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金子兜太選海程秀句鑑賞 526号(2016年10月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2016/10/3
息絶えし夫のなごりの温みかな
阿保恭子 東京

 温(ぬく)とルビ

 妻より夫の方が先に逝くことが多いが、結局その方がいいだろうと思った。この句に感じられるような理性を保ちながらの温かい眼差しというものを妻は持つことができるような気がするからである。妻が先に逝った場合には、夫はもっとおろおろとしてしまう気もする。概ね、夫は妻の掌で遊んでいるような存在であるが、その掌が無くなってしまうのはやはり困るからである。


2

鑑賞日 2016/10/4
身体中水の傾く熊本地震
有村王志 大分

 ヨガ行者のような見方だと思った。そもそもヨガには統一というような意味があるらしい。心身の統一そして心身と外界の総ての事象の統一である。ヨガ行者はある時、身体と外界の総ての事物が水の平衡であると知覚している可能性がある。


3

鑑賞日 2016/10/5
個体は愛集団は憎春の鹿
石川青狼 北海道

 鹿の生態を殆ど知らないという所為もあるが、私には春の鹿に託つけて人間のことを言っているように思える。愛によって人をまとめるのは難しいが、憎によって人をまとめるのはいとも簡単である。政治の世界を見ればそれはすぐに分る。敵を作れば簡単に人をまとめることが出来る。


4

鑑賞日 2016/10/6
半夏生略語に翻弄さる齢
市原光子 徳島

 「ディスる」だとか「K・Y」だとか「チョベリバ」だとかの言葉だろうか。そうそう「ネトウヨ」といのもある。何しろ雲のように湧き出て消えてゆく言葉達だからである。ところで「半夏生」という言葉から受ける印象が句の内容に相応しい気がする。半夏生という言葉には、何となく妖しく、何となく実体が定まっていないもの、という印象があるからである。


5

鑑賞日 2016/10/7
頭から蛍こぼれますお地蔵さま
稲田豊子 福井

 内容といい語り口といい作者の信仰心と感謝の気持ちが溢れていて素晴らしい。人間や自然を含むあらゆる存在に対しての信仰心と感謝である。地蔵へのそれはあらゆるものに対するそれへの入り口となりうる。


6

鑑賞日 2016/10/8
ときどきは暗くなる日の蕗を煮る
上野昭子 山口

 「蕗を煮る」というのはごくごく普通の日常の仕事の一部である。暗くなったり明るくなったりするのも、天気の面でもそうだし心理的な面でもごくごく普通の日常の出来事だ。外面的あるいは内面的な変化にあまり振り回されずに坦々とやるべきことをこなしてゆくという生の態度である気がする。カルマ・ヨギ(仕事を通じて宇宙の気との合一を目指す人)の態度と言えるかもしれない。


7

鑑賞日 2016/10/9
四葩咲く生臭きもの日々食べて
榎本祐子 兵庫

 四葩(よひら)とは紫陽花のこと。
 美醜・清濁・善悪・聖俗・強弱・・・というようにあらゆるものは二元的に成り立っている。これを対立とみるか相補とみるかで大分生きる態度は違ってくる。対立と見做せば、その人の生は狂信的で力の入ったものに成らざるをえない。結局世の中好いとこ取りはできないのであるから相補と見做すのがより大きな思想である。結局、この句は相補の思想の表現ということになる。


8

鑑賞日 2016/10/10
馬鈴薯の明るいおぎゃ稚いおぎゃ
大沢輝一 石川

 稚(わか)とルビ

 「おぎゃ」って何だろう。方言だろうか。分からない。赤ちゃんが生れる時の産声の擬声語「おぎゃー」に似ている。「稚いおぎゃ」であるから「おぎゃー」という大声まではいかないが幼児が発する音声のような気もする。馬鈴薯を土から掘った時の白いころころとした明るい感じは幼児が発するような声で「おぎゃおぎゃおぎゃ・・」と言っているような感じがしないでもない。


9

鑑賞日 2016/10/10
千の余震欠けたコップのばら開く
柏原喜久恵 熊本

 どんなに不遇で暗い状況の中でも希望はあるということ。その希望は自然との関わりの中にあるということ。「千の余震欠けたコップ野薔薇開く」と受け取れないこともないが、これだと人間は人間自然は自然となってしまうので非常に淋しい感じだ。やはり「千の余震欠けたコップの薔薇開く」と受け取った方がいい。俳句的にも切れは一つの方が有機的な一つの世界が生れるということかもしれない。


10

鑑賞日 2016/10/11
穴掘ってばかりいる街桜桃忌
片岡秀樹 千葉

 6月19日は大宰治の忌日である桜桃忌。大宰治は1948年6月13日に愛人と玉川上水に入水自殺して6月19日にその遺体が発見された。6月19日は大宰の誕生日でもあるらしい。38年の生涯に4度の自殺未遂。2度の結婚(正式には一度)、複数の愛人。一方で子煩悩(子ども3人)で愛妻家でもあったらしい。穴ぼこだらけの人生だったと言えなくもない。穴があれば覗いてみたくなる。恋は穴のようなものなのかもしれない。


11

鑑賞日 2016/10/11
まぼろしは二月のあそびしろつめくさ
加納百合子 奈良

 どうだろう、白詰草は二月には咲いているだろうか。まだ咲いていないような気がする。だとすればこのしろつめくさはまぼろしなのかもしれない。ああ白詰草が咲き出したら、白詰草の野に座ってあの人のために白詰草の花の冠を作りましょう。きっと楽しいだろうな。あの人は頭に載せてくれるかしら。きっと載せてくれる。そして私に仕合わせがやって来る。でももしかしたら載せてくれないかもしれない。そしたらどうしよう。どうしよう・・・
 ちなみに白詰草の花言葉は「わたしを思って」「幸運」「約束」そして「復讐」なのだそうである。


12

鑑賞日 2016/10/12
夏星を挑発露天風呂のわたし
川崎千鶴子 広島

 神話の世界では神々が人間と恋に落ちたり横恋慕をしたりしながら物語が進む。そして自然の事物はすべて神々の現れであると見ることが出来る。だとすればこの句はある一つの神話の始まりだと言えるかもしれない。かつてある詩人が、我々のやっていることは一つの神話にすぎない、と言ったことがある。そう、神話的要素(詩的なものと言い換えてもいい)が徹底的に失われてしまい干涸びてしまったように見える現代において我々はもう一度大いに神々を挑発してみるのもいいかもしれない。我々は神話を生きているのだ。


13

鑑賞日 2016/10/12
野に母を沈め琥珀の薄暑かな
川田由美子 東京

 琥珀は鉱物ではなく樹脂の化石であるそうだ。「ジュラシックパーク」という映画はで琥珀の中に閉じ込められた恐竜の血を吸った蚊の化石のDNAで恐竜が復元されるという物語であったが、そのように琥珀は有機物を由来とするものである。そんなことを頭の隅に置きながらこの句を味わおうとしてみたが、結局そのことは一旦忘れてしまおうと思った。
 野は母が沈められた場所である。そのことを思うと、この薄暑の空気全体が琥珀の濃密さを帯びているようだ。


14

鑑賞日 2016/10/14
自分史を手広く配布金魚浮く
楠井 収 千葉

 自分史であるとか自伝であるとかの多くは死体のようなものである。生きて泳いでいる金魚ではなく死んで浮いた金魚である。だから自分史など書かない方がほぼいい。過去の自分の足跡を辿るよりも、現在の自分に深く入っていった方がいい。現在の自分に深く入っていく助けとなるなら自分史を書くことにも一つの理由にはなるかも知れない。しかしこれは稀なケースである。ましてやそれを手広く配布する必要はない。人は他人のことには殆ど興味がないからである。皮肉たっぷりの句であるとみた。


15

鑑賞日 2016/10/14
爪光らせてくる田植機やにこにこす
黒岡洋子 東京

 田植機で田植えをしているところを前の方から眺めたことは無いが、沢山の光った爪が苗を抓んで次々に植えてゆく姿は想像できる。さて、にこにこしているのは誰だろう。田植機そのものが苗を植えてゆく様子がにこにこしている感じであるということかもしれないし、あるいは田植機を操縦している人がにこにこしているのかもしれない。いずれにしろ手際よく稲が植えられてゆくということへの充実感が表現されている気がする。


16

鑑賞日 2016/10/15
言霊や朝の狭庭に白鶺鴒
児玉悦子 神奈川

 今『ラーマーヤナ』を読んでいる。とても面白い。この神話に登場する人々や神々はすぐに呪いの言葉や祝福の言葉を発する。そしてそれがことごとく実現してゆく。まさに言霊の世界だという感じである。現代でもそうだ。たとえその言葉が魂が込められて発せられたものでなかったとしても、言葉を発するとその言葉はあたかも魂があるかのように振る舞う。例えばアベノミクスというような言葉はその典型である。何かそこに魂があるかのように人々は錯覚して頼りにしてしまったりする。これは言霊作用を利用した人間の企みだと言える。「ハイル・ヒトラー」や「ユダヤ人を殺せ」などはまさに悪霊の魂が込められた言霊だろう。祝福の言葉と同時に呪いの言葉がある限り、言霊というものは両刃の剣だ。
 ところでどうだろう、朝の狭庭にやってきた白鶺鴒を言霊のようだと作者が感じているのだとすれば、この言霊はまさに祝福の言葉を発したに違いない。


17

鑑賞日 2016/10/15
紀音夫忌や二塁手かるくバックトス
小松よしはる 
東京

 内野ゴロなどを二塁手がかるくバックトスしてダブルプレーを成立させるというのは時々見かけるプレーだ。難しいことをごく簡単なように捌く。一方、林田紀音夫は無季俳句という難しいものをその天性の資質によって如何にも簡単そうに捌いたということなのかもしれない。あるいは斜に構えたペシミスティックな感じがこの二塁手のプレーに通じないこともない。


18

鑑賞日 2016/10/21
 27年ぶりの国民学校卒業式挙行
「君が代」を唄わぬ一人卒業す
小柳慶三郎 群馬

 一人の人間が書かれている。あるいは一人の人間の尊厳が書かれている。あるいは自己の尊厳を守ろうとした一人の人間の勇気が書かれている。いつの世にも自己の尊厳を守るというのは大変なことだ。それは時に孤立を招くからである。いっそのこと凡庸になってハートを捨てて周りの空気に合わせてロボットのように動いていった方がいいと思ってしまう。実際そのように動いた方が楽なのだ。どうだろうか、私には現在の日本人はそのように凡庸なロボット化の流れの中にいるような気がするが、これは悲観的な見方だろうか


19

鑑賞日 2016/10/21
遺影背に人魚座りの夏座敷         
齋藤しじみ 東京

 法事での一場面。人魚座りだから女性だろう。人魚座りをしているのは一人だろうか。私は一人ではなく何人かの女性だと思った。何人かでおしゃべりをしている場面が想像された。人魚座りだからかしこまった話ではなくリラックスした世間話のようなものだろう。それにしても‘人魚座り’というのは洒落た言葉だ。人魚座りして世間話をする。これこそ世の女性の愉しみとするものかもしれない。人間いつ命を終わって遺影になってしまうかもしれない。生きてあるうちにこの生を美しく愉しむのもいい。


20

鑑賞日 2016/10/21
出合頭の蜂に執着夫の忌なり       
篠田悦子 埼玉

 夫のことを回想している。夫との結婚ということを回想している。つまり、この夫との結婚は出合頭の蜂に執着して結婚したようなものだったなあというのである。ある意味結婚とはそういうものかもしれない。出合頭である。そしてその人は自分に心地よいものを与えてくれる人だとは限らない。しかしどうだろう、魂のレベルではそういう人を求めていたのだと言えないだろうか。そして生涯をその人と過ごすことによって魂のレベルでの何らかの成長があったのだと言えないだろうか。私なども死後に妻によって、自分はとんでもない人と結婚したものだ、と回想される可能性はある。


21

鑑賞日 2016/10/21
草毟り夏至の白夜をたのしめり       
末岡 睦 北海道

 ちまちまとした現実の日常を離れて大きな世界に運ばれる。大地や宇宙を感じると言ってもいい。最近は人類というものに対して悲観的にならざるをえないようなことが多いが、この句を読んで本来人類があるべき大きな姿を思い出した。


22

鑑賞日 2016/10/21
この花とこの世にありて蓮の池      
高桑婦美子 千葉

 まず美しいと思い、そして平和だと思い、そして解脱という言葉が思い浮かんだ。われわれはこの生において欲に由来する様々な余分なものを徐々に落してゆき、そして「この花」と呼べるようなものに到達する。その状態をこの世における解脱と呼んでもいいだろう。幸いなるかな「この花」を見つけた人は。


23

鑑賞日 2016/10/22
鶴引くや夜光時計のうすみどり     
田口満代子 千葉

 「うすみどり」がいい。改めて色彩と心情の間に存在する精妙で確かな関係ということを思った。この作家から私が受けた衝撃の句として「コーランの夜明け白薔薇在りますがごとき」があるが、考えてみるとそれは「白」という色彩の動かし難い無垢性に圧倒されたのかもしれない。そして今日の句のこの「うすみどり」である。今、この「白」から「うすみどり」への移行ということを考えているが、私にもそれなりに分かるものがある。年齢や経験を重ねてきてこの人の白いキャンバスが全体的にうすみどり色になってきたということかもしれないが、それはおそらく人間の成熟ということに対応していることなのだろう。


24

鑑賞日 2016/10/22
気の抜けない人いて桜ばかりなり  
谷 佳紀 神奈川

 今の日本の政治状況を批判したものと受け取るのが一番分かりやすい。気の抜けない人の代表が安部首相である。何であんなに取り憑かれたような言動ができるのだろうか。富国強兵というような過去の悪夢に取り憑かれうるのだろうか。もう少しリラックスしろよと言いたくなる。桜は素朴に見れば美しい花であるが、日本の過去の歴史ではこの桜が「お国の為に咲きそして散りなさい」というような妙な象徴性を持ってしまった。おそらく彼の頭の中ではこの象徴性を持った桜ばかりが満開なのかもしれない。


25

鑑賞日 2016/10/22
麦熟星あしたも会うみたいに別れ 
月野ぽぽな 
アメリカ

 ところがどっこいそうはいかないこともある、いや、そうはいかないことばかりだ、ということをこの作者は心得ている筈だ。この作者は大きくものを見る目があると私は思っているからである。そして、あしたも会うみたいな別れ、をすることも儀礼としては必要だということもおそらく分かっている。熟した人間関係というものはそういうふうであるべきなのかもしれない。


26

鑑賞日 2016/10/22
夜濯やジュゴンを運ぶ船通る 
遠山郁好 東京

 ジュゴンを運ぶ船。言い換えればいのちを運ぶ船である。失われそうな大切ないのちを運ぶ船である。というようなことで私はノアの箱船を連想した。いのちということに関しては今日本でも世界でもそれこそ神罰による大洪水が起きても不思議ではない状況のような気がする。そして私はノアの箱船のようなものを信じてはいないので悲観ばかりに支配されがちである。しかしこの句には以外と温かい情感がある。どんな状況になろうといのちは守られるはずだという女性特有の確信のようなものがあるのかもしれない。


27

鑑賞日 2016/10/24
初夏ひとり恥はらふかに奇声出づ 
長尾向季 滋賀

 人は多かれ少なかれ自分自身に何らかの誇りが無ければ生きがたい。ところが時に、自分は世間に対して全く恥ずべき存在だと思うことがある。自分自身が恥ずかしい存在だと思いながら日常を送ることは辛い。居たたまれなくなる。その居たたまれなさの高じた結果がこの奇声ではないか。ラーマクリシュナは、恥と恐れがあるうちは人は悟れない、と言っている。そうかもしれない。しかしこの恥というものを払拭するのはとても難しいのだ。そして、政治家などの社会の上部にいる人達の厚顔無恥ぶりを見ていると、恥があるということは逆に感受性が豊かであることの証拠なのかもしれないと思いもする。悪い奴(恥の無い奴)ほどよく眠る、ということもあるからである。


28

鑑賞日 2016/10/24
静かなる青空持ちて春の野は
中島まゆみ 埼玉

 「持ちて」が味噌だろう。「春の野は」という余韻のある座五もいい。「静かなる青空」は何も言わないで只そこに存在する。そういう静かなる絶対的なものを自分は所有しているという実感を持つ春の野は逆に自由にその生命力を発現できるのである。春の野のいのちの営みを大いに予感させる句である。


29

鑑賞日 2016/10/24
独り居の星食べるよう猫まんま
夏谷胡桃 岩手

 独り暮らしをした経験のある人ならだれでも猫まんまを食べた経験があるのではないか。本来猫の餌としてのものだからこの名前があるのかもしれない。温かいご飯に鰹節をまぶしてバターあるいはマーガリンを加えて醤油をかけたものである。食事としては少し味気ないが不味くはないし手軽であるし結構美味いとも言える。この句は独り居の味気なさという面もあるが、「星食べるよう」であるから、むしろ独り居の自由の不可思議さを感じる。自由とは神秘なるものである。


30

鑑賞日 2016/10/26
毛虫急ぐ痒くなるまでいそぐ
丹生千賀 秋田

 「痒くなるまで」という言葉に作者が毛虫という存在と対峙している時間の長さを感じる。そして、毛虫が確と其処にいる。ものの存在感を確と表現するのが写生ということの醍醐味だとすれば、この句は写生句だということになるのかもしれない。


31

鑑賞日 2016/10/26
地震の顔ばかり立夏の城下かな
野田信章 熊本

 報道写真が歴史の証言として紛争地や事件現場の状況を伝えるものとしてとても大切なものだということがあるが、もしかしたら俳句もそのような役割を果たせるのではないかと思った。人々の内面をも含めて熊本の現況を語るこの俳句は腕のいい写真家が撮った写真に匹敵する。


32

鑑賞日 2016/10/26
滝の音わが空漠の汀とす
日高 玲 東京

 「汀とす」であるから自分でそう決めたということである。この空漠たる人生においては「決める」ということが必要になることがある。あなた任せに決まることを待っていると流されるままの人生になってしまう可能性がある。しかもこの場合は滝の音というかなりはっきりと大きい印であるから、これは決める価値があるだろう。


33

鑑賞日 2016/10/28
麦熟星はたらく馬はもういない
堀之内長一 埼玉

 私が住んでいる家は古い農家を買ったものだが、その家屋の中には馬を飼っていた場所の跡がある。馬と人はほぼ一緒に生活していたのだろう。この馬は畑を耕したり荷物を運んだりしていたのかもしれない。麦熟星の下で馬と人が共に働いていたような場面が思い浮かぶ。今では馬といえば競馬馬くらいしか思いつかない。あるいは馬肉になる為に飼われている馬もいるのかもしれない。この状況が馬や人にとって幸せなことなのかどうかは分からない。しかしこの歴史の流れは止められない。


34

鑑賞日 2016/10/28
軽いやうな重たいやうな鮎もらひ   
前田典子 三重

 鮎の軽重のことではなく人間の心理を扱っている。人間の文化はおそらく贈与によって成り立っている。その美しいかたちは何の見返りも期待しない贈与であるが、そういう贈与は稀である。美しい贈与を受けた場合は心が軽くなる。しかし多くの場合の贈与は心が重くなることが多い。返礼をしたものだろうかどうだろうか、どのような返礼がいいだろうか、この返礼品はちょうどいいだろうか、というように悩まなければならなくなる。


35

鑑賞日 2016/10/31
木の名前忘れやすくて小鳥来る       
水野真由美 群馬

 名前を知るというのは分別のはじまりであるし、名前を忘れやすいというのは無分別のはじまりなのかもしれない。分別が無いということと無分別の境地にあるというのは違う。分別が無いというのは単に分別が無いのであるが、無分別の境地にあるというのは分別という領域を超えているということである。どうやってこの二つを見分けたらいいだろう。それは小鳥が来るかどうかではないか。アッシジの聖フランチェスコのところには小鳥達が寄って来たそうである。


36

鑑賞日 2016/11/1
あの金魚とよく目が合って執筆中      
宮崎斗士 東京

 あの金魚・・・どうも気になるなあ・・・そうだこの布で金魚鉢を覆ってしまえ・・・これでよし・・・うん、やっぱり気になる。あいつ今何してるだろう・・・(布を上げて覗く)・・・ぎょ、やっぱり俺を見てやがる・・さてどうするか・・・そうだ、金魚鉢を見えないところに持っていってしまおう・・・これでよし、と・・・うーん、気になる・・あいつの存在自体が気になる・・・庭に穴でも掘って埋めてしまおうか・・・。こうなるともう神経症であるが、作者はどうやり過ごしたか。おおらかにこの金魚と目が合うのをたのしんでいたのかもしれないが、私には作者が心理的にどう決着したのか気になる。そして思った。この句を作ったことがその決着だったと。俳句には神経症その他の心理的な危機に陥らないための効用がある。


37

鑑賞日 2016/11/2
ひなげし畑喋って喋って母凋む        
室田洋子 群馬

 存在物はみなその付与された性向に応じてそのエネルギーを放出してからその根源に還ってゆく。そんなことを考えている。その立場からみれば、ひなげしが咲くのも母が喋るのも同じエネルギーが違う形で顕現したものだろう。そしてみんな大地なるものに還ってゆく。「ひなげし畑」が明るい雰囲気を作っている。


38

鑑賞日 2016/11/3
眠い日常出目金の長い糞       
森  鈴 埼玉

 「眠い日常」・・つまりあまり急き立てられてやる事もあまりなく、ゆったりとのんびりとした日常ということ。そういう日常の雰囲気が「出目金の長い糞」でよく表現されている。だいたい忙しければ出目金の糞など眺めてはいないし、それが長かろうが短かろうが気にもつかない。こんな日常が羨ましい。


39

鑑賞日 2016/11/4
陽の蜥蜴握手強きは好敵手      
矢野千代子 兵庫

 政治の世界ではよく見る光景である。本心を旨とするトランプにおいてはヒラリーと握手しないようであるが、その辺りに彼の一定の人気の秘密があるのかもしれない。一般的には政治家はライバルとも表面的な握手ができる。それも強い握手ができる。もしかしたら政治家ほど陽と陰という二面性を持っている人間はいないのかもしれない。単なる「蜥蜴」ではなく「陽の蜥蜴」とした作者の意図が分かるような気がする。


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