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金子兜太選海程秀句鑑賞 524号(2016年7月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2016/7/8 | |
薄氷を来たるは彼奴わが九条
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有村王志 大分
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日本人が世界に誇れるものがあるとしたら、それは九条しかないだろう。地震大国に原発を五十数基も作るような愚かでどうしようもない日本人であるが、それでも九条があるからこそ、その誇りはかろうじて保たれている。しかしこの九条というのは結構厄介な奴である。生半可な理想主義では守れない。九条を守る為には命を賭ける覚悟がいるだろう。だからこんな奴は捨ててしまおうという気持ちもある意味よく分る。しかし結局いろいろ考えてみて、この世界の混迷を救うのには九条の理想しかないだろうという結論に至る。九条の理想が失われるか否かは日本の問題であるばかりでなく世界の問題であるだろう。九条が薄氷を渡りきれるかどうか、はらはらしながら過ごしているこの頃である。 |
鑑賞日 2016/7/8 | |
和解して髪梳き土用蜆かな
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石上邦子 愛知
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「和解して髪梳き」で上品に艶めいたところで「土用蜆かな」と庶民的な俳諧性に落した。「土用鰻」だとあまりにもぎらぎらと脂ぎるので「土用蜆」くらいがちょうどいい。 |
鑑賞日 2016/7/9 | |
被曝牛を語る沢庵噛むように
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稲葉千尋 三重
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その牛を飼っていた当事者が語っているのだということが分る。坦々とした中にも牛への愛情がどうしようもなく籠るような語り口を感じる。「沢庵噛むように」が全てを表現している。 |
鑑賞日 2016/7/9 | |
貧乏疎開と呼ばれし故郷氷流れる
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植田郁一 東京
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氷(しが)とルビ 私は群馬県の高崎が故郷であるが、高崎は東京に住んでいた親が疎開先に選んだ地である。疎開先の地ではよそ者ということになるわけであるが、例えばそこで貧しくて困窮した生活をしていたりすれば、土地の子どもに「貧乏疎開、貧乏疎開」などとからかわれることだってあったかもしれない。「貧乏疎開と呼ばれし故郷」というのはそういうようなことだと推測した。 |
鑑賞日 2016/7/10 | |
弁舌に戦が匂う霾ぐもり
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宇川啓子 福島
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政治家は目くらましの言葉を発するのが上手い。何の恥ずかしげもなく嘘を言う。しかも堂々と言う。そして大衆は騙される。この傾向は現在強まっている感がある。トランプ現象に見られるように世界的にも強まっている。日本では安倍首相がそうである。今日は争点隠しのいわば霾ぐもり選挙の日である。われわれは目を見張って真実を見抜く必要がある。 |
鑑賞日 2016/7/10 | |
わが胸の深さに破船朧の夜
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榎本愛子 山梨
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自分にとって大事なものが私の胸の深いところで壊れてしまった。それは自分の人生航路においてとても大切な船のようなものだった。今私の胸の中にはその残骸だけがある。見えない。先が朧朧として見えない。 |
鑑賞日 2016/7/11 | |
鮫という駅北にあり梅真白
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大西健二 三重
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鮫駅(さめえき)は、青森県八戸市大字鮫町字日二子石にある、東日本旅客鉄道(JR 東日本)八戸線の駅である。(Wikipedia) 作者が青森県に旅をしたときの旅情と受け取るのが一番しっくりくる。もしかしたら兜太の次の句が作者の頭を掠めたかもしれない。 梅咲いて庭中に青鮫が来ている |
鑑賞日 2016/7/11 | |
厭世的で雨のさなかの二月礼者
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小野裕三 神奈川
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自分は厭世的でそれはまるで雨のさなかに居るような気分だが、実際外は雨が降っている、そんな時に二月礼者がやって来たというのではなかろうか。そんなふうに考えているとこの「二月礼者」の存在感がとても印象的なものになってくる。作者にとって大事な何かをもたらしてくれるような存在。 |
鑑賞日 2016/7/12 | |
九条はやわらかな布遠蛙
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狩野康子 宮城
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九条はやわらかな布 作者は女性。女性は男性より布に対する感受性が強い気がする。遠蛙を聞きながらやわらかい布を愛着をこめて手にしている作者の姿が目に浮ぶ。 |
鑑賞日 2016/7/12 | |
酔っ払いの父がしらふで箱の中
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川西志帆 長野
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可笑しい。おそらくこの箱というのは棺桶のことだろう。父が死んだ。生前は酔っ払ってばかりいた父が、神妙な顔つきをしてかしこまって棺桶に納まっている。何だかとても可笑しいではないか。人生は、そして人間存在は本質的にとても可笑しみに満ちている。そして可笑しみは悲しみの裏返しでもある。悲しみを突き抜けたところに可笑しみはあるといってもいい。 |
鑑賞日 2016/7/13 | |
父が付けてくれし名光子千草の芽
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北村美都子 新潟
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光子(みつこ)とルビ 今まで美都子(みとこ)と読んでいたが、これも実は美都子(みつこ)と読ませるのだろう。俳人名としては美都子という表記の方が個性的でいい。光子はいかにもという平凡さがある。しかしこの句の中での光子という名はそれこそ光っている。作者の存在自体が祝福されて光っているようだ。 |
鑑賞日 2016/7/13 | |
同じ穴の狢の君と居る春野
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木村清子 埼玉
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まあまあ俺たちはどの道そんなに大したもんじゃない。言ってみれば同じ穴の狢だ。俺が狸なら君は穴熊みたいなものさ。運命の悪戯か何かで偶然一緒になっている。しかしそれだってそんなに居心地が悪いもんじゃない。運命への愛ということだってある。季節は寒い冬ばかりじゃない、ほら今俺たちは春野にいるじゃないか。 |
鑑賞日 2016/7/14 | |
安楽死の火葬の煙帰雁かな
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楠井 収 千葉
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安楽死について考えている。結局、個人の尊厳の問題ではないか。尊厳をもって生きることが難しいなら安楽死を選ぶことは個人の当然の権利のような気がする。それを社会が法律で止めることは無意味だ。生か死かの問題は完全に個人の領域に属するのであるから、その個人がより尊厳を保てるような方法を選べばいいのである。生か死かは問題ではない。どちらに尊厳が属しているかが問題である。おそらく雁が渡るのも尊厳に満たされて生きる為である。自然は尊厳に満ちた振る舞いをする。 |
鑑賞日 2016/7/14 | |
老女らはうすうす群れて花水木
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小原恵子 埼玉
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うすうす群れて・・個人性の消失だろうか。それはある意味ではいいことである。エゴの消失ということであり、自我の呪縛から逃れて世界と溶けあってゆくということかもしれないからである。反面悲しいことかもしれない。自分の存在の意義が分らなくなって、認知症的に浮遊するということかもしれないからである。どちらかよく解らない。解らないが故に、この花水木が美しくもありまた悲しくもある。 |
鑑賞日 2016/7/15 | |
妻の咳我を鞭打つようにかな
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齋藤一湖 福井
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私もそうであるが、もしかしたらある程度年齢を重ねた男というものは妻に対して何らかの負い目を感じているのかもしれない。よくぞこんな欠点だらけの自分と人生を共にしてくれたものだと内心思っているのかもしれない。だから妻の咳もこのように聞こえるのかもしれない。 |
鑑賞日 2016/7/15 | |
我が身に我が家崩れる春の闇
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佐藤鎮人 岩手
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とても生(なま)な切実さが伝わってくる口調である。こういう切実な現実に対して私は何か言えようか。何か同情や共感の言葉を吐くべきだろうか。あるいは坊主くさい悟ったような言葉を曰うべきだろうか。あるいはラジニーシのように good というべきだろうか。私にはおそらくこの現実の前に黙って佇んでいることしかできない。 |
鑑賞日 2016/7/16 | |
深夜の街不機嫌そうに春埃
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佐藤美紀江 千葉
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私は充分に眠れないと不機嫌になる。やたらと苛々したり、怒りっぽくなったり、果ては人生が妙に悲しくなる。そしてそれは単に睡眠不足だったりするのである。おそらく街だってそうだろう。そこに住む人の意識の総合体が街であるとするなら眠らない街は不機嫌に決まっている。現代の街は眠らないようだ。 |
鑑賞日 2016/7/16 | |
ものの芽や夢に原発爆発す
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清水茉紀 福島
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今回の参院選では福島と沖縄で現職閣僚が落選して自民党が負けた。その他の地域全体では自民党が勝った。つまり傷を受けている人以外は自分の目先のことだけしか考えない、あるいは他の人などどうとでもなれ、と思っているということかもしれない。しかも沖縄問題や原発問題は実は日本全体の大問題であるということにも気付かない。この句の作者は福島の人である。福島の人にとっては毎年毎年植物が芽を出すようにあの原発爆発事故が悪夢としてフラッシュバックしてくるのだろう。そして原発維持政策を進めている限り、このような事故はまた必ず起きるだろう。オリンピックなどで浮かれている場合か。 |
鑑賞日 2016/7/17 | |
穴を出る蛇鮮烈な権太面
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十河宣洋 北海道
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権太(ごんた)・・デジタル大辞泉 - 権太の用語解説 - 《浄瑠璃「義経千本桜」の中の人物「いがみの権太」 の名から》1 悪者。ごろつき。2 いたずらっ子。腕白小僧。 世の中をこんなに目茶苦茶に、ある意味ドラマチックに面白く、引っかき回すのは男性の性的なエネルギーなのかもしれない。本人にもどうしようもない沸き上る性的なエネルギーである。蛇というものはそのようなエネルギーの象徴として捉えられている面がある。聖書などにも世の中を目茶目茶な混乱に陥れる原因は蛇である。蛇さえいなければこの世は静かな祝福のうちにずっとあり続けたのかもしれない。しかしおそらく世の中それでは面白くないのだ。だからこの世を面白くするために蛇の力が必要なのかもしれない。男性の性的な力。穴に入ったり穴から出たり、そもそも蛇の形そのものが男性器の形に似ている。その蛇の面構えが鮮烈な権太面をしているというのであるから、これはもう世の中面白すぎる。 |
鑑賞日 2016/7/17 | |
春蘭や母を裏切る恋をして
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高階時子 秋田
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そもそも親や社会の意向に沿った品行方正な恋などというものがあるだろうか。それでは恋というものの存在意義そのものが失われるような気さえする。何故世の中に恋というものが存在するのか。それはマンネリになりがちな世の秩序を乱すため、世に新しいダイナミズムを与えるために存在するのではないか。ちなみに春蘭の花言葉は「飾らない心」であるらしいが、世の虚飾で自分を飾らずに誠実に生きようとすれば結果的に母を裏切る形になってしまうこともある。そして母というものは結局娘の誠実さを愛し認めるものであると思うのであるが。 |
鑑賞日 2016/7/18 | |
青春のマストのごとく五月来る
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武田昭江 東京
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とても明るくてきらきらしていて、何か希望を孕んでいるような五月。青春のエネルギーを存分に開花させ得る出発のような雰囲気を持った五月。一方で、五月病といわれるような現象もある。青春のエネルギーの行き場が失われたかのような深刻な悩みにぶち当る季節でもある五月。思い返してみると、私が大学の学業を止めて放浪生活に入ってしまったのも五月であったような気がするし、またあの頃魂の国であると私が考えていたインドに旅立ったのも五月であったような気がする。とにかくいろいろな意味で五月は青春のマストのごとく来るのかもしれない。 |
鑑賞日 2016/7/19 | |
低気圧・高気圧・春愁いかな
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田浪富布 栃木
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低気圧がやって来たり高気圧がやって来たりして気象が変わる。そのように(あるいはそれと微妙に関連して)人間の心模様も変化する、快活であったり憂いに沈んだり。近年は異常気象とやらで、激烈な気象現象が多い。猛烈な台風が来たり豪雪や豪雨が来たり、異常に猛暑だったりするようだ。さて、外側の気象現象が激烈になってきているが、人間の内側の心模様はどうだろうか。外側と内側のバランスという面から考えれば、当然人間の内側の心模様も激烈になって来ているのかもしれない。 |
鑑賞日 2016/7/19 | |
花粉症私何処でも場違いで
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峠谷清広 東京
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「私何処でも場違いで」という表明を聞くと嬉しくなるものがある。私などもその類いであるからである。世の中というものは様々な集団で成り立っているが、どのように集団においても自分は場違いな存在であるように感じるのである。集団不適合者とでも言おうか、あるいは環境不適合者とでも言おうか。でも、もしかしたらこういう人は多いのかもしれないとも思う。村上春樹などを読んでいると、集団というものが苦手な人が書いた文学のような気がするが、彼の支持者は多い。ちなみに花粉症は身体が現代的な不自然な環境変化に馴染めない故のアレルギー反応なのであろう。 |
鑑賞日 2016/7/20 | |
さくら狩さくらのままの母帰る
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永田タヱ子 宮崎
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「さくらのままの父帰る」ではやはり相応しくないなあと考えている。男性にあまり無くて女性には怏々にして有るものは憑依性である。そしてもしかしたらお歳を召して社会的な制約からだんだんと自由になった女性にはこの憑依性が強く現れることもあるかもしれないなどとも思える。だから桜狩に行った母が桜になってしまったまま帰ってくるというのは相応しい感じがある。 |
鑑賞日 2016/7/20 | |
日は海を出て戦争をみて沈む
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中村加津彦 長野
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この表現はやはり目指したいものの一つだ。分かり易い口語で重くて大きなことを言っている。社会性もあるし、世界性もあるし、歴史性もある。どうにもならない人間の性、そしてあくまで客観性を保つ自然の大きさ。 |
鑑賞日 2016/7/21 | |
自宅除染終わる
蛾光るよ被曝の土を埋めし土も |
中村 晋 福島
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罪深いことをしたものだ。「人間は人間にとって狼である」という言葉がある。しかし多くの場合この狼は狼の顔をしていない。むしろ群れた羊の顔をしているのだ。原発事故においてもその責任者は誰なのか。東電という群れ?国あるいは政府という群れ?群れの一人一人を見ればおそらく狼の顔をしていない。むしろ凡庸な羊の顔をしているの。まさに悪の凡庸さということなのかもしれない。東電のトップの面々の顔や政治家の顔の多くはまさに凡庸あるいは愚鈍な顔付きをしている。魂の凡庸さなのであろう。 |
鑑賞日 2016/7/21 | |
蝶よりも軽い魂にさようなら
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夏谷胡桃 岩手
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淡い色彩の美しい抽象的な絵画を眺めている感じがある。抽象性が高いからこの句が具体的にどのような事実に基づいているのかを判定するのは難しい。例えば幼い人との死別の句であるようにも思えるし、また作者自身の生き方における自戒の句であるようにも思える。 |
鑑賞日 2016/7/22 | |
悼 北原志満子先生
鵲の野を知る人夏の笑み深し |
野田信章 熊本
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鵲(かち)とルビ 北原志満子遺句抄 武田伸一抄出 |
鑑賞日 2016/7/22 | |
揚雲雀手話のおしゃべり寝転びて
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野原瑤子 神奈川
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情景がありありと見えてくる。空では揚雲雀が嬉々として囀っている。地では手話の会話がまた嬉々として続く。「寝転びて」というのが実にいい。この聾唖者達がこの大地に受け入れられて生きている姿がある。本来文化はこの句のような方向に進むべきであるが、私には日本も含め世界が逆の方向に進みつつあるような気がしている。格差が広がるということや戦争を起すということは逆の方向であることは間違いない。ナチスにより大量の障害者が殺害されたという事実がある。 |
鑑賞日 2016/7/23 | |
タイムトラベル夢見しよりの春愁
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堀之内長一 埼玉
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時間は過去現在未来と流れていき、我々は現在という限定された時間に住んでいる、というのは人間の観念の中にだけ存在する一つの誤解に過ぎないだろう。観念を持たない動物はおそらく永遠の現在を生きている。あるいは無時間を生きている。観念というものは人間の生に面白みを与えてくれるものであるが、同時にまた人間の生に諸々の厄介事を引き起す。観念とは妙なものである。タイムトラベルという観念が人間に楽しみを与えてくれるものだとしたら、そのバランスとして春愁がやって来るというのは道理にあっている。仏が言っているように、苦楽は表裏一体のように観念の内に存在するからである。 |
鑑賞日 2016/7/23 | |
さくらいろの一重の息すおばあさん
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三井絹枝 東京
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とてもやさしくて自然な死のイメージがある。あるがままに生きあるがままに死んでゆくというのはこういうことなのかと思わされる。この句の持つ生の呼吸は、おそらく作者の生き様そのものから出てきたものなのであろう。 花の影寝まじ未来が恐ろしき 小林一茶 ごつごつとした野望と闘争の中に生きた男の死のイメージである。 |
鑑賞日 2016/7/24 | |
雁発てり水の底まで北の空
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武藤暁美 秋田
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北に帰ってゆく雁の群れが空を行く。彼らが帰ってゆく場所はどんなところだろう。彼らが飛んで行く北の空はどんな空なのだろう。作者の心は雁たちとともに北の空を夢想している。やがて目の前にある水の底に映る空までもが北の空のように思えてくる。 |
鑑賞日 2016/7/24 | |
漆黒を重ね花待つ塗師かな
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武藤鉦二 秋田
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漆器のことはよく知らないが、漆黒の豌に螺鈿の花模様が付いているような器を想像した。おそらくこういう器の場合は下地として漆黒を塗り重ねた上に螺鈿で花模様を付けてゆくのではないか。そのような漆器作りの工程における塗師の心持ちを表現しているのではないか。と同時に、一般的な意味で、良きことを待ち望む態度を表現しているようにも思える。 |
鑑賞日 2016/7/25 | |
蕗味噌や二夜連続の大地震
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村松喜代 熊本
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ごく普通の平穏な日常の中にそれは突然のようにやって来るということ。そしてその時にわれわれは日常の平凡さが実は宝石のように稀で貴重なものだったと気付く。ご飯に蕗味噌をまぶして食べることが出来るような日常の貴重さを思う。それは大地震のような自然災害だったり、あるいは戦争のようなものだったりするだろう。 |
鑑賞日 2016/7/25 | |
連翹の黄よ棒立ちの言葉たち
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室田洋子 群馬
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連翹のいのちの輝きに触れた作者の感動が伝わってくる。「はじめに言葉ありき」というのは人間の都合による世界観に過ぎないだろう。燃えるように咲く連翹は言葉以前から存在し言葉無しで彼らのいのちを充分に表現してきた。われわれは時折自然のいのちの輝きに触れてそれを言葉で表現したいと思う。それがおそらく人間に負わされた宿命だから。そして作者はこのように表現した。 |
鑑賞日 2016/7/26 | |
胃の上に猫の前足花の冷え
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森武晴美 熊本
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猫は作者を頼りにしている。作者もそういう猫を可愛く思っていると同時に頼りにもしている。人と飼い猫のなんとも絶妙な共存関係である。「胃の上に猫の前足」という具体的な表現が上手いし、また「花の冷え」も丁度いい気がする。ちなみに私も猫を飼っているし、冷えるとお腹の辺りが痛くなる性質なのでこの状況がよく分る。猫の身体はとても温かい。 |
鑑賞日 2016/7/26 | |
リラ冷えやわが膝に皿ありしこと
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山本昌子 京都
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身体に何も問題が無い時には、人は身体が存在していることすら忘れている。胃を病めば胃の、心臓を病めば心臓の、腰を病めば腰の存在に強く気が付く。おそらくこの作者は膝の痛みに悩まされているのではないか。そして膝の痛みというものは冷えると殊に痛むのではないか。冷える時に作者は殊に膝の存在を強く意識している。膝には皿があったということに気が付く。「リラ冷え」そして「わが膝に皿ありしこと」という書き方が知的であり詩的である。 |
鑑賞日 2016/7/27 | |
空つぽのバスが遍路を抜いてゆく
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若林卓宣 三重
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どこにでもありそうな景色であるが、もしそこに何かあるとすれば、それは人間の文化というものの奇妙さであろうか。遍路というものもそもそも奇妙な人間の行為だし、空っぽのバスが遍路を抜いてゆくというのも何だか奇妙だ。何回も読んでいるうちに可笑しさがこみあげてくる。人間存在の可笑しさであろうか。あるいは存在自体の可笑しさであろうか。 |
鑑賞日 2016/7/27 | |
弟よ背によみがえる芹の息
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若森京子 兵庫
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例えば、死の床あるいは病床にある弟の傍らにいて弟との遠い過去の記憶がよみがえってきた、というような場面を想像した。例えば、幼い弟を連れて芹取りに行った帰り道に弟を背におぶって帰ってきたというような記憶。「芹の息」がとても新鮮に響く。 |
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