『五百五十句』 |
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紅梅の京を離れて住むは厭や
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昭和14年
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鑑賞日
2004年 9月4日 |
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この「厭や」を最初私は[いやや]と読んで面白いと思ったのである。虚子はどういうふうに読ませようと思ったのであろうか。常識的にみれば[いや]であろうが虚子のこと、[いやや]という読みの可能性も読者に委ねたかもしれない。 [いや]ではあまり面白くない。[いやや]で、ある女性像がいろいろと想像されて面白い。 |
『五百五十句』 |
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春雲は棚曳き機婦は織り止めず
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昭和14年
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鑑賞日
2004年 9月5日 |
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人間の営みと自然の営みが交感し融合し見事な一句となっている。人間は自然の一部なのだということが表現されていて心地よい。今まで人間の捉え方にかなり皮肉なものを虚子の句に見せられてきたので、このように人間を捉えた句に出会うと嬉しくなる。このように人間も自然も同格なのだというようなことが表明された句が虚子の句に嘗てあっただろうか。私が見逃してきたのだろうか。いずれにしてもこの句は注目すべき好句である。 |
『五百五十句』 |
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初蝶を夢の如くに見失ふ
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昭和14年
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鑑賞日
2004年 9月6日 |
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この世は夢だ。この句のように初蝶を見失うことはよくある。そして今初蝶を見たのは夢だったのではないかと思う。そのように生まれてから死ぬまでの一生はほんの一瞬の出来事に過ぎない夢なのだ。そんな事実を垣間見させてくれる一句であり美しい。 |
『五百五十句』 |
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草餅をつまみ江山遥なり
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昭和14年
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鑑賞日
2004年 9月7日 |
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「草餅をつまむ」というごく些細な日常と「江山遥なり」という大自然の結びつきが魅力である。山や川のある大自然の中の人間の営み。山水画の趣と可愛らしい静物画の趣を合わせ持った魅力がある。 |
『五百五十句』 |
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面つ丶む津軽をとめや花林檎
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昭和14年
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鑑賞日
2004年 9月8日 |
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美空ひばりの「林檎の花びらが風に散ったよな〜」の津軽追分がまず思い浮かんだ。多分そのようにこの句は解りやすいし、悪く言えば付きすぎで平俗なのであるが、素朴な美しさがある。農にいそしむ娘の清潔で質素な美しさがある。そしてなによりもそういう人間に対して共感している虚子の目が嬉しいではないか。 |
『五百五十句』 |
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蟲螻蛄と侮られつ丶生を受く
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昭和14年
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鑑賞日
2004年 9月9日 |
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確かに虚子は『五百五十句』に入ったあたりから、少し変わったのではないか。小さきものや人間に対する見方である。この辺りは私自身も揺れ動いた見方をしているが虚子自身の意識も揺れ動いているのかも知れない。『五百句』にある「蚰蜒を打てば屑々になりにけり」などと比較してみると掲出句はあきらかに小さい生き物に対する目が優しい。 |
『五百五十句』 |
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麦蒔やいつまで休む老一人
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昭和14年
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鑑賞日
2004年 9月10日 |
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体力が弱ってしまった老人の淋しさとも取れるし、のんびりと時間に追われずに農作業をしている悠々たる境地とも取れる。こういう風景は私の住んでいる農村ではよく見かける風景である。まあ私自身がそんな様な農をしているとも言える。休んだりまた仕事をしたり自由なところが農という仕事の良さであり、だから農村というのは人がだんだんと老いてゆくのにまことに相応しい場所なのである。私としては、そのようなのんびりとした環境で段々と老いてゆく人間の静かな境地というように取りたいところである。句としてはそれほどのこともなかったが、私自身の環境に近いので取り上げてしまった。 |
『五百五十句』 |
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手毬歌かなしきことをうつくしく
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昭和14年
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鑑賞日
2004年 9月11日 |
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悲しいということは美しいと思う。嬉しいということも美しい。悲しさ・嬉しさはともに人間の意識の深みに達する感情だからである。その真実を見過ごさずに拾い上げた虚子の目がこの句にはあり、その真実が人の心を打つ。 ネットでいろいろ手毬歌を調べてみた。 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.htmlのサイトが充実していたので一つ引用させてもらいました。 一番初めは一の宮 |
『五百五十句』 |
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枯草に尚さまざまの姿あり
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昭和14年
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鑑賞日
2004年 9月12日 |
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多分同じ所で詠んだ句に「高々と枯れ了せたる芒かな」というのが掲出句の次にある。私は掲出句の方が好きなのでこちらを頂いた。というのも「高々と枯れ了せたる」という措辞に微妙な比喩を感じてしまうからである。あたかも人間に立派な人とそうでない人がいるというような比喩である。 一元論的な大きな目から見れば(神の目と言ってもいい)、全ての存在は同格であるというのが私が取りたい態度であるからである。その点この掲出句は、「ものみなすべて生き方に違いはあっても美しく生き美しく死んでゆく」という感じで好ましい。 |
『五百五十句』 |
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大寒の埃の如く人死ぬる
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昭和15年
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鑑賞日
2004年 9月13日 |
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〈虚子〉という俳号に相応しい潔い死生観である。清く美しいとさえ言える。人間の生命などは大きな目から見れば埃のようなものであるというのである。しかし「寒」ではなく「大寒」といったところにそれなりの厳粛な光が放たれているのが感じられて好ましい。 |
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