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金子兜太選海程秀句鑑賞 506号(2014年10月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2014/10/3 | |
郭公をいつも探していた母よ
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阿木よう子 富山
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カッコウ、カッコウと呼びかけてくる。しかしその姿が見えない。あなたは何処にいるの。私に姿をみせて。あなたは何故私に呼びかけるの。時には遠くでそして時にはもうその姿が見えそうなくらいに近くで私に呼びかける。あなたの姿が見たい。あなたは誰なの。 |
鑑賞日 2014/10/4 | |
見えぬ海と見える放棄田春落日
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有村王志 大分
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時代を切り取った風景句といえるだろう。「春落日」に作者の思いが籠る。 |
鑑賞日 2014/10/4 | |
十薬の花励ましの形なり
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石川和子 栃木
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十薬(ドクダミ)は様々な優れた効能を持つ薬草である。山野や家の周りのどこにでも沢山自生する。日蔭地に多く見かけるような気がする。いい香りとは言えない独特の臭気があるし地味な草であるしまたそのドクダミという名前からも可愛がられるような種類の草ではない。しかしその花は案外可憐である。日蔭地にひっそりと可憐に咲いている白い花を見ると、ほっとするものがある。日蔭地にたくましく繁茂し、沢山の良き働きをする草。そして小さく清楚な花を咲かせる。このように生きよと励まされている感じは確かにある。 |
鑑賞日 2014/10/5 | |
遠流のごと去りしふくしま夏あざみ
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稲葉千尋 三重
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福島をそしてフクシマを島流しのようにしてしまいたい勢力がある。私なども日々の生活の中でその記憶が薄れてしまいがちになる。これはもう意志的にでも忘れないようにしなければならないと思っている。人間はいのちのレベルで物事を感じることが出来なくなる程にいのちというものから離れた存在に成り下がってしまっているのかもしれない。夏あざみよ、おそらく君はそうではないだろう。君はいのちのレベルでふくしまに共感できているのかもしれない。 |
鑑賞日 2014/10/6 | |
胸の辺にありて揚羽の水飲み場
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榎本祐子 兵庫
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何と美しくしっとりとした世界観だろう。この水飲み場はおそらく世界の中心かもしれない。そしてその水飲み場は胸の辺にあるというのである。女性作家らしいというか女性作家ならではのものがある。すなわち女性は世界を包み込む性である。 |
鑑賞日 2014/10/6 | |
寄り添いぬその生真面目にあじさいに
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加古和子 東京
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女性というのは世界を包み込む性である故にまた癒しの性でもある。融通のきかない男の生真面目さに寄り添ってくれる。そしてあじさいの花が咲くように花開かせてくれる。私が言っているのは、女性そのもの男性そのものではなく、女性性ということであり男性性ということである。私が見るところ、現代は女性性の欠如の時代である。どちらかといえば融通のきかない猪突猛進のおっちょこちょいの男性性が支配している。故に自然が破壊され環境が破壊され戦争やテロが起り地球は危機に陥っている。海程の女性作家陣が持つような感受性が今世界には欲しいのである。 |
鑑賞日 2014/10/7 | |
黙っていれば花いちもんめあげる
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河西志帆 長野
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これは神が人間に対して言った言葉とも受け取れる。何故なら沈黙こそが人間が到達すべき最高の叡知の表現だからである。人間は何故言葉を使うかといえば、最終的には沈黙という言葉を得るためであるからである。ブッダがある時に一輪の花を持って沈黙の説法を行なったことがある。その時にマハーカッシャパだけがその意味を悟って微笑んだ。ブッダは喜んで彼にその一輪の花を捧げたという話を思いだした。 |
鑑賞日 2014/10/8 | |
いつだって直球ばかり翡翠は
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木村和彦 神奈川
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この句全体がある人物を評していると考えたらどうだろう。なるほど正論をいつも真正面から言う。直球ばかりで勝負する本格派の投手のようだ。そしてその姿は美しくもある。だけどなあ、世の中は直球ばかりでは上手くゆかないこともあるんじゃないかなあ・・・ |
鑑賞日 2014/10/9 | |
鰹群来ふいとみつかる米穀通帳
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木村清子 埼玉
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悩むなあ。つまり「鰹群来」と「ふいとみつかる米穀通帳」がどの辺りで通底しているかということである。「ふいとみつかる米穀通帳」は遠くに忘れていたものが出てきてびっくりすると同時に懐かしくもあるという感じだろうか。作者は埼玉の人だから鰹が来るような地方に住んでいるわけではなく、だからこの地方に鰹がやってくるのは久しぶりだということもない筈であるから、もしかしたら「鰹群来」という言葉自体にどこか懐かしいような遠くに置き忘れて来たものに出会ったという感覚を抱いたのだろうか。定かではない。 |
鑑賞日 2014/10/9 | |
鳩は樹へ夕日は胸へ春たのしむ
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京武久美 宮城
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「春たのしむ」という言い方と表記がとてもいい。何か生な実感が伝わってくる。「春楽し」ではやはりこれ程は響かない。もちろんその前の上五中七が用意されてこその実感である。 |
鑑賞日 2014/10/10 | |
柏餅アンニュイなんて贅沢です
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久保智恵 兵庫
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アンニュイはおそらく人間精神が遭遇する一つの状態であろう。ある意味では自由ということの負の側面かもしれない。真の自由への前段階にある混沌状態といってもいいかもしれない。アンニュイ状態にある人は無自覚的に甘えているあるいは依存している。昂じると自暴自棄になったり意味もなく破壊的になったりする場合もあるかもしれない。生活者の立場からすると、アンニュイなんて贅沢だ、と言いたくなる。柏餅というようなものは、自立的に生きている生活者への一つのご褒美なのかもしれない。 |
鑑賞日 2014/10/10 | |
ひきがえる私の視線感じるか
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河野志保 奈良
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何回も読んでいるうちに、どうもこれはひきがえるそのものというよりも、ひきがえるのような人物と解釈したくなってきた。ひきがえるそのものは私の視線を感じようが感じまいが、どちらにしてもそれ程害はないし、いのちのレベルでは当然通じ合っているのだから問題ない。しかしこれがひきがえるのような人間であるとしたら、しかもそれが権力の側に立つ人だとしたら問題である。考えてみると、人間の視線あるいはいのちとしての人間の視線を感じられないひきがえるのような愚鈍な権力者が多すぎる。 |
鑑賞日 2014/10/11 | |
夏つばめ村人軽口たたくよう
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児玉悦子 神奈川
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村人でも特に女性同士は軽口をたたくようだ。出会ったとたんにぺらぺらぺちゃくちゃとお喋りをする。中には私などにもお喋りをする人もいる。こちらも気をつけてお喋りに陥らせないようにしているのだが、陥ってしまうともうなかなか止まらない。その場からなかなか離れる切っ掛けが掴めなくなってしまう。まあいいか、それも夏つばめの軽やかな飛翔と同じようなものだと考えれば。 |
鑑賞日 2014/10/11 | |
豪雨一と夜詠み人知らずとありし
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小林一枝 東京
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Wikipediaで「よみ人しらず」ということを調べてみた。以下 この詠み人の境遇と「豪雨一と夜」がどこかで重なり合って響く。どんな歌だったのだろうか。 |
鑑賞日 2014/10/12 | |
瑰や遠くのことに人はやさしい
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近藤守男 東京
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「遠くのことに人はやさしい」というのは人間の持つ一つの大きなテーマである。『カラマーゾフの兄弟』などでも大きく問題にされている。つまり平たく言えば「全世界を愛するなんて簡単なことさ、ただしうちの女房(宿六)を除いて」ということである。そしてこのことは常に注意深く自分自身に問うてなければついつい自分自身が陥る心理であろう。草田男の 瑰や今も沖には未来あり というのもある意味では同じことを言っているのかもしれない。希望は愛は常に遠くにある。沖にある。未来にある。そして人間は現在を愛せない。 |
鑑賞日 2014/10/12 | |
かわせみの青き軌跡よ君在りし
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佐々木香代子
秋田 |
それが身近な人物であろうと歴史上の人物であろうと、輝きを持って人生を駆け抜けたある人物の記憶を持つというのは誰にでも一つの宝なのかもしれない。そして私はもしかしたらこの人物は早世してしまった人物なのかもしれないと思った。早世した人の人生は残された人にある輝きを持った記憶として残るからである。とにかくそのような「君」のことを美しく描ききった句である。 |
鑑賞日 2014/10/13 | |
被曝の河キューピー人形すっ裸
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清水茉紀 福島
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作者は福島の方だから「被曝の河」というのは原発事故による被曝ということだろう。すっ裸のキューピー人形がその河に浮いているという光景が目に浮かぶ。裸の赤ん坊があるいは愛という無垢で柔らかなものが放射能汚染に曝されているという現実。産み育む女性ならではの感受性の作である。同じく女性のイラストレーター柚木ミサトさんの次の絵を思いだした。 |
鑑賞日 2014/10/13 | |
蛍追う深きところに母の闇
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白石司子 愛媛
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私も年齢を重ねるにしたがって父の背負う孤独感というようなものが分かってきたような気がする。それに比べて母というものはいつまでも自分の外側にある存在としての母であったような気がする。ところで作者は女性であるから、私とは逆に母に共感してその闇を感じ取ることが出来るのではないかと思った。 |
鑑賞日 2014/10/14 | |
陽炎や折れぬため揺れ人も木も
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芹沢愛子 東京
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なるほどなあ、と思った。そうだなあ、と思った。人や木が揺れるのは折れないためだなあ、と思った。しかしまた人の世が陽炎のように感じるのは果してその所為なのだろうかと考えて、それだけではないのじゃないかとも思った。折れないために揺れるのであれば、それは中庸という一つの徳の軸があることだから、世の中がこれ程大きく破滅的に流される様相は呈さないのではないかと思えるからである。どうだろうか、人間の世は揺れ戻して再び中庸の軸を外さない生き方を選ぶことができるだろうか。 |
鑑賞日 2014/10/14 | |
啓蟄や川から畑へ水運ぶ
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高木一惠 千葉
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詩經國風には「七月」という農事暦の詩があるが、その一節のような趣を感じた。つまり、農というものが農業として単なる産業の一形態に貶められる以前の、農と生と自然が一体化して詩である或る時代の光景を感じたということであろうか。 |
鑑賞日 2014/10/15 | |
鳥影のさみしさノートは麦の秋
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田口満代子 千葉
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教養もあり一定の生活水準も確保出来ている人の持つある種のさみしさのようなものかもしれないと思った。教養のない人はこんなさみしさは持たないし、貧乏人もこんなさみしさは持たない。しかしおそらく人間は衣食住満ちても知的生活が充実しても、それでも尚何かが足りないと感じる存在なのである。その何かとは何であろうか・・・ |
鑑賞日 2014/10/16 | |
清貧や水飯五杯かきこんで
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竪阿彌放心 秋田
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「清貧」というような言葉を聞くと嬉しくなるような時代である。富めるものは更にもっともっとと貪欲になり、貧しきものは打ちのめされたように惨めな生活を送る、というような図式がありはしないだろうか。私の子どもの頃の映画に「清く貧しく美しく」という題名の映画があったが、あの頃はまだ人々の心が今ほどぎすぎすしてはいなかったのかもしれない。詩人のサカキナナオが曾て「貧乏に負けちゃあ、貧乏してる甲斐がない」と言ったことがあるが、誇りをもって敢て貧乏をするというのも人間の一つの尊厳なのではある。 |
鑑賞日 2014/10/16 | |
夏つばめ一回きりの恐山
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舘岡誠二 秋田
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以下青字はWikipediaより 恐山(おそれざん、おそれやま)は、下北半島の中央部に位置する外輪山、霊場である。また、霊場内に数種類の温泉が湧き、湯治場としても利用されている。下北半島国定公園に指定されている。最高峰は、標高879mの釜伏山。 本当の死は一回だけであると知り、しかもその本質が分かっている人こそこの生を精一杯生きることができるという事実がある。「夏つばめ」は生を謳歌し精一杯生きているということの象徴である。 |
鑑賞日 2014/10/17 | |
老人券買って薄暮の浮世絵展
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田浪富布 栃木
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浮世絵といってもいろいろあるが、やはり美人画や春画を予想して鑑賞するとこの句の場合は面白いのではないか。V人が薄暮にそういう絵を見に行くというのは翠垂ェあるし、人間の性というものを感じさせ、また考えさせられるからである。「老人券買って」の具体が上手い。 |
鑑賞日 2014/10/17 | |
緑の山は孫なりそして力瘤
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谷 佳紀 神奈川
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自然を愛し家族を愛ししかも健康な初老という感じであり羨ましい。「緑の山は孫なり」という把握が新鮮で力がある。現代人が失ってしまった大事な自然観でもある気がする。アメリカインディアンやアイヌやアボリジニなどが持っていたプリミティブな認識に通じるものがあるのではないか。 |
鑑賞日 2014/10/18 | |
ふらここふたつ一つは孫に一つは富士に
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中嶋まゆみ 埼玉
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どうしても昨日鑑賞した次の句と並べてみたくなる。 緑の山は孫なりそして力瘤 谷佳紀 同種類の題材であるがやはりその態度は少し違う。もしかしたら男性性と女性性の違いかもしれない。男性である谷さんの方は自然に没入したいという強いベクトルがあるが、女性である中嶋さんの方は既に自分は自然であるが故に穏やかな祈りの目で物事を眺めているというふうである。 |
鑑賞日 2014/10/18 | |
田を植える人よ夕日とフクシマ負い
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中村 晋 福島
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響いてくるなああ。言葉では言い切れないような重いものが響いてくる。切っても切れない人間と土の関係。その土に対して人間が仕出かした罪の重さ。そしてまた泣きたくなるような大自然の優しさ。自然というもの、人間というもの・・・・ |
鑑賞日 2014/10/19 | |
遠耳の兄弟が寄り田を植える
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中村道子 静岡
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ちぐはくな会話をしながら田を植えている年寄りの兄弟の姿を思い浮かべると可笑しい。可笑しくてまたほのぼのとしてくる。人間というものに関する一つの上質な笑いがある。 |
鑑賞日 2014/10/19 | |
初夏の母よ箪笥の鐶が鳴る
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新田幸子 滋賀
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全体に凛とした感じ。この母上が凛としてしっかりとした方なのかもしれない。初夏という開放された季節にこの母上は身支度を整えて何処かに出かけようとしているのかもしれない。「箪笥の鐶が鳴る」が印象的だ。 |
鑑賞日 2014/10/20 | |
ヒロシマナガサキそしてフクシマ田水張る
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野崎憲子 香川
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ヒロシマ、ナガサキ、フクシマと片仮名書きした場合は単なる地名ではなく核の洗礼を受けた地であるということになる。そしてそういう地でも田水を張っているというのである。作者が言いたいのは、死の勢力に打ち勝って結局は生の営みはえいえいと続くだろうということ、つまり生の讃歌であるような気がする。 |
鑑賞日 2014/10/20 | |
目の裏はすぐに脳みそ日照雨来る
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松本勇二 愛媛
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「目の裏はすぐに脳みそ」と言うことによって日照雨のあのキラキラとした感じを強く感じるのはやはり二物配合の不思議さということだろう。脳科学的な知識が無くとも人は感覚的に、目は単なる光の窓口であって、その情報を識別処理しているのは頭の中の脳味噌であるということを知っているのかもしれない。 |
鑑賞日 2014/10/21 | |
蚕豆のひかりも死後のことなりぬ
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水野真由美 群馬
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死後は暗いか明るいかと問われれば、その時空は明るいと答える。その明るさは明暗という対立するものの片方としての明るさではなく、この世での明暗を越えたあるいはこの世での明暗を統合した明るさである。つまり絶対的な明るさである。その絶対的な真理をこの句は蚕豆を題材にして述べた、といったら穿ち過ぎであろうか。 |
鑑賞日 2014/10/21 | |
啓蟄のあはひに小雨降りしかな
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三井絹枝 東京
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生命体としての精妙な感受性とでも言おうか。この作者特有のものである。こういう感受性を持ちしかもそれを言葉で表現できる作者はやはり希有な作家といえよう。 |
鑑賞日 2014/10/23 | |
誰もが好きな木立ちがあって喜雨のなか
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村上友子 東京
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この柔らかい口語の表現がいいなあ。私のような頭の固い人が作ると「皆好きな木立がありて喜雨のなか」などと五七五とまとめてしまうかもしれないが、そうなるとやはり味が損なわれてしまう。雨の中で喜んでいる木立ちの姿が見えにくくなってしまう。私もこういう口調で書いてみたい。 |
鑑賞日 2014/10/23 | |
子馬らの群れて羽音のすこしある
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茂里美絵 埼玉
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女性特有の心の動きかもしれない。あるいは母性のと言ってもいいのかもしれない。子らを見ると心音が少ししてくるのではないだろうか。それを「子馬ら」「羽音」という具体物で書いたのが俳句としての上手さだろう。 |
鑑賞日 2014/10/24 | |
肩に星夜汽車もわたしも夏の影
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森央ミモザ 長野
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「肩に星」という言葉を読んですぐに次の句が思い浮かんだ。 抱けば熟れいて夭夭の桃肩に昴 金子兜太 実際両句ともに同じようなロマンと詩情に溢れている。応答の句として読んでもおかしくない内容だ。 |
鑑賞日 2014/10/24 | |
麦秋や明日へ書き足すこと少し
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山田哲夫 愛知
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実際、わたしたちがこの豊かな自然を直に感じる時、未来に対して言い残すことなど殆ど無いということに気付く。今現在のありのままで充分なのだ。もし書き残すことがあるとしたら、まだこの自然の豊かさに気付いていない人に気付いてもらいたいということだろう。そしてこの句自体がその書き足す少しのことのような気がする。この陽光に輝く麦秋を見よ、ということである。 |
鑑賞日 2014/10/25 | |
青水無月あおい空洞ですわたくしは
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山本 掌 群馬
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空洞(うろ)とルビ 自分が空洞だという認識は大きな気付きと言えるのではないだろうか。私というものが何か価値ある実体だという思いはおそらく幼稚なものである。そしてその誤った認識が人間の苦悩の原因の全てなのかもしれない。「あおい空洞です」、美しい認識である。何故ならその空洞には青水無月の妙なる音楽が満ちている筈だから・・・ |
鑑賞日 2014/10/25 | |
更衣座敷わらしのべべ畳む
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山谷草庵 青森
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みちのくの不思議な雰囲気に満ちた句。子どもの服を畳んでいるのを譬えてこう表現したのだろうとかと思わないでもないが、ずばりその通りのことだと受けとるのも面白い。いずれにしてもみちのくの民俗あるいは神話性を感じる。 |
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