは冬の牛のこと、あるいは牛のような冬、と三様にとれて面白い。分けて考えればそうなるが、その全体性と取っておくべきだろう。「ぼーっ」と想っているということと「ボオーッ」という汽笛の音の同音性も面白い。


17

鑑賞日 2012/4/9
しんしんと朝ひとりの寒気団
下山田禮子 埼玉

 〈朝〉は[あした]とルビ

 実存的にいえば、人間は本来孤独なものである。世界にひとりほっぽりだされた「私」というもの。この厄介な「私」とは何か。私とは何か、これが自意識の発達した知性人の発する問いの全てであると言い得るかもしれない。


18

鑑賞日 2012/4/11
麒麟の首圧倒的多数の寒さだな
白石司子 愛媛

 一読して難しい句だと思ったが私なりに解釈してみた。
 イスラムであったかもしれない。満場一致の議決は無効だという法があるらしい。解る気がする。とにかく圧倒的多数の人がよしとする事柄には間違っていることが多いということがあるのである。例えば先の戦争のときもそうだったのではないか。あるいは原発事故が起る前の原発は安全だという見解。これらには不承不承であれ圧倒的多数の同意があったのではないだろうか。先見の明がある人がいて、圧倒的多数の意見に反対するとすれば、その人の心持ちは寒い寒いという結果に終るだろう。高く突き出た麒麟の首に寒い風があたるようなものであろう。


19

鑑賞日 2012/4/11
秩父夜祭猪がみみずを食べに出る
関田誓炎 埼玉

 猪曰く。今日は秩父夜祭りの日らしい。人間どもが熱狂している。彼らは時々祭りと称して熱狂するが何が面白いのだろうか。俺達にサカリがつくみたいなものだろうか。なんだか俺もそわそわとしてきた。こうそわそわとした心持ちでは寝てもいられない。みみずでも食いにいくか。


20

鑑賞日 2012/4/12
土蔵もピアスの穴も冬ざれて
瀧村道子 岐阜

 「土蔵」と「ピアスの穴」は新旧の時代のもの、また大きい小さいということで離れていると同時に、ともに大事なものを入れておくものという点で共通である。それらがすべて「冬ざれて」しまったというのは、現代というものの価値観喪失の状態を表象しているのではないかとさえ思えてしまう。ちなみに「土蔵」は[つちぐら]と読みたい。


21

鑑賞日 2012/4/12
電子音かもしれぬ声熊撃つて
田中亜美 神奈川

 熊を撃って、例えば「仕留めたぞー」というような声が電子音かもしれない、というのであろうか。現実の世界とバーチャルな世界の混同というような現象のある現代の批判なのであろうか。あるいは物事というものは常にそういうものであるという見方なのであろうか。


22

鑑賞日 2012/4/13
そっとそこにいるだけ赤い羽根の少女
遠山郁好 東京

 どこか懐かしい光景である。おそらく現代にはこのような少女はいないだろう。そもそも赤い羽根制度自体がシステム化されたものになってしまっている。そういう時代的な懐かしさというのもあるが、失われてしまったかのように見える、人間の慎ましさを伴った善意というようなものへの懐かしさがあるのである。ああここに人間がいる、というほっとする一句。


23

鑑賞日 2012/4/13
がれずに皆木守柿フクシマは
中村孝史 宮城

 放射能汚染された、あるいはそういう風評があるので収穫されないまま残っている柿。表面的にはそういう風景であるが、フクシマと片仮名にした意図は何であるかと考えてみた。全ての柿が収穫されないで赤黒く膿んで爛れて萎びている状態はヒロシマにも通じる被曝ということを強く連想させる。また「木守柿」ということで、福島に残りたい留まりたいと願う住民の方々の葛藤も連想させる。そのような原発事故の強い悲劇性を作者は書きたかったのではないか。


24

鑑賞日 2012/4/14
もう空へ入りきれない星が飛ぶ
西又利子 福井

 このいわばプリミティーブなものの見方が新鮮である。私たちは往々にして言葉に飼い馴らされてしまって、初めて物事に接する時の原初的な感覚を失いがちであるが、この句にはそれがある。


25

鑑賞日 2012/4/14
しやぶりつくせと冬霧の眼かな
野崎憲子 香川

 この「しやぶる」という言葉は金子先生が使う言葉であるから、私は金子先生の像を思ってしまうのであるが、果して金子先生が「冬霧の眼」をしているのかと考えると、そういう像が私には思い浮ばない。もしこれが金子先生をイメージしているのだとしたら、作者にとって先生はかなり厳しい感じの人に思えているのかもしれない。また金子先生ということを外して感賞してみると、これは禅の公案のようにも思える句である。一般的には難しい句だろう。


26

鑑賞日 2012/4/15
抱きしめる意味などはないちちろ虫
橋本和子 長崎

 「抱きしめる/意味などはない」と切って読まないと反対の意味になってしまうから切って読む。つまり、抱きしめるという行為はちちろ虫が鳴くように、意味以前の自然な行為であるということ。抱きしめるということもちちろ虫が鳴くということも、言葉で意味を探る前の根源的な意義がある。


27

鑑賞日 2012/4/15
煙出しときどき冬の父を吐く
福原 實 神奈川

 冬、煙出しを見ている自分がいる。時々父の面影が心を過る。そのような事実をコミカルに視覚的に書いた。抒情の視覚化。あるいは、事象が視覚として感知される原始的サイケデリックな状態。


28

鑑賞日 2012/4/16
温和な人の粘りや泥や葱畑 
藤江 瑞 神奈川

 葱を作る時の一番大変な作業は土寄せである。葱の成長に合わせて畝間の土を葱の根元に盛り上げてゆかなければならない。短気で怒りっぽい人ならとてもやり切れる仕事ではないかもしれない。まさに温和な人の粘りが必要である。連想して考えてしまうのは、あの3.11の震災以来の東北の人々の粘りと温和さである。土あるいは泥に象徴されるものに密着して生きている人々の持つそれなのではないだろうか。逆に政財界の人々の短絡的で刹那的で泥から離れてしまった思考の浅薄さを思わざるを得ない。


29

鑑賞日 2012/4/16
白鳥来私情のつばさ押し広げ
堀之内長一 埼玉

 私には殆ど「白鳥来抒情のつばさ押し広げ」というように先ず感じられる。ところが「抒情」ではなく「私情」であるところが白鳥の素晴らしさであると気付く。白鳥にとっては私情であるところのものが即ち抒情なのである。自然のものの私情は即ち抒情である。自然は既に悟りの状態にあるという思想。


30

鑑賞日 2012/4/17
かまどうま涸れいて一時帰宅かな
本田ひとみ 埼玉

 福島の人の一時帰宅の様子を思った。もし彼らの一時帰宅の様子だとすれば作者はそれを取材に出かけたのだろうか。「かまどうま涸れいて」が実に印象的だから、取材ということを考えたのだが、これが想像で書かれたものならその想像力が逞しい。


31

鑑賞日 2012/4/17
透きとほる葱よ齢とるうれしさよ
前田典子 三重

 この境涯感。幸せな人なのだろうと思う。苦労してきた人なのかもしれない。だんだんと自分が透きとおってゆく感じ。こんな感じで肉体を離れてゆくことができれば最高だ。


32

鑑賞日 2012/4/18
菜園をポピーで満たし蟄居する
汀 圭子 熊本

 動と静のバランスのとれた人物像が見えてくる。動といってもただやみくもに動くのではなく、いわば世界を美しくするために行動する。そしてその結果にはむしろ無頓着である。かれは蟄居して彼自身であることに満足する。賢者のあり方の一つであろう。


33

鑑賞日 2012/4/18
小鳥よりとけやすい声 ひいふう 
三井絹枝 東京

 何とも言えないこの呼吸。精妙な存在感。存在は呼吸であると言いたくなる。


34

鑑賞日 2012/4/19
みずひき草握手のために少し話す
宮崎斗士 東京

 細やかな心遣いで日常を生きている人という印象である。水引草。


35

鑑賞日 2012/4/19
色鳥の木があり老いの地平あり
武藤鉦二 秋田

 生きてあるということの象徴であるような色鳥の木があり、その向こうには死というものが横たわるであろう老いの地平がある。老いや死があるからこそ、この今あるいのちが愛おしい。生死はコインの裏表ということ。生死一如ということ。


36

鑑賞日 2012/4/20
昼星のあまた降るなり十二月
森 鈴 埼玉

 一年の最期の月。極月。そしてクリスマスのある月。私はある感覚で十二月が好きである。それは〈終わり〉という感覚である。それは終末論的なある種の宗教的な感覚に通じるものがあるかもしれない。そんな感覚でもってこの句を眺めれば、「昼星があまた降る」というのは実に厳かでまた祝福された感じが起る事実である。


37

鑑賞日 2012/4/20
雪が来た飯噛むと聞こえる山の音
山本 勲 北海道

 自然の中の人間。自然の一部である人間。自然とともにある人間。これらが単なる思想ではなく、日常の中の実感としてまた具体として表現されている。


38

鑑賞日 2012/4/21
麩の椀にごる真珠湾奇襲ありし日
若森京子 兵庫

 ある視点からみれば、人間の歴史というものは人間の愚かさの歴史である。欲望が人間を明晰でなくする。歴史のことなどあまり知らない私でも真珠湾攻撃などは、火に飛び込む蛾のように、クリアーな頭脳では考えられない無謀なことだったように思える。あまりこじつけて俳句を読むのは良くないとは思うが、私にはこの「麩の椀」が人間の脳のことのような気がしてくるのが拒めない。そういう意味で言えば、原発推進を謀る人々の「麩の椀」は濁りに濁っているような気がする。


39

鑑賞日 2012/4/21
お互いがひとつかみの藁母と我
渡部陽子 宮城

 人間存在の危うさ、またその故の愛おしさというものがひしひしと感じられる。


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