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金子兜太選海程秀句鑑賞 530号(2017年2・3月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2017/2/12
目つむればわが海鳴りぬ冬あたたか
阿保恭子 東京

 おそらく、女性は、あるいはもっと広く人間は、その身の内に大きな海を抱えているのかもしれない。絶対存在という名の海を。そしておそらくわれわれ個人はその海の一つの小さな波に過ぎないのかもしれない。そしてその海の存在を感じる時、われわれは大きな心の安らぎを感じるのだ。そういう大きなものを感じさせてくれる句である。


2

鑑賞日 2017/2/12
惜しみたく無き年遅々と苛めつ子
伊佐利子 福岡

 この句の面白さはやはり「年惜しむ」という季語の裏を見つけたということであろうか。時間の進み方というのは面白いもので、こんな年月は早く過ぎ去ってしまえばいいと思っていると遅々としてなかなか進まない。その場合その人が不幸感をもって生きているということに他ならないだろう。そして苛めっ子にしろ苛められっ子にしろそういう一種の不幸感にあることは間違いないだろう。


3

鑑賞日 2017/2/12
ふるさとは長き不在の晩稲かな
市原正直 東京

 晩稲(おくて)とルビ

 長い間帰省していなかったが帰ってみればふるさとは今晩稲が実っているというのである。「晩稲」が作者の心情に相応しい詩語としての役割を果している。


4

鑑賞日 2017/2/16
餓死とう戦死遥か雨林に蛍の樹
伊藤 巌 東京

 たとえばトラック島では戦闘による戦死者より餓死による死者が遥かに上回っていたと聞く。そのような事情を考えてみても如何に先の戦争が無謀なものだったかが分かる。どうだろうか、そのように餓死で死んだ死者は戦闘で死んだ死者より無念の度合いが強かったのではないか。彼らの魂は遥か南方の雨林で蛍の光となってほの光っているのかもしれない。


5

鑑賞日 2017/2/16
熊出たと老いの野性の鼻光る
狩野康子 宮城

 「野性の鼻光る」がポイントであるが、要するに顔立ちが少しキリッとなって精悍さを少し取り戻したということだろう。「野性の眼光る」だと精気が強すぎて老いということには相応しくないのかもしれない。


6

鑑賞日 2017/2/16
脚注の文字ほろほろと銀木犀
北村美都子 新潟

 「脚注の文字」と「銀木犀」という離れたものを「ほろほろ」という擬態語で繋いだ。見えてくるものはあるいは感じられるものは作者の暮らしぶりである。人間の文化と自然への眼差しを保った暮らしぶりである。そしてそれはとてもこまやかな感受性を伴った眼差しである。


7

鑑賞日 2017/2/16
大家族の母の寸胴大南瓜
楠井 収 千葉

 この句の魅力は「寸胴」である。この言葉が句の面白みと調子の良さを作っている。句の内容はある意味当たり前のことであるが、こういう当たり前のことをドーンと言うのも気持ちがいい。


8

鑑賞日 2017/2/19
目纏いがことにぱちぱちする週末
久保智恵 兵庫

 「ぱちぱち」が問題である。「週末」という言葉と合わせて考えると、この一週間よくやったぱちぱち(と拍手)、というふうにも受け取れるが、どうだろう。単に感覚的なオノマトペとしてはしっくりこない。


9

鑑賞日 2017/2/19
着替えてもまだどんぐりの音のする
こしのゆみこ 
東京

 他者の句を読むということは最終的にはその作家はどのように人物なのかを知りたいということであろう。だからその作家論のようなものが書ければ鑑賞者としては一番の醍醐味であろうと思う。こしの氏と私はその句集(豆の木という俳誌を毎年送ってもらっている)を通じてかなり長い付きあいであるから、ここら辺りでこしのゆみことはどういう作家であるのかを書ければと思うのだが、それがなかなか難しい。思想的ではないし、感情的でも感覚的でもないし、日常的なのだが糠味噌臭い日常ではないし、肉体的なのだが性的ではないし、少女のようあるいは少年のようだというのも年齢を考えると失礼のような気もするし・・と考えているうちにふとあの猫のことが頭に思い浮んだ。こしの氏は猫を陶器で作るのであるが、その猫の姿が思い浮んだのである。そしてまさにあの猫の姿から受ける印象を、あるいはあの猫が俳句を作ったらこしの氏の俳句のようなものになるのかもしれないと思った。でもこれは作家論としてはトートロジーに過ぎない。どうだろう結局こしのゆみこ氏は、猫という動物がなかなか理解できない不思議な動物であるように、私には不思議な作家であるのかもしれない。
 いや、句そのものが理解できないと言っているわけではない。今日のこの句も含めてどの句も句自体はとても平明で分かりやすいのである。どうだろうか、自明であるように見えるものこそ実は不思議であるということがあるのではないか。たとえば如何にも自明そうに思える「私」とは何かと追究しても、はっきりと答えが言える人はいない筈である。


10

鑑賞日 2017/2/21
口細く開けいちはつの白さ言ふ
小西瞬夏 岡山

 口細く開け・・小さな声で、あるいは控え目に、あるいはぼそっと独り言のように、あるいは呟くように言ったのかもしれない。このいちはつの花の白が自己主張するようなものではなくいわば奥ゆかしい感じの白だったのかもしれない。そしておそらくその白の感じが作者の心の在りように共鳴したのだろう。いちはつは麗しい花である。


11

鑑賞日 2017/2/21
コスモスや親娘で語る店仕舞い
小林まさる 群馬

 一般的には店仕舞いするというのはネガティブな感情を伴うものであろうが、この句の場合はさっぱりと明るい感じである。それはコスモスの花の印象によるものだろう。そしてそれはこの娘さんの性格がそのようであるに違いないからだと思った。ちなみに私は群馬県の出身であるが、群馬の女性はコスモスの花のようにさっぱりと明るいような気がしてきた。


12

鑑賞日 2017/2/23
紅葉且つ散る薄目の人の花眼かな
小原恵子 埼玉

 森澄雄は「花眼とは中国語で酔眼または老眼の意であるが、年齢の豊賦と孤独の中に自然の美しさとともに人生の妖しい彩りの美しさが見えてくる眼である・・・」とその句集『花眼』の中で述べているそうである。
 やはり単なる老眼ということではなく、こんな風に受けとるのがこの句の場合の「花眼」はいいのだろう。「紅葉且つ散る」という言葉があるからである。老熟ということの美しさを持った人物が見えてくる。


13

鑑賞日 2017/2/23
小鳥来る見ることのないそのむくろ
小宮豊和 群馬

 この句を読んで、ああこの小鳥のようであればいいのにと思った。つまり、潔く生き潔く死にたいと思うわけである。ところが人間の場合はどうしてもその骸を遺して死に他者に何らかの迷惑をかけてしまうわけである。遺さないために何処かで消えるように死んだとしても、それはおそらく更なる迷惑をかけることになってしまうだろう。社会的動物である人間の面倒臭さである。天地全体が生きる場であり、大地そのものが墓場である野生動物の生き様は潔い。


14

鑑賞日 2017/2/24
鍬ひたす灌漑ダム湖ひた澄みて
坂本久刀 兵庫

 鍬の刃と鍬の柄の繋ぎ目の部分の木が乾いてしまって柄から刃が外れてしまわないように水に浸すのである。農作業の合間にそうしておくことが多い。普段から農作業に親しんでいないと何故鍬を水に浸すのかわからないかもしれない。そのような日常の農の営みの中で、鍬を浸した灌漑湖の水がひたに澄んでいると感じたのだろう。農作業というものには人が自分の心を無にできる作用があるから、そのような無の心とこの灌漑湖の澄んだ水が響きあったのかもしれない。


15

鑑賞日 2017/2/24
雪虫のちょっと低めのふるさとや
笹岡素子 北海道

 雪虫・・北国で早春、雪の上に現れる昆虫。カワゲラ、ユスリカ、トビムシ、セッケイムシ、などで、群れをなして雪の上をはい回ったり、低く飛んだりする。(現代俳句歳時記 チクマ秀版社)

 作者は北海道の人だから雪虫を頻繁に見ることがあるのだろう。「ちょっと低めのふるさとや」というのは実際に低い雪面を雪虫が這っているということでもあるだろうし、作者自身のふるさと感が投影された表現なのかもしれない。そんな風に考えているとこの雪虫が作者自身だと思えてもくる。


16

鑑賞日 2017/2/25
右耳にふくろうのいる真昼かな
白石司子 愛媛

 どんなことを譬えている可能性があるだろうか。たとえば私の知っているある統合失調症患者は、自分がやったり言ったりすることに対して常に何らかのケチをつける声を聞くらしい。だからたとえば常に「ほお」「ほお」というような馬鹿にしたような声が右耳の中から聞こえるとすればそれはかなり鬱陶しいだろう。そして思うに我々現代人はすべて多かれ少なかれ統合失調症的な自己否定の精神状態の中で生きているのであるが、その時にやはり事態を客観視するということが一つの処方箋であるだろう。べてるの家などでは辛い幻聴に対して「幻聴さん」などと呼んで客観視することを試みてある程度成功しているらしい。どうだろう、我々俳人が日々俳句を作るということは自己および事態を客観視して自己自身を癒しているという行為なのではなかろうか。
 実は私の身内に統合失調症を患っている者がいるので、このような感想文になってしまったのかもしれない。


17

鑑賞日 2017/2/26
梨むくや冷えてしんみり夜の二人
鈴木修一 秋田

 人はいろいろな人間関係の中で生きていかなければならない。それがあらゆる苦楽の原因であるが、それが生きるということなのであろう。そして煎じ詰めればあらゆる人間関係は二人の関係が基本である。自分の目の前に居る一人と上手くやることが基本である。だから婚姻制度においては一婦一夫制が一番シンプルな制度ということになる。この句における二人が夫婦であるかどうかは書かれてはいないが、夫婦であると考えると理解しやすいものはある。とにかく人間関係の基本である「二人」の一場面が書かれているのであるが、この二人、切っても切れないと互いに思っている雰囲気はある。


18

鑑賞日 2017/2/26
鶸や鶲や朝のなごりの椅子たたむ
田口満代子 千葉

 気持ちのいい秋のある朝、庭先に椅子を出して紅茶などを楽しんでいる。庭の木々に鶸や鶲がやってきて遊んでいる。紅茶の香り、小鳥達との会話、まるで生きてあることが祝福されているようなひと時である。しかしあらゆる時間は過ぎ去り次にやることが待っている。名残りの心で椅子をたたんでいる、というような場面が思い浮んだ。優雅なる生の味わいの句とでも言えようか。


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