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金子兜太選海程秀句鑑賞 529号(2017年1月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2017/1/3
激辛のカレー孤食や秋の蠅
荒井まり子 京都

 境涯句であろう。とてもよく解る気がする。年齢的には盛りを過ぎているが、まだまだ身の裡には活動への欲求が満ちている。そして自分の中には周囲にすんなり溶け込めない自意識の固まりのようなものがあって孤独であるという感じも抱いている。ちなみに辛いものを好む人はラジャス(活動性への欲求)に満ちた人であると言われる。


2

鑑賞日 2017/1/3
八月や何かを忘れぬための黙
安藤和子 愛媛

 八月に対してわれわれが感受している或る質感を言い当てていると言えよう。初歩的な祈りは言葉で成されるが、祈りの最も純化された形は黙となるのである。八月は祈りの月である。


3

鑑賞日 2017/1/4
怠慢を月に揶揄され賢治読む
石川和子 栃木

 色彩を感じた。何故かと考えてみると賢治にはやはり青色を感じるからである。それも鮮明な青色。月の黄色と賢治の青の鮮明な対比。ところで怠慢の色は何色であろうか。敢て言えばグレー。それも純粋なグレーではなくいろいろな色が混在しているゆえのグレーという感じ。どうだろう、今の時代を色で表わすとこのようなグレーなのではないか。全体に濁っていて理想を見失った時代である。賢治の青い理想が懐しい。


4

鑑賞日 2017/1/5
鳥渡る夜の落葉樹林の上
石川義倫 静岡

 「鳥渡る」と「夜の落葉樹林の上」の併存によってある詩の世界が醸し出されている。この世界は生きとし生けるものの世界である、という詩である。


5

鑑賞日 2017/1/6
月を愛ず付録のように妻を愛で
伊藤 幸 熊本

 これは実は妻が喜ぶ内容ではないかと思った。この句を読んで自分が少々蔑ろに扱われていると感じる妻がいるとしたら、彼女は少々自我意識が強すぎるのではないか。むしろ、夫は普遍的あるいは絶対的な真理あるいは美を感じ取る力がある故に、この相対的な世界において自分を選んだのだという誇りを持つべきだろう。もちろん現代においては「妻」という言葉と「夫」という言葉は入れ替え可能であろう。


6

鑑賞日 2017/1/7
さわさわとこおろぎの寄る枕かな
榎本祐子 兵庫

 「さわさわ」という擬態語に尽きるだろう。もちろん嫌がってはいない。おそらく殊に喜んでもいないだろう。殊に喜んではいないが、こおろぎが寄ってくるという自然への肯定感がある。作者がこの後どういう行動をとったか想像してみた。寝返りを打ったりした時などにこおろぎを潰さないようにそっと手で追い払ったのではないかなどと想像した。


7

鑑賞日 2017/1/8
過疎ですが柿の照葉の狂うほど
加藤昭子 秋田

 そうです、私の住んでいるところは過疎地域です。ですが、そんなに捨てたものではありません。たとえば、この柿の木を見て下さい。この柿の葉に陽がつやつやと照っているさまはどうでしょうか。まことに見事というほかはないじゃありませんか。日本はどんどん人口が減っています。過疎もどんどん進むでしょう。しかしおそらく大切なものは何も失われません。この柿の葉に照る陽の光を見ているとそう思うのです。だって、私の心はそれを見て狂うほどにうれしくなるのですから。


8

鑑賞日 2017/1/10
素足に風うつ伏せ叱る母の亡く
黍野 恵 和歌山

 季節感としては初秋の感じがある。誕生から死までを春夏秋冬にたとえてみてもその頃のような気がする。生きる姿勢に小言を言ってくれる母も亡くなってしまった今、自分は自分自身で実りの秋を形成してゆかなければならないという自覚が潜んでいる句のように思える。


9

鑑賞日 2017/1/11
さすらうや言葉の痒き秋津軽
京武久美 宮城

 ある体験をして、それを言葉で表現しようとしても出来ないことがある。あれこれ工夫するのだが、とても体験自体の深みまで表現できないもどかしさがある。そのような言葉というものが持つ不完全性を「言葉の痒き」と表現したのではないかと思った。言葉というものが本質的に不完全であることを考えると、言葉の動物である人間は必然的にさすらう存在であると言えるのかもしれない。


10

鑑賞日 2017/1/13
昼月や蟷螂噛み合う哀しい音
小池弘子 富山

 美しい句だ。そして愛しい。つまり哀しい。おそらく相対世界に生きるということ自体が哀しいのである。ゆえに愛おしい。
 蛇足であるが、どうだろう。そもそも政治家にこのような深い心情を求めるのは見当外れかもしれないが、オバマにはこの哀しみの心情が少しは潜んでいたような気がするのだが。トランプには? 全然


11

鑑賞日 2017/1/13
稲架日和村人己が影を干し
児玉悦子 神奈川

 作者は農に携わる人の気持ちがよく分かっているに違いない。農民にとってその作物は自分の子どものようなものである。自分の分身のようなものである。己が影のようなものである。ゆえに雨ばかりの天候が続いたりするとまるで自分自身が濡れて腐ってくるようにさえ感じる。「稲架日和」や「己が影を干し」などの言葉は農民の端くれである私にはとても実感がある。


12

鑑賞日 2017/1/14
草に寝て鹿の声よりかなしきもの
小西瞬夏 岡山

 旅情を造形的に書いたものと受け取った。内容としては「旅に寝てかなしき鹿の声を聞く」だとか「旅寝して鹿の声よりかなしきかな」だとかと同じだと思うが、これだと主情的過ぎるので、突き放して、より客観的にあるいは触感的に書いた。感情を造形するというのが俳句の一つの方向だろう。その意味では俳句は造形芸術であるとも言える。


13

鑑賞日 2017/1/14
木の実踏む音を善しとし人に会う
小林寿美子 滋賀

 木の実踏む音を善しとし・・踏むのが木の葉や落葉ではなく木の実だというのが味噌のような気がする。人に会うのは気が重い。その人が自己主張の強い人だと、その人に巻き込まれたり振り回されたりして自分が覚束なくなるし、その人が傷つきやすい人だと、何か間違ったことを言って傷つけてしまうのではないかと心配したり、とにかくデリカシーのある人にとっては人に会うのは厄介なことだ。人に会う時にどんな態度で臨んだらいいだろう。作者は言う、木の実踏む音を善しとする態度で臨むと。何となく解るではないか。


14

鑑賞日 2017/1/15
都市からの電車映して田水張る
坂本久刀 兵庫

 私は電車も通らない山村に住んでいるが、よく安曇野方面に出掛けるので、そこでこの句のような風景に出会う。安曇野には大糸線というローカル線が走っているが、そこに時たま新宿からの電車が乗り入れてくるからである。田舎で生活している者の眼には都会からの電車はある新鮮さをもって映る。旅情を感じるといってもいい。優れた写生句が時に有する情感がある。


15

鑑賞日 2017/1/15
わが墓や月光降ればそれでよし
佐々木香代子 
秋田

 人間は死をあるいは死後を様々にイメージする。そしてその人の生はその人が抱く死のイメージとほぼ同じ質を帯びる。この句のように質素で且つ豊かで美しい死のイメージを抱ける作者の生はおそらくそのようであろうと推測する。


16

鑑賞日 2017/1/16
蜘蛛の巣のはびこる階段老母一人
佐藤美紀江 千葉

 私も事情があって今は一人暮らしである。そして肉体的にはほぼ老人と言えるかもしれない。おまけに性格が面倒くさがりであるから、この句のような状態はよく分かる。ところでこのような状態を困ったことだと取るか、あるいはまあまあいいじゃないかと取るかで生の質は大分変わってくる。前者の場合、老いるということは悲惨なことになってくる。人間の生は必ず老いだとか死だとかに待たれているのであるから、もしそれが悲惨なことだとすれば、生とはいったいどんな価値があるのか、となってしまう。そんなわけで、私はやって来るものに対して、まあまあいいじゃないかいいじゃないか、と思うようにしている。


17

鑑賞日 2017/1/16
龍淵に大地に人語あふれおり
白石司子 愛知

 創世期の一場面を見ているようなスケールの大きさを感じる。敢て言えば、自分が神になって世界を眺めているような趣さえある。旧約聖書の創世記には神は自分の創造したものを見て「よし」と言ったそうだが、どうだろうか、現在のこの人語があふれている世界の状況を見て果たして神は「よし」と言うだろうか。post truth という言葉が流行しているそうだが、あふれる人語はだんだんと真実の言葉ではなくなってきている。


18

鑑賞日 2017/1/17
荒神輿太平洋の風を受く
菅原春み 静岡

 時に神は命さえ差し出してわれを祭れと言って来る。荒神輿とは熱気に溢れ荒々しく神輿を担ぐ祭のことであるが、時々そのような祭では命を落す人もあると聞く。何故そんな危ない祭をするのかと疑問に思うこともあるが、その理由はこれであろう。そして時々思うことがある、人生は祭だと。自分の信じることのためには命をも差し出す覚悟がいるということである。おそらくそういう境地にある人にとっては、太平洋の風がまことに心地よく感じられることだろう。


19

鑑賞日 2017/1/17
喜寿過ぎたり指頭に蝉のやわらかく
関田誓炎 埼玉

 私は無選択の生を生きるということを生きる指針にしているのだが、まだそれを実感的に生きるとこまではいっていない。考えてみれば人間以外の生物はみなそれを成就しているのではないか。この句を読んで、もしかしたらこの作者はそういうことを既に実感できる境地に至っているのではないかと思った。まことなる円熟の感がある。


20

鑑賞日 2017/1/18
手を切ったぞうろうろするな穴まどい
瀬古多水 三重

 いわゆるストーカーに対して言い放った言葉として受け取ったら相応しいと思った。「穴まどい」の象徴性は男だから、作者が女性ならより相応しいのだが、男性でもいけないことはない。「多水」という名前、男性だろうか女性だろうか。いずれにしろストーカーに対してはこのくらいにきっぱり言ってやるのがいいかもしれない。


21

鑑賞日 2017/1/18
てこぼこの顔でこぼこの日焼け止め
高階時子 秋田

 甘草の芽のとびとびのひとならび    高野素十

 を思いだした。リズム感ということでもあろうし、対象を物として客観的に書いているということでもあるかもしれない。素十の句の場合は物に始まって物に酔って終わっているが、高階さんの句の場合は物に始まって人間というものの滑稽さあるいは哀しさまで行っている。


22

鑑賞日 2017/1/21
青鹿に青嶺国なき人ら充ち
高木一惠 千葉

 難民キャンプのような映像が見えてくるのだが、意外にも明るい希望のようなものがあるのは「青鹿に青嶺」という言葉の故であろう。この言葉に、不運な境遇の中にありながらも、殊に若い人の中にはこれからの世界を負って立つような志を持った人がいるのかもしれないと思えるような青い意志を感じる。


23

鑑賞日 2017/1/21
稲光り分厚き聖書に突き刺さり
辻 升人 東京

 映像としては古典的な西洋絵画のある啓示的な一場面に出てきそうな雰囲気があるが、内容的にはもしかしたら西洋文明への批判が込められているのかもしれないと思った。キリスト教はもとよりイスラム教もユダヤ教もみな聖書に立脚した宗教であるが、これらの宗教を持つ国々がどうも何時も世界の紛争の当事者になることが多い気がするが、それはこのアブラハムの宗教と呼ばれる一神教の教義に何か原因があるのではないかと疑いたくもなる。一神教では固く禁じられている偶像崇拝の対象であるインドラ神(ヒンズーにおける雷神)や日本のアニミズムの神である雷神が果敢にいわゆる西洋の唯一神に挑んでいる図と解釈できないでもない。


24

鑑賞日 2017/1/22
萩の声累々と魄ながれゆく
長尾向季 滋賀

 累々という感じで萩の花が咲いている。萩の道を歩いているのかもしれない。とにかくそういう場所で作者は萩の花が精妙に発する魄と言えるようなエネルギーを感じている。「ながれゆく」から私は風に揺れている萩を想像している。風に戦いでいる萩とともに魄が流れてゆくのである。ところで「魄」はたましいという意味であるが、漢和辞典によれば「魂」は陽であり「魄」は陰であり、また「魂」が精神の働きであるのに対し「魄」は肉体的生命をつかさどる活力とある。西洋的にいえば精霊ということかもしれない。いずれにしろ自然物にそういうエネルギーを感じ取る資質は現代人が失いつつあるもののような気がする。トランプさん、貴方にはもちろん無いでしょう。


25

鑑賞日 2017/1/22
後の月漱石の妻好きになる
梨本洋子 長野

 「漱石の妻」で検索したところ、去年の九月頃にNHKでそのようなドラマがあったらしい。おそらく作者はそのドラマを見ての作句だと思った。難物の漱石と暮らした妻の鏡子さんが晩年に「いろんな男の人を見てきたけど、あたしゃお父様(漱石)が一番いいねぇ」と孫の半藤末利子に語ったという記事も脚本の池端俊策さんの言葉としてあった。
 この世は精神を鍛えるためのジムナジアムである・・という言葉がヴィヴェカーナンダにあるが、たとえばそれがボクシングジムだとして、夫(妻)というものは妻(夫)の最高の練習相手なのかもしれない。練習は辛くきつい。途中で放り投げたくもなる。しかし練習をやり遂げて成果を上げた時には、相手に感謝し、この相手で良かったと思えるだろう。相手が手強ければ手強い程、そう思えるだろう。
 「後の月」が作者の言わんとしていることを実によく代弁している気がする。


26

鑑賞日 2017/1/23
アフリカの乳房に流れ夏の雨
夏谷胡桃 岩手

 人類はアフリカの一人の女性から生れたという説があるせいか、あるいはそういう説に私がロマンを感じているせいか、アフリカはいのちの子宮であるというイメージが私にはある。そんなイメージのある私にはこの「アフリカの乳房」という言葉がとても魅力的に響く。いのちあるものを育むアフリカの乳房。想いは、このこせこせと行き詰まった現代という時代から離れて、とても雄大ないのちの物語というロマンに遊ぶ。


27

鑑賞日 2017/1/23
甘くならない葡萄のように中年過ぐ
新野祐子 山形

 とても可笑しみのある句である。この可笑しみはどこからやって来るのだろうかと考えてみた。そして、人生そのものの本質が可笑しみなのではないかと思った。この句は人生の本質を飄々と書いている。人生はあれよあれよと過ぎてゆく。しかも甘く熟したという実感は本人にはない。逆に言えば、自分は甘く完熟したと思っている人がいたとすれば、ある意味その人は既に死んでいるゾンビである。
 しかしよくよく考えてみれば、現代は自分の人生を生きていないゾンビがうようよいる世界だともいえる。


28

鑑賞日 2017/1/24
蛇穴に入る肺活量をふやしたか
丹生千賀 秋田

 少々こじつけ気味の解釈になる。いや、私の解釈はそれぞれの句においてみなこじつけ気味なのかもしれないとも思うのではあるが・・
 そう、肺活量を増やすとは受容力を高めるということである。また、我々の個別の生とは蛇が穴から出でて穴に入るまでの一サイクルのようなものであると言えるだろう。さてこの生の一サイクルで我々は何をなすべきか。まさしくそれは少しでも受容力を高めることなのではないか。何に対する受容力か? 神(存在の全体)が我々に突きつけてくるあらゆる試練を受けいれる力という意味での受容力である。 そしてこの獲得された受容力は次のサイクルに引き継がれる。東洋風に言えば次の生に引き継がれる。魂がこの輪廻の軛から解脱するまで延々と引き継がれる。


29

鑑賞日 2017/1/24
青鬼灯板碑の文字のかすかなる
野原瑤子 神奈川

 若い生命現象と消えゆく生命現象の対比だと思うが、その象徴物として選んだのが「青鬼灯」であり「板碑の文字」であるところが新鮮であり、また重くれてなくて俳句的な詩情がある。


30

鑑賞日 2017/1/26
曼珠沙華夜は身の内流るるも
疋田恵美子 宮崎

 やはりこれは女性の句。女性の身体と心を感じる。ゆえにあまり踏み込んで書くのは憚られる。曼珠沙華の美しさ妖しさはそのままにしておく方がいい。神秘は分析するとそれはもはや神秘ではなくなってしまうからである。


31

鑑賞日 2017/1/26
花ぐもり腿掻くスタート前ランナー
北條貢司 北海道

 市民マラソン大会のようなものを想像した。要するにあまりしゃかりきに順位を争わないような競技である。ゆえに腿を掻きながらのスタートというのんびりとした風景もある。作者はこれに出場したということかもしれない。いずれにしろ「花ぐもり」がそのようなのんびりした感じの大会の雰囲気に合っている。


32

鑑賞日 2017/1/27
沖縄の海塗ればクレヨン折れにけり
堀真知子 愛知

 ドナルド・トランプのような人物の出現は人間の精神のあるいは人間の霊性の歩みの歴史が下降線をたどっていることを意味しているが、ある意味日本にとってはチャンスであるかもしれない。宮台真司言うところの〈アメリカのケツ舐め〉が続けにくくなるからである。おそらくトランプのケツは舐めにくいからである。アメリカのケツ舐め政策の一番の現れは沖縄であろう。どうしてアメリカのケツを舐めるために沖縄の美しい海を埋め立てて汚さなければならないのか。素朴な心で考えればどう考えても変だ。この句の「クレヨン」は素朴な心の表象である。


33

鑑賞日 2017/1/27
終活を語りて桃を食みゐたり
前田典子 三重

 終活というのは要するに死ぬ準備をするということであろう。その意味では私は二十代の頃からずっと終活をしていた気がしている。生きるとは即ち死ぬ準備をすることであるという思想が私の中にはあるからである。実際死というものは何時突然やってくるか分からない。だから終活というのは老人だけでなく総ての生きている人の問題であるはずである。「桃を食む」というのは生きてあることの喜びの象徴のような行為であるが、真の生きる喜びというものは死の問題の解決と共にやってくる。


34

鑑賞日 2017/1/28
鳥のようと文字を誉められ冬鳥に
三井絹枝 東京

 前にも書いたかもしれないが、この作家の面白みの一つはその巫女的な憑依性にある。暗示にかかりやすい、あるいは自己に暗示をかける能力があるということかもしれない。優れた資質であるとともにある危険性も含んでいる資質かもしれない。危ない方をいえば、カルトなどにはまる危険性ということであり、優れた方をいえば、自分は神の愛人であるという信仰に励んだバクティヨガ(愛の力により真理に至るヨガ)の聖者達のように神(絶対者)との合一への近道にいるということである。


35

鑑賞日 2017/1/28
鬼火の付箋つけてく空家調査員
三好つや子 大阪

 私は過疎地域に住んでいるので空家がたくさんあるが、最近では都市部でも空家が増えているらしい。日本の人口減少を考えれば当然のことかもしれない。昔の言葉に「千年は都市、千年は森」という言葉があるそうであるが、もしかしたらわれわれはそういう大きな歴史の節目に生きているのかもしれない。都市から森への境に存在する空家に鬼火の付箋がつけられてゆくというのは、この時代の不気味さを作者が感じとったゆえの表現なのかもしれない。


36

鑑賞日 2017/1/29
新潟日報に包まれ届く新生姜
森  鈴 埼玉

 「新潟日報」「包まれ届く」「新生姜」どの言葉についても読めば読むほど上手く出来た句だと思う。偶然のなせる技かあるいは俳句の神のなせる技かということまで思ってしまう。作者の手柄としてはこの偶然の技を見逃さなかったというだけのことなのかもしれないが、考えてみればこの見逃さないで書き留めるというのが実は才能ということなのかもしれないと思った。土から掘りだしたばかりの新生姜の匂い・・そしてそれを届けてくれる人間関係の嬉しさ・・・


37

鑑賞日 2017/1/29
花に水母を苛めた夏終る
柳 ヒ文 神奈川

 ああこの夏はずいぶんと母を苛めてしまったなあ、と思いながら花に水をやっている、というのである。「花に水」がやはりポイントであろう。花に水をやるというのはやはり慈しみの心の現れだからである。現在の自分の心の在り方というのは過去の自分の行為から受ける印象の総和であるから、たとえば仏陀のような揺るぎなく分厚い慈悲の心というものの背景には過去の数多の善行や悪行の印象の厖大な集積があるに違いない。


38

鑑賞日 2017/1/30
墓まいり誘えば老母顔光る
吉村伊紅美 岐阜

 自分は切り離された存在ではない、繋がっている存在である、ということが実感されたからこそ、この老母の顔が光ったのであろう。人は自分の個としての命が存在全体の命と繋がっていると実感できたときに本来の輝きを発する。この場合、先祖から子孫へと繋がる命のその一つの命としての自分が確認されたということであろう。誘われたのが娘であり、また誘われたのが墓参りであったということが味噌。


39

鑑賞日 2017/1/30
良夜なり壊れてしまった姉を抱く
若森京子 兵庫

 やって来た運命を抱ける人は幸いである。その人はおそらく良夜のように明晰な知性を持っている人に違いない。もちろん、抱くのであるから、豊かな情を持っている。豊かな情と明晰な知性を合わせ持った人の句であると見る。「壊れてしまった姉」という表現に情と知性の両方を感じる。


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