『五百句』 |
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大海のうしほはあれど旱かな
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明治時代
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鑑賞日
2004年 4月16日 |
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昨日、イラクで過激派に人質になっていた日本人が解放された。一方同じような条件で人質になっていたイタリア人の一人は殺害されたそうである。この違いは、日本人の人質になっていた人達が民間のボランティアとしてイラク人のために活動していた人だということが大きな要因のように思う。私はこの事件が起きた時から、彼等は偉い人達だなあという感想をもっていた。何の直接的な利害関係もないのに人類という同胞のために働いているからである。一人は高校を卒業したばかりの青年で、一人は女性である。また、この解放を仲介したイスラム聖職者協会の人の優しそうな姿も印象深かった。こういう人達がいるから世界はまだ捨てたものではない。 「大海のうしほ」はまだ滔々とあるのである。ただ今の時代は「旱」なのだ。 こじつけのように思えるかもしれないが、ここまで読まなければ面白くない。つまり、季節の巡り、時代の巡り、同じだということである。 |
『五百句』 |
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むづかしき禅門出れば葛の花
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明治時代
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鑑賞日
2004年 4月20日 |
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「禅の話は難しくて私のような無学のものには分からない」という謙った態度ではなく、「禅の話は難しい、しかし難しいものが真理を伝えているとは限らない、むしろこの美しい葛の花にこそ真理が宿っているのだ」というのが虚子の真意だろう。私も大筋で賛成なのであるが、ただこうして「禅」そのものを切り捨ててしまうのはどうかとも思う。虚子には自分の範囲以外のものは切り捨ててしまうという態度があったのではないか、という感触を持っている。 |
『五百句』 |
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或る時は谷深く折る夏花かな
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明治時代
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鑑賞日
2004年 4月21日 |
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全ての言葉がバランス良く、空間的にも大きく、時間の広がりもあり、主体もほどよく溶け込んでいて、おまけに上品な性の香りもある佳句である。 |
『五百句』 |
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うき巣見て事足りぬれば漕ぎかへる
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明治時代
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鑑賞日
2004年 4月22日 |
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「五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん_芭蕉」というわけで、見に行ったが、どうということはなくて帰ってきた、というような具合である。自然は恥ずかしがり屋である。見てやろう見てやろうとしてもなかなかその秘密を見せてはくれない。逆に、何の欲もなく過している時に、ふっとその秘密を覗かせてくれる事がある。俳人や詩人の多くは、この事実を多かれ少なかれ経験しているはずである。この句はその空振りの様を有りのままに書いたものである。ゆえに俳味はあるが少し空しい。 |
『五百句』 |
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行水の女にほれる烏かな
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明治時代
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鑑賞日
2004年 4月23日 |
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艶のある句である。ほれたのが烏であるのが丁度良い。懐かしい時代の一つの風俗画としての価値がある。 ちなみに「行水(ぎょうずい)」を知らない若い人がいるかもしれないから解説しておくと。昔は洗濯は盥(たらい)という木の桶でしたものであるが、夏などの暑い時にはこの中にお湯や水を入れて庭先などで人間も身体を洗ったものなのである。これが行水である。思い出しながら盥の絵を描いてみた。↓ |
『五百句』 |
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相慕ふ村の灯二つ虫の声
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明治時代
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鑑賞日
2004年 4月24日 |
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秋の夜の村里の情緒。 私も山里に住んでいるが、こういうのんびりとした雰囲気はない。車社会であるから、夜でも車のヘッドライトが時々山道を通るのが見えるのである。嘗てインドのゴアに一月ばかり滞在したことがあったが、そこではまだ電気がなくて、夜などは小さなランプが家々にあるだけであるから、或る意味では夢のような一月を過したものである。現代の文明国は夜でも音と光りがうるさい。真の闇・真の無音がどんなに人間を癒してくれるかをみんな知らない。 この句、「灯二つ」「虫の声」が逆に闇と静けさを感じさせる。しかし、芭蕉の「閑かさや・・」の句ほどしんしんとした存在の核までは到っていない。むしろ、叙情句。 |
『五百句』 |
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村の名も法隆寺なり麦を蒔く
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明治時代
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鑑賞日
2004年 4月25日 |
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虚子の良いところの一つは、権威というものをただ事に引き下げて書くことではないだろうか。この句も「法隆寺という立派な寺があります。そういえばこの村の名も法隆寺というそうです。そしてお百姓さんが麦を蒔いています。」というのであるが、ここでは法隆寺もただの村も同じようなものですよ、とうメッセージがあるような気がする。12の「むづかしき禅門出れば葛の花」では、この態度が皮肉なものとして出ていたが、掲出句ではさりげなく気持ち良く出ている。 |
『五百句』 |
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座を挙げて恋ほのめくや歌かるた
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明治時代
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鑑賞日
2004年 4月26日 |
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分かりやすい句でコメントの必要もないが、あまりにその場の雰囲気がよく出ているので頂いた。 ところで私の住んでいる山国では、いま桜の花が満開であるが、一昨日は雪も降った寒い日であった。桜の花はこの雪にあっても大丈夫でいまだ咲いているが、同じように満開だった木蓮の花はこの雪で皆変なものになってしまった。花びらのきれいな白の部分が茶色になって萎れてしまったのである。私の隣の家には大きくて立派な木蓮があるが、それも台なしになってしまった。下の写真は私の家のまだ小さな木蓮が萎れたもの。 句があまり明らかなので関係ないことを書いてしまった。 |
『五百句』 |
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垣間見る好色者に草芳しき
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明治時代
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鑑賞日
2004年 4月27日 |
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好色者(すきもの)とルビがある
ほほ笑ましいと取るのが妥当だろう。「垣間見る好色者」だから小心者の感じである。まあそれもいいじゃないか、という人間肯定的な作である。とにかく「草芳しき」で頂いたのである。 |
『五百句』 |
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芳草や黒き烏も濃紫
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明治時代
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鑑賞日
2004年 4月28日 |
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色と匂いの印象的な句である。 虚子には風景句の秀句が多いが、多分顔の前面の感覚が鋭かったのではないか。顔の前面の感覚とはすなわち、目、鼻、口である。私は、人間は視覚型と聴覚型におよそ分けられるのではないかとうっすら思っているが、つまり虚子は視覚型ではないか。まあ、これは大雑把な分類であるが、このあたりも考察しながら虚子を読んでいきたいと思う。ちなみに芭蕉は聴覚型だという気がしている。その例としての名句を二つづつ 遠山に日の当りたる枯野かな 古池や蛙飛び込む水の音 |
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