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金子兜太選海程秀句鑑賞 508号(2014年12月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2014/12/9 | |
逃げ水のどこにも逃げ場なき瓦礫
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有村王志 大分
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震災では多くの人々が移住を余儀なくされた。ある程度行政の補償を受けられる地域に住んでいた人はまだいいのかもしれない。が、例えば実際には放射能で汚染されていながら、政府が放射能汚染の基準を引き上げてしまったゆえに補償の適用外になってしまった沢山の人々がいる。余程の経済的に余裕のある人以外は、彼等は逃げようにも逃げ場がない。 |
鑑賞日 2014/12/9 | |
捨て犬を連れてジューンブライドや
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石川義倫 静岡
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ジューンブライドとは六月の結婚のこと、あるいは六月の花嫁のこと。欧米では六月に結婚すると幸せになれるという言い伝えがあるそうだ。句は、心優しいカップルということであろう。結婚式はハワイにしようかしら、新婚旅行はパリにでも行こうかしら、結婚指輪はぜひ高価なダイヤにしよう、花嫁衣装は、式場はうんぬんかんぬん、というような結婚はもしかしたら離婚になる可能性大かもしれないが、捨て犬を連れたジューンブライドの心優しい夫婦は末長く幸せになる可能性大なのかもしれない。 |
鑑賞日 2014/12/10 | |
夏橙その手ざわりの過去を言う
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伊藤淳子 東京
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過去(むかし)とルビ 「夏橙」という言い方は「夏みかん」という言い方より鄙びた感じがある。ネットで調べると次のようにあった。 |
鑑賞日 2014/12/10 | |
頬杖ながき無為の怖さの晩夏かな
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伊東友子 東京
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私は二十歳前後の数年を無為に過ごした。この世でやることが見つからないという状態である。そしてこの期間の最中にやって来たのが決定的な死の恐怖である。この句を読んで私なりに考えて見た。そして一つの言い方が出来ると思った。無為とはある意味死と対面することであり、無為の怖さとは本質的に死の怖さであるに違いないと。ーーーー海程〈六句合評)に掲載の文ーーーー |
鑑賞日 2014/12/11 | |
滑語れぬ重さ背負い込む
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大内冨美子 福島
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福島では放射能汚染のことやその危険性などについて人々が語れない現実があると聞く。放射能汚染から逃れて移住しようとする人は裏切り者だというふうに見られたりすることもあるらしい。結局放射能を語れば、地域や職場や家族の人間関係を壊してでも子どもの健康を考えて移住するか、あるいは健康への害の危険性を抱えながら今までの人間関係を大事にして生きるか、のどうにも判断のつかない選択に迫られてしまう。政府や行政は放射能汚染はそれ程無かったことにする‘臭いものにフタ作戦’に徹することにしたが、少しでも真実性を生きたいと願う人にとって、この臭いものにフタという状況は実に気の重いものだろうと思う。 |
鑑賞日 2014/12/11 | |
原爆忌影には骨が無いのです
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大沢輝一 石川
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戦後生まれの我々は戦争や原爆の悲惨さを伝え聞いたり本で読んだり資料館で見たりしなければならない。それでも実感するのはなかなか難しい。影には骨が無いからだ。肉も無ければ皮も無く血も無く膿も無ければ呻きも悲鳴も無いからだ。それでもわれわれは影を見てその悲惨さを想像しなければならないのだ。 |
鑑賞日 2014/12/12 | |
ずぶ濡れの姉が桑の実くれしかな
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大西健司 三重
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子どもの頃の想い出であると受け取った。あの頃、子ども達は野や山が友だちであった。男の子達は蛙や蝉やザリガニが友だちであったし、女の子達は草花や木の実が友だちであった。そして子ども達自体そういう遊びの中で互いの人間関係を尊重するという態度が身についたのではないか。今の子ども達はどうなのだろうか。あまりにも管理されつつある社会で子ども達は自然の中で自由に遊ぶ機会は沢山あるだろうか。学校や塾で忙し過ぎていないだろうか。たまに遊ぶとしたらテレビゲームだけというようなことは無いだろうか。それでも日本はまだましなのかもしれない。世界のある地域では子どもが戦闘訓練させられたり貧困の為に重労働しなければならないということも起っているらしい。 |
鑑賞日 2014/12/12 | |
屋根裏に蛇這う音の昭和かな
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奥山津々子 三重
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私は約三十年くらい前に、つまり昭和の終わり頃、田舎の今の古家を買って住み着いたのであるが、最初にびっくりしたのは屋根裏部屋に住み着いていた青大将がするすると逃げていったことである。都会人が来たということで危険を感じたのかもしれない。時代の一つの定義として、昭和とは屋根裏に蛇がまだ住んでいた時代である、と定義できるかもしれない。彼等にとっても時代はだんだんと住みにくい方向に進んでいるのかもしれない。 |
鑑賞日 2014/12/13 | |
雨立ち込めて昆虫展の奥に人
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小野裕三 神奈川
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日常の中でふとある濃密な時間に出会った感じ。濃密な空間といってもいい。時間あるいは空間はおそらく多重的に出来ている。そして詩人の仕事というのは、その層のより深い部分を発見し表現することなのかもしれない。 |
鑑賞日 2014/12/13 | |
泡となる金魚のことば戦の匂い
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狩野康子 宮城
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「平和を守るための戦争」という言葉は変だ。「健康のためなら死んでもいい」という言葉くらいに変だ。それはいわば中味が空っぽの泡のような言葉である。曰く積極的平和主義、曰く集団的自衛権などという泡のような言葉が湧き出して来ている現在、言葉に敏感な人はどうしても戦の匂いを嗅ぎ取らざるを得ない。アベさん、あんた金魚か。ーーーー海程〈六句合評)に掲載の文ーーーー |
鑑賞日 2014/12/14 | |
鬼百合やひとり欠伸は手を添えず
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川崎千鶴子 広島
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ある人に合っているときの自分、また違う人に合っているときの自分、一人でいる時の自分、それぞれに違う顔違う態度違う行動をしている。平野 啓一郎氏はそれを分人という言葉で表現している。どれが本当の自分だろうかという問いがある。どれも現象としての自分であると言えるだろう。そしてそれらの違う人格が全て統合された場で尚存在する透明な意識が真の自分であると言えるのかもしれない。 |
鑑賞日 2014/12/14 | |
大ぶりの蜘蛛の巣いい仕事してるなあ
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佐々木香代子
秋田 |
蜘蛛は偉い。丁寧に丁寧に仕事をする。飽きずに飽きずに仕事をする。例えば人にその作品を壊されたとしても投げやりにならずにまた初めからやり直す。この蜘蛛の仕事ぶりには仕事ということに潜む秘密がある気がする。結果が大事なのではなくその過程そのものが大事なのだという秘密である。そしてそういう態度で仕上げた作品には真の美しさがある。作者のこの素直な感嘆には宇宙の創造の秘密の発見が潜んでいる可能性がある。 |
鑑賞日 2014/12/15 | |
夏山に雨の襞なす無辺なり
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佐藤紀生子 栃木
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自然を眺め入る時われわれは無辺を感じることがある。それは原子のような小さなものを覗き込む時もそうであるし、宇宙の星々を眺めやる時もそうである。しかし案外普通の風景などをそのような感慨を抱いて眺めることはもしかしたら少ないのではなかろうか。それらがあまりにも日常的な意識の範囲にあるからである。おそらくそのようなものを眺めても無辺を感じることの出来る人が詩人だと言えるのかもしれない。日常の中で何かの前に立ち止まって眺め入ることの出来る資質である。 |
鑑賞日 2014/12/15 | |
球児泣く久しく泣くを忘れいし
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末岡 睦 北海道
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泣くあるいは笑うということには心を清める作用がある。いわば心の浄化装置だと言えるかもしれない。おそらく緊張していた心が解けるということだろう。だから、そもそも心に緊張が無いブッダのような人はあまり泣いたり笑ったりする必要は無いかもしれないが、普通の人間は泣いたり笑ったりする必要がある。長い緊張に耐えて練習してきた球児が敗戦が決まったとたんに、その緊張が一気に緩んで泣くというのは当然かもしれない。「久しく泣くを忘れい」たのは球児達のことでもあるかもしれないし作者自身のことかもしれない。 |
鑑賞日 2014/12/16 | |
平和な夢だ平和は夢だ鳴かぬ蝉
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瀬川泰之 長崎
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文字通り夢の中での囁きあるいは呟きのような語り口で怖い事実を言っている。自ら望んで飲んだのか、あるいは飲まされたのか、われわれはある種の睡眠薬を飲んで繁栄や平和という夢を夢見てきたのかもしれない。そして今われわれは半醒半睡の中で、平和は夢だと気付き始めているのかもしれない。「鳴かぬ蝉」が無気味に響く。ーーーー海程〈六句合評)に掲載の文ーーーー |
鑑賞日 2014/12/16 | |
三人姉妹に父よりそびえ冷蔵庫
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芹沢愛子 東京
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家庭内における父親の威厳の失墜と冷蔵庫や電気洗濯機の普及は関連しているのかもしれないと思った。これら電化製品により女性の自立性が高まったということがあるかもしれない。今では冷蔵庫は大型化されて各種機能もついて便利になった。昔は父親が偶に買ってくるお土産などを子どもたちは楽しみにしていたかもしれないが、今では冷蔵庫の扉を開ければ子どもたちの好きなアイスやプリンなどが入っている。まさに父親より冷蔵庫のようが頼りになる。 |
鑑賞日 2014/12/17 | |
星の寿命の最後は爆発合歓の花
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高橋明江 埼玉
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「合歓の花」であるから作者は「星の寿命の最後は爆発」という事実を美しいものだと捉えているのではないか。そして最後が美しいのなら最初も真ん中もみな美しいということ。そしてこの事実はあらゆる存在に当てはまる筈であり、人間の生も然りである。人間の生において、一番美しいのは死の瞬間である筈であり、それ故あらゆる生の過程は美しい。 |
鑑賞日 2014/12/17 | |
鯵刺や素描のような旅をして
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田口満代子 千葉
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この作者の句集『初夏集』に次の句があったのを思い出した。 鯵刺やノートは切岸のにごり いわば青春の詩情に満ちた魅力的な句である。今日の句はたんたんとした心境とでも言おうか、それが魅惑的であろうがやはり濁りであったものが取れて、それはやはり年月のなせる技であろうか、流れるような描線を得ている感じがある。 |
鑑賞日 2014/12/18 | |
にこにこのそはそはのねこじゃらしかな
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武田美代 栃木
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やわらかい仮名書きの所為もあって、この句そのものがねこじゃらしの姿のようだ。そしてまたこの句の姿がそのまま今の作者の心持ちなのであろう。「私はにこにこそはそはのねこじゃらし」と言い換えることも出来るかもしれない。 |
鑑賞日 2014/12/18 | |
竜神の潟辺に住んで盆踊り
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舘岡誠二 秋田
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一つの土俗的な風景が見える。現在、いわば貨幣というものを唯一の神とする一神教が世界を支配しようとしている感がある。グローバル経済の進行である。そうするとあらゆる土俗的な価値や個別的な価値は根こそぎ的に一掃されてしまうかもしれない。ああ竜神様何とかして下さい。 |
鑑賞日 2014/12/19 | |
避暑家族鳥とも違う会話して
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田中亜美 神奈川
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二通り考えられる。一つは避暑家族が鳥と会話しているつもりであるが、鳥にとってみればとんちんかんな会話である。もう一つは避暑家族同士が会話しているのであるが、それは周りの自然に溶け込んでいる会話とは言えない。いずれにしろ自然と人間の営みの違和感である気がする。例えば兜太句でいえば次の句が思い浮かんだ。 魚雷の丸胴蜥蜴這い回りて去りぬ |
鑑賞日 2014/12/19 | |
熱帯夜昔の私と怒鳴り合う
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峠谷清弘 東京
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作者は日常の中の自分を滑稽化して書くことの名手だと言えないだろうか。海程の中では貴重な個性だと言える。 |
鑑賞日 2014/12/20 | |
ががんぼは腕立て伏せして老いてゆく
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永井 幸 福井
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おそらく自分の姿を言ったものだろう。老いというものを滑稽化して書いている。まああまり老いというものを深刻に取らない方がいいのかもしれない。何故ならそれは自然で当然の現象だからである。 |
鑑賞日 2014/12/20 | |
土笛か鳥かけものか富士は初夏
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中島まゆみ 埼玉
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私達は自然を殆ど知らない。偶に自然の髄に触れたと思うことがあってもすぐに忘れてしまう。それはおそらく自然の中に暮らしている人も都会に暮らしている人も博物学者も詩人も全てそうである。自然はおそらく自分の外側に広がっていると同時に自分の内面に潜む無垢で新鮮で不思議な領域なのだ。 |
鑑賞日 2014/12/21 | |
被爆地に雨被爆地に雨とやませ
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中村 晋 福島
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あの3.11以降今までにこの作者の句で兜太選秀句になったもの全て福島原発被曝の句である。 陽炎や被爆者失語者たる我ら 海程 475号 いろいろと考えさせられる。遠隔の地にある私には判断がつかないが、福島の人はこのような被曝感情を持ち続けているのだろうか。それとも感受性のある人のみの話なのだろうか。今の世では感受性の無い人ほど能天気に過ごしているように見える。能天気の代表はアベちゃんである。フクシマはアンダーコントロールなどと曰う。そしてそのアベちゃんの党が選挙で大勝するとなると日本人の殆どが能天気なのだということにもなる。日本人の感受性は何処へいってしまったのだろうか。この作者のような感受性は貴重である。私自身はフクシマのことを忘れないことを自分の義務にしたいと思う。 |
鑑賞日 2014/12/21 | |
山二つ窓に賜る敗戦日
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中村裕子 秋田
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二つの山が窓から見えるということはかなり大きな窓に違いない。作者は自然が豊かな場所に住んでいるのかもしれない。この恵みこの仕合わせ。そういえば今日は敗戦日である。いろいろな感慨が駆け巡る。「賜る」に作者の思いがこもる。 |
鑑賞日 2014/12/22 | |
白南風や裏木戸を開けて日輪
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野崎憲子 香川
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結局「裏木戸を開けて」という何でもない日常的な動作の言葉がこの句を生かしていると思う。更に言えば「表の木戸」ではなく「裏木戸」なのが心理的な一つの真実を表わしている気がしてくる。つまり何か心にとって価値あるものは真っ正面からやって来るよりもむしろ裏の方からやって来ることが多いのではないか。別の言い方をすれば、心が何かを求めて緊張状態にある時にはその何かはやって来ないが、リラックスした状態の時にその何かがふと訪れるということである。例えが大袈裟になるかもしれないが、仏陀がスジャータからミルク粥を受けてリラックスした状態に彼は悟りを得たという事実等が思い浮かぶ。この句はだからある意味悟りの状況を書いた句である。「日輪」はその悟りの象徴であり、「白南風」はその状況の一部である。 |
鑑賞日 2014/12/22 | |
夏うぐいす自己陶酔のありにけり
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平山圭子 岐阜
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真の自己陶酔というのは自我陶酔でもエゴ陶酔でもない。世界と自我が一体化した時に現れるものが真の自己というものである。そういう意味で自己陶酔しているものには個性の輝きがある。自然の花々や木々や鳥たち等々全ての自然物は自己陶酔しているが故に個性がある。そして彼等は生きてあることを謳歌している。私もこの夏うぐいすのように自己陶酔の状態にあり続けたいものである。 |
鑑賞日 2014/12/23 | |
ナガサキ全滅の報耳にあり夏野
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舛田子 長崎
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沈黙。 |
鑑賞日 2014/12/23 | |
死後少し残る聴力夕かなかな
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松本勇二 愛媛
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結局私が自然の中で生きたいと思うのは自然の中で死にたいからである。自然の音の中で死にたいからである。風の音や川の音や鳥の声や雪の音等々に囲まれて死にたいからである。そしてもしかなかなの声を聴きながらだったらそれは最高かもしれない。 |
鑑賞日 2014/12/25 | |
原爆忌の雨原爆の河に落つ
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マブソン青眼
長野 |
フクシマの記憶さえ薄れようとしている(薄れさせようとしている勢力も確かにある)今、おそらく生まれてもいなかった時の遠い国での原爆の記憶に浸ろうとする、あるいは新たな記憶として自らの裡に定着させようとしている作者の姿に敬服する。それを自分が経験しようがしまいが、人類の記憶として忘れてはならない記憶というものがある。ーーーー海程〈六句合評)に掲載の文ーーーー |
鑑賞日 2014/12/25 | |
熱帯夜言葉出て行く歯の透き間
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水上啓治 福井
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熱帯夜。思考能力も感情もそしてみずみずしい感覚さえもがだんだんと失われてゆき物質化してくるような熱帯夜。精神作用の表れであるべき言葉さへもが単なる音として歯の透き間から出てゆくようだ。 |
鑑賞日 2014/12/26 | |
母の来て小鳥をつかむ仕草かな
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水野真由美 群馬
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傷つけないように殺さないようにしかしそれが逃げないように確実に素早く柔らかにつかみなさい。もしかしたらそれは物事を処理する熟練した名人の技かもしれない。しかしその技を体得した名人は言葉なぞで説明しない。こうやるんだよと仕草で示す。 |
鑑賞日 2014/12/26 | |
ぽーっと灯り一重瞼を閉じにけり
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三井絹枝 東京
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身を任せてもいいと思ったあるいは身を任せたいと願った瞬間のレットゴー状態。完全に受け身になるとき人は瞼を閉じる。何故なら視覚は能動性を含むからである。恋人に身を任せる、あるいは神に身を任せる。ぽーっと灯ったのは何の火か。それは愛の火、あるいは悟りの火。 |
鑑賞日 2014/12/27 | |
草いきれ皮膚は牢のようでもあり
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茂里美絵 埼玉
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人間が抱えている一つの大きな問題。それは肉体と魂の問題である。肉体は魂にとって邪魔なものなのだろうかという問題である。健康な精神は健康な肉体に宿ると言われるが、そう若くて健康である頃は肉体と魂はあたかも一体であるように感じられる。しかし、病気であったり老年であったりする時には肉体はむしろ魂の邪魔をしているのではないかとさえ思われる。つまり我々は肉体という牢獄に捉えられた存在であると感じることもある。皮膚はその牢獄を囲う外壁のようなもの。 |
鑑賞日 2014/12/27 | |
猫が触れゆく静かな柱夏の家
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森央ミモザ 長野
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昔造りの大きな古い家という感じがする。そういう家は柱というものに存在感があった。黒光りしているような太い柱である。そしてがらんとした大きな部屋。外では蝉しぐれなどの音がしているのだが、家の中はしんと静かな雰囲気がある。猫がその柱に触れてゆく。静かだ。そしてほのかなエロティシズム。 |
鑑賞日 2014/12/28 | |
撫でるごとトマト湯むきす子は遠し
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森岡佳子 東京
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私も毎年自家獲りトマトを湯剥きしてトマトビューレを作る。トマトは鍋の湯に浸して剥くとその薄皮がつるりと容易く剥ける。私の場合は、こいつは便利な剥き方だ、と思うくらいであるが、そのピンク色の柔らかい剥かれたトマトから子を連想するというのはやはり母親の情というものなのだろう。赤ん坊の頃の子を湯浴みさせた事などを想っているのかもしれない。 |
鑑賞日 2014/12/28 | |
滝壷をやがて去る水青き真昼
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山本 勲 北海道
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人生は水の流れのごとし。ぽたりぽたりというわずかな滴から始まって谷川の細き流れになり急流になり穏やかな流れになる。時には滝のように激しく落下することもある。激しく落下した水は一時滝壷の平安を得る。その滝壷の水もやがて去る時が来る。しかし水は常に水であり水以外のものではない。水は水自信に青く透明に満足している。そこに本質的に何の憂いが有り得ようか。この青き真昼に私はそんなことを思っている。 |
鑑賞日 2014/12/29 | |
遠さかる漢のごとく八月も
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柚木紀子 長野
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漢(おとこ)とルビ 漢は男らしい男という意味であろうか。つまりこの句は、自分から男が遠ざかるという意味とも取れるし、また一般的に男らしい男がいなくなってしまった時代を書いているのかもしれない。草食系男子の増加ということでもあるかもしれないが、私はむしろ群れなければ何事も主張できない男子ばかりになってしまった世相を書いているのかもしれないと思った。「遠さかる」という表記が「遠盛る」あるいは「遠逆る」とも受け取れることにもそんなニュアンスが感じられる。 |
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