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金子兜太選海程秀句鑑賞 525号(2016年8・9月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2016/8/5
イヌフグリ恵みのように加齢かな
安藤和子 愛媛

 老いることは嫌なこと、あるいは死とは嫌なこと、と捉える文化があるとすれば、それは実に悲惨な文化であるといえよう。何故なら人は必ず老いるのだし、人は必ず死ぬからである。自分の行く手に必ず嫌なものが待っているとしたら、どう足掻いてもその人の生は悲惨である他はない。「恵みのように加齢かな」という実感のある作者は真に祝福された生を送っているのだと思う。傲慢でなく謙虚な生を送っている人がこのような感慨を持ちうるのだろう。日の光を受けて輝く青い小さな花のイヌフグリとこの作者の生が響き合う。


2

鑑賞日 2016/8/6
てんと虫を吹いて邪魔する遊びかな
石川まゆみ 広島

 新しい遊びの発見!である。偶然やって来たてんと虫との遊びである。千変万化する自然の中には無限の遊びが潜んでいるに違いない。そこで遊びを発見し楽しむことが出来る人はおそらく創造性に満ちた人だ。この創造性の欠如ということが現代の人間の抱える根源的な問題なのかもしれないとも思える。現代においては freedom from 〜という意味の自由よりはむしろ freedom for 〜という意味の自由が見出せない状態に人間はあると思うのであるが、私は freedom for creativity ということを常日頃考えている。


3

鑑賞日 2016/8/7
地震止まず蟇の声さえ神々し
伊藤 幸 熊本

 地震(ない)とルビ

 われわれは日頃自然の営みに対してある種絶対的な信頼を置いて生きている。地震は、殊に大きくて何回もやって来る地震はその信頼感を根底から揺るがす。大地はどうなってしまうのだろうか、われわれの生存はどうなってしまうのだろうか、という不安に脅かされてしまう。そんな時に慌てふためく人間を余所にいつもどおりの声で鳴いている蟇の声を神々しく感じるというのは実感的によく解る気がする。自然への彼らの信頼は人間よりも深いのかもしれない。


4

鑑賞日 2016/8/8
麦秋や手ぶらのはずがこの重たさ
伊藤淳子 東京

 一瞬「重さ」という言葉を考えてしまったが、やはり「重たさ」の方がいい。いや、私なら「重さ」という言葉にしてしまったかもしれないと反省している。俳句は五・七・五だという瘡蓋みたいなものが私の中にあるのだろう。何回も読むうちにこの五・七・六というもたもた感も含めて、重たいものを引きずっている感じがとてもよく表現されているのである。「重さ」の場合、ああそうですか大変ですね、で終わってしまいそうだが、「重たさ」でいわば実存的肉体の重たさまでが感じられる。


5

鑑賞日 2016/8/9
今日もまた日永の油断やっつけ飯
上田和代 大阪

 「やっつけ飯」というのは要するにいろいろな食材を使って栄養バランスも考えて丁寧に料理を作るというのではなく、有り合わせの材料でササッと作って食べる食事のことなのだろう。だとしたら私は案外このやっつけ飯が好きである。玉子かけご飯だとか。お茶漬けだとか。猫飯だとか。ワンワンライスだとか。人間の時間の過ごし方にはおそらく緩急をつけるということが必要だ。だからのんびりと過ごしてからやっつけ飯を食べるというのは合理的なのかもしれない。そもそも一日に玄米四合と味噌と少しの野菜というのは完全栄養食に近いが、この賢治の食事はやっつけ飯のようにも思える。大体日本人はあくせすし過ぎであるから、もっとのんびりと生きるのがいい。おそらく作者はそのあたりのことは充分解っているのだろう。解った上で自分の日常を茶化して書いている気がする。


6

鑑賞日 2016/8/11
梨の花好いとこ取りのわが記憶
宇田蓋男 宮崎

 好いとこばかりを憶えている人。あるいはその逆に悪いとこばかりを憶えている人。おそらくこれはその人の性格によるものだろう。どちらが良いとか悪いとかいうことはないが、いずれにしろ自分の性格のもつ傾向を自分で分っているのは良いことだろう。自分のことが理解できれば他者のことも理解できるからである。自分のことが理解でき他者のことが理解できれば人間社会のことも理解しやすいのではないか。さて、人間社会のことが理解できれば世界のことが理解できるだろうか。自然界のことも理解できるだろうか。どうだろうか、梨の花よ。


7

鑑賞日 2016/8/12
牢番の蝋石をもて詩を書けり
大西健司 三重

 牢番が牢の番をしながら蝋石で詩をかいたのか、あるいは囚人が牢番の蝋石を借りて詩を書いたのか、あるいは囚人の詩を牢番が蝋石で書いたのか。いずれにしろ、何かの事実に基づいてこの句は書かれている気がする。それだけ真実性が感じられるからだ。もし我々が何らかの真実を抱いて生きているのなら、その真実が失われてしまうことはない。詩のかたち、あるいは伝説のかたち、あるいはその他何らかのかたちで、それは伝わってゆく。


8

鑑賞日 2016/8/13
流木にあらず九条は滝である
岡崎正宏 埼玉

 平和のシンボルである九条は実は滝である。九条を守るということは滝に飛び込むようなものである。流木ではない。流木にしがみついていれば何となく命が助かるというようなものではない。そしてやはりこれからの世界平和ということを考えれば九条の理想しかないというのが私の信念だ。要するに平和を価値とするなら、我々は滝に飛び込む覚悟がいるのである。しかも、それっきり道はない。


9

鑑賞日 2016/8/14
ふまじめな犬と私と桐の花
加古和子 東京

 何々であらねばならない、とか、何々しなければならない、とかはもううんざりだ。偉くなりたい人はそうやればいい。わたしは偉くなんかなりたくないから、ふまじめでいい。ふまじめがいい。犬と遊んだり、桐の花を楽しんだり、わたしはふまじめに生きる。
 勇気づけられる句である。


10

鑑賞日 2016/8/15
身のどこかに咲く薔薇があり傘寿なり
京武久美 宮城

 老年を嫌がったりあるいは惨めなものとして捉える傾向があるがやはりそれは変だ。人生がだんだんと惨めなものになっていって終わるというのでは、それは生きる価値がない。むしろだんだんと深みのある色彩の知恵と美を纏うようになりたいものだ。そういうことがかたちになっている句のように思えるのだが、例えばこの薔薇が癌のことだったりしたらどうだろうと考えた。そしたらそれは物凄く達観した境地だと言える。


11

鑑賞日 2016/8/16
仏頂面の素顔がうれしい牛蛙
小林まさる 群馬

 そう、世間では何だかしらないが、みな取り繕ったような面をして生きている。そうなるとこちとらも何だか取り繕わなければならないような心持ちになってしまって、自然とにせ笑いなどをしてしまう。どうも世間というものは疲れる。そこにゆくと、牛蛙よ、お前はその仏頂面の素顔で遠慮なく生きている。君を見ていると何となくほっとして嬉しくなるよ。


12

鑑賞日 2016/8/17
十薬のはびこる生家安堵する
佐藤紀生子 栃木

 「十薬のはびこる生家」に対して「安堵する」という感じ方が私には実によく分る。それ故に却ってそれを何と表現していいか分らないくらいである。敢て大げさに言えば、魂の源流近くに座す時に感じる心持ち、とでも言おうか。十薬のあの人を癒すような匂いがしてくる。


13

鑑賞日 2016/8/18
風船かずら戦争恐いからデモる
四王村玖希 埼玉

 これはもう「風船かずら」につきるだろう。弱いことの強さ、というか、弱さを自覚することの強さというか、女性性の強さというか、巨木の強さではなくむしろ柔らかい蔓性植物の強さというか、こんな蔓性植物がはびこって世界中を緑にしてしまえばいい。


14

鑑賞日 2016/8/19
耕しの僧に猿来て狗も雉子も
篠田悦子 埼玉

 私は山村で畑をやっているので、「耕しの僧に猿来て」まで読んで、これは猿めが畑の作物を荒しにやって来たのか、と咄嗟に思ったが、「狗の雉子も」と続いたので、うん、これはお伽話の桃太郎の世界ではないかと合点した。そして、畑の作物を荒らす猿に対しても、このように達観して眺めることが出来ればそれは逆に愉しいことでもあるなあと会得した。そしてそれが僧というものの本来の精神なのかもしれないし、この僧は良寛のような人物ではないかとも思った。


15

鑑賞日 2016/8/20
大地震水菜芥子菜の地が裂けて
白井重之 富山

 要するに人間の日常的な営みが破壊されるということ。家屋の倒壊であるとか道路の寸断であるとかもあるが、敢て作者が水菜や芥子菜のことに着目したのは、作者が日常的に水菜や芥子菜の大地に親しんでいるからではないか。もしかしたら作者はこれらの作物を作っているのかもしれない。いずれにしろ大地震はわれわれの日常を破壊する。そしてわれわれの日常はこの大地の上に成立している。


16

鑑賞日 2016/8/21
このところ糸遊纏ひ初老かな
すずき穂波 広島

 初老というのは六十代くらいのことであろうか。忘れっぽくなったりいろいろな物事が覚束なくなってくる状態なのであろう。それをこんな風に素敵に詩的に譬えて生きてゆくのも一つの老いの醍醐味であろう。


17

鑑賞日 2016/8/22
肥後大変日向は不安菜種梅雨
鈴木康之 宮崎

 作者は宮崎(日向)の人。そう、世の中事実だけで生きてゆけたらどんなにいいだろうかと思う。事実が大変なものだとしても、それは適切に対処してゆくことで収まるところに収まる筈である。ところが不都合なものとして心理的な不安というものがある。これはまだ起っていない事実に対するものであるからどうにも対処のしようがない。高じれば不安神経症にもなる。そういう意味では大変より不安の方が厄介なものである。菜種梅雨がこの不安な感情を代弁しているように降っている。


18

鑑賞日 2016/8/23
正対すれば鹿の目勁し芽木さかん
十河宣洋 北海道

 「勁」はぴんと張り詰めてつよいという意味。
 われわれの恐れあるいは弱さというものはおそらく逃げるからやって来る。恐いから逃げるのでなく、逃げるから恐いのだ。弱いから逃げるのではなく、逃げるから弱いのだ。その意味でわれわれは物事に正対して生きてゆくべきだろう。そうすればわれわれは自然がそうであるように自ずから強い。そうすればわれわれは恐れというものはあり得ない。


19

鑑賞日 2016/8/24
巣燕にわれも口開く喪明けかな
高木一惠 千葉

 われわれが生きてゆくということは、肉体的にも精神的にも常に何か食料を補給してゆくという作業なのかもしれない。作業といっても、それは半分以上は受け身であろう。巣の子燕は口を開くことはできるが、実際にその口に餌を入れてくれるのは親燕である。同じようにわれわれも魂の口を開くことは出来るが、そこにわれわれの魂を満たしてくれるものをわれわれより大きな存在が入れてくれなければ、われわれだってどうしようもない。求めよさらば与えられんという言葉があるが、与えるかどうかはわれわれより大きな意思が決めることだ。しかし、口を開けなければ与えられないことは確かである。


20

鑑賞日 2016/8/25
いつもの鍵さがす現や狐火や
田口満代子 千葉

 現(うつつ)とルビ

 死がある以上、これは本物だろうか、と必ず問う時がくる。とヴィヴェカーナンダは言っている。日常という現実、これは本物だろうか。私達がいつも使っている鍵。それが実際の戸を開ける鍵であっても、あるいは何らかの心理的な鍵であっても、その鍵は本当に本物を開けてくれる鍵だろうか。狐火のように夢か現か分らない現実を夢か現か分らないいつもの鍵で開けようとしているだけかもしれない。


21

鑑賞日 2016/8/26
後からあとから直ぐに忘れて羅漢となり
竹内義聿 大阪

 「羅漢」とは悟りを開いた者、あるいは尊者、あるいは仏弟子というようなニュアンスであろうか。あらゆることをよく見聞きし分りそして忘れず、というのでは、それはもしかしたら修羅道の一部であるのかもしれない。羅漢ともなれば、後からあとから直ぐに忘れて仏顔ということになるのかもしれない。つまり言葉を通してではなく存在自体が尊いものになるということなのだろう。どの道われわれの本性は仏性であるという事実は免れようがない。仏として生まれ仏として死んでゆく以外に道はない。


22

鑑賞日 2016/8/27
緑雨過ぐさびしき狼さびしき君
田中亜美 神奈川

 狼≒君ということだろう。前にテレビか何かで、あるいはこれは私の中の想像上の映像かもしれないが、ある人がほぼ最後の狼に夜の山道で出会ったという話がある。ヘッドライトに浮かび上がるその狼は、孤独な淋しさを裡に秘め、しかし毅然とした表情の横顔で暫く立ち止まって、ちらりとその視線をこちらに向け、また山の中に立ち去ってゆく。この句を読んでそんな狼の話が思い出された。この狼の姿はやはり男の魅力の一つに違いない。「緑雨過ぐ」がいい雰囲気を作っている。


23

鑑賞日 2016/8/28
菖蒲湯や手拭坊主子と作る
田浪富布 栃木

 あ思い出した。そんな遊びをしたことを。手拭に空気を含ませるようにして湯に沈めて玉を作りぶくぶくと泡を出したりして遊ぶものだろう。ネットで調べたらタオルクラゲだとか蛸入道だとかブクブクなどとも言うらしい。風呂は何のために入るの?手足や身体を清潔に保つため?いやいやそんなことじゃない。手拭坊主を作るため、お風呂遊びをするために。人は何のために生きるの?立派なお仕事をするために?いやいやそんなことじゃない。人は遊ぶために生きる。


24

鑑賞日 2016/8/29
花屑哀し臍の緒のごとく乾き
月野ぽぽな 
アメリカ

 花屑を哀しいと感じたり、それを臍の緒のごとくだと連想したりするのは、やはり女性(母性も含む)だからかもしれないと思った。
 少し飛躍した話になるが、いろいろな埋葬のことを考えた。鳥葬は一番合理的であるが、痛々しいものがある。土葬は腐敗するので汚らしい感じがある。やはり火葬が清潔感もあり火に清められる感じもあって私は好きである。風に清められる風葬も原理的には悪いとは思わないが時間がかかり過ぎる。・・・はて、私は何を言っているのだろう。結局同じじゃないか。
 ・・・と、ここまで書いて、私は薄情な人間なのではないかと反省した。次の句を想いだしたからである。

旧里や 臍の緒に泣く年の暮   芭蕉


25

鑑賞日 2016/8/30
春落葉助けてほしいと言えなくて
峠谷清広 東京

 助けてほしい、なんて言えないよなあと同感する。言ったら何か生きる誇りのようなものが失われてしまうからかもしれない。他人から可哀相と思われるほど嫌なものはない。それぐらいなら誇りを持って死んでいった方がいいとも思う。
 もしかしたら、こういう感覚を抱くのは日本に特有のことかもしれない。例えば日本人は慈善だとかボランティア活動などをすると、助けてやっているだとか与えてやっているという意識に陥りやすいのではないか。受ける側としては、そんなのはやはり御免だ。聞いたところによると、マザーテレサはその慈善活動の動機として、彼らの中に居ます神に奉仕させていただいている、という意識でやっていたそうである。要するに、本当は、受ける側の方が与える側より位が高いのである。


26

鑑賞日 2016/8/31
曳く蟻に行く蟻何か言うて光る
中村 晋 福島

 蟻の物象感(仏性感)、あるいはアニミズム的視線の極み。素晴らしい。福島在住のこの作者はあの大震災の後、ずっと原発事故に関連した放射能汚染やその被災者の問題を当地で見続けて感性豊かに表現してきた作家である。そういう生きる態度から、このような生命への共感が生まれて来るのかも知れない。


27

鑑賞日 2016/9/1
夜の地震臓腑に及ぶ立夏かな
野田信章 熊本

 昨日も熊本地方に震度5クラスの余震があった。4月21日の地震以来何十回目になるのだろうか。堪ったものではない。実害もそうであろうが心理的な負担も相当なものであろう。感受性の強い人ならば心理的な負担というよりももはや五臓六腑に変調が来ているかもしれない。


28

鑑賞日 2016/9/2
蠅が来てわが頭で遊ぶ時間かな
藤野 武 東京

 「まず自分の頭の蠅を追え」ということわざがあるのを思いだした。おそらく作者の発想にもこの言葉があったのではないか。この言葉まず自分の問題をしっかりと解決せよ、ということであると思うが、しかし蠅(問題)にとってみれば、それはそういう風にして遊ぶ時間なのだから、蠅(問題)を追っ払うようにして直ぐに解決することは出来ないし、むしろそれを楽しむようにこちらも遊べばいい、というような余裕のある態度なのではないか。やってくる問題に対する一つの会得である気がする。


29

鑑賞日 2016/9/3
耕の畝一途なり身籠りぬ
船越みよ 秋田

 「耕の畝一途なり」が原因で「身籠りぬ」が結果なのか、あるいは「身籠りぬ」が原因で「耕の畝一途なり」が結果なのかという問題が私の頭の中に浮んだ。そしておそらくこれは同時的な事柄ではないかと思った。人は身籠らなければ耕の畝が一途であるような働きは出来ないし、また耕の畝が一途であるような働きの中で人は身籠るからである。


30

鑑賞日 2016/9/4
大地裂けても必ず咲くよ肥後六花
堀之内長一 埼玉

 肥後六花(ひごろっか)は、肥後椿(ひごつばき)、肥後芍薬(ひごしゃくやく)、肥後花菖蒲(ひごはなしょうぶ)、肥後朝顔(ひごあさがお)、肥後菊(ひごぎく)、肥後山茶花(ひごさざんか)の6種の花の総称。
 江戸時代から明治時代にかけて熊本藩士とその後裔によって育成されてきたものだが、肥後六花という名称自体は古くからあったものではなく、昭和30年代から40年代にかけて自然発生的に生まれ定着したものとみられる。肥後六花の共通の特徴としては、花芯(雄蕊)が見事なこと、花形が一重一文字咲きであること、花色の純粋なことの三点がある。(Wikipedia)

 句は自然の回復力と良い意味での人間の生のしたたかさということ。「肥後六花」という言葉が上手に活かされている。


31

鑑賞日 2016/9/5
ヤマブキと揺れて沈まず母の家
松本勇二 愛媛

 母というものの存在感であろう。母あるいは母の家という言葉に象徴されるものは人間にとって絶対に沈まないものである。消滅しないものである。それは私達がしばしば親しみを込めて「自然」と呼びかけるものの真髄であるに違いない。


32

鑑賞日 2016/9/6
春の地震まるで玉砕 墓石は
汀 圭子 熊本

 地震(ない)とルビ

 墓地の墓石が全部みごとに潔く倒れている。それはまるで戦場で兵士達が玉砕したような様相であるというのである。累々と横たわる兵士達の屍体と墓石が倒れた様を較べたのは単なる形状的な類似ということだけではなく、墓石というものがその背後に持つ人格的な意味合いも含めてのことだろう。情景が鮮明に浮んでくる句である。


33

鑑賞日 2016/9/7
ああ昭和まだくすぶるや葉桜に
宮川としを 東京

 「まだくすぶるや」に実感としてとても共感する。昭和のあの大変な戦争の火が完全に消火されないでまだくすぶっているのである。このくすぶっている火が大きくならなければいいと願うばかりであるが、この火を掻き立てて大きくしようとしている勢力もいるから困るのである。葉桜にくすぶっているというのも意味深だ。桜というものがいろいろな意味で日本の象徴であるし、また桜の花のように国の為に潔く美しく散ろうというのが戦争時の日本人のマインドを支配していたとも聞くからである。


34

鑑賞日 2016/9/8
妻の機嫌いそぎんちゃくのようだ嫌だ
宮崎斗士 東京

 イソギンチャクのあの姿態と毒のある触手のことを考えると、この譬えがいかに適切で秀逸かが即座に解る。この句には多くの夫族が共感するのではないか。そう考えると何だか結婚というものがただただ嫌なものに思えてきて絶望的な気分になるが、朗報もある。ネットで調べてみると、クマノミという魚はイソギンチャクの毒のある触手に刺されることなく、むしろ外敵からの隠れ場所としてイソギンチャクとは共生関係にあるというのである。そうだ、世の夫族よ、クマノミになろう。


35

鑑賞日 2016/9/9
この峡の落花ひんやり乳房かな
茂里美絵 埼玉

 女性というものはその存在自体が一つの優れた感覚器官なのかもしれないと、この句を読んで思った。つまり、存在全体の気配を感じ取ることが出来るセンサーのごときものであるということ。その意味では男性は常に女性の感性を頼りにした方がいいだろう。


36

鑑賞日 2016/9/10
凍て鶴ややたらに痒い脛を持つ
森由美子 埼玉

 ずっと立ってじっとしていなければならない時というのはある。そんな時に脛が痒くてしょうがない、しかも屈んで手で掻くわけにもいかない場合どうするか。おそらく痒くない方の足を上げて掻くのではないか。そんな自分の姿と凍て鶴の一本足で立つ姿を重ね合わせて戯けた句なのではないか。
 あるいは、例えば「脛をかじる」という言葉があるが、子等にかじられる脛が痒くてしょうがないという意味にも勘ぐれる。この作者には次の句もあるからである。

胡麻爆ぜるどの子も親の意に添わず


37

鑑賞日 2016/9/11
燕の巣抱きて倒壊震度七
森武晴美 熊本

 震度七というのは凄まじい。家が倒壊してしまうのだ。熊本在住の作者。さぞかし気が動転したことだろう。しかしそんな事態の中でこれだけの視点を持てるというのはやはり感動する。連想としては随分飛躍してしまうかもしれないがフランクルの「夜と霧」を思いだした。


38

鑑賞日 2016/9/12
山の国火の国青野に続く地震
大和洋正 千葉

 熊本のことでもあろうが、これはほぼ日本列島そのもののことでもあろう。日本は山がちの国であり火山の国でありそして自然豊かな青い国であり、そして地震国であるから。われわれ日本人はそういう国土で生を営んでいる。それはどうにもならないことだ。総て含めて、大和しうるわし、と言えるようになりたい。


39

鑑賞日 2016/9/13
暗黒や万朶の桜ではないか
横山 隆 長崎

 まず真暗闇の夜に万朶と咲く桜の花の映像がはっきりと見える。口調からすると、暗黒だと思っていたところ実は桜が万朶と咲いていたというふうである。これを私なりに解釈してみた。
 人間の心は幸福を求め、あるいは解脱を求め、あるいは知恵を求め、あるいは光りを求めて遍歴するが、その求める光りはどににも見出せない。まさに「暗黒や」という状況に直面する。しかし実にまさにその時に大きな飛躍が起り得る。求めていたものは既にそこに在ったのだということに気付くのである。
 この句において「暗黒や」と「万朶の桜ではないか」の間には実に大きな切れがある。この切れのことを‘悟りの時空’と呼んでもいいくらいだ。


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