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金子兜太選海程秀句鑑賞 522号(2016年5月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2016/5/5
籾殻焼くわが晩節の焔かな
有村王志 大分

 籾殻を焼いたことが無いのではっきりしないが、おそらく燃え盛るというような焔ではなく、じわーっと少しずつ燃えてゆくような焔であろう。そんな焔が晩節に相応しい情を表わしている気がする。そしてまたこの籾殻を焼いた灰は土に還って土を肥やし次世代の作物の為に役に立つ。そんなこともまた晩節の情に相応しい。


2

鑑賞日 2016/5/6
密かなる戦中なのか初日浴ぶ
石川青狼 北海道

 戦争というのは人間の愚かさの証明なのかもしれない。愚かな独裁者は戦争を起すし、民主主義の世で戦争が起るとすれば民衆そのものが愚かだということになる。確かに今の政権の面々や政権に阿る人々は皆愚昧な顔をしている。そしてもしかしたら我々も皆愚かな顔をしているのかもしれない。だとしたら、既に我々は戦中にいると言えないこともない。願わくばこの初日が我々の愚かさという垢を洗い落してくれないものだろうか。


3

鑑賞日 2016/5/7
きな臭き朝刊に乗す寒卵
市原光子 徳島

 世界ではテロが頻発したり、日本ではいわゆる戦争法案が議決されたりで、まことにきな臭いニュースで紙面は満ちている。最近思うのであるが、このテロと日本の戦争準備とはその質は大分違うような気がする。テロを正当だとはもちろん思わないが、しかしそれに参加する人の動機には止むに止まれないものがある気がする。つまり貧困や被差別の問題である。生きるに生きられないような状況がテロリストを作っているに違いないと思うわけである。だって彼らは自爆する程絶望しているのだから。一方、日本の戦争準備法案はこれは何だか戦争ごっこ遊びをしているような印象を受ける。何でわざわざアメリカの戦争に付き合う必要があるのだろう。そんなごっこ遊びで寒卵を賞味するような穏やかな日常を壊されたくない。


4

鑑賞日 2016/5/8
薺粥鴨長明も啜ったか
伊藤雅彦 東京

 われわれは水平的に生きていると同時に垂直的にも生きている。つまり同時代における空間の広がりの中に生きていると同時に歴史的な時間の広がりの中でも生きている。家族などで薺粥を共に啜るという悦びもあるし、また歴史的に親しい人物と共に薺粥を啜るという経験も持ちうる。その意味でいえば、最近私はよく宮沢賢治と食事を共にする。彼の「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜」という言葉があるからである。伊藤氏は鴨長明のどんな言葉によって、このような感慨を持ったのだろうか。


5

鑑賞日 2016/5/9
野合という不埒な言葉そぞろ寒
梅川寧江 石川

 公明党と自民党の政権は野合だろう。公明党は政権に居座りたいための自民党へのすり寄りが甚だしいし、自民党にしても曾ての多様性は失われてアベさんに公認されたいが為のすり寄り議員ばかりになっている。これが野合でなくて何であろう。そしてその自民党が野党共闘は野合だという。民主党と維新の党の合体は野合的な味があることは否めない気がするが、共産党や社民党や生活の党なども含めた野党共闘は野合ではない。何故なら、そこには立憲主義を守るという大義があるからであっる。


6

鑑賞日 2016/5/9
狐火を自由にさせて眠るなり
榎本祐子 兵庫

 人間のマインドはあらゆる妄想を作りだす機械のようなものである。人間は自分のこのマインドをこの妄想をこの機械をコントロールできるだろうか。コントロールしようと思えば思うほど妄想はしつこく付き纏い更に勢力を増すようにさえ思える。手はある。一つはその妄想を敬いそして自由にさせてやることである。自由にさせるということはそれに従うということではなく、むしろそれを眺めているということに近い。そうすればいずれその妄想は消滅するのである。妄想に付き合えば不眠に陥る。ここでは狐火≒妄想として解釈した。


7

鑑賞日 2016/5/10
大気汚染わが喘鳴のうしろ臘梅
大上恒子 神奈川

 「喘鳴」という言葉が印象的だ。人間が作りだす化学物質や放射能により大気が汚れ、水が汚れ、土が汚れ、そしてだんだん地球は生命体が住みづらくなってきている。近頃はマスクをしている人が多いような気がするが、一昔前はこんなことは無かった。そのうちマスクをしてゴーグルをしてペットボトルから蒸留水を飲み、皆がぜいぜいひゅーひゅーと喘鳴しながら生きている時代が来ないとは言い切れない。匂やかに咲く臘梅は果たして何を感じているだろうか。


8

鑑賞日 2016/5/11
蕪も我も母の産物息災です
加藤昭子 秋田

 大地に根ざした健康な家族、そして社会。「母」であるのがいい。これが「父」だったらそこにはキナ臭い思想が交じってくる可能性がある。「母の思想」とでもいうべきものがこれからの時代の思想であるべきた。


9

鑑賞日 2016/5/11
犬逝きて両の手空くよ冬銀河
川崎千鶴子 広島

 私が想像したのは、冬の銀河が出ているような寒い夜に死んだ犬を庭の片隅に埋葬した、というような場面である。愛犬が死んだショックや悲しみに心が奪われていても、埋葬するまではまだ心は空っぽとは言えない。死んだ犬の処置が全て終った時にまさに両の手が空いてしまったような空っぽの感じがやってくるのかもしれない。何かの世話をするということは人間の生き甲斐である。その対象が逝ってしまった時、人間の心は空っぽになってしまう。そんな心で作者は冬銀河の下に佇んでいるのではなかろうか。「心」というような言葉ではなく「両の手空くよ」という表現が巧みである。


10

鑑賞日 2016/5/13
草食の息子を軽く憎み冴ゆ
木村清子 埼玉

 作者は理知的でバランスのとれた人かもしれないと思った。「軽く憎み」と「冴ゆ」からそう感じるのである。感情に流されずに物事を大きく把握する力があるということである。こういう人が増えれば、宮台真司が言っている「現代社会における感情の劣化問題」というものは起らない。


11

鑑賞日 2016/5/13
駄菓子屋へ初東雲を入れにけり
こしのゆみこ 
東京

 先ず、「入れた」のは誰かという問題がある。その意味では、芭蕉の「暑き日を海に入れたり最上川」という句に似ている。とてもいい句だ。スケールが違うという人がいるかもしれない。そういう人には次の会話を紹介したい。
 弟子「私はいつ悟るのでしょうか」
 師「この小さなどぶ川が聖なるガンジスと同じに見えるようになった時」


12

鑑賞日 2016/5/14
話好きの僧侶猫舌ふぐと汁
小原恵子 埼玉

 僧侶が話し好きで猫舌でふぐと汁を食っている。まあやはり今の日本は曲がりなりにも平和だということだろう。こんなぬくぬくとした平和がいつまでも続けばいい。


13

鑑賞日 2016/5/14
フラフープ中は狐火かもしれぬ
佐々木宏 北海道

 フラフープは私が子ども時代に爆発的に流行した。高度経済成長が始まりだした時代である。いわゆる戦後の良き昭和時代のことである。あの頃のことを知っている世代の人はセピア色の懐しい思い出とともにフラフープのことを思い出すのかもしれない。フラフープの中は狐火かもしれぬ、と言っている作者はあの時代そのものが歴史の中に偶然訪れた狐火のようなものだったのかもしれぬ、と思っているのではなかろうか。


14

鑑賞日 2016/5/15
贅沢に進化する国冬ざるる
佐藤美紀江 千葉

 物心両面で豊かに進化してゆくつもりだった。ところが進化したのは物質的豊かさのみだった。そしてその物質的豊かさの進化も打ち止めになってしまった現在、人々はようやく実は心が貧しかったのだということに気が付きはじめた。しかもそれに気付かない人がまだ殆どであるから困ったものだ。だから国家は富国強兵などという路線を取る。そして感情の劣化した国民がそれに賛同してしまう。まさに日本は今冬ざれの状況なのかもしれない。


15

鑑賞日 2016/5/15
雪もよい蟹食べに行く愉快なバス
重松敬子 兵庫

 蟹を食べに行く時バスは愉快だ。雪が降ってくる?そんなことはおかまいなし、とにかく今バスは愉快だ。このバスの内臓は何でできている? ぺちゃくちゃぺちゃくちゃオバサンパワーでできている。失礼! 女性パワーでできている。


16

鑑賞日 2016/5/16
霙るるや半身にふくろうを飼い
白石司子 愛媛

 半身にふくろうを飼い、というのは、ある種の身体的あるいは心理的な違和感や不具合なのかもしれない。それが寒い霙が降る日などは強まるということではなかろうか。


17

鑑賞日 2016/5/16
新年の喪や洗面器あたらしき
高木一惠 千葉

 新年というのはいわば生の目出度さを寿ぐ期間であり、喪というのはいわば死の不幸や穢れを清める期間である。生と死は一見対立する概念である。だから逆に、新年と喪が同時にやってきたというのは、大変大きな意識変革の可能性がある。生と死は一つの実在の二つの側面に過ぎない、コインの裏表に過ぎない、ということを悟る契機となる可能性がある。もしかしたら、「洗面器あたらしき」というのはそういう意識の変化を象徴しているのかもしれないと思った。


18

鑑賞日 2016/5/17
ああ吾はまこと父の子皹切れる
竪阿彌放心 秋田

 「皹切れる」がいい。地に根ざした働き者の父を誇りに思っている。そしてまた同じように生きてきた自分の来し方をしみじみと思っている。これは地の塩たる者達の系譜の歌である。


19

鑑賞日 2016/5/17
オニギリハアタタメマスヨ皹痛し
田中 洋 兵庫

 「オニギリハアタタメマスヨ」というのが何だかコンピューターで作られた電子音のような感じがする。それに対比して「皹痛し」というのはまさに人間そのものの痛みであるという感じ。われわれ人間はまさにこういう世界に現在住みつつある。文明批判の句である気がする。


20

鑑賞日 2016/5/19
禿頭の冬木のような夫に寄る
田村蒲公英 埼玉

 結婚というもの、そこには肉体レベルでの性的なエネルギーが絡んでいることは確かだろう。そして高齢になってくるとこの肉体レベルでの性的エネルギーが衰えてくるのは必然だ。それでも尚夫婦を結びつけているものがあるとすれば、それは違うレベルでのエネルギーということになる。それを愛と呼んでもいいかもしれない。高齢になって離婚する人は、もしかしたら肉体的な性エネルギーのみによって結婚していたということになるのかもしれない。禿頭の冬木のような夫には性的な引力は無い筈であるから、この夫に寄るということは何か別の大きな引力が働いているということになる。


21

鑑賞日 2016/5/19
細胞におよぶ引力年新た
月野ぽぽな 
アメリカ

 物理学的な引力を感じられたのだとしたら、それはもう超能力の範疇に入る。で、引力という言葉を自分を細胞レベルから引きつける何かの力だと仮定しよう。生物において自己を引きつける最も強い力は性的な力であろう。人間においてはこの性的な力とともに希望という力が加わるだろう。いずれにしてもこの作者は若さというエネルギーに満ちている。


22

鑑賞日 2016/5/20
神の留守社務所は終夜酒盛りや
中村真知子 三重

 神様というのは本来人間が祝祭的な気分でいることを喜ぶ筈だ。その神々も政(まつりごと)の為に出雲に集まっていくのだから、その間人間達も酒を飲んでそれを祝うのは当然のことかもしれない。あるいは、神様というものは時に気まぐれで人間に罰を与えたりする存在であるから、鬼のいぬ間の洗濯ということでもあるかもしれない。


23

鑑賞日 2016/5/20
狐火や鬱の字□に収まらず
中村道子 静岡

 □(ます)とルビ

 例えば原稿用紙などの□である。鬱という複雑な文字が原稿用紙などの升目に収まりにくいという事実と、鬱という人間特有の原因も対処法もはっきりしない心の病気をリンクさせている。そしてその事実を狐火という自然界の不可解な現象で包み込んで詩に昇華している。しっかりと巧みである。


24

鑑賞日 2016/5/21
大いなるいのちのなかや冬銀河
野崎憲子 香川

 これは、まさに同感の句である。一般的にいのちは銀河の中の小さなやわらかいあたたかい営みとして捉えられているわけであるが、それを逆に、このとてつもなく大きくて硬質で冷たい感じの冬銀河さえもがいのちのなかに含まれているという観点が新しいしまた普遍的だと思うのである。この大いなるいのち感はこれからの時代の思想として重要だ。


25

鑑賞日 2016/5/21
山茶花の扉は内にひらかれる
平田 薫 神奈川

 内面においてものごとを深く感じ取れる人にとってはこの世界のあらゆる事物が広大で奥深い内面の旅への扉となりうる。しかしそのような機会としての事物との遭遇は稀だ。ある日ある時作者とこの山茶花との遭遇は、そのようなものだったのではないか。


26

鑑賞日 2016/5/22
正月や鼻で笑って猫すぎる
廣島美惠子 兵庫

 確か中学生の頃だった。先生がクラスの生徒に向って「年の初めにあたって今年の目標をのべなさい」と言って、クラス全員に述べさせたことがあった。私は「正月というものは単に人間が便宜的に決めたものに過ぎないから、自分は特に何も思わない」というような生意気なことを言ったことがある。そのことを思いださせてくれた。


27

鑑賞日 2016/5/22
夜更かしの耳あり雪の積もりおり
船越みよ 秋田

 しんしんと雪の降り積る音が聞こえる。それを聞いているのはこの私の耳だ。それは夜更かしの耳である。他の者がみな寝静まった夜には私の耳は夜更かしの耳となる。普段聞こえない音も聞こえてくる。
 あるいはこの夜更かしの耳というのは、なかなか寝ようとしない子どもの耳である。私はこの子どもの夜更かしの耳のために、昔語りなどを聞かせる。外はしんしんと雪が降り積もる。


28

鑑賞日 2016/5/23
光陰や潤目鰯のごと乾ぶ
堀之内長一 埼玉

 年月が経ち自分も潤目鰯の干物のごとくに乾いてしまったなあ、というのである。年老いてゆく自らの姿を客観視しているゆえに滑稽味が出ている。そう、人間なぞというものは客観的に見てみれば滑稽なものである。そのことを考えればわれわれ人間は他の動物や自然に対して偉そうには振る舞えない。そしてそのことに気が付くのは概ね年老いてからである。だからわれわれは老年に於てこそカラカラと乾いた高笑いが出来るのである。


29

鑑賞日 2016/5/23
風評や少しゆがんだ冬満月
本田ひとみ 埼玉

 社会というものは概ね風評で出来ている。いや、社会というものの存在自体が風評なのかもしれない。故に風評を操ることが上手い人が権力を手にいれる。かつて真実の人が権力者になったことは一度もない。いや、真実の人はそもそも権力などに興味がない。真実が真ん丸の満月のようなものだとすれば、この人間の世は少しゆがんだ満月に違いない。末法の世すなわち冬の時代だと言えようか。


30

鑑賞日 2016/5/24
去り際の狐にニッと笑われる
松本勇二 愛媛

 良心という語はconscience という語の翻訳語であるらしい。conscience には「共に知る」という意味があるらしい。誰と共に知るか、というと、それは自分の心の奥にいるもう一人の自分、あるいは隣人、あるいは神、と共に知る、ということである。さて、去り際の人にニッと笑われてしまった。私は何か間違ったことを言っただろうか。私は彼に対して公正だっただろうか。私の態度は不誠実すぎたのではないだろうか。などと考えてしまう彼の笑いである。つまりこれは良心的に生きようを思っている人の句のような気がする。とにかく「狐」は人の心を読むからなあ。


31

鑑賞日 2016/5/24
書かざれば伏字はなけり風花す
水野真由美 群馬

 確か最近ではTPP問題で政府が出してきた文書が伏字だらけで黒塗り状態だったということがあった。堤未果さんの本に「政府は必ず嘘をつく」というのがあったが、この伏字問題は国民に知られたくないものを隠しているということで、嘘はつかぬが知らせないということであろう。まあ堂々と嘘をつくよりはいいか。少なくとも、彼らは嘘をついているかも知れない、ということが分るからである。風花が舞っている。これは本降りの雪になるだろうか。ならないだろうか。いずれにしろ我々は用心していないととんでもないことになる。


32

鑑賞日 2016/5/26
古書店の帰り冬鳥とほうよう
三井絹枝 東京

 文学少女のある日の日誌の一行の記述という感じ。彼女の日常は詩である。彼女は詩を生きている。彼女はどのようにスパゲッティーを作るのだろうか。どのように味噌汁を飲むのだろうか。そしてまた彼女はどのようにこの社会の行く末を眺めているのだろうか。興味津々。


33

鑑賞日 2016/5/26
怒も哀も山唄であり濁り酒
武藤鉦二 秋田

 ある種の演歌的な懐しさのある句である。グローバル経済がじわじわと我々の社会の隅々まで浸透してくる中で、このようないわば自然に密着した懐しい情感の世界は残りうるだろうか。穿ってみればこの「怒も哀も」というのは、この句のような世界が消滅してゆくことへの怒りと哀しみなのかもしれないと思った。


34

鑑賞日 2016/5/27
輪の外の皇帝ペンギン着ぶくれて
森 鈴 埼玉

 いつも上手に輪の中に入れる人と、どうも輪の中に入っているのが苦手な人がいる。どうだろう、日本社会は、輪に入れ輪に入れ、という同調圧力が強い社会ではなかろうか。そしてその輪の中でその空気を読みながら生きていくというのが多くの日本人のとっている生き様なのではないだろうか。ある意味それは和気あいあいとした社会だともいえるが、その輪自体が悪い方向に向った時などには、その輪の中で異を唱えることができないで、結局全体的にとても悲惨な運命を辿るということもある。先の戦争などに於ても、負けると分っていながら引き返せなかったのもその例であろうし、原発などが止められないのもその例であろう。輪の中に居るのがいいのか、輪の外に居るのがいいのか。どちらがいいのかは分らないが、私の場合は輪の外に居て無様に着ぶくれているという方かもしれない。


35

鑑賞日 2016/5/27
縋るごと地に葉を広げ薺かな
諸 寿子 東京

 結局この薺の生き方が正しい。地に縋らないで生きられると思っている人間がいるとしたら、それはちゃんちゃらおかしい。地に縋らないで生きられると思っている人間の傲慢が結局地水火風の秩序を乱し、それは結局人間自身の生存を脅かすことになる。地以外から得ることの出来る食べ物はないし、第一地が無ければ立っていることも寝ることも座ることも出来ない。


36

鑑賞日 2016/5/28
対岸の鷽の饑さすぐ吾に
矢野千代子 兵庫

 饑(ひだる)とルビ

 対岸の鷽の饑さ(ひもじさ、空腹感)がすぐ吾にもやってきた、というのである。鷽は口笛のようなかわいらしい声で鳴く鳥であるが、Wikipediaには次のように出ている。
ウソ(鷽、学名:Pyrrhula pyrrhula Linnaeus, 1758)は、スズメ目アトリ科ウソ属に分類される鳥類の一種。和名の由来は口笛を意味する古語「うそ」から来ており、ヒーホーと口笛のような鳴き声を発することから名付けられた。その細く、悲しげな調子を帯びた鳴き声は古くから愛され、江戸時代には「弾琴鳥」や「うそひめ」と呼ばれることもあった。
 さて、「対岸」であるから、その姿ではなく、その鳴き声を饑いと感じたのであろうか。おそらくこの感じ方は作者の心の投影である。肉体的な饑さと同時に精神のあるいは魂の饑さなのであろう。そのことをこの鷽が気付かせてくれたということであろう。世界のあらゆる事物の有り様は自己自身の姿の投影であるともいえる。


37

鑑賞日 2016/5/28
焼鳥の串で文字書く熱く書く
山内崇弘 愛媛

 焼鳥屋の場面が思い浮ぶ。一人なのかもしれないし、誰かと一緒なのかもしれない。飲みながら、その誰かに何か自分の大事に思っていることを伝えようとしている雰囲気がある。一人なら、自分自身に言い聞かせているという雰囲気。まず自分自身に対して、それから他者に対しても、熱く語れるような言葉があるということは仕合わせなことだろう。


38

鑑賞日 2016/5/29
梅一輪大いなる暗黒の土に
横山 隆 長崎

 あんこく【暗黒/闇黒】とは。意味や解説、類語。[名・形動]1 真っ暗なこと。全く光のささ ないこと。くらやみ。また、そのさま。「―の宇宙」2 社会の秩序が乱れ、また、人間性や 文化が極度に圧迫されて、悪事や不安がはびこること。また、そのさま。「―の時代」……goo辞書より

 作者は長崎の人であるから、「大いなる暗黒の土」というのは具体的には被爆した長崎の土のことなのかもしれない。そして敷延して現代世界の土のことを思っているのかもしれない。フクシマやヒロシマの土、世界中にある原発の汚染土、中東の劣化ウラン弾に汚染された土。核の汚染に限らず化学物質や環境ホルモンによる汚染なども想起されたのかもしれない。あるいは「土」を人間が生きてゆくための基盤的な環境だと大きく捉えて、それが今暗黒の状況に曝されていると作者は感じているのかもしれない。あるいは更に大きく捉えて、この世界はそもそも暗黒の混沌から奇跡的に生まれ出たものだと捉えて、この梅一輪の美しさに感嘆し恩寵と美を感じたのかもしれない。


39

鑑賞日 2016/5/29
雪霏々とどこか濡れてる自己模倣
渡部陽子 宮城

 例えばDNAのやっていることなどを考えれば、自己模倣というのは生命体の基本的な営みに違いない。延々と続く自己模倣によって種は保たれるし命は健全に存在できるのだろう。しかしそれだけでは進化も進歩も変化もないマンネリであり、そこにはみずみずしい創造の喜びがない。そこで突然変異というものが起る。それは他物や他者との接触により起るのだろう。生物学者の福岡伸一氏が「生命とは動的平衡である」と言っているように、その変化は動的平衡性を維持しながら起る。この句はそんな変化の予兆を詩的に表現したもののような気がする。延々と続く自己模倣が、霏々と降る雪に触れて、どこか濡れて来た感じがし、やがて新しい自己の発見に繋がる予兆の句であるような気がするのである。


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