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金子兜太選海程秀句鑑賞 528号(2016年12月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2016/12/8
代わる代わる焼け付くような墓洗う
石川青狼 北海道

 「代わる代わる」・・何人かで墓参りに行き、代わる代わる炎暑の墓を洗ったという意味にもとれるし、不動の墓に対して墓を洗う人は次々と代が代わってゆくという意味にもとれる。つまり死の絶対性あるいは永遠性に対して生の相対性あるいは刹那性を表わしているとも思える。そう考えると「焼け付くような」も生というものに突きつけられた死という厳然たる事実の形容のように思えてくる。


2

鑑賞日 2016/12/8
覚えなき死の堆し原爆忌
石川まゆみ 広島

 堆(うずたか)しと読むのだろう。
 「覚えなき死」ということを考えている。誰にも死の瞬間は訪れるのであるが、願わくばその瞬間をしっかりと見つめ味わい、ああ死というものはこういうものなのだなとしっかり自覚しながら死にたいと私は思うのである。そういう死を迎えるにはその前提として与えられた生を十分に生き、そしてその間生のこと死のことを十分に思索する時間が必要なのではないか。であるから、外側の力によって強引に生を奪われてしまう死は「覚えなき死」であると言える。平和とは多くの人が「覚えある死」を迎えることが出来る環境のことなのかもしれないと思った。


3

鑑賞日 2016/12/9
さざめきの歌の山へ猪食いに
伊地知健一 茨城

 という漢字が手持ちの辞書で調べても分からないので後日図書館で調べてから句を味わうことにする。

 図書館に行って大きな全集本の漢和辞典でこの漢字の載っているページをコピーしてきた。その漢和辞典の名は忘れてしまった。
 この字は[ちょう]というように読み、よい・あでやか・おどる・・・というような意味があると分かった。
 「歌」は[ちょうか]と読み、1)巴人の歌。多くの男女が手をひき合い、跳りつつ歌う歌。2)古、我が国で男女が一場に会して歌舞唱和したこと。うたがき。
 ついでに広辞苑で「うたがき」を調べてみた。
 うたがき【歌垣】・・1)上代、男女が山や市などに集まって互いに歌を詠みかわし舞踏して遊んだ行事。一種の求婚方式で性的解放が行われた。かがい。2)・・(省略)・・


4

鑑賞日 2016/12/9
濃き影を力に軽く踊り出す
市原光子 徳島

 人間が軽やかに生きてゆけるのは、その人が心に揺るぎない信仰を持っている場合である。その信仰の形は様々である。「濃き影」というのはおそらく自分の信仰を形作っている存在の影であろう。具体的には師の影でもいいし、神の影でもいいし、先祖の影でもいい。それらに類するものである。


5

鑑賞日 2016/12/10
謝罪なき式辞軽しよ敗戦日
伊藤雅彦 東京

 自分の誤りに気付くことが出来る人、そしてその誤りによって誰かが傷ついているのなら謝罪できる人、それが賢者である。自分の非を認めることが出来ないのは単なる未生長のガキである。これは個人のレベルでも国家のレベルでも同じことである。その意味で日本は未だガキ国家なのである。


6

鑑賞日 2016/12/10
女の声のどっと芙蓉明りかな
稲田豊子 福井

 アベ政治によって日本がだんだんと危ない国、戦争をする国になって来ていることは否めない。一方で、まさか決定的な誤りには陥らないだろうという楽観もあるにはある。その理由がこの句にも示されている。つまり今の時代、女性が元気で溌剌と明るいからである。女性的なエネルギーが溢れているときには戦争は起さない気がするからである。芙蓉たる女たちよ、頼むぜ。


7

鑑賞日 2016/12/11
祭囃子未知は遠のく過去近づく
植田郁一 東京

 二つの解釈があると思った。一つは時代への批判的なもの。一つは祭りというものの持つ時代を超越した時間性である。
 かつて戦後われわれは未知なる平和と繁栄の時代に向って歩んでいるつもりであったが、どうだろう、現在は過去の戦争の時代への後戻りをしているという感じを抱かせる風潮がある。「祭囃子」はこの風潮を煽る勢力が囃し立てる声高な歴史修正主義のことである。
 もう一つの解釈・・祭囃子の中にわれわれは過去から現在までずっと続いているある祝福されたわれわれ自身の姿を見ることができる。その時空においてわれわれは知らなければならない未知なるものは何も無く全ては祝福された存在の中に溶け入って来る。


8

鑑賞日 2016/12/11
九条守れ鬼灯いっぱい両の手に
宇川啓子 福島

 「今どき九条を守れなどという人の頭はお花畑だ」という議論がある。確かにそういう議論をする人の現実認識というのも分からないではない。しかしそういう現実認識などは臆病者なら馬鹿でもできる。あらゆる現実認識を踏まえた上でしかも理想を掲げ続けるのが人間存在の人間存在たる由縁なのである。そして地球規模の現実認識の上に立てば、実は九条という理想のみが人類を救うまことに現実的な解決なのだということは自明である。


9

鑑賞日 2016/12/12
万緑に浸り静かに猿のボス
内野 修 埼玉

 猿のボスが万緑に浸っている。作者も同時に万緑に浸っている。考えてみれば人間は猿のボスのようなものである。人間は猿が少しばかり高度に進化したような存在であるに過ぎない。だから人間は俺は人間様だと威張るようなことは無用である。自分は自然の一部に過ぎないという謙虚さを身につけたときに人は真に万緑に浸ることができる。どうだろう、作者は「猿のボス」という言葉に「人間」という意味を含ませてはいなかっただろうか。


10

鑑賞日 2016/12/12
訥訥と古びし愛を生身魂
梅川寧江 石川

 愛は古びるだろうかと先ず考えた。私の言葉の定義からいえば、恋は古びるけれど愛は古びないとしていたからである。愛が古びるとすれば希望が失われるからである。恋は当然古びる。恋は愛への一つの入り口に過ぎないからである。そんなふうに愛や恋という言葉を把握していた私にとって「古びし愛」と言われて戸惑ったのである。しかし言っていることは良いほうに受け取りたい。様々な愛のかたちがあって、その中の一つの古びし愛についてこの生身魂は語っているのだと受け取りたい。そしてこの生身魂は古びない愛のことを実は知っているのだと受け取りたい。そうでなければ、人の生というものがあまりにも淋しいからである。


11

鑑賞日 2016/12/13
ざくざくやざくざく軍靴蝉の穴
大高宏充 東京

 梅雨が明けた7月下旬から、三ツ池公園の林ではセミの幼虫が羽化して成虫になるため、次々と地中から出てきています。 公園内の林の比較的草に覆われていない場所へ行ってみると、そこはセミの幼虫が出てきた穴でいっぱいでした。 そしてその穴の一つをよく観察すると…今まさに地中から外へ出ようとしている幼虫を見つけました。

 上記は神奈川県立鶴見高校のホームページより転載させてもらったものである。
 つまり戦争とは小さないのちを踏みつぶして行われるものだということ。ざくざくざくざく容赦なく。


12

鑑賞日 2016/12/13
おはぎたべる見えない穴が無数なり
大谷 清 山梨

 見えない穴とは何か。まさかおはぎに見えない穴が無数にあるというのではないだろう。むしろ「見えない穴が無数なり」というのは生きてゆくにおいて自分には見えない穴のようなものが無数にある、というようなことではないか。われわれが生きてゆくというのは、実は暗闇を手探りで歩いてゆくようなものかもしれない。「おはぎたべる」というごく日常的で確かなものに見える行為と、存在の不可知性を配合した句なのではないか。


13

鑑賞日 2016/12/14
青大将一瞬ひやり乳房かな
大野美代子 愛媛

 青大将に出会って一瞬ひやりとした、それも乳房のあたりがひやっとしたというのであろうか。乳房というものを持っている女性ならではの感覚であろうか。乳房というものがどういう感覚を有しているか分からないが、一般的には乳房は性的な感覚が敏感な場所であるらしい。また蛇は男性器の象徴であるから、そのあたりを私が連想するのも自然のことだろう。


14

鑑賞日 2016/12/14
原爆忌影にもなれぬ骨いくつ
川崎益太郎 広島

 すべての人は‘われは在る’という感じを持って生きている。そして誰しもに‘永遠でありたい’という願いがあることは確実だ。その願いの現れかたは様々である。ある人は財を遺すことによって、ある人は名を遺すことによって、ある人は業績を遺すことによって、またある人は愛を遺すことによって永遠であろうとする。人は何らかのかたちで生きた証を遺したいわけである。逆に、生きたということが何も遺らない死というものはあり得るだろうか。そんなものは無いと思うのであるが、だからこそ何も遺らない死があるとすればそれは大変な恐怖であろう。


15

鑑賞日 2016/12/15
桃を食う二人の伯母の現れて
菊川貞夫 静岡

 夢の中での出来事のような気がするのだが。あるいは白昼夢か、とにかく現実の出来事ではないような雰囲気がある。尤も夢と現実の境目などは有るのか無いのかはっきりしない。この世の事象は全て夢であるとも言える。われわれが現実と呼んでいるものはそれがパブリックなものであり、夢は個人的なものであるという違いだけである。どうだろう、戦争などはパブリックな悪夢であると言えないだろうか。


16

鑑賞日 2016/12/15
百日紅燃える百日妻は無し
木村和彦 神奈川

 思いだすのが

妻二タ夜あらず二タ夜の天の川   中村草田男

である。内容が似ている。心情が同じだと言ってもいい。違いがあるとすれば草田男の方は二日間だけ妻が不在だったというニュアンスであるし、木村氏の方はもしかしたら妻は亡くなられたのかもしれないというニュアンスがある。しかし考えてみれば不在だということと亡くなったということの違いは本質的には無い。


17

鑑賞日 2016/12/16
永遠とは蟻を見ていた頃の時間
河野志保 奈良

 永遠とは何か。‘今’である。‘今’とは過去現在未来と分割された時間の一つの現在ということではない。過去現在未来が全て有る時間あるいは過去現在未来を超えた時間あるいは過去現在未来が記憶されない時間とでも言える。即ち蟻を見ていた頃の時間である。一言で言えば無我の時間とも言える。人はそういう時間を経験すべきだ。そういう経験が無いと人は過去現在未来という分割された時間に引きずり回されてだんだんと狂ってゆく。その意味でこの句は現在の教育を批判した句だとも言える。


18

鑑賞日 2016/12/16
巴里祭恥骨を上げてジーンズはく
こしのゆみこ 
東京

 作者は私と同年代あるいは少し下の年代の人だと記憶している。即ち団塊に近い年代の人である。この年代の人にとってジーンズは自由や反逆を象徴する服装の一つだったのではないか。そういう意味でジーンズをはくということは巴里祭と響く。恥骨を上げてはくというのはある意味爛熟した文化の中で単なるファッションとしてだぼだぼとはくのではなく、キリッとやる気を持ってはくということではないか。世代を感じる句である。ちなみに私もまだジーンズを愛用している。


19

鑑賞日 2016/12/17
鱧食べる笑いかくせぬ叔母たちと
小原恵子 埼玉

 この叔母たちは何故笑いをかくせないのだろうか。鱧を食べるということと何か関係あるのだろうか。私は鱧料理を食べたことがない。珍しい料理なのだろうか。高級料理なのだろうか。ただ笑うのではなく、笑いをかくせないというのだから、そこには何らかの意味があるに違いない。


20

鑑賞日 2016/12/17
熱帯夜米寿を生きる水を飲む
佐藤紀生子 栃木

 高齢であるということだけでその人を尊敬できないだろうか。できる。高齢であれば高齢であるほどできる。高齢になるといろいろなことがだんだん出来なくなる。そしてそのことに対する諦念があって受け入れている人はある意味自然物と同じような風情があって感動するのである。この句にはそういう風情がある。日本は高齢化社会になりつつあるが、それは或る味のある尊敬できる社会になるという可能性を秘めた現象なのでもある。


21

鑑賞日 2016/12/19
夫の死や被曝のりんご赤すぎる
清水茉紀 福島

 私の生きるよすがである夫が死んでしまった。私の生に様々な豊かな色彩を与えてくれた夫が死んでしまった。遺された私はもはや無色透明の抜け殻のようなものかもしれない。それなのにああこのりんごの何て赤いことよ。しかもこのりんごは被曝のりんごなのに。被曝してもなおこのりんごは赤い。赤すぎる。〈赤は全き生の色である〉


22

鑑賞日 2016/12/19
短夜の影を抜け出す体かな
白石司子 愛媛

 薄墨色の映像で、この手に負えない体というものの出現の瞬間を描いているような感じがある。ほぼ抽象に近い神話における創世記とでも表現したくなる映像である。そのくせ実体感がある不思議な句である。


23

鑑賞日 2016/12/20
かたくなな穀象を愛で放ちけり
竪阿彌放心 秋田

 例えばお釈迦様のような大きな目で見れば、世に存在するものは何でもその存在理由があるだろう。更にいえば全てのものはお釈迦様の掌の上で遊んでいるのだろうし、お釈迦様の愛で見守られているのだろう。そのものが頑なな穀象であろうが晋三であろうが。


24

鑑賞日 2016/12/20
花合歓のような往還踊り果つ
田中亜美 神奈川

 ある人生観が隠されていると見ることもできる。そう、人生は一場の夢であるというのは事実であるが、そのことを「花合歓のような往還」と表現したようにも思えるからであり、そしてまたこの人生の踊りの行ったり来たりはいずれ果てるものだからである。美しい人生観である。


25

鑑賞日 2016/12/21
星飛ぶや飛べぬ病む子に数えさせ
田中 洋 兵庫

 たとえば障害を持つ人についてキリストは不思議なことを言っている。「このように障害を持っているということは本人の責任なのでしょうか、あるいは親の責任なのでしょうか・・云々・・」とある人がキリストに問うた。この時キリストは「神のみ技がその人に現れるためである」と言った。病気や障害はわれわれに大事なことを示すために存在するのかもしれない。「飛ぶこと」は人生の本来の目的ではない。「ただ在ること」が本来の目的なのである。丁寧に言えば「共に在ること」が目的なのである。そのことを気付かせてくれるのが病気や障害であると言えないだろうか。


26

鑑賞日 2016/12/21
ごきぶりに呼び捨てされて二日酔い
峠谷清広 東京

 漫才という芸は一般的にボケ役とツッコミ役がいて成り立つ。ツッコミ役がいるからボケ役は安心してボケることができるという構造がある。この作家はどちらかと言えばボケ役である。自虐ネタのボケ役である。さて、この作家にとってツッコミ役は誰なのであろうか。ツッコミ役がいないということはないだろう。何故ならツッコミが無くて新鮮なボケを続けることはおそらく困難だと思うのであるが、この作家は優れたボケを続けているからである。それともぼやき漫談のような一人芸で新鮮なネタを供給しつづけることは可能だろうか。とにかく面白くも不思議な作家ではある。


27

鑑賞日 2016/12/22
人間よ万緑をどう除染する
中村 晋 福島

 原発の害の本質をずばっと言ってくれた。反原発のスローガンにしたいような句だ。詩心あるいは良心を持った日本人なら必ず共鳴できる筈で、共鳴できれば直ぐに原発全廃ということに論理的に賛同せざるを得ない言葉だ。しかし、困ったことに日本人は詩心も良心も失ってしまったようだ。原発再稼働が続いている。


28

鑑賞日 2016/12/22
空蝉になるため夜の木を登る
平田恒子 東京

 蝉ではなく蝉の抜け殻である空蝉に着目しているのが面白いと思った。われわれが人生を生きているのは死体になるためである、というのと同じことを言っている。これは完全に真実なことであるが、おそらくこの視点に耐えつづけられる人は少ないだろう。で、もう一つのどちらかと言えば陳腐な視点が出てくる。魂の永遠性という視点である。この二つの視点はどちらも正しいのであり、むしろ相補的な視点であると見るべきであろう。「空蝉になるため夜の木を登る」と作者は言っているが、「蝉になるため夜の木を登る」ということを当然作者は知っている。作者は陳腐ではない方の見方を示したのである。


29

鑑賞日 2016/12/23
異常という暑さの舌に塩こんぶ
廣島美惠子 兵庫

 このところ毎年異常気象と言われている感じがある。で、今年の夏が異常な暑さだったのかも忘れてしまう。異常ばかりが続くとそれが当たり前になってきてしまうのかもしれない。とにかく地球温暖化がその一因であることは間違いないだろう。何とかしないといけないわけであるが、経済優先の人間中心主義が世界を支配している限りはどうのもならない気もする。次期アメリカ大統領のトランプ氏などはその傾向が更に強い人物に思える。困ったことだ。われわれ庶民は異常な暑さに対しては水を飲んで塩こんぶをしゃぶるくらいしか手がない。


30

鑑賞日 2016/12/23
海綿質とは八月の言葉かな
堀之内長一 東京

 海綿質はすなわちスポンジのようにすかすかで水分を吸い取ってしまうような物質のことであろう。八月に発せられる言葉あるいは聞く言葉はこの海綿質に似ているというのである。八月といえば暑さの盛りであり、敗戦忌や原爆忌のある月であるゆえ戦争のことを想う月でもある。また盂蘭盆などもあるゆえ死者との交感のある月でもある。その他諸々そして全体的に八月のことを考えていると、この句の感覚が少し分かるような気もする。感覚の多様さということを考えさせられた。


31

鑑賞日 2016/12/25
黒あげは人はひっそり墓仕舞い
本田ひとみ 埼玉

 墓仕舞いというのは移設したりするために今まであった墓を取り壊したりすることなのだろう。「ひっそり」という言葉にどことなく後ろめたさや罪の意識を感じる。人が墓を作るという行為をすることや、墓仕舞いをするときの意識などは黒揚羽の目にはどう映るだろうか。敢て私が代弁してみると、人間とは何と面倒臭いことをするのだろうか、そもそも俺たち生きものにとってこの世界そのもの全体が墓のようなものではないか、この世界は生きる場であり同時に墓なのだ、何もそんなちっぽけな墓を作って、これは俺様の御先祖の墓であるなどと言うのは了見が狭いというものである。


32

鑑賞日 2016/12/25
永らえむ独活きざむ夫あるかぎり
間瀬ひろ子 埼玉

 作者御本人が闘病生活をしていて、夫が自分を看取ってくれているということか。妻は夫を労りつ夫は妻を慕いつつ〜〜頃は六月なかの頃〜〜という浪花節が一瞬頭を過ったが、この句がそういう月並みな浪花節調に陥っていないのは「独活きざむ夫」という具体性と俳句という短い形式ゆえなのかもしれない。
 そしてまた逆にこの句を読んでいわゆる介護殺人などの社会問題を私自身の家族の問題を含めて考えてしまった。


33

鑑賞日 2016/12/26
家訓なし突っつき合って冷奴
三浦静佳 秋田

 「突っつき合って」にダブルミーニングがあるだろう。冷奴を突っつき合って食べている、というのと、家族同士が軽く言い争っているというような意味である。二番目の意味だと冷奴に少し関係が冷えたというようなニュアンスも出てくるだろう。全体にはやはり和気あいあいとした庶民の家族の雰囲気である。家訓は有っても無くても良し悪しだが、「家族は仲良くすべし」などと憲法に書くのはどうもいけない。


34

鑑賞日 2016/12/29
にいにい蝉臍の緒つけて藁人形
武藤鉦二 秋田

 「臍の緒つけて藁人形」というのは何か土俗的な風習にそういうものがあるのだろうか。まさか呪いの藁人形ではないだろうと思うが、どうも分からない。


35

鑑賞日 2016/12/29
透明な針魚鋭き子の感性
森由美子 埼玉

 針魚(はりお)は即ちサヨリのこと。阿部完市の次の句を思い出した。

少年来る無心に充分に刺すために

 表現方法は違うがほぼ同じ内容と見ていいだろう。まだ欲というものに犯されていない子どもは無心であるゆえに即ち透明であるゆえに感性が鋭い。子どもが大人から学ぶところは沢山あるが、逆に大人が子どもから学ぶものは一つであり、それはおそらく一番大事なものである。透明であるということ、無心であるということ。


36

鑑賞日 2016/12/30
鳥たちに空の回廊夏終わる
守谷茂泰 東京

 静かであり、内省的な句である。この作家自体が内省的な人なのかもしれない。外側の事物や事象が全てこの作家の内面の事物や事象として捉えられている感じがする。世界の見方には二つのベクトルがあるかもしれない。世界は在るが自己は無いと見るベクトルと自己は在るが世界は無いと見るベクトルである。これはタイプの違いであってどちらかが優れているということではない。どちらでも最終的には〈一〉に合一するのであるから。そういうタイプ分けをするとこの作家は後者に属するだろう。


37

鑑賞日 2016/12/30
戦争を知らぬ為政者雲の峰
安井昌子 東京

 この雲の峰は肥大してゆくエゴの象徴のような気がする。もくもくと大きく高く肥大してゆくエゴ。ある限界を超えるとどしゃ降りになるのだろう。即ち戦争である。トランプは核の増強を示唆しているし、そのトランプが核のボタンを握ることになるのだから世界はどうなることやら。「戦争を知らぬ」というのは過去の戦争の場合でもそうだし未来の戦争の場合でもそうだが、要するに想像力が無いということだろう。エゴや欲が肥大している人は客観的事実に基づく想像力が働かないのかもしれない。


38

鑑賞日 2016/12/31
8月15日特攻の父のリュックサック
佳 夕能 富山

 俳句とはこういうものだと思った。要するに、そこに思いや感情を投げ出すのではなく、事実や物を投げ出すということである。思いや感情は読者の自由に任せるということ。「8月15日」「特攻の父」「リュックッサック」という事物がものを言っている。大変勉強になった。


39

鑑賞日 2016/12/31
原爆ドーム鳥籠のよう飛蚊症
若森京子 兵庫

 お手上げ。原爆ドームが鳥籠のようだというのはよく分かるのだが、それと飛蚊症の関係が分からないのである。


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