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金子兜太選海程秀句鑑賞 523号(2016年6月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2016/6/5
永訣の霜踏み自愛言い交す
安藤和子 愛媛

 よく生きる為の一つのコツは死というものを常に思いながら生きることではないか。そうすれば生きている今の一瞬一瞬をおろそかにはできないし、ましてや他者との諍いに明け暮れるなどの愚かなことはできない。おそらくそれが自愛ということだ。「永訣の霜踏み」という言葉の情感が身に沁みてくる。


2

鑑賞日 2016/6/5
大根畑の土から上の下世話かな
宇田蓋男 宮崎

 土はこの地上のあらゆるいのちを育む。現在では農というものが単なる一つの産業としてしか認識されない風潮がある。つまりお金を稼ぐ手段としてのみの農という認識である。だから「攻めの農業」というような愚かな言葉が発せられてしまう。そういう人はおそらく土自体を見ていないのだろう。そういう人は土から上の大根ばかり見ている。いや、大根の値段ばかり見ている。そういう人はいのちの何たるかを忘れている。時代はだんだんと下世話な話ばかりになってきている。


3

鑑賞日 2016/6/6
田螺たにしと酒盛る村のみんな消ゆ
石川まゆみ 広島

 「田螺たにしと酒盛る」の具体性がいいと思う。どちらかといえば見る文学である俳句においては、このように具体的に活き活きと描写された場面が書ければ、もうその俳句はできている。


4

鑑賞日 2016/6/6
積み肥の湯気空に消え神遊び
伊藤 巌 東京

 「積み肥の湯気空に消え」などという描写力は大したものだ。「堆肥」などと言わないで「積み肥」としたのも実感があるし、その湯気が空に消えるなども、ほかほかとした堆肥の物象感がよくでている。神はあらゆる事物に内在して遊んでいるわけであるが、そのことを観念的ではなく、具体的で卑近な事物の的確な描写を伴って表現した。


5

鑑賞日 2016/6/7
雛飾る爪先立ちのバレリーナ
井上広美 東京

 爪先立ちのバレリーナの姿の雛を飾ったということだろうか。そういう姿の雛があるのだろうか。あるかもしれない。あってもいいはずだ。雛というものが女の子の夢を形にしたものだとすれば、その姿は時代とともに変化してゆくのが当然だろうからである。宇宙服姿のカッコイイ姿の雛というようなものも、これから登場してくる可能性だってある。


6

鑑賞日 2016/6/7
春立つ日遊んで胸のぬた場かな
榎本祐子 兵庫

 ぬたば【沼田場】とは。意味や解説、類語。泥深い水たまり。イノシシなどが、体についた 虫や汚れを落とすために泥浴びをする場所。(goo辞書)

 私は山間地に住んでいるが、最近はイノシシが田に出没して田を荒らすので周りを電気柵などで囲っている田が多い。要するにイノシシ達が田をぬた場にしているということである。最初は何故イノシシは田を荒らすのだろうかと不思議だった。彼らはただ単に遊んでいるように見えたからである。しかし深く考えてみれば、遊ぶということと虫や汚れを落すということは同義なのかもしれない。人においては心理的な意味において、遊びは胸の汚れを落す効果がある。


7

鑑賞日 2016/6/9
春眠は積木の町のようなもの
大高宏充 東京

 人生はいずれ醒めてしまう一場の夢である。それは分っている。分っちゃいるけどやめられない。ところで眠りに関していえば、春眠ほど眠りというものに価値があると思えるものはないのではないか。鶏が鳴こうが、小鳥が鳴きはじめようが、目覚まし時計が鳴ろうが、その眠りを手放したくないと思う。もっともっと眠っていたいと思う。積木遊びで町を作っている子どもが、たとえばお母さんから、もうご飯の時間ですよと言われても、なかなかその積木の町から離れられないでいる。そのようにわれわれは春眠から離れがたい。そしてそのようにわれわれは生きることから離れがたい。しかし人生は積木の町がそうであるように、一場の夢である。がらがらぽんで全て無くなる。


8

鑑賞日 2016/6/9
青年の肩先に空母二月来る
小沢説子 神奈川

 私は戦後生まれの団塊の世代に属する。沖縄を除いてこの年代に生きた日本人は時代のいいとこ取りをしたという思いがある。戦争と戦争の間の経済的にも繁栄した時代の甘い果実を貪ったのではないかということである。国の大きな借金も原発の核廃棄物の処理もすべて次の世代への付けとして残して。その意味で次の世代にはとても申し訳ない。そして最近では政権はあからさまに次の戦争の準備をしているふうである。「青年の肩先に空母」という状況なのだ。
 兜太の句に次がある。

抱けば熟れいて夭夭(ようよう)の桃肩に昴(すばる)  『詩經國風』

 いつまでも青年が大らかに恋をできる時代であってほしいものだ。


9

鑑賞日 2016/6/10
道元のくちびる鶯餅のよう
小山柴門 福井

 作者は福井県の人である。福井県大野市には〈絹本著色 道元禅師図像〉という文化財があるらしいからこの道元の図を見ての句作であるのかもしれない。http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/kaiga/hokyoji-dogenzenji.html

 私の理解するところによれば、仏法の真髄は、全ての存在物は仏性でできているということである。そして道元はそのことを悟った人であると理解している。我々は仏性でできている。ありとあらゆるものの中に仏性が潜んでいる。おそらく鶯餅の中にも仏性が潜んでいる。


10

鑑賞日 2016/6/10
春は曙ふらここに乗る修道女
加古和子 東京

 性を断ち禁欲的な生活に身を捧げて神を待ちのぞむ女性というイメージが修道女にはある。神とは何か、あるいは神を悟るとは何か。それを語るのは難しいが、その兆候として、彼女(あるいは彼)は子どもの心に近くなるということがあるだろう。そしてまた彼女は自然への感受性が豊かになるということがあるに違いない。春の朝に春の香りを嗅ぎながらぶらんこに乗っている修道女。何だか心が軽く明るくなるような図である。


11

鑑賞日 2016/6/11
制服を着て来る国家寒の雨
片岡秀樹 千葉

 個人個人の多様性を無視して集団に従わせようとする時には制服というものが便利だ。そこでは個人は取り換え可能な単なる記号となる。現憲法の第十三条が「全ての国民は、個人として尊重される」となっているが、自民党の改憲草案では「全ての国民は、人として尊重される」となっている。感受性のある人ならこの権力側の意思がどのあたりにあるか分る筈である。国家は制服を着てやって来る。


12

鑑賞日 2016/6/11
キツネよりズルい男だ海鼠食う
桂 凛火 兵庫

 誰を想像したかというと。まず舛添東京都知事。しかしこれはまだズルさが小さい。いわば見え見えのズルさ。甘利明元経済再生相。中くらいのズルさ。安倍首相。これはかなり決定的にズルい。あまりズルいので本人にも自分のついた嘘が嘘だかなんだか分らなくなってきているふうだ。キツネは人を化かすというが、少なくもキツネは化かしていることを自覚しているだろう。その意味では安倍さんは可哀相な人だ。自己自身の真実を見失っている。どうだろう。彼のような人は来世では海鼠のような存在に生まれ変わるのかもしれない。


13

鑑賞日 2016/6/12
ええ孤独以上よ雪をつくっています
加納百合子 奈良

 雪をつくるのは誰。寒い寒い冬の空。冷たい冷たい冬の雲。それだけではありません。孤独な人の心です。ええ、そうですそうです、私です。私は寒い冬空です。私は冷たい冬雲です。
 女性特有の巫女的な憑依する力を感じる。


14

鑑賞日 2016/6/12
臘梅の山歩いた日過ぎゆく日
木村清子 埼玉

 臘梅の/山歩いた日/過ぎゆく日。リズム感のある句である。それは歩くリズムであり、生きるということのリズムであり、月日が過ぎてゆくリズムである。そしてそのリズムの中にいとおしさという名の旋律が混ざる。生きてあるということはいとおしい。


15

鑑賞日 2016/6/13
 悼 中原梓さん
茶目っ気と澄みし詩想よ星流る
黒岡洋子 東京

 中原梓氏の俳句(金子兜太選)

春羊よ雲はゆったりどっしりどっしり
風邪に寝て切らるる花を見ていたり
眠くなれば見えぬ目も閉ず浜昼顔
榕樹や駒鳥の如悦なる人
葱刻むトルコマーチをゆつくりゆつくり
蜘蛛の囲にとらわれこの世まだ信ず
宮古島にも下町がある猫の恋
郭公や森のはずれの茫として
蜂一匹山ふるわせる下山かな


16

鑑賞日 2016/6/13
追いかけるコートの袖を通さずに
こしのゆみこ 
東京

 ほぼ人は他者との関係において生きる。他者のために生きるといってもいい。それが健康的な生き方であるし、更にいえば良心的な生き方であると言えよう。おそらく作者は生きる上において、そういうベクトルを持っている。そして作者はそのような自己自身のベクトルに気が付いている。そういう人にとっては、自分の身支度に時間を使っている場合ではない時だってあるし、そのことは自覚されている。


17

鑑賞日 2016/6/14
枯野道なぐり書きのよう人咲いて
児玉悦子 神奈川

 何かとても大きな歴史観のようなものを感じる。人というものがその最後の方にちょこっと顔を出してくる‘いのち’の歴史といったらいいだろうか。この歴史を道という言葉で表現すれば、人が出現した今は枯野道に相当する。仏教でいう末法の世であり、ヒンズー教でいえばカリユーガと呼ばれる堕落して乱れた世のことである。このいのちの枯野道において、まるでなぐり書きのように出鱈目に人は咲いている。


18

鑑賞日 2016/6/14
冬濤に噛まれ噛みつく岬かな
五島高資 栃木

 おそらく現代においては、擬人的なあるいはアニミズム的な自然の把握が自然を理解し自然と融合する最も適切な方法なのかもしれない。何故なら西洋的な人中心的な思想が世界に浸透してしまっているからだ。人中心、結構。それなら逆に自然を人だと見做せばいいということである。


19

鑑賞日 2016/6/15
木守柿むなしいなんて言うなバカ
小林寿美子 滋賀

 「むなしい」という言葉は、それを言っちゃお終えよ、という言葉かもしれない。それを言うと、余計むなしさから逃げたくなる。むなしさから逃げようと右往左往すると混乱が起る。むしろ、むなしいという現実を黙って静かに受け入れる方がいい。人間の内面的な成長は現実を正確に受け入れた時点から始まるからである。そして日本社会は今多かれ少なかれ‘木守柿状態’にある。現代は日本人が内面的に新たな成長に向う好機だともいえる。


20

鑑賞日 2016/6/15
放課後のめまいのような冬木かな
佐孝石画 福井

 学生時代のもっとも大切な時間は放課後なのではないか。日課に追われる必要のない時間。何もすることが無い時間。生とは何か。死とは何か。私とは何か。解決されないそのようなめまいを起すような問題と対峙することが出来るのが放課後なのではないか。あるいは静かな冬の校庭で、欅の大木などの裸木の大空に綾なす枝の精妙さを眺めながら、計り知れない宇宙の神秘の前の自己の虚しさをめまいのように感じる時間を持てるのも放課後なのかもしれない。大切な時間である。


21

鑑賞日 2016/6/17
寒の水呑む何かに応えいるように
柴田美代子 埼玉

 もしかしたら我々の生というものは何かに応えるということなのかもしれない。何か大いなるものの問い掛けに対して応えるということなのかもしれない。いや、むしろそうあるべきである気もする。我々の日常的行為の全てがそのような応答でありえた時に、我々は何か祝福された存在でありうるような気がする。


22

鑑賞日 2016/6/17
麒麟という奇跡を見上げ息白し
鈴木修一 秋田

 「奇跡を見上げ息白し」が味噌ではないか。現象を奇跡だと感じることが出来る無垢な感受性の表現が「息白し」であり、この感受性は世界を「見上げ」るという謙虚な態度からやって来る気がする。考えてみれば、世界の現象はその全てが奇跡であるとも言えるのだが、見上げるという動作に相応しいのはやはり麒麟だ。


23

鑑賞日 2016/6/18
蛮声の記憶の父の鬼やらい
高橋明江 埼玉

 大きなだみ声で怒鳴るように鬼は外福は内と豆まきをしていた曾ての父を思いだしているのである。まだ家父長的な風潮があった時代、あるいは父権がもう少し重きが置かれていた時代の父親像が思い浮ぶ。男に男らしさが求められていた時代。男はつらいよの時代でもあった。


24

鑑賞日 2016/6/18
梅白し銀河に屑のあることも
田中亜美 神奈川

 「屑」とは1 物のかけらや切れ端などで役に立たないもの。2 いい部分を取ったあとの残りかす。3 役に立た ない人のたとえ。というように辞書には出ている。
 この句に即していえば、銀河には役に立たないカスみたいなものもある、というのである。しかしどうだろう、作者はそれも肯定しているのではないか。例えば私自身がその屑のようなものかもしれない。結構結構、無用の用ということもある。一見役に立っていないと思われるものも全て含めて銀河は美しいのである。梅が真白に咲いている。世界だとか宇宙だとかの言葉ではなく銀河と言ったところに感覚の冴えがある。


25

鑑賞日 2016/6/19
反戦の言葉発止と鬼やらい
田浪富布 栃木

 最近思う、九条というのは学問の言葉でも政治の言葉でもなく、詩の言葉である、と。または預言の言葉であると。ゆえに、ある面怖い言葉である。臆病な人はたじろぐ言葉である。真に勇気のある人だけが発することが出来る。命を賭ける用意のある人だけが発することが出来る。鬼とは何か。鬼とは自分の中の住む臆病な心のことである。……発止と鬼やらい……


26

鑑賞日 2016/6/19
一人居はときどき枯野に道捜す
中島まゆみ 埼玉

 結局人は死ぬときは一人である。それは枯野に一人分け入るような旅である。だから人はそのために心の準備をしておくことは大切だ。この句は芭蕉の次の句と響き合う。

旅に病んで夢は枯野をかけ迴る


27

鑑賞日 2016/6/20
よく生きて首をいたわる柚子湯かな
中塚紀代子 山口

 「よく生きて」は「良く生きて」であり「充分に生きて」であり「精一杯生きて」である。要するにある満足感の中で作者は柚子湯に入っている。首の辺りが痛いのが文句の言いたいところだが、それだってこうして柚子湯に入っていられる仕合わせの一つのアクセントだ。柚子の香りが心地いい。


28

鑑賞日 2016/6/20
ココナッツ母国語すでにおぼつかな
ナカムラ薫 
アメリカ

 名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ
 故郷の岸を離れて 汝はそも 波に幾月
 ・・・・

という歌を思い出した。作者も自分の境涯を椰子の実(ココナッツ)に託して詠んだのかもしれないと思った。


29

鑑賞日 2016/6/21
雪とけて村いっぱいの除染ごみ
中村 晋 福島

 一茶の句と並べて書いてみる。

雪とけて村いっぱいの子どもかな
雪とけて村いっぱいの除染ごみ

 原発反対というと、「お前は江戸時代に戻りたいのか」という極端なことを言う人がいる。そういう人には「そうだ戻りたい」と言ってやればいいかもしれない。これこそ‘もじり句’だと言えるような上手い句である。そして時代の不条理・人間の不条理をしっかりと切り取っている。


30

鑑賞日 2016/6/21
天命のいくばくとぞや雑煮餅
中村孝史 宮城

 どうだろうか、生きること自体が天命であると言えないだろうか。この句はそういう意味で天命という言葉を使っているように思える。命とはそもそも天から与えられたもの、自分でどうこうできるものではない。そんなことをしみじみ思いながら雑煮餅を食っている。


31

鑑賞日 2016/6/23
花木槿女名多き合葬簿
野原瑤子 神奈川

 樹木葬のようなものを想像した。一本の樹の周りに、あるいは林のような場所に、個人の遺骨の場所が特に判別できないような形での埋葬の形態。そういう墓所の合葬簿に女の名前が多いのだとすると、家という絆から切り離された女、あるいは敢て家の柵から離れたい女や夫と一緒の墓地には埋葬されたくない女の墓所だということになる。一つの世相の反映だと言えそうだ。いずれにしろ、花木槿が優しく彼女らを見守っている。


32

鑑賞日 2016/6/23
大地から人剥がれおり春浅し
藤原美恵子 岡山

 「大地から人剥がれおり」というのは凄い映像だ。皮膚から瘡蓋が剥がれるように大地から無数の人が剥がれてゆく。大地が我々の命を育むものの象徴だとすれば、そこから剥がれてゆく瘡蓋のような我々の命はどこに行ってしまうのだろうか。春の浅い眠りの中で見る悪夢のような怖い映像である。


33

鑑賞日 2016/6/24
遠くから鳩にも見ゆる基地の鷹
マブソン青眼 
長野

 アメリカの国防総省の前の名前は戦争省であったらしい。この名前の方が正直な名である。国を守るために、つまり平和の為に、しかたなく戦争をするのだという大義名分で殆ど全ての戦争は行われる。鳩に見せかけて実は鷹だったというわけである。日本でも、実は戦争法制のことを平和安保法制だと言い換えたり。武器輸出であるのに防衛装備移転などというまやかしの言い換えがなされてきている。


34

鑑賞日 2016/6/24
餅を焼く火の色に父祖あぶりだし
武藤鉦二 秋田

 餅を焼いていたらその火に父祖の俤が浮んだというような受け身ではなく、「あぶりだし」という積極的な行為であるから、餅を焼くという行為が何か祖霊を呼び出す為の儀式であるかのような趣がある。この作者には何かそういう積極的な祖霊への思いがあるのかもしれない。


35

鑑賞日 2016/6/25
胡麻爆ぜるどの子も親の意に添わず
森由美子 埼玉

 煎り胡麻というのは香ばしくて美味いものである。玄米に煎り胡麻と塩をふりかけて食べれば、他のおかずは何もいらないくらいに美味である。どうだろう、作者は「どの子も親の意に添わず」とぼやいているように見えるが、実はどの子も案外香ばしく育ってくれたと思っているのではないか。


36

鑑賞日 2016/6/25
雨にいて吾も雨の輪ほうれん草
森央ミモザ 長野

 かつて小室等が歌った次の詩を思い出した。おそらく書かれている詩情がほぼ似ているからだろう。作者はほうれん草畑の前に佇んでいるのではないかと想像した。あるいはほうれん草の呟きとも受け取れる。この作者ひそかな詩情を捉えるのが上手い。

 雨が空から降れば(昭和41年)
別役実・作詩 小室等・作曲 六文銭・唄 

雨が空から降れば
オモイデは地面にしみこむ
雨がシトシト降れば
オモイデはシトシトにじむ
黒いコーモリ傘を指して 街を歩けば
あの街は雨の中
この街も雨の中
電信柱もポストも
フルサトも雨の中
しょうがない 雨の日にはしょうがない
公園のベンチでひとり おさかなをつれば
おさかなもまた 雨の中
しょうがない 雨の日にはしょうがない
しょうがない 雨の日にはしょうがない
しょうがない 雨の日にはしょうがない


37

鑑賞日 2016/6/26
マスクの中で舌出すことも立春
山内崇弘 愛媛

 この句の内容を考えているうちに、金子兜太の次の句に思い至った。

「天地大戯場」とかや初日出づ      『東国抄』  

 われわれがこの世で生きてゆくということは、この世で芝居をしていることにほかならない。われわれは役者として与えられた役を上手にこなしてゆくほかない。しかし本心までその役柄に縛られてしまう必要はないし、むしろ本心は芝居が終った後のことに置いていた方がいい。これは大変難しいことではあるが、生きるコツである。
 この句におけるマスクは風邪の時などにするマスクであるが、マスクには仮面劇という意味もある。


38

鑑賞日 2016/6/26
夜の爼に黒ありありく雨水かな
柚木紀子 長野

 雨水(うすい)とルビ

 雨水とは二十四節気の一つで立春と啓蟄の間。2月19日頃。空から降るものが雪から雨に替わり、深く積もった雪も融け始める。
 こういう句は意味を探って楽しむ句ではない。敢ていえば‘存在の詩’である。あるがままの存在の詩。とてもいい。


39

鑑賞日 2016/6/27
人日の村なり野馬の匂いのなか
横地かをる 愛知

 野飼いの馬の牧場があるような村なのだろうか。とにかく馬の匂いがしている村。そしてその日はたまたま人の日である。馬と人の付き合いの歴史。自然の中の人間の営み。さまざまなことを茫洋と考えている。ずっと読んでいると私自身野馬の匂いに取り巻かれている気がしてくる。


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