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金子兜太選海程秀句鑑賞 509号(2015年1月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2015/1/1
遺されし人に晩年衣被
赤崎ゆういち 
東京

 衣被、見た目はどうもぱっとしないが食べてみるととても旨い。先立たれて遺された晩年の人も他の人から見れば惨めなような感じがするが、もしかしたらその生活にもかけがえのない深い趣があるのかもしれない。まさに衣被のようなしみじみとした味わいの句。


2

鑑賞日 2015/1/1
岐阜蝶や谷の暗さを使い切り
飯土井志乃 滋賀

 揚羽蝶の一種であるが、岐阜蝶と特定したことによって句に具体的なイメージが付与され、また谷の暗さにも相応しい蝶である気がしてくる。「谷の暗さを使い切り」というのは暗い谷を満喫するように楽しむように翔んでいたということだろうと思った。
 蛇足のように付け加えれば、一つの人生訓さえ内含される。暗さを逃げるよりむしろ楽しめということ。


3

鑑賞日 2015/1/3
青かりん言葉がふっとひとり歩き
伊藤淳子 東京

 「ふっと」が要点である気がする。つまりこの句で言っている言葉が詩の言葉であることになるからである。詩が生まれる瞬間の場面である。そのみずみずしくも未知なる感じである。おそらく本物の詩というのは自分の拘りを離れて言葉がひとり歩きしてしまうように出来るものなのであろう。
 ところでこの「ふっと」が「大手を振って」となると例えば現政権の使う「積極的平和主義」というような言葉の使われ方の意味になってしまう。事実を伴わない出鱈目で恥知らずな言葉が大手を振ってまかり通っている風潮ということになってしまう。そうなれば「青かりん」もへったくれもなくなってしまう。


4

鑑賞日 2015/1/3
いきものの素足や月に触れてゆく
榎本祐子 兵庫

 いきもののいのちと月のいのちは本質的に同一であるということ。作者はいきものの素足を見たときにそのことを魂の深みにおいて感じたに違いない。
 「いきものの素足」と「月に触れてゆく」の間にいわゆる造形論でいう作る自分が存在している。つまりいきものの素足を見た時あるいは触れた時に感じた感銘を自分の中で消化して昇華して「月に触れてゆく」という言葉に行き着いたわけである。


5

鑑賞日 2015/1/4
魚の骨緻密な秋の一つです
大沢輝一 石川

 例えば感性豊かな画家が描いた一枚の絵を見て、感性豊かな批評家が「魚の骨緻密な秋の一つです」と呟いたような趣がある。もちろんその絵には魚の骨が描かれているのであるが、ゴッホが向日葵の絵を描いて向日葵以上の何かを描いているように、その魚の骨の絵には魚の骨以上の何かが描かれている。その何かを感性豊かな詩人の資質を持った批評家が言葉で表わしたような感じなのである。


6

鑑賞日 2015/1/4
不機嫌な闇へ下駄置く秋千草
大島昌繼 福島

 この作家は福島の人なので放射能のことなどを考慮して鑑賞すべきかどうかを先ず考えた。聞くところによれば、福島では放射能や汚染の話はタブーになっていることがあるらしい。心に思っていながら話せないというのはやはり何か心が晴れないものがあるのではないか。いわば不機嫌の闇がその辺りを覆っているということはあるのかもしれない。そういう日常の中でふと秋の千草に出会った時の、忘れていた何か大事なものに触れた感じなのかもしれないと思った。「下駄置く」は日常ということの具体的な表現であろう。


7

鑑賞日 2015/1/5
竹を伐る時効となりし罪数え
片岡秀樹 千葉

 宗教には大きく二つの傾向がある。自力の宗教と他力の宗教である。因果応報を説く宗教は自力の傾向が強いし、神の恵みや仏の慈悲を説く宗教は他力の傾向が強い。大方の宗教はこの二つの傾向が混在している。また人それぞれのタイプによってどちらの方法がより相応しいのかは決まるだろう。最終的なゴールは同じなのだからどちらが勝れているということはない。この句を読んで、この作者は自力の傾向が強いタイプではないかと思った。


8

鑑賞日 2015/1/5
存在が大口あけた柘榴の実
岸本マチ子 沖縄

 存在という言葉が好きである。神あるいは仏あるいは真理あるいは美あるいは善という言葉よりも好きかもしれない。ただ「在る」ということ。善悪だとか美醜だとかの価値が付与されていない言葉である。存在とはあらゆる二元対立を越えて在るそれである。
 一方で、存在という言葉はいわゆる哲学者の鹿爪らしい頭でっかちな言葉でもある。ゆえに「まあまああなたそんな頭を固くしないで、ほらあそこに存在が大口をあけてまさあ」(と柘榴の実を指す)という事にもなる。


9

鑑賞日 2015/1/6
虫鳴くと鼓膜にうつくしき真闇
北村美都子 新潟

 観音菩薩というのは音を観る能力が具わっているのでそう呼ばれると聞きかじったことがある。面白い名前の由来だと思った。何故なら人間はある瞑想状態に入るとあらゆる感覚が統合されて一つのものとして認識されることがあるからである。すなわち眼耳鼻舌身意が一つになる。ゆえに普通は視覚的な認識であるはずの闇を鼓膜で感ずるという表現が出てくる。その状態にある人は世界が美しいものに観えるというのは当然のことである。


10

鑑賞日 2015/1/6
れんこんの穴は八個だ躓くな
久保智恵 兵庫

 おそらく論理的な思考になれた西洋人にはこの句を読むと頭の中が?印になるかもしれない。「れんこんの穴は八個だ」と「躓くな」の関係が論理では分らないからである。いわばこれは禅の風味である。ある人が「私は人生に躓いてばかりいます。どうしたらいいでしょうか」と問うとする。禅の師は答えるかもしれない、「れんこんの穴は八個だ躓くな」と。何とも微笑を誘う句である。


11

鑑賞日 2015/1/7
自愛とも棚田の水照り青傾り
黒岡洋子 東京

 青傾(あおなだ)とルビ

 「青傾り」という言葉がよく分らない。ネットで調べると「青傾れ」という釉薬があるらしい。それかどうかは分らないが、要するに新緑の頃の青がゆるやかな棚田の斜面にそって傾れている感じだろうか。「り」という送り仮名もよく分らない。それはそれとして、確かに傾斜地を丹念に耕して田に作り上げた棚田を見ると自然への愛あるいは生活への丁寧な愛を感じる。それはまさしく自愛というものだろう。「水照り」であり「青傾り」であるから植えられたばかりの田に違いない。


12

鑑賞日 2015/1/7
木犀よりも密なる星座といて安堵
小林まさる 群馬

 おそらく二種類の人間がいる。星座とともにいて安堵できる人。それからそもそも星座とともにいられない人。偶に星座を見ることがあって決まり文句のように「きれいだね」などと言うかもしれないが、彼等は星座とともにいて安堵はしない。私の見るところ後者は今の政治家・企業家・官僚等に多いだろうし、前者は詩人・芸術家・真の宗教者等々に多いだろう。そして星座とともにいて安堵できる人が多ければ日本も世界もこれほどの気違いざたにはなっていなかっただろうと思う。さて、それはどのような安堵かということを作者は書いている。それはあの香り立つ木犀よりももっと密なるものの側にいる感じであると。


13

鑑賞日 2015/1/8
秋雨だった傘貸したのが永久の別れ
佐々木昇一 秋田

 その友人が死んだ直後に書いた句なのだと思う。しかもその友人は長患いをして死んだのではなく、突然あっけなく死んだのかもしれない。こういう死に方をされた時の喪失感は大きい。彼は永久にいなくなってしまったという思いに悲しみが増す。しかし、と私は思う。これは私のみの経験なのかもしれないが、そういう死に方をされた人でも、時が経つにしたがって結局彼は私の中に永遠に生きているという感じを抱くようになる。だから、妙な話であるが、私の中では今だかつて死んでしまった人はいない。ということで、この句はその人が死んだ直後の句だろうと思ったわけである。


14

鑑賞日 2015/1/8
句を詠めり鶴が機織る夜のごとく
佐藤詠子 宮城

 「鶴の恩返し」のことを考えてみれば、この鶴は自分の羽を使って機を織るのであるから、この作者が句を詠むということはそういう態度で詠んでいるということになる。本物の句を作るということはそういうことなのかもしれないと思った。自分の身体で作らなければ人が読むに耐える作品を作ることはできないのかもしれない。作者の名前が「詠子」だということも何か相応しいではないか。


15

鑑賞日 2015/1/9
日常がうす目している曼珠沙華
柴田美代子 埼玉

 本当に大切なものあるいは物事の本質を常に理解しながら日常を暮らしていくのは難しい。日常には煩わしいと感じることや心を濁らせるような出来事が多すぎるからである。しかし日常がまったく盲目かといえばそうではない。日常は常にうす目を開けている。そうでなければ日常を生きている価値がない。そしてそのうす目の間から私達は此岸と彼岸の境に咲く曼珠沙華を垣間見る。


16

鑑賞日 2015/1/9
逃げ水や人は十指をもてあまし
白石司子 愛媛

 人間は自分自身のあるがままを受け入れられないで、自分自身が既に有している至福に気が付かないで、見掛け上の幸せの対象物を追いかける存在なのかもしれない。そしてその対象物が示す幸せは見せ掛けであるから決して手に入ることがない。手に入ることがないものを追いかけて、既に手にしているものを持てあましている状態であるのが人間かもしれない。創世記における楽園追放の物語を思いだす。


17

鑑賞日 2015/1/10
遺影には適わぬ美男葛かな
須藤火珠男 栃木

 どうもこの写真は遺影には相応しくない程美男過ぎるということなのだろうか。


18

鑑賞日 2015/1/10
人も胡瓜も貧乏揺すりの後曲る
瀧 春樹 大分

 真直ぐでありたいと願う。そこで現実とのギャップが生じ落ち着きの無さが生じ、ゆえに貧乏ゆすりが起る。結局自分は曲った姿であると受け入れてはじめて落ち着く。要するに私はこの句の「曲る」を「曲りを受け入れる」と受け取ったのである。もしかしたらそれが荒凡夫ということなのかもしれない。自由自在な形。実際曲り胡瓜も旨い。ーーーー海程〈六句合評)に掲載の文ーーーー


19

鑑賞日 2015/1/11
貧するも尻に肉あり夜の秋
竹内一犀 静岡

 曾て或る詩人が「貧乏に負けちゃあ貧乏している甲斐がない」という名言は吐いたことを思い出した。貧してもあるいは貧するがゆえに実際こういうユーモアのある句が生まれるということである。クーラーや電気を沢山使う余裕がない貧乏人こそが蒸し暑い夏の夜に秋の気配の優しさというものを感じる感受性を持つことが出来るのかもしれない。ーーーー海程〈六句合評)に掲載の文ーーーー


20

鑑賞日 2015/1/11
あっぱれな妻の鼾や台風禍
竪阿彌放心 秋田

 日本の自殺者数をみると圧倒的に男性のほうが女性より多いらしい。女性の方がその芯が強いのかもしれない。どっしりと肝が坐っているのかもしれない。


21

鑑賞日 2015/1/12
母子草群落雨上がりの清純
谷 佳紀 神奈川

 句意は明快である。

 以下写真も含めてWikipediaより

 ハハコグサ(母子草、学名: Gnaphalium affine)は、キク科ハハコグサ属の越年草である。春の七草の1つ、「御形(ごぎょう、おぎょう)」でもあり、茎葉の若いものを食用にする。


22

鑑賞日 2015/1/12
曼珠沙華自分に脅える男です
峠谷清弘 東京

 曼珠沙華さん私はそんな男です。
 自分のことを書いているのであろうが、もしかしたらこれは男というもの、殊に現代の男というもの全般について言える気がしないでもない。自信が無く、依存心が強く、何が本物か見失っているから、群れていないと不安でしようがない。かく言う私もそういう傾向が無きにしも有らずなのかもしれない。しかしともかくそういう事実を自覚するとしないとでは大違いと言える。自覚しないと居丈高になるし、自覚すれば謙虚になれるからである。


23

鑑賞日 2015/1/13
小鳥来る二羽は間違いなく雀
中内亮玄 福井

 煎じ詰めればこの世には存在と存在を認識するものだけが存在する。その他の善悪美醜などの価値はそこから派生したものに過ぎない。例えば子規の

鶏頭の十四五本もありぬべし

は鶏頭の十四五本という存在とそれを認識しているものが存在するだけである。この句もそういう類の句である。


24

鑑賞日 2015/1/13
捨てられぬ亡夫の歯ブラシ茶立虫
中村道子 静岡

 〈茶立虫・・二ミリくらいの虫。秋の夜、障子などに止まって、茶を立てるようなかすかな音をたてる。〉と歳時記にある。まさに亡夫の歯ブラシはそのような存在に違いない。


25

鑑賞日 2015/1/14
太古より空埋める星鮭のぼる
新野祐子 山形

 いいなあこの悠久なる感じ。今の社会状況はどうかしている、政治家達は何を考えているのだ、今日は何を食おうか、どうも頭が薄くなってきた、あれもしなければならないしこれもしなければならない、等々の小さな事柄を離れて人間は時折こういう大きな存在に触れるべきだろう。「鮭のぼる」がちょうど人間と星空を繋ぐ存在としてある。


26

鑑賞日 2015/1/14
身の中の荒野青条揚羽かな
野崎憲子 香川

 私達は既に自分の中に有しているものしか認識できない。自分の中に有るものと外側に有るものが共振状態にあるとき、それを認識という言葉で呼ぶのではないだろうか。青条揚羽の美しい文様そしてあのイエスも彷徨ったという荒野、これらのエッセンスは既に自分の中に存在していた筈なのである。そんなことを思わされた一句である。


27

鑑賞日 2015/1/15
原子炉の大きな柩冷まじや
長谷川育子 新潟

 チェルノブイリや福島やその他数多の原子炉の行く末を考えていると胸の辺りが荒涼とした冷気で満たされ、思いが昂じれば人類に対して凄まじい程に否定的な見解を持つに至ってしまうことさえある。この柩が人類の愚かさを象徴した墓標になってしまう可能性さえあり得る。いのちとしての作者の感応力の確かさを感じる。ーーーー海程〈六句合評)に掲載の文ーーーー


28

鑑賞日 2015/1/15
常の身のつねにくせあり鰯雲
疋田恵美子 宮崎

 「くせ」というものはおそらく内的な落ち着きの無さを解消するために思わずしてしまう行動なのかもしれない。だから他の人を害さない程度のくせならば大目に見る必要があろう。問題は他人に害を及ぼすくせである。極端なことを言えば「人を殺すくせ」というのもある気がする。そこまで行かなくても「人を罵倒するくせ」というのもある。例えばヘイトスピーチなどを行なう人は彼の内面に何らかの不均衡があって、その不均衡を解消するためにやっているのかもしれない。でもやはりそれは世の平和をあまりにも乱すから好ましくない。人々の内面の不均衡に対して平和的な手法で均衡を取り戻すことが出来れば、それは世界平和に繋がるのであろうが、そんな方法はあるだろうか。世界のあらゆる宗教を統合したような宗教体系が樹立されれば、そんな夢もかなうかも知れないが・・・。とにかく世界は不均衡→均衡→不均衡→均衡という波形で出来ていることは確かだ。考えてみれば空に鰯雲が出来るのも、大気の何らかの均衡表現なのかもしれない。


29

鑑賞日 2015/1/16
実る木屑のように時はこぼれ
藤野 武 東京

 「木屑のように時はこぼれ」という把握は通常の私達の時に対する常識の範囲外にあるからまずびっくりする。つまり時間を物と同じように扱う把握である。相対性理論などでも時間は絶対的なものではないと言うが、理屈では解ってもなかなか感覚的には掴めない。最先端の物理学は時に神話的でさえあるが、もしかしたらこの「時」に対する把握は何処かの古代のある優れた民族の神話などにはあるのかもしれないと思った。そんなことを考えていると、このかりんの木は宇宙そのものを表わす木でありこのかりんの実は宇宙の智恵の実の如きものである気がしてきた。


30

鑑賞日 2015/1/16
放射線を量る日常鳥渡る
本田ひとみ 埼玉

 作者はそもそも福島県に住んでいた人であるが、あの3.11を境に埼玉県に移っている。おそらく放射能汚染と関係しているのだろう。それにしても日常的に放射線を量り、そしてびくびくしながら生活しなければならないなんて。人間は人間に対して何ということを仕出かしてしまったのだろうと思う。いや人間に対してばかりでなく命あるもの全てに対してである。句を眺めてその内容を噛みしめていると、何だかくらくらと眩暈がして、この不条理に吐き気さえ催してくる。


31

鑑賞日 2015/1/17
鶏頭花頭の中はこんなもの
松本勇二 愛媛

 要するに脳のイメージであるが、言い方からして、まあ人間の精神なんて別にそれ程進化して高尚な何様という程のことはない、まあそれ程威張れるものではない、というようなニュアンスか。こんなふうに醒めた見方をしていた方が人間は暴走しなくていい。横暴にならなくていい。


32

鑑賞日 2015/1/17
大芋虫を見てより不眠鳥打帽
汀 圭子 熊本

 鳥打帽(ハンチング)とルビ

 「鳥打帽」から洒落た都会人が田舎に遊びに行ったというような状況が想像される。彼には美しくて自分を慰めてくれて快適な自然のイメージがあったに違いない。ところがそこに待っていたのは大芋虫であった。忽ち彼は憂鬱に落ち込んでしまったというようなことを想像した。自然というものはそれ程人間にとって都合よく出来ているわけではないということ。しかしまあ、不眠に陥るくらいならばかわいいとも言える。恋人に自分の弱点を言われて、怒るのではなく落ち込むようなものだから。


33

鑑賞日 2015/1/18
青梅雨の淡海の岸に母を置く
水野真由美 群馬

 想像するに、この御母堂はかなり高齢で歩くもままならない方なのではないか。その母上を作者は湖の風景を見せるために車か何かで連れ出して湖の岸辺に置いたということではないか。「置く」という表現から母上の軽さ、そしてその母上を愛情を持って扱う作者の姿が想われる。作者は群馬の人であるからこの淡海は群馬県内の湖のことかもしれない。榛名湖だとか。


34

鑑賞日 2015/1/18
てのひらの上の無花果医学生
宮崎斗士 東京

 命の象徴としての無花果。その無花果をてのひらの上にのせている医学生。果してこの医学生は命を上手く扱える医者に生長するだろうか。私は海程の海程集のカットの絵を連想した。


35

鑑賞日 2015/1/19
青林檎親を諭して娘の帰る
村上清香 愛媛

 想像するにこの娘は長女であるかもしれない。世間での経験もあり常識もあり頭も切れる人という感じである。ところがどっこい「青林檎」であると作者は感じている。確かに青林檎は旨い。サクサクとして歯切れもいい。しかしその芯には未だ蜜が詰ってはいないのである。娘の言っていることは解るがまだ真の甘さや味は出ていない。ーーーー海程〈六句合評)に掲載の文ーーーー


36

鑑賞日 2015/1/20
月を見る手ぶらの翁こそ勇姿
村上友子 東京

 何も持たなくても手ぶらでも尊厳に満ちていて自由な人。こんな翁になりたいものだ。マザーグースにある次の歌を思いだした。

 なんにももたないばあさんがいて
 くるくるぱあだとひとにいわれた
 たべるものとてなにもなく
 きるものとてもなにもなく
 うしなうものもなにもなく
 こわいものとてなにもなく
 ほしいものとてなにもなく
 あげるものとてなにもなく
 しんでもなにものこさなかった  (谷川俊太郎訳)


37

鑑賞日 2015/1/20
面白うて泪拭わん曼珠沙華
村田厚子 広島

 美しさとは何かを人は説明できない。また生きていることは何故哀しいのかを人は説明できない。あるいはそれが何故面白いのかを人は説明できない。説明できないが故に何かとても価値あるものに触れた時に人は泪を流すのかもしれない。


38

鑑賞日 2015/1/21
一字一字夕ひぐらしの声かな
茂里美絵 埼玉

 例えば写経をしている姿などが思い浮かぶ。丁寧に一字一字書いていく。夕ひぐらしの声が聞こえる。一字一字に夕ひぐらしの声が混ざってくる。夕ひぐらしの声が一字一字になってゆく。一字一字が夕ひぐらしの声になってゆく・・・


39

鑑賞日 2015/1/21
絹のきもの解けば万のうすばかげろう
若森京子 兵庫

 雅にしてほのかなる生の哀しさ。当然エロティシズムもある。


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