表紙へ 前の号 次の号
金子兜太選海程秀句鑑賞 527号(2016年11月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2016/11/8
目の奥のわが潮騒よねぶの花
伊藤淳子 東京

 厚みのある句である。年輪を重ねて生きてきた作者を感じる。しかし老木ではなく、花を咲かせ続け、そしてその幹にはみずみずしい樹液が流れている。


2

鑑賞日 2016/11/8
短夜の夢は朦朧白い家
井上俊一 愛知

 「白い家」の象徴性が確と把握できないので、私なりの解釈になってしまうが。人生は一場の夢である。とても短くしかもその意味は朦朧としている。確実なものがあるとすれば、その夢という映像が映し出される白いスクリーンである。私達はとても大きな白い家に住んでいて、ただ朦朧とした夢を見ているだけなのかもしれない。


3

鑑賞日 2016/11/9
人類と書く八月六日かな
上野昭子 山口

 生命の歴史において人類というものが出現したのは大きな謎である。生きものにとって人類は生きもの自らを破壊に導く癌のようなもの、あるいは自爆装置のようなものかもしれないからである。創造・維持・破壊というサイクルがあらゆるものに共通の必然だとすれば生命がその生成過程において人類という自らを破壊する装置を仕込んだのは必然だったのかもしれない。どうもこの頃人類というものに悲観的になってしまう。


4

鑑賞日 2016/11/9
照明燈に火蛾と義足のアスリート
榎本愛子 山梨

 「七月の青嶺まじかく溶鉱炉」と山口誓子が当時の風物を詠み込んで新鮮な感動を与えてくれたように、作者は「義足のアスリート」という現代的な事象を読み込んで情感ある情景を描いている。


5

鑑賞日 2016/11/10
勇気その他全部並べて山滴る
小野裕三 神奈川

 私は勇気というものはあらゆる徳の根底にあるものだと思っている。あらゆる徳は勇気があれば身に付くものであるし、勇気が無い徳があるとすれば、それは壊れやすい。だから「勇気その他全部」というのは持ちうる美質全てということである。それらを並べて山は滴っているというのである。人間においても然りであろう。もしかしたら、この滴る山のような人物を想っての作なのかもしれない。


6

鑑賞日 2016/11/10
あじさい咲く半世紀の家罹災する
柏原喜久恵 熊本

 作者は熊本県在住の方であるから、この家は御自宅であろうか。「半世紀の家」と過去を回想するような言葉が入っているからそうなのかもしれない。熊本地震は4月14日と4月16日に発生したものが一番大きなものだったから家が損壊したのもこの頃だったに違いない。その頃はまだ紫陽花は咲いていない時期なのでおそらくこの句を作ったのは罹災してから一月以上は経っている筈である。何度も足を運び損壊した家を眺めたのだろうか。季節が進み紫陽花の咲く頃となった。家の前に佇んで物思いをしている作者の姿が偲ばれる。


7

鑑賞日 2016/11/11
夏野ゆく眦冷えて漂えり
川田由美子 東京

 眦(まなじり)とルビ

 「眦冷えて漂う」というのがある心理状態を適確に表現しているように思う。たとえば、今まで安定していた内面的な秩序が外側からの力で崩れてしまったような時に、人は今までより高レベルの知的な判断をしなければ自分の存在が統合されなくなってしまうことがある。そのような時人の心は冴え冴えと冷えた意識の中で漂うのではないか。このような内面の心理を際立たせる背景として「夏野ゆく」がある。


8

鑑賞日 2016/11/12
女人住職今朝は粽を結い給う
川村三千夫 秋田

 世界に戦争が多すぎるのは男性原理に傾きすぎた宗教ばかりだからではないかと思うことがある。神であるとか仏であるとか絶対的で至高の存在は性を超越しているのだから、その神や仏に仕える者は女性であっても男性であってもいいはずである。男性ばかりが多すぎる現状ではむしろ女性が増えた方がいいのかもしれない。この句のような日常の生を大事にする聖職者が増えれば戦争も減るかもしれない。この句を読んでいると心が柔らかくなる。


9

鑑賞日 2016/11/12
竹の秋疲れは手持ちぶさたに似て
北村美都子 新潟

 われわれは心の奥で何かを待っている。しかしそれはなかなかやって来ない。虚しくなる。手持ちぶさたに感じて、どうでもいい瑣末なことで気を紛らす。しかし心の奥に満足感はない。徒労感疲労感に苛まれる。周りをみれば、他の人は自分ほどの疲労は感じていないように見える。私はどうしたらいいのだろう。周りは春の生命に溢れているように見えるが私はまるで秋のようだ。今にも生命の葉が落ちそうである。


10

鑑賞日 2016/11/13
浮いて来い少女の股間蹴とばして
木村和彦 神奈川

 ぎりぎり卑猥にならないのは「浮いてこい」という季語の由縁だろう。それから「蹴とばす」という威勢のいい言葉にも依るかもしれない。


11

鑑賞日 2016/11/13
蝙蝠の湿度さわっとそっけない
久保智恵 兵庫

 私が驚くのは蝙蝠によく手で触れられるなあということである。私にはどうも気味悪いからである。グルジェフだか誰だかが言っていた。鼠などを例に揚げて、世の中に嫌悪するものがあるうちは人間は悟れないということを。先ずその意味で作者を尊敬してしまう。「さわっとそっけない」というのは蝙蝠を掌で包み込んだ時の感触であろうか。いずれにしろこういう表現ができる程に蝙蝠を感じるというのは素晴らしい。


12

鑑賞日 2016/11/15
白夜かな椅子高すぎる国に来て
こしのゆみこ 
東京

 どこだろう。身長の高い国で白夜が見られるくらい緯度の高い国はアイスランドやスウェーデンなどがある。カナダかもしれない。句の雰囲気としては北のほうにある大男の国を旅するファンタジーの一場面というような雰囲気もある。


13

鑑賞日 2016/11/15
ひとりとは流れることよ夏河原
佐孝石画 福井

 こんな言い方ができるかどうか分からないが、明るい無常感と言えるようなものを感じた。肯定的な無常感と言ってもいいかもしれない。夏の河原の光が句を照らしている。


14

鑑賞日 2016/11/16
上がらない手猫の所作で顔湿す
釈迦郡ひろみ 
宮崎

 何らかの理由で手が上がらない。顔を洗いたい。仕方がないので猫が顔を撫でるような所作で顔を湿したというのである。私なら顔なんか洗わなくてもいいやどうでもいいやと投げやりになってしまうかもしれない。作者は丁寧に日常を生きようとしている。与えられた情況に文句を言わないで丁寧に日常を過ごす、という一つの生きる秘訣を教わった気がする。


15

鑑賞日 2016/11/16
蛍きちがいが一人いる郷土史会
白井重之 富山

 人間というものの面白みを感じた。単なる「蛍好き」ではなく「蛍きちがい」というのが面白い。おそらく彼は大真面目なのだろう。大真面目であればあるほど人間の面白みの味が出てくる。蛍と郷土史会があまり関係無さそうなのがまた面白い。その場が何であろうと彼には関係ないのである。そしてその対象が蛍であるというのが彼を憎めない由縁である。


16

鑑賞日 2016/11/17
かなかなや灰として吾を樹下に撒け
菅原春み 静岡

 山野への散骨、あるいは樹木葬のようなものを作者は想っているのかもしれない。光を撒き散らすようなかなかなの声が句の内容と響きあっている。ところで私も散骨ということを考えているので、とても共鳴した。


17

鑑賞日 2016/11/17
たんぽぽの絮なつくさの檻の中
鈴木修一 秋田

 小さいいのちへの慈しみの気持ちがあるからこういう句が書けたのではないか。「檻の中」という言葉から私には何だかいのちというものを大事にしない現代社会への批判的目を感じた。


18

鑑賞日 2016/11/18
七夕を最期にえらび祖母眠る
たかはししずみ
 愛媛

 七夕の時期に祖母が亡くなったということ。七夕といえば織り姫と彦星の逢瀬のはなしを思いだす。生前仲のよかった祖父とまた逢いたいという願いで祖母は死期に七夕を選んだのかもしれないという想いが作者の中にはあったかもしれない。ある年齢以上になると、死は生よりもロマンを帯びてくることがあるという事実もある。


19

鑑賞日 2016/11/18
加齢ふと眠ってばかりいる金魚
田口満代子 千葉

 「ふと」に味がある。ふと眠っていた、というような眠りは幸せな眠りであるような気がする。どうだろうか、ふと死んでいたということはあるだろうか。あるかもしれない。死の恐怖というものの実態が死の恐怖への恐怖であるということを考えれば、ふと死んでいたという死は恐怖の無い死である。ゆえにそれは幸せな死と言える。金魚などはそのような死に方をしているようにも思える。


20

鑑賞日 2016/11/19
わらわらと群れる老人栗の花
田浪富布 栃木

 老人クラブだとか老人ホームのような場所だろうか。あるいは日本社会を眺めた時の感想だろうか。栗の花は確かにわらわらと群れるように咲く。しかも独特の臭気がある。美しい花だとはいえないがそれなりの趣はある。老人はいわば無用のものであるが、無用の有用性ということもある。これからの日本社会は無用の用という価値に気付くのが大事なのかもしれない。あの花はやがて美味しい実をむすぶのである。


21

鑑賞日 2016/11/19
静けさがあめんぼうのように和らいで
谷 佳紀 神奈川

 完全な闇や完全な光がそうであるように、完全な静けさというものはある意味人を緊張させる。人はそれに絶えられない。そこでは個我が失われてしまうからである。われわれが普通‘静けさ’と言っているものは、この和らげられた静けさである。われわれはそこで大我と個我の美しい関係を感じて寛ぐのである。その意味でこの句は人間存在のまことに本質的なところを言っている凄い句である可能性がある。
 この句を読んで、芭蕉の

閑さや岩にしみ入る蝉の声

という句の一つの秘密を垣間見た気がするのである。


22

鑑賞日 2016/11/20
息ひとつ蛍火ひとつ響きあう
月野ぽぽな 
アメリカ

 「息ふたつ蛍火ひとつ響きあう」ではどうなんだろうという妙なことを考えている。

息ひとつ蛍火ひとつ響きあう
息ふたつ蛍火ひとつ響きあう

 どちらもそれぞれいいような気がしてきたが、「息ひとつ」と書いた作者はより求心的あるいは求道的な立場にいるということかもしれないと思った。そこには我と汝しか存在しないからである。


23

鑑賞日 2016/11/20
冷酒や狂気をなんとか飼い馴らし
峠谷清広 東京

 この人の句は面白い。人間をさらけ出して書いているから共感をよぶ。こういうふうに人間の弱さを客観視できるというのは素晴らしい。その意味で「男はつらいよ」という作品に通じるものがある。


24

鑑賞日 2016/11/21
鼻すする遥かへ菜花ひかりおり
中内亮玄 福井

 われわれは現実的な日常を生きていくうえで何か‘遥かなるもの’を心の中に想定しないで生きていけようか。遥かなる何か、そうそれは光るもの。そういうものが心の中にあるからこそ、われわれは鼻をすすりながらでも日常という現実を生きてゆける。


25

鑑賞日 2016/11/21
春の野に巨樹あり蘖を育て
中島まゆみ 埼玉

 これはまさに金子兜太を巨樹に譬えて言ったものではないかと思ってしまった。蘖(孫生え)は歳時記によると切った草木の根株から生えてくる芽となっているが、ここでは単に樹木の根元から生えてくる若芽という意味であろう。この巨樹が野にあるというのが気に入った。


26

鑑賞日 2016/11/22
身の中は噴火口なり揚羽蝶
野崎憲子 香川

 そのような人物(たぶん女性)を揶揄しているのかと思った。揚羽蝶のように外面は美しく装っているが、その内面はどろどろとしたマグマが溜って今にも吹き出す噴火口のような人のことである。内面と外面を一致させて生きるのは難しいが、できるだけ一致させた方がいい。あまりに違うとその人格はやがて破綻する。


27

鑑賞日 2016/11/22
汗して旅草奔の語の鮮しく
野田信章 熊本

 Wikipedia……草莽(そうもう)とは、民間にあって地位を求めず、国家的危機の際に国家への忠誠心に 基づく行動に出る人(「草莽之臣」)を指す。 特に幕末期の日本においては特殊な意味を 有する。
 広辞苑……草莽 (I)草の生い茂った所。くさはら。くさむら。(2)民間。在野。

 広辞苑の方の意味に受け取りたい。そもそも国家への忠誠心など私には無いし、国家というもの自体に胡散臭さを感じているからである。国家ではなく郷土あるいは環境そして個人の自由が成り立つような人々の集合体というようなものなら価値があると思っている。そして「汗して旅」ということには全く賛成である。汗して旅をして得られる野との一体感を(高級)官僚達は知らないのだろう。


28

鑑賞日 2016/11/23
たましいのための組曲黒ぶどう
橋本和子 長崎

 秋のある日とある小さな画廊の小さな展覧会を見に行った。印象的な一枚の絵に出会った。黒ぶどうの描かれた絵であった。絵そのものも印象的であったがその題名にまたとても魅かれた。その題名は「たましいのための組曲」というものであった。
 たまたまその日は午前中何もすることがなかったので、紅茶を飲みながらめったにつけないFMラジオのスイッチを入れた。聞こえてきた。・・・それではkazuko hasimoto作曲たましいのためのピアノ組曲第6番‘黒ぶどう’をお聴き下さい・・・


29

鑑賞日 2016/11/23
雀ほどの知恵かな麦わら帽子かな
平田 薫 神奈川

 軽やかな句である。自分が大層な知恵の持ち主だと見做している人は重たくて軽やかでない。エゴという重荷を背負っているからである。逆に自分は知恵がない、もしあるとしたらそれは雀ほどの小さな知恵である、と見做している人は軽やかだ。当然麦わら帽子もとても軽やかな帽子である。麦わら帽子をかぶって軽装で野を歩いているような雰囲気がある。


30

鑑賞日 2016/11/24
縮む背にさらに燕の滅多斬り
堀真知子 愛知

 若い燕という言い方がある。女性からみて年下の若い恋人のことである。そこまでの暗喩をこの句に見ていいかどうかは疑問であるが、単に威勢のいい者にやり込められていると受け取るよりは楽しい連想である。


31

鑑賞日 2016/11/24
戦争を知らないわれら星祭り
本田ひとみ 埼玉

 ひと昔前のいい時代を思いだした。戦争を知らない世代がおおっぴらに愛を歌い反戦平和を歌った時代である。ジョンレノンやボブディランの時代である。ジョンレノンはイマジンで「われらはこのはだかの大地にたって星を祭れ」と歌ったのではなかったか。今ではどうだろう。だんだんと憎しみを謳い戦争を謳う時代になってきた気がする。


32

鑑賞日 2016/11/25
夏至の鳥株情報紙にフン散らす
マブソン青眼 
長野

 文明批評の句。あまりにも欲望が肥大しすぎてしまった人間文明への批評である。金融資本主義はその行き過ぎた欲望の果のシステムであるように思える。一昔前は新聞紙は便所紙としての有用性があったが今ではそれもない。新聞紙はもっと柔らかい紙で作って、読んでしまったらトイレペーパーとして利用できるものでなければならないというような法律を作ったらどうだろうか。この句におけるこの鳥はそれを示唆している。


33

鑑賞日 2016/11/25
初蝉が胸にぶつかる転ぶなよ
丸木美津子 愛媛

 私もよく転ぶ。そもそもおっちょこちょいの所為かもしれないし、歳をとって足腰が弱くなってきた所為かもしれない。まあ私の人生そのものが盲滅法走ってきて転び続けてきたようなものだから仕方がない。おいおい初蝉よ、そんな私にぶつかってきて驚かすなよ。また転んでしまうじゃないか。まあ君も盲滅法すっ飛ぶ同類のようなものなのかもしれないが。


34

鑑賞日 2016/11/28
枇杷いくつか母に老後の選択肢
宮崎斗士 東京

 「枇杷いくつか」に作者の達観が示されているのだろう。それはどんなものかと言えば、禅的な軽やかさとでも言えようか。考えてみれば生を深刻なものと受け止めるのは罪である。生の本質はころころと転がるいくつかの枇杷のように軽やかで旨味のあるものなのだ。尤もそういう達観に至るには相当な深刻さを通り越しているのだろうと推測できる。


35

鑑賞日 2016/11/28
しずかなる氾濫金魚の泡に泡
茂里美絵 埼玉

 はんらん【氾濫】とは。[名](スル)1 川の水などが増して勢いよく あふれ出ること。洪水になること。「豪雨で河川が―する」2 事物があたりいっぱいに 出回ること。あまり好ましくない状態にいう。「情報の―」「悪書が―する」……goo辞書より

 私がこの句から連想したのは例えばトランプ現象もその一つである。誰かが威勢のいい言葉を吐く。実はその言葉は事実の重みがないからすぐ弾けて消えてしまう泡のような言葉であるが、人々はその言葉を真実と受け取って呼応するように自分もまた泡のような言葉を発する。泡に泡が重なってやがて不実の泡の氾濫となる。
 卑近なところでは夫婦喧嘩などもそうかもしれない。泡のような言葉で相手を攻撃するとまた相手も泡のような言葉で反撃してくる。泡に泡がかさなって氾濫し手のつけようがなくなる。
 氾濫がまだしずかであるうちに泡の空しさに気付くべきであろう。


36

鑑賞日 2016/12/1
蛇衣を脱いで逝くまで瞬かず
柳生正名 東京

 人生において或る啓示を受けて以来死ぬまでその啓示に従って生きたような人を暗示しているのかもしれない。例えば預言者のような人。預言者などと大げさなことを言わなくても、例えば自分はこの生においてこの道を行くのだと決めて以来、その道を行くことを貫徹したような人なら沢山いるのではないか。これらは良い意味で衣を脱いで瞬かなかった人であるが、同じ譬えが悪い意味でも使われうるかもしれない。例えばある悪い想念に取り憑かれてその想念を成すために一生を使ってしまった人。極端な例でいえばヒトラーのような人は取り憑かれた人であろう。但し「衣を脱ぐ」というのは余分なものから脱却して本来の自己を悟るというようなニュアンスが強いから、やはり良い意味に解するのが素直だろう。


37

鑑賞日 2016/12/1
十二番線真夏日のフクシマへ
大和洋正 千葉

 田舎に住んでいると十二番線というのは駅のホームとしてはとても多いような気がするが、東京駅などの場合には三十番線くらいまであるそうであるから、その中の一つということだろう。兎に角自分は今真夏日のフクシマへ行こうとしている。フクシマへは何番線のホームの列車に乗ったらいいのだろう。えーと十二番線か。十二番線、十二番線。間違わないように間違わないように。真夏日のフクシマは十二番線である。十二番線。


38

鑑賞日 2016/12/2
自画像に傷加えたくなる敗戦忌
輿儀つとむ 沖縄

 作者は沖縄の人であるから、「自画像」には沖縄の歴史というものが重なっているに違いない。日本人は敗戦を終戦と言い換えてあるいは天皇をアメリカに乗り換えて敗戦の記憶を忘れてしまおうとしている。そして日本が行なった醜い侵略戦争は無かった、日本は常に清いものであったと思い込もうとしている風潮が今ある。ところがどっこいそうは問屋が卸さない。殊に肉弾戦を闘った記憶を持つ沖縄の人にとっては、そんなきれい事の自画像(歴史認識)は嘘くさくてしょうがないだろう。そんな自画像には唾をひっかけたり傷をつけてやりたくなるのは当然だ。


39

鑑賞日 2016/12/2
帰省とは隣のおかずまでわかる
若林卓宣 三重

 帰省というものの本質を言いとめた句であろう。しかしこれは向こう三軒両隣という言葉がまだ死語では無かった昭和までの頃の帰省感なのではないかと思った。今でもこの句にあるような帰省があり得るような村落がどこかの田舎には存在するだろうか。あるとしてもそれは無くなりつつあるのではないか。そして作者はそういうことを意識し、社会の劣化に対して警告を発しているのかもしれないとも思った。


表紙へ 前の号 次の号
inserted by FC2 system