『五百句』 |
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凍蝶の己が魂追うて飛ぶ
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昭和時代
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鑑賞日
2004年 7月10日 |
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凍蝶(いてちょう)すなわち死ぬ間際の蝶が自分の魂を追って飛んでいる、というのである。 私はこの句からの連想で芭蕉の最後の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」を想った。蝶である芭蕉が自分の魂を追って枯野をさ迷っている、という幻想である。生涯を詩に賭けて美しく生きた芭蕉の最後の有り様を表現する幻想として美しい。 こういう幻想を喚起するこの虚子の句も美しい。 |
『五百句』 |
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虹立ちて雨逃げて行く広野かな
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昭和時代
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鑑賞日
2004年 7月11日 |
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可愛らしい小品という趣である。雨と虹の追いかけっこである。童話風アニメーションの世界。可愛らしい音楽でも聞きたくなった。(クリックして楽しんで下さい。)
曲名 Sonata in C,K.545 |
『五百句』 |
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酌婦来る灯取蟲より汚きが
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昭和時代
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鑑賞日
2004年 7月12日 |
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82の句もそうであるが、「顔抱いて犬が寝てをり菊の宿」などという可愛らしい句があったりする中に、突如として掲出句のような苦々しい句が登場する。 「自分の気持ちを素直に言ったまで」と言いたいかも知れないが、この場合の自分の気持ちはすなわち表面的な浅い感情である。それをそのまま句にするのでは虚子の人間性が疑われてもしょうがない。 度々書いているが、虚子の弱点は世の中を二元的に見るところである。美しいものと醜いもの、善と悪、高いものと低いもの等々である。そしてもっと悪いのは自分をその美しいものの立場、高いものの立場に置きがちなことである。正岡子規の次の言葉を噛みしめてもらいたかった。 渾沌が二つに分れ天となり土となるその土がたわれは |
『五百句』 |
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大いなるものが過ぎ行く野分かな
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昭和時代
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鑑賞日
2004年 7月13日 |
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83の句で虚子の嫌な面を見たので、こういう句を見るとスカーっとして虚子の真骨頂を見るような気がする。 この大自然とその奥に潜むものと対話している時の虚子は素晴らしい。 この句、何の解説もいらない。ただこの大自然のスケールの大きさを味わえば良い。 |
『五百句』 |
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川を見るバナナの皮は手より落ち
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昭和時代
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鑑賞日
2004年 7月14日 |
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自然大好き人間。自然に恋していると言ってもいい人間の所作である。川を見ることが一つの三昧なのだ。恍惚なのだ。 穿って見れば、このバナナの皮は虚子のエゴだとも言える。この川すなわち大自然に共振して行く時に、自ずからそのエゴは落ちて行く。虚子は偉大なる自然観照家であったと言える由縁である。 |
『五百句』 |
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道の辺に阿波の遍路の墓あはれ
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昭和時代
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鑑賞日
2004年 7月15日 |
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「酌婦来る灯取蟲より汚きが」と書いた虚子が「遍路の墓あはれ」とも見る。正直と見ればそうも言える。 ただ、いろいろな物事に接した時に、それを自分の問題として捉えていないところが虚子にはある。だから全ての感情が「薄い」という感じを受けてしまうのだ。自分は飽くまでも傍観者なのである。この句も一読すると虚子は遍路に情けを通わせているのだな、とも取れるのだが、どこか自分とは関係ないと突き放して見ている趣がある。 であるから、私はこの句は「遍路路」の情趣を表現しているのだ、と解釈したい。 |
『五百句』 |
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かわ/\と大きくゆるく寒烏
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昭和時代
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鑑賞日
2004年 7月16日 |
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聴覚を働かせた句である。「かわかわ」という擬声語が新鮮で、また「大きくゆるく」という説明で空そのものの広がりも感得できる。 きょうで『五百句』の鑑賞を終了する。次に『五百句時代』『五百五十句』『六百句』『小諸百句』『六百五十句』『七百五十句』『慶弔贈答句』と鑑賞して行くが、『五百句』ほどの充実感はないと思うので、かなり飛ばした鑑賞になっていく気がしている。 |
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