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金子兜太選海程秀句鑑賞 510号(2015年2・3月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2015/2/12
冬の地震わが身の内の零地帯
阿保恭子 東京

 去年の十一月に私の地方で大きな地震があった。私の所は震源地にほぼ近く震度6弱ということであった。この揺れの中で私は何を考えたかというと、何も考えられなかった。まさにこの句が表現する零地帯に居たという感じである。身の内の零地帯に居て、廻りで起っている事象を眺めているという感じであったような気がする。


2

鑑賞日 2015/2/13
大本営跡に尻乗せ神の留守
石川まゆみ 広島

 Wikipediaに、松代大本営跡(まつしろだいほんえいあと)は、太平洋戦争末期、日本の政府中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町(現長野市松代地区)などの山中(象山、舞鶴山、皆神山の3箇所)に掘られた地下坑道跡である。このうち現在、象山地下壕(ぞうざんちかごう)が一般公開されている。とある。
 作者は大本営跡の石かなにかに尻を乗せて、神の留守の季節だなあと思っている。あるいは尻を乗せているのはまさに留守にしようとしている神だという想像もある。更に、尻を乗せているのは現政権の中枢にある連中だという思いもある。現代の時勢への批判だという気がする。「尻乗せ」に諧謔味。


3

鑑賞日 2015/2/14
青虫とる指の鮮烈あたたかし
稲葉千尋 三重

 この句に表現されているような他の生命に触れる時のどきどき感やふるえや温もり感があったら、殺人や戦争やテロは起らない筈なのであるが、おそらくそういう事を起こす人は何らかの原因で感受性が鈍らされているに違いない。ハンナ・アーレントはアイヒマンについて悪の凡庸さと呼んだそうであるが、要するに彼は鈍山鈍男(にぶやまにぶお)だったということである。今の日本の殊に政権に近い人達には鈍山鈍男氏が増えている気がする。


4

鑑賞日 2015/2/15
稲架解いて厨にもどる背中かな
上野昭子 山口

 これは田や畑の仕事もし厨の仕事もする農婦の姿だろう。作者はその背中に何を感じたのだろうか。苦労が大変だなあと思ったのかもしれないし、逞しいなあと思ったのかもしれない。自然とともに生きる姿勢をいいなあとも思うし、しかし苦労は嫌だなあと思ったのかもしれない。「里山資本主義」という言葉があるが、私自身はこれだけ技術が進んだ現在においては田舎でのんびりと農に親しむ生活は可能なのではと考えている。


5

鑑賞日 2015/2/16
綴れ刺せわたしのあたりはすぐ昏れる
榎本愛子 山梨

 ツヅレサセコオロギ
コオロギ類では、8月から12月の初めまで鳴きます。暑い時期は元気よくリーリーリーリーと鳴きますが、気温が下がるにつれてゆっくり悲しげに響きます。昔から、その声を「肩させ、裾(すそ)させ、綴(つづ)れさせ」と聞きなして、人々は着物のほころびを縫(ぬ)い直して冬支度をしたそうです。
http://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/special/sound_sample_box/html/bds43.html

 綴れ刺せ蟋蟀という名前にはそういう意味があったのかと感心させられた。全体にどこか遊び歌のような軽妙なリズム感があって懐かしい。


6

鑑賞日 2015/2/17
青かった地球は昔むかしかな
大西政司 愛媛

 心理的な色の感覚でいえば、今地球は青から赤への途中であるような気がする。そしてやがて赤から黒となってゆくのかもしれない。人間はそれを止めることは出来ないかもしれないが、少なくとも人間自身の手でそれを早めてはいけないだろう。戦争・公害・核汚染等々によって。


7

鑑賞日 2015/2/19
マフラーをしている方がバレリーナ
こしのゆみこ 
東京

 「マフラーをしている方がバレリーナだよ」「あらそう私てっきり隣の人かと思った。だってバレリーナが寒がりなんて思いもしなかったから、意外ねえ」「「ふふふ面白いでしょう」、そんな軽く明るい会話が聞こえてきそう。


8

鑑賞日 2015/2/20
うたかたや稲田の揺れも旅人も
児玉悦子 神奈川

 無常感の句。この何とも持って行き場のない無常感を如何にするか。この無常感に耐えられなくなった時に真の宗教が始まる。逆にいえば無常を感じられない人には真の宗教の訪れはない。
 またこの句は無常観の句であると言えなくもない。無常感と無常観は全く違う。無常感が始まりなら無常観はゴールである。世の物事の無常性を達観して眺めている状態が無常観である。


9

鑑賞日 2015/2/21
 悼浜芳女
手のひらに夕焼け溢れ熟柿落つ
小林まさる 群馬

 浜芳女さんの句

芦刈了え強情な霧にぶつかる
曼珠沙華母を支えきし軍手
遠花火脳をきれいにして老いて
逝く夫の灯があかぎれのように痛い
原爆忌乳房が二つあればいい
椅子に背があり運河に朱夏の流れ
蛇衣脱ぐ悪い噂はほぼ事実
古九谷の壺に山霧一泊す


10

鑑賞日 2015/2/22
猪の背に星のあまたの家郷かな
小原恵子 埼玉

 私は最近、日本人の神は自然そのものなのではないかと思うようになってきた。一神教的な神を想定する必要がない程日本の自然は豊かである。自然の中に生れ自然の中で生き自然の中に死すことに何の過不足があるだろうか。この句を読んでその思いを確認した。


11

鑑賞日 2015/2/23
雪降るよ臍噛むように透析す
小柳慶三郎 群馬

 臍(ほぞ)とルビ

 しんしんと雪降るように身にしみる。


12

鑑賞日 2015/2/24
日の出のような妻の体温に触れる
今野修三 東京

 穏やかで健康なエロティシズムとでも言おうか。 
 健康なエロティシズムが支配的な世界では生も死も健康的だ。逆にエロティシズム(ずばりセックスと言ってもいい)が不健康で病的な世界ではあらゆることがそうなってゆく。


13

鑑賞日 2015/2/25
万の露励ましのごと無人駅
佐藤紀生子 栃木

 自然は神である。殊に日本人にとってはそうである。だから俳句文学のようなものが日本に生れた。季節季節の様々な事象がすなわち神の現れであるという無意識の認識。事実、例えば無人駅に佇つ時のように自分の心が無になった時に、自然はつまり神は私達に語りかけてくることがある。この句の場合は万の露の姿となって作者に語りかけてきた。


14

鑑賞日 2015/2/26
廃校の大きな下駄箱鹿の声
佐藤鎮人 岩手

 古い言葉に「千年は都市、千年は森」という言葉がある。つまり時代は常にそのように動いてゆくということ。そういう意味では、日本はこれから森の時代に入ってゆくのかもしれない。それもまた趣のあることではある。


15

鑑賞日 2015/2/27
秋のにがり靴底につく土くれや
柴田美代子 埼玉

 秋のにがり・・つまり秋の持つ苦汁感のようなものか。靴底につく土くれと言っているから、こびりついて離れない心理的なわだかまりということか。


16

鑑賞日 2015/2/28
新米やつかまり立ちの指光る
鈴木修一 秋田

 http://zokugo-dict.com/12si/sinmai.htmより
 新米とは本来、今年収穫した米のことで、米穀年度に基づく定義によると獲れた年の翌10月31日までの米を意味するが、これとは別に物事に不慣れな新人のことも新米という。
 新人のことを新米と呼ぶ語源は複数ある。江戸時代、奉公人は前掛けを着用していたが、新しく雇った者は新しい前掛けをしていたことかた新前掛けと呼んだ。これが新前と略され、更に訛ってシンマイと呼ぶようになり、新米の字が当てられたというもの。また、不慣れな新人は真っ白で何にも染まっていないから新米と呼んだという説。江戸に職を求めた新人が集まるようになった頃、米も多く集まるようになり、庶民的な食べ物になったことから新人の人と米をかけて新米と呼んだといった説がある。


17

鑑賞日 2015/3/1
木の実雨蔑む奴らと縁切り
鈴木孝信 埼玉

 ヨーガスートラに慈悲喜捨の行というのがある。即ち、他者の幸福を慈しみ不幸を悲しみ有徳を喜び不徳を捨てることによって、自らの心の平安を保つことが出来るというものである。この行を積むことによってやがて大いなる悟りの境地に到るという。この句の「蔑む奴らと縁切り」というのは慈悲喜捨の捨に当るだろう。そういうふうに受けとれば「木の実雨」の寓意は明らかである。


18

鑑賞日 2015/3/2
老人に山気親しや鵙の贄
関田誓炎 埼玉

 山気(やまけ)・・《山師のような気質の意》万一の幸運を頼んで、思い切って事をしようとする心。やまき。やまっけ。(goo辞書)

 どうだろうか、私なども老人の部類に入るのかもしれないが、自分の来し方を振り返ってみれば、人生は賭けであるというような歩みをして来たようにも思える。とにかく生活が安定していればそれでいいというような生き方はしてこなかった。逆に現代の若者はどうなのだろう。非常に保守的になっている感じもある。

 ところでこの山気は山気(さんき)[山中の冷え冷えとした空気]である可能性の方が高い。その方がこの作家の句として素直に受け取れる。


19

鑑賞日 2015/3/3
猫じゃらしひとり遊びに一時間
高桑婦美子 千葉

 いろいろなケースが考えられる。
・野にしゃがみ込んで猫じゃらしが風に揺れているのを眺めながらいろいろ心を遊ばせている。
・摘んできた猫じゃらしを手で弄びながら時間を過ごす。
・主語は猫じゃらしで、猫じゃらしが風と暫く戯れる。
・「猫じゃらし」という言葉で俳句などを作ろうと一時間ばかりああじゃないこうじゃないと言葉遊びをした。
 いずれにしろ いい時間 という感じである。一人遊びが出来るということ、つまり個人で充実した時間を持てるということは価値あることではないか。そういう個人の集合体である集団は集団的狂気に陥ることは無い気がする。


20

鑑賞日 2015/3/4
霜月や蜂しずまっている素さ
田口満代子 千葉

 素(しろ)さとルビ

 言われてみれば、十一月つまり霜月に感じるのは素(しろ)さである。春夏秋の様々な生命現象がしずまっている季節であり、でもまだ本格的な冬の厳しさはやって来ていない。色というものがあまり感じられない素(しろ)い季節。そういうことと同時に内面的なあるいは心理的な素(しろ)さが「蜂しずまっている」という表現に感じられる。どちらかというと心理描写の句である。


21

鑑賞日 2015/3/5
枯野ゆく星雲ほどの靄ありて
田中亜美 神奈川

 俳句の二重性ということがある。それが外界の世界を描写したものとも受け取れるし、内面の世界の描写だとも受け取れるということである。この句においても、これは外界の世界の事柄だと受け取れるし、「星雲ほどの靄あり」というのも「枯野」というのも実は作者の内面の状況だという解釈も成り立つ。


22

鑑賞日 2015/3/6
秋の蝶絵の具の白を自立させ
田沼美智子 千葉

 こう受け取った。秋の蝶が描かれている絵がある。その絵の白い絵の具の部分に非常に鮮明で強い印象を受けたということではないか。


23

鑑賞日 2015/3/7
蚯蚓鳴く悩むことさえ不器用で
峠谷清弘 東京

 「悩む」というのはどういうことかと考えてみた。その人にとって二つの同等の価値のある事柄があり、あちらを立てればこちらが立たずということで、その二つのどちらを選んだらいいかという場面で苦しむということであろう。であるから私の場合は生きていく上での物事の価値の順番をはっきりさせておくということで悩むということを回避している。どうだろう、蚯蚓は悩むだろうか。おそらく悩まない。彼等は人間のように欲が多くないからだ。人間はあれも欲しいこれも欲しいということが多すぎるので悩むのだと思う。だから悩むということは本来高尚な精神の働きの結果などではない。この句、「悩むことさえ不器用で」という言い方が面白い。


24

鑑賞日 2015/3/8
月光に母を泛べる日向灘
疋田恵美子 宮崎

 亡き母である気がする。母は死んだ。母は何処へ行ったのか。母は何処へも行っていない気がする。むしろ母は何処にでもいる気がしてきた。母は遍在となったのだ。月光に照らされたこの日向灘を見よ。まさに母がそこにいるではないか。


25

鑑賞日 2015/3/9
わが医師の呵呵と笑うよ柿日和
廣島美恵子 兵庫

 呵呵と笑っているのが医師であるのがいい。命というものに日々関わっているのが医師であるが、その医師が呵呵と大笑する柿日和。与えられた命を大切にするがいい。そして更に思うがいい。この小さな命はこの自然界に遍満する大きな命のほんの小さな現れに過ぎないということを。まあそんな難い話は抜きにして見なさいよ、あの柿のつやつやと何と美味そうなこと。昔から柿が赤くなれば医者が青くなるとかいうが、まことにそれは真実かもしれんよ。呵っ呵っ呵。


26

鑑賞日 2015/3/10
 悼加藤青女
少女の瞳と柚子の気息と一つ陽に
藤野 武 東京

 加藤青女氏の俳句をネットで拾ってみた。

山の人朝から潤目鰯かな
ひきがえる招霊の木にかしこまる
米櫃へゆっくり移す春満月
敗荷の水の中から吹奏楽
木曽の馬ときに早蕨積んでおり
白根葵うすむらさきの夜明けかな
阿武隈山系紅葉を走る朝刊あり
青大将赤石山系を横切る
鞦韆を大きく漕いで青信濃
山上は焦げ臭きかな山楝蛇
最澄の膝に飛び込むかなぶんぶん
村人のおしゃべりに似て黒つぐみ
母となれぬ切干大根飴色に
河原鶸キリキリコロコロとあり


27

鑑賞日 2015/3/11
乗り継ぎに降りし空港巴里祭
松本悦子 東京

 フランスの空港なのであろうか。その空港がパリ祭の祝祭的な雰囲気があったということなのだろう。パリ祭とはとにかく民衆が血で権力を倒した革命であると大雑把に捉えているが、昨今の世界情勢を考えると、単に祝祭的な気分だけではない何か動き行く歴史の一場面であるという感覚がある。「乗り継ぎに降りし空港」という言葉にそれを感じる。


28

鑑賞日 2015/3/12
羊雲百句仏訳して眠る
マブソン青眼 
長野

 羊雲は高積雲のことでまだら雲・むら雲ともいい鰯雲といわれる巻積雲より一つ一つの雲片の大きさが大きい。
http://photomaria.blog24.fc2.com/blog-entry-1043.htmlより

 羊が一匹羊が二匹羊が三匹・・・羊が百・・・という連想が働く。


29

鑑賞日 2015/3/13
母に父を笑わす力小鳥来る
三浦静佳 秋田

 あの大震災からもう四年が経ってしまった。あの当時絆ということが大いに叫ばれたが、あれはどうなってしまったのだろうか。考えてみれば絆などというものは一朝一夕には成り立たない。長い年月を同志として共に過ごしてきた者だけの間に成り立つものだろう。この句を読んでそんな絆の力というものを考えている。


30

鑑賞日 2015/3/14
流星群老いたる猫と猫背の友よ
水野真由美 群馬

 老いたる猫も猫背の友もわれらみな流星群のようなものという把握が素敵だ。つまり宇宙空間における事象と身近な事象はリンクしているという大きな想いを持ち得ているということ自体が素敵だ。老いたる猫や猫背の友というどちらかといえば負のイメージを持つグループへの親近感も好感が持てる。


31

鑑賞日 2015/3/15
声のふかさ明るい桔梗のようかな
三井絹枝 東京

 この作者の俳句を眺めていると、つくづく他者の個性を愉しむということの意味が解るような気がする。個性とはその人が無心に十全に花ひらいた状態であると言えると思うが、そのことによって世界は多様な美しさを保つことができる。つまり私が他者の個性を愉しむということは世界の多様性をあるがままに肯定し、それ故世界を美しいと感じ、そしてまた私自身が無心になれるということである。


32

鑑賞日 2015/3/16
きそのなあてっぺんの銀河凍りつく
宮坂秀子 長野

 俳句の面白さの一つにもじりということがある。この句を読めば当然
きそのなあきそのおんたけさんはなんじゃらほい・・・
という民謡が思い浮かぶ。そしてこの民謡の調子やその風土感とともにこの句を味わうことになるから、それだけ句の厚みが増しその風景もよく見える。
 ちなみに兜太にも次の句がある。

木曾のなあ木曾の炭馬並び糞る     兜太『少年』


33

鑑賞日 2015/3/17
とろろ汁母にも石を蹴る日常
宮崎斗士 東京

 石を蹴るという動作はどういう心理が伴うものだろうか。それは単なる癖かもしれないし、あるいは日頃の何かの心理的な鬱憤を晴らす動作かもしれない。いずれにしても母がその動作をするのを見るというのは意外であり、自分の知らない母の一面を覗き見た感じがするだろう。何かもやもやとさせるような日常が母にもあるのだ。世の中はすっきりと澄んだ澄まし汁のようではなく、むしろとろろ汁のように濁っている。それ故また滋養もあり味もあるということなのだろうが。


34

鑑賞日 2015/3/19
馬撫でるよう半島の荒布干し
武藤暁美 秋田

 
http://portal.doyu-kai.net/modules/pico1/index.php?content_id=94

 上は荒布を干してあるところであるが、何となく馬のたてがみに似ていなくもない。


35

鑑賞日 2015/3/20
乳張ってきたか良夜の土偶かな
武藤鉦二 秋田

 月や日の運行と呼吸を合わせて生きていた縄文人、あるいは土で作った人形に精霊が宿ると信じていた縄文人に比べて、現代人あるいは現代文明は進歩したと言えるだろうか。多産や安産を願った縄文人に比べていろいろな意味でバースコントロールをしなければならない現代人は幸せなのだろうか。その辺りはよく分らないが、この句を眺めていると、土偶に穏やかな良夜の光が当っている縄文の風景が見えてきて、それは人間のあるべき原点に近い風景だという気がしてくる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%81%B6


36

鑑賞日 2015/3/21
まるめろのいびつよ誰のものでもなく
室田洋子 群馬

 「自分は誰のものでもない」というのを価値があると見做す人と価値が無いと見做す人とおそらく二種類の人間がいるだろう。価値があると見做す人は知の人であり、価値が無いと見做す人は愛の人である。愛の人は自分は誰かの所有物でありたいと願う。神への愛が愛の最高の現れであるとすれば「神よ私はあなたのものです」と神の愛人は言うわけである。この句の作者は誰のものでもないまるめろがいびつだと言っているわけであるから、作者はおそらく愛の人である。
 一般的には愛と知は一人の人の中で混じって存在しているのであるが、そのどちらが優勢であるかという話である。


37

鑑賞日 2015/3/22
寝足りてもまどろみ深し黒葡萄
森央ミモザ 長野

 寝足りてもまどろみが深い状態とはどういうものか考えてみた。肉体的には寝足りているが精神は深いまどろみの状態にあるということではないか。例えば仏陀は目覚めた人という言い方をされるが、それは彼の精神が完全に覚醒しているという意味であり肉体的にはわれわれ凡人と全く変わらない。では精神がまどろみの状態にあるというのはどういうことか。それは我々自身の常の状態であり世界そのものの状態であろう。そしておそらく作者はそのありのままを良しと見ている気がする。何故なら黒葡萄はそのまどろみの中でさえあの宝石のような甘い果肉を熟成させ得るからである。


38

鑑賞日 2015/3/23
石蕗咲くや母を見初めた父が好き
森武晴美 熊本

 おそらく作者が女性だからこうずばっと書けるのかもしれない。男性は照れ臭いので書けない。人と人との出あいの光を石蕗の花の光が象徴しているようだ。


39

鑑賞日 2015/3/24
冬蝶のごとくに頭痛去りにけり
守谷茂泰 東京

 ものごとの収まり方の一つの形ということかもしれない。年齢を重ねてくるとものごとはこのように収まってゆくのではないか。今まで頭を悩ませてきた問題が実は全く問題ではなかったと気付くような氷解のしかた。それを「冬蝶のごとく」と詩的に表現したと思えてならない。


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