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金子兜太選海程秀句鑑賞 521号(2016年4月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2016/4/2
凍蝶の棲み家となりし日記かな
伊藤 歩 北海道

 日記を開いたら其処は凍蝶の棲み家だった・・このことが表象している事実は何だろうか。日記とはいわばその人の人生の日々の記録であるから、其処に書きつけられている言葉言葉が凍蝶のように生気のない動きのない凍ったもののようだ、というのであれば、その人の生そのものがマンネリ化した陳腐に思えるものだということになる。私の日々の生のことを考えても、そういうことは確かにある。このことを否定的に取るべきか、あるいは肯定的に取るべきか。私はそういう状況でも肯定的に取るべきだと思う。ポイントが一つある。その状況を詩的に眺めるていることが出来るかということである。それがたとえどんなに最悪の状況でも、それを詩的に眺めていることが出来れば、その状況さえもが福音であると言える。この句は詩的である。


2

鑑賞日 2016/4/3
呼吸も思考も全身打撲乱れ菊
伊藤 和 東京

 人は呼吸や思考で出来ている。そして呼吸や思考の格納容器であるのが肉体である。肉体は格納容器であるばかりでなく、呼吸や思考と密に連携してある。故に肉体が大きなダメージを受けた時には呼吸や思考は乱れに乱れる。しかし私は、肉体や呼吸や思考のさらに上位に‘意識’が存在すると思うのである。その‘意識’は肉体や呼吸や思考という全体を眺めている。そういう客観的に眺める作用のある‘意識’があるからこそ、このような諧謔味のある句が作れる。


3

鑑賞日 2016/4/4
憂える国の毛虫に刺され草に負け
宇田蓋男 宮崎

 最近自分が日本人であることが恥ずかしいと感じることが多い。ヘイトスピーチという現象であるとか、アメリカに尻尾を振ってついてゆくような国の在り方であるとか、福島や沖縄の人々を見下したような政府の態度であるとか云々かんぬんである。「美しい国」などと誰かさんが曰ったが、美しい国とは人々が他者を思い遣ることのできる国である筈である。そうであるとするなら現在の日本はますます「醜い国」な成り下がってゆくのではないかという憂いがある。おまけに毛虫に刺されたり草に負けたりではまさに踏んだり蹴ったりである。


4

鑑賞日 2016/4/7
ブルゾンをかりてうふふふつてかへした
小川楓子 神奈川

 楽しくなるなあ。こういう謎のような人物がいると世の中が楽しくなる。女性だろうなあ。かなり若い気持ちの女性。男性だとしたら、それももっと謎めいてくる。世の中、謎があるから楽しい。人間存在はその中で最も謎めいている。うふふふふ。


5

鑑賞日 2016/4/8
冬銀河手錠の冷たさだと思う
片岡秀樹 千葉

 衝撃がある。そして解決しようのない不条理がある。人間存在そのものの不条理であり、また人間社会の不条理である。国家権力の一つの象徴である手錠。権力が無ければ人間は社会を形成できないという不条理。手錠の冷たさを感じる時に、人はその内奥で人間存在の不条理を感じているに違いない。しかし、どうだろうか、手錠の冷たさは冬銀河の冷たさと同じ種類のものだろうか。もしそうだとしたら、人間は何処に救いを求めたらいいだろうか。人間が暗愚たるものだということは認めるに吝かではないが、自然そのものも暗愚たるものだというのでは出口が無くなってしまうのではないか。だからこの句は私にとって衝撃である。


6

鑑賞日 2016/4/9
霜の夜の触感ヒトの匂い消す
狩野康子 宮城

 「触感」「ヒト」という言葉が海程句(兜太選)の一つの特徴なのだろうと思った。一般的には「霜の夜人の匂いを消しにけり」くらいの表現になるのかもしれない。「触感」「ヒト」という言葉あるいは表記が句をより肉感的にしている。エロスさえも感じる。


7

鑑賞日 2016/4/10
雨ですあぢさいの向ふは奈落です
加納百合子 奈良

 不安の時代あるいは不確実性の時代。いつ大地震がやって来るかもしれない。いつ原発が爆発するかもしれない。いつテロが発生するかもしれない。いつ漂流老人になってしまうかもしれない。いつ経済システムが崩壊して一万円札が紙切れになってしまうかもしれない。人は思い遣りということを忘れて小さな自分のことだけを考えているような時代。冷たい雨が降っている時代。まさにあぢさいの向ふは奈落なのかもしれない。答えは何。答えは風に吹かれている。


8

鑑賞日 2016/4/11
老父喧嘩つぱやし山茶花時雨かな
木下ようこ 
神奈川

 老父(ちち)とルビ

 配合の妙とでも言おうか。この配合によって、老父に対する気持ちが伝わってくる。困ったもんだなあと思いながらも慈しみ眺めている。


9

鑑賞日 2016/4/14
両肩に小寒い畑想うかな
小池弘子 富山

 想像だが、作者は畑をやっている方ではないかと思った。私の経験で言えば、畑と付き合っているとだんだんと畑と自分の肉体が同一化してくるように思う。たとえば、天気がからからとして雨が降らない日が続くと何だか自分の身体も干涸びてくる感じがし、その時に雨が降ると自分の身体がその雨に喜んでいる感じになるというふうにである。そういう私にとってはこの「両肩に小寒い畑」という表現がよく分る気がするのではある。


10

鑑賞日 2016/4/14
ひらがなを吾が血と思うひなたぼこ
小林寿美子 滋賀

 日本語の表記法はとても好きである。つまり、ひらがながベースになってそこに漢字やカタカナが混じるという表記である。この表記法を血液に譬えれば、漢字やカタカナは赤血球や白血球や血小板でひらがなはそれらを保持する血漿ということになる感じがある。漢字だけではごつごつとして流れが悪いし、カタカナだけでもキチキチとして突っ掛かる感じだ。ひらがながベースにあることによって流れがよくなる。視覚的にみてもひらがなは如何にも女性らしい滑らかさ柔らかさがあるし、漢字には男性的なごつごつ感や理屈感がある。女性的なものと男性的なものが適度に混じった表記法である感じがする。


11

鑑賞日 2016/4/15
秋声やこの世離るる北の友
坂本久刀 兵庫

 この世は淋しさで出来ている。この句を読んでいるとそう思わされる。書き方が客観的な分だけ「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥 芭蕉」などよりもその寂寥感は強い。


12

鑑賞日 2016/4/15
山枯れて夜景に闇が加わりぬ
佐々木昇一 秋田

 一般的には夜景とは都市だとか街の電気的な灯の集合体による景色のことを言うのであろう。夜景を好きだという人がかなりいるらしいが、私は実はあまり好きではない。見た時に受けるあの人工的な儚い情感が好きではないのだ。たとえば、山は冬には雪が降り、春には芽吹き、夏には緑山となり、秋には枯れるという自然の運行の中に在るり、ある意味生死を含んだ生命の健康な営みの中に在るが、それに比べると夜景にはある種人間文明の儚さを感じてしまうのかもしれない。


13

鑑賞日 2016/4/16
理不尽に子の叱られる師走かな
柴田美代子 埼玉

 貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。
 
日本は産業社会に振り回されていると思うよ。すごい進歩を遂げた国だとは思う。けど、本当に日本人が幸せなのかは疑問なんだ。
 日本人は魂を失ってしまった。

 これは先日来日した元ウルグアイ大統領のムヒカ氏の言である。同感である。日本人は忙しすぎる。しかも何のために忙しいのか分らなくなっている。故にこの句のような現象が起こる。


14

鑑賞日 2016/4/16
大白鳥こめかみに詩が降りてくる
白石司子 愛媛

 作者は目の前に広がるこの世界全体を自分の身体であると感じている。あるいは自分の身体の延長であると感じている。その世界すなわち自分の身体のこめかみの辺りに大白鳥が降りてきた。その時作者は美を感じた。あるいは詩を感じた。


15

鑑賞日 2016/4/17
初時雨どの声以てわれとせん
鈴木孝信 埼玉

 対米従属か独立中立か、非武装中立か重武装中立か、平和憲法は守った方がいいのかどうか、天皇はあった方がいいのか無くてもいいのか、原発は即中止がいいのかだんだんと脱してゆくのがいいのか、小さな政府がいいのか大きな政府がいいのか、癌は手術した方がいいのか手術しない方がいいのか、大麻は規制した方がいいのかフリーにした方がいいのか、世の中は結局ケセラセラとなるようにしかならないのか、あるいは自分の立ち位置を見極めるべきなのか・・・・・まるで時雨のように様々な意見が私の上に降り注ぐ。


16

鑑賞日 2016/4/17
鵙の贄朝日子われの耳朶を咬む
関田誓炎 埼玉

 自然の愛撫はときに痛いものだということだろう。恋愛などにおいては相手の耳朶を咬むというのは愛の表現の一部であるが、そう考えて更に愛の概念を拡張すれば、ライオンが獲物の首をかみ切るのもあるいは鵙がその獲物を木の枝などに挿しておくのもこれは愛の表現なのかもしれない。


17

鑑賞日 2016/4/18
若き死に添えば背中は冬の凪
たかはししずみ
 愛媛

 死というものに真に遭遇するとき、人は全ての思考が停止する。普通はそういう死にはなかなか遭遇しない。年寄りから順番に死んでゆくような場合には、その死はある程度生の中に組み入れられたものとして片付けることができる。ところが若者の死の場合は、それはとても理不尽なものとしてわれわれの目の前に突然やってくる。その若者が親しいものであればあるほどその死はもはやわれわれの思考の及ばないものとしてやって来る。われわれの目の前にある生というものは実は小さなもので、われわれの背後にある死というものこそ広大であるということにその時気が付く。それはまさに凪いでいる冬の海のごとくに厳然とそこに存在する。


18

鑑賞日 2016/4/20
まばたきは遠流のごとし冬の鹿
田口満代子 千葉

 冬の鹿の表情の描写であろうし、作者の心の有り様の描写なのでもあろう。村上春樹の「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の「世界の終り」に出てくる一角獣達はこのような瞳をしこのようなまばたきをしているのではないかと想像した。


19

鑑賞日 2016/4/20
俺は俳句だなどと紅葉が日の中に
谷 佳紀 神奈川

 俳句に夢中になっている人は程度の差こそあれ、「俺は俳句だ」とか「私は俳句よ」だとか「我が輩は俳句である」とか思っているのかもしれない。あるいは「世界は俳句で出来ている」「宇宙は俳句で出来ている」と思っている可能性もある。傍から見れば単なる俳句馬鹿だとも言えるが、「世界は馬鹿で出来ている」ということが事実だとすれば、俳句馬鹿などはまことに害のない馬鹿だといえる。


20

鑑賞日 2016/4/21
妖怪になりつつ老いる花野菜
田沼美智子 千葉

 上品に老いる、だとか、美しく老いる、というような言葉はよく耳にする。しかし、おそらくこれらの言葉には実用的な意味はない。何故ならそれは結果であるからである。美しくなろうとすれば、むしろ醜さが発生するということもある。どうだろうむしろ「妖怪になりつつ老いるべし」というような言葉は実用的ではないだろうか。人に食べられやすくこじんまりとまとまった花野菜(カリフラワー)でなんか有り続けないぞ、というわけである。美は自由からしか生まれ得ない。


21

鑑賞日 2016/4/21
十二月別るる為に逢いにゆく
玉木節花 宮崎

 作者は律儀な人なのかもしれない。つまり物事のけじめをしっかりつけてから次に進みたい人なのかもしれない。さて、この別れ話はすっきりとけじめがついただろうか。相手にごねられたりしてどろどろとした結果などにはならなかっただろうか。「十二月」という言葉の比較的さっぱりした感じから上手くけりをつけられた気もする。
 いやいやこんな観賞では駄目だ。なぜならこれは叙情だからである。フランス映画のワンシーンにでもありそうな叙情だからである。


22

鑑賞日 2016/4/22
冬座敷わたしにものを言う人形
寺町志津子 東京

 しんと静まった冬座敷。そこにわたしは一人。そしてそこに置いてあった人形がわたしにものを言ってくるというのである。
 ラジニーシはloneliness とalonenessを区別している。同じ一人であるという状態であるが、loneliness は他者を求めているのにその他者がいないという状態であり、aloneness は他者がいてもいなくても満ち足りているという状態である、と彼は言う。
 さてこの作者の状況はどちらだろうか。


23

鑑賞日 2016/4/22
隙間風ああ愚痴さえも自己模倣
峠谷清広 東京

 ノーベル愚痴文学賞というようなものがあれば、この作家はその候補になるかもしれない。言ってみればこの作家は愚痴の大家である。愚痴に諧謔味を持たせて俳諧性の一つの高みに飛翔している感じがある。


24

鑑賞日 2016/4/23
ささくれや山茶花の白が痛いのです
中田里美 東京

 人間関係におけるささくれだろう。作者は感受性の高い人なのである。感受性が高いというのは重要なことだ。今の社会は感受性の低い愚鈍な人が多いように思う。人の痛みを自分の痛みとして感じられない愚鈍な人が多すぎる。だから格差が広がりテロが起り自然破壊が起る。そして「愚鈍な奴ほどよく眠る」という現象が起る。「山茶花の白が痛い」と感じられる作者のように人が増えれば世界はもっとまともになるのかもしれない。


25

鑑賞日 2016/4/23
赤の他人六人寄れば芋煮会
並木邑人 千葉

 先頃、世界一貧乏な大統領といわれているウルグアイの元大統領のムヒカ氏が来日した。彼の数々の心温まるエピソードの中に、大統領時代に知り合いでもない赤の他人のヒッチハイカーを自分の車に乗せたというのがある。昔からの言葉でいえば「袖擦りあうも多生の縁」ということでもあり、大げさにいえば人類愛ということでもある。ムヒカ氏は現代日本の有り様を見てこう言っている。「日本人は魂を失った」と。概ね彼の言っていることに共感するのであるが、今日のこの句を見て、いやいや日本人もまだまだ魂を失ってしまったわけではないと思った。


26

鑑賞日 2016/4/24
夫藍濃しことば超えたる母の遺書
成井惠子 茨城

 「夫藍」はサフランと読むようである。
 やはりこの句は夫藍濃し」に尽きるだろう。母の思い、母の情愛、母の生き様、それらが全てこの言葉によって伝わってくる。遺書とは即ちダイイングメッセージであるが、我々が日々生きる生き様の質の全てがダイイングメッセージだと言えるだろう。この御母堂は夫藍濃し」と言えるような生き方をした方なのかもしれない。

http://www.hana300.com/safran.htmlより


27

鑑賞日 2016/4/24
人の句に打たれし頭冬に入る
西又利子 福井

 ニュートンは林檎の実が落下するのを見て万有引力の法則を発見したといわれるが、おそらくその場で万有引力の法則を定式化できたのではないだろう。林檎の実の落下から受けたインスピレーションから法則を定式化するまでは長い冬の期間があったのではないか。つまりそれを温めて孵化させて育てる期間が必要だったのではないかということである。


28

鑑賞日 2016/4/25
戦を語る義父よ秋ぐみ噛むように
野田信章 熊本

 戦を語れる人であるならこの義父はかなりの高齢の人であろう。その義父が秋ぐみを噛むように戦を語っているというのである。渋味と酸味のある小さなぐみの実を一粒一粒噛むように戦を語っている老人の姿が見える。


29

鑑賞日 2016/4/25
秋暑し準優勝とう敗者あり
野原瑤子 神奈川

 準優勝とう敗者・・分る気もする。若さということであろうし、また誇り高いということでもあるだろう。しかし裏返せばこれは未熟ということでもある。一番になったところで、結局それは相対的な一番に過ぎないということがだんだん分ってくるからである。自分の周りに自分より弱い人が居ただけに過ぎないということが分ってくるからである。成熟してくると人間は絶対的な一番を目差す。絶対的な一番とは何か。人はやっていること自体を味わうことができ、そこに美を感じることができ、自分自身がかけがえのないオンリーワンだと実感できるということである。
 秋暑し・・若者の熱気ということでもあろうし、またどうも暑苦しいということでもあろうか。


30

鑑賞日 2016/4/26
うしろから来るなと息子初日の出
橋本和子 長崎

 思春期の息子なのかもしれない。異性に興味を持つ年頃ともなれば男子は母親と歩くというのには気恥ずかしさがある。母親離れの初めといえるのかもしれない。そんな息子を眩しげに見ているような感じがある。


31

鑑賞日 2016/4/28
夫去る日なりし冬の鴉の甘き声
日高 玲 東京

 斎藤茂吉の次の歌を想起した。

のど赤きつばくらめふたつはりにゐて 垂乳根の母は死にたまふなり

 生と死はコインの裏表。一つのものの二つの顔。片方が無ければもう一方も存在しえない。われわれはそのように甘く切ない存在である。


32

鑑賞日 2016/4/28
鳥帰る唇を出てゆくことばのよう
北條貢二 北海道

 唇(くち)とルビ

 近景に人の横顔が大きくあり、その人の唇の部分の遠景に帰る鳥達が見える、というような映像が浮んだ。漫画でいえば、その人物の科白の吹き出しの部分が鳥達となっているという図である。
 鳥達はその季節が来ると自ずからその帰るべきところへ帰ってゆく。われわれはそのように自然で慈しみのある言葉を発しえているだろうか。われわれが発する言葉はちゃんとその帰るべきところに帰っているだろうか。大いに疑問である。この句は言ってみれば、言葉の正しい発し方を詩的に表現したもののようにも思えてくる。


33

鑑賞日 2016/4/28
若書きを冬青草に燃やすかな
堀之内長一 埼玉

 この人らしい句である。あるいはこの句によってこの人のらしさを新たに発見したともいえる。ものごとの善し悪しの基準がはっきりしていて几帳面だという感じがする。色でいうと混じり気のない青だし、しかも向上心という情熱を内に秘めている。当っているだろうか。


34

鑑賞日 2016/4/28
彼の世とは翳なきところ白鳥来
前田典子 三重

 ブッダは悟りを開いて以来地に影を結ばなかったという言い伝えがあるし、近頃では村上春樹がその「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」で世界の終りには人は影を無くすという物語を書いているように、彼の世は翳の無いところだというのは一般的なイメージなのかもしれない。作者は白鳥という新たな素材を使ってそのイメージを再確認した。純白の翳さえ持たないような白鳥がやって来た。きっとこの白鳥は彼の世から来たに違いない。


35

鑑賞日 2016/4/29
手びねりは土の悦楽ななかまど
三好つや子 大阪

 ななかまど・・紅葉とその真紅の実が美しい。七度かまどに入れて燃やしてもなお残るといわれる程燃えにくい。(歳時記より)

 ななかまどの木が近くにあるような陶房で土と戯れている作者の姿が見えてくる。


36

鑑賞日 2016/4/29
綿虫と揺らぐまなぶた旅のまま
森央ミモザ 長野

 人間、生きてある限り、それは帰る地点のない惑いながらの旅を続けているようなものであるのは確かであるが、それをこのくらい詩的に表現できるということは、その旅をすること自体が価値あることのように思えてくる。


37

鑑賞日 2016/4/29
梟は帽子のごとく頷けり
守谷茂泰 東京

 どうだろう発想としては「帽子を被った人のごとく」のような気がするのではあるが。ところが字数の関係で「帽子のごとく」としたのではないか。そして結果としては「帽子のごとく」の方が面白い。存在が、あるいは存在の不思議さが顔を出したからである。


38

鑑賞日 2016/4/30
長き夜や鉛筆削る無意識に
吉村伊紅美 岐阜

 全般的に現代ではこのような貴重な時間が失われてきているだろう。何故貴重か。もし幸せの青い鳥がいるとすれば、その青い鳥は我々が時間を(有効に)使っていない時に訪れるからである。時間を(有効に)使っていない時に、我々の自我意識は無いからである。自我意識が存在するところに彼の青い鳥はやって来ないからである。


39

鑑賞日 2016/4/30
四肢軟弱のわれ山繭の重ね着美し
若森京子 兵庫

 当然この「われ」は山繭から作られた絹織物を着ている作者自身だと受け取れるが、私にはこの「われ」は繭を作りだす山蚕そのものにも思えてくる。金子兜太の次の連作を思いだした。

 秩父に姫と蚕の民話あり(三句)
霧の庭姫埋められて蚕(こ)になりしと 
霧の径こぼれた秋蚕姫の化身
蚕となる姫に蹄の音の霧

 もしかしたら作者は山蚕の生まれ変わりかもしれない、などと楽しい想像を働かせている。


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