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金子兜太選海程秀句鑑賞 520号(2016年2・3月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2016/2/4 | |
父が遺愛の木椅子朽ちたり小鳥来る
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安藤和子 愛媛
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哀しくもあり、またそれ故に愛おしくもある、それがいのちというものの性質だろう。いのちは時にある形をとり、そしてまたその形は壊れる。しかしいのちそれ自体の本質は延々と存在し不滅である。「小鳥来る」にいのちの本質への確たる信頼を私は感じる。 |
鑑賞日 2016/2/5 | |
蔦かづら姪に猫背の兆しかな
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石川まゆみ 広島
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松尾芭蕉に次の句がある。 桟(かけはし)や命をからむ蔦葛 われわれ全ての人類はアフリカのたった一人の女性(ミトコンドリア・イヴ)から生まれたのだという説があるそうだ。私にはその説を説明することは出来ないが、ロマンのある説であると思う。われわれ個々人の命は実は一つの命の進化発展したものに過ぎないということ。この生命発展の図はちょうど一本の蔦葛が様々なものにからみ枝分かれしながら生長していく姿に似ている。ある者は白人になりある者は黄人になりあるものは背が高くなりあるものは背が低くなり・・・というように。そしてまたある者は猫背になる資質を持っているのかもしれない。 |
鑑賞日 2016/2/6 | |
武州なり夜を持ち上げて曼珠沙華
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伊藤 巌 東京
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武州・・武蔵国の別称。 |
鑑賞日 2016/2/7 | |
草の穂にただ漣の人の声
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伊藤淳子 東京
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たとえば芒の穂などが風に揺れているのを見ると人はああ漣のようだと感じることがある。この句の場合はその逆の視点がある。草の穂にとっては人の声が漣のように感じられるというのである。まるで大いなる自然の精が作者に乗り移ったような視点である。素晴らしい。もともとこの作者には大いなる自然の精の体現者というような風格があることを思いだした。 |
鑑賞日 2016/2/8 | |
罠に猪観世音立つ丘に霧
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上田久雄 石川
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猪(しし)とルビ 私は群馬県の高崎の出身である。高崎には観音山といってコンクリで出来た観音が立っている丘がある。私はどうもそれが偽物くさくて嫌だった。この句の丘に立つ観世音がどんなものなのか、そしてそれを作者がどんな気持ちで眺めているのかは分らない。 |
鑑賞日 2016/2/9 | |
梟の闇よはるかな浮遊感
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榎本愛子 山梨
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われわれ人間はこの大自然あるいは大宇宙の中に放りだされたちっぽけな存在に過ぎない。それは大海の波間に漂う塵芥のごときである。ところが、昼間の意識においてはわれわれ人間はあたかも大自然の中の王者であるかのごとく思い込んでいる。宇宙の謎は徐々に人間によって解明され、大自然は人間の手によって思いのままにコントロールできるとさえ思い込んでいるふしがある。そしてこういう思い込み自体が人間の愚かさの最大のものであるということに気が付かない。事実としては、この大自然の神秘を眼前にした時に、人間は自らが知性だとか理性だとか呼んできたものの無力さに気づきそして戦き、自分は実に小さな小さな浮遊物であるに過ぎないと気づく。もしかしたら作者は梟の闇に接した時にそのような大自然の神秘を垣間見たのかもしれない。 |
鑑賞日 2016/2/11 | |
壊れる家壊される家思い草
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大高洋子 東京
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思い草・・ハマウツボ科の一年生の寄生植物。ススキなどの根に寄生し、秋、淡紅紫色の煙管に似た花をうつむきかげんにつける。(現代俳句歳時記) 人生は一場の夢であるという言葉がある。また仮の宿りという言葉もある。考えてみればあらゆる家というものは仮の宿りに過ぎない。いずれ壊れるだろうし、あるいは何かの関係で壊される運命にある。「思い草」についての歳時記の説明や名前そのものから、まさにこの季語の選択がぴたりと相応しい。 |
鑑賞日 2016/2/12 | |
底抜けに笑う湯豆腐吾のもの
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奥野ちあき
北海道 |
真に幸せな人は日常のほんの少しのことにも笑える。感情が豊かで優れているのだ。おそらくとても謙虚なのだ。たとえば夕食に湯豆腐を食べるとしよう。この時に二種類の人がいる。一人は、あーあ湯豆腐かあ、もっと美味いものが食いたいなあ、もっと贅沢がしたいなあ、と思う。もう一人は、湯豆腐か、湯豆腐は美味いぞ、口の中で転がしていると大豆の甘味と香りがしてくる、自然の恵みが口の中にひろがるようだ、と思う。どちらの人が幸せかという問題である。作者は「底抜けに笑う」と言っている。これはもう悟りの境地だ。 |
鑑賞日 2016/2/13 | |
目の中に眼のあるピエロ文化の日
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片岡秀樹 千葉
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この場合、「目」はうわべの目であり「眼」は本当の目であるが、もしかしたらこの「目の中に眼のあるピエロ」というのは私たち人間そのものの在り方なのではないかと思った。私たちが世間で生きてゆく時にはうわべが必要となる。本心で生きてゆくには私たちは弱すぎる。そもそも本心が何なのかが分らなくなっているという事実もある。文化とは何かということも考えてみた。人間の文化は「眼」によって作られたものだろうか、あるいは「目」によって作られたものだろうか。おそらく両方の混ざり物に違いないと思った。 |
鑑賞日 2016/2/14 | |
ながれぼし猫の鼓動の静かにやむ
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岸本マチ子 沖縄
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猫の死を看取る作者の深く静かな心が伝わってくる。深く静かな心で作者は星が一つ流れたと感じた。とても美しい。美しいゆえに涙が溢れてくるような感動がある。 |
鑑賞日 2016/2/15 | |
嚔して口中にただ空洞あり
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小西瞬夏 岡山
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嚔(くさめ)とルビ 物質的レベルでみれば人間はただの空洞に過ぎない。空洞が咀嚼し排泄し、他の空洞と交接し新たな空洞を生み、そして消滅してゆく。この捉え方には絶望に陥りかねない虚無がある。しかしまた虚無と涅槃は紙一重だとも言われる。シッダールタが絶望したのはこの虚無に対してであり、しかして彼は涅槃に至った。作者はおそらく仏教的な資質を持っている人なのかもしれないと思った。 |
鑑賞日 2016/2/16 | |
神在の月で女子会ばかりかな
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品川 噸 山口
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フェミニズム神学というのがあるそうだ。今まで男からの目線だけで世界を見ていたものを、女性の立場も含めて世界を見直そうという聖書的な試みである。今まで男性的なものが支配してきたこの世界がどんなに酷く醜い状態に陥っているかを考えてみればこの試みはしごく当然で正当なことである。そういう意味からもこの句の内容は小気味いい。 |
鑑賞日 2016/2/18 | |
悼・阿川木偶人
弦月よほっこりぬくい諧謔に |
志摩京子 東京
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阿川木偶人氏の句(金子兜太選より) 梁ハリと蛇も百足も音たてて |
鑑賞日 2016/2/19 | |
シャドーボクシング内耳に雪が降る
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白石司子 愛媛
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シャドーボクシングをして内耳に雪が降るような感じというのはマラソンハイのような感じだろうか。嫌な感じではないだろう。一種の恍惚状態かもしれない。スポーツ選手などが肉体を極限まで使うと一種の恍惚感を得られるという。一種の‘生きてある’という感じである。私は今清原のことを考えているのだが、彼は現役を退いてからこの‘生きてある’という感じを得ることが困難になったのではないか。そして安易な代償行為として覚せい剤を使ったのかもしれない。人間誰しもこの‘生きてある’という実感がなければ生き難い。 |
鑑賞日 2016/2/20 | |
夫の背に我が影のあり花八手
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新城信子 埼玉
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夕方の路、わたしは夫の少し後を歩いている。わたし達のうしろに夕日があり、わたしの影は夫の背にある。季節は秋から冬へと向う時期、路の傍の家の庭先には八手の花が咲いている。そんな光景が思い浮んだ。派手ではなくむしろ素朴な八手の花がこの夫婦の姿を祝福しているようにも思える。 |
鑑賞日 2016/2/21 | |
小さな町に静かに暮らす冬籠もり
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末岡 睦 北海道
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誰でもが自分の運命を受け入れて生きなければならない。もっと積極的にいえば、自分の運命を愛して生きるべきだ。つまり他者を羨んだり嫉妬したりするのは御法度だ。それは不幸の原因だからである。とは言っても、この句に描かれたような生活に私は憧れを持つ。小さな町であるというのがいい。大都会のような喧騒もなく、村のような煩わしい人間関係もなく、程好い静謐と程好い人間関係があり、そしてまた程好い文化と程好い利便性があるような小さな町である。そこにはおそらくこの句にあるような詩が流れている。 |
鑑賞日 2016/2/22 | |
雪激し影を重ねて鳥獣
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十河宣洋 北海道
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作者は北海道の人である。さもあらん、と思えてくる。人間も含めて鳥獣がみな影を重ねているような存在に見えてくるような激しい雪の世界。その世界では、もはや鳥獣の輪郭も個別性も失われてただただ影を重ねているように感じられるというのである。そもそも我々の個別性とは何であろうか。途轍もない自然の大きさの前では我々の個別性などはちっぽけな影のようなものだったと気付くのではないだろうか。 |
鑑賞日 2016/2/23 | |
田に老人朝日赤ん坊
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竹内義聿 大阪
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生産の場がすなわち家族の場であるという一つの懐かしい情景であるとも受け取れるし、死に行くものと生まれるものが渾然一体としてある生死の姿であるとも受け取れる。この二つの本来あるべき姿が現在ほぼ失われつつあるのが哀しい現実だ。 |
鑑賞日 2016/2/25 | |
身を横たえる長き夜の琴として
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月野ぽぽな
アメリカ |
自分を楽器という一つの道具だと捉えるのはある意味とても宗教的だ。昔から、宗教的な態度として、自分を中空の一本の笛だと見做すのがいいと云われるように。自分は一つの楽器である。楽器自身は音を出すことはできない。では、この楽器を演奏するのは誰か。それは風であると言ってもいい。それが琴であるなら、その弦をかき鳴らすのは神の手であると言ってもいい。どうぞわたしという楽器にその御手を触れて、願わくば美しい楽の音を響かせてください。 |
鑑賞日 2016/2/26 | |
枯葉降る俺には喧嘩腰で降る
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峠谷清広 東京
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文句なくとても面白い。この人の人間味が出ている。峠谷節快調といったところだ。ところでどうだろう、一般的には自然随順であるとか、自然を讃美するとか、そんなふうなことが価値あることだとされる。かく言う私も自然は神だと思っているくちであるが、では、神に対して文句や愚痴を言ってはいけないのかというとそうではない。むしろ大いに文句や愚痴を言うべきだろう。それも神との関係を深めることだからである。関係性において一番よくないのは、あたかもそれが無いものであるかのごとく無視することである。おそらく愛の反対語は無視である。 |
鑑賞日 2016/2/27 | |
りりりりり真白き露の玉よ祖母
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遠山郁好 東京
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私などはこの「りりりりり」を電話の音だと先ず受け取ってしまうが、そうすると「おばあちゃん大分涼しくなってきたね、今朝は真白な露の玉を見たわよ」などという会話が思われるのだが、どうだろう。あるいは祖母の方が電話をかけてきた主であるかもしれない。しかし作者の年齢を考えてみると、この人は私より前から海程の同人であった人だからかなりの年齢であり祖母が存命である筈がない気がする。そこで、こう考えた。作者は真白な露の玉を見ている。そしてまた祖母のことを同時に想っている。露の玉と祖母との思い出が作者の記憶の中でリンクしているものがあるのかもしれない。そして作者のイメージの中で作者は(天国の)祖母に電話している。 |
鑑賞日 2016/2/28 | |
百合の名を覚えし孫よ戦さあるな
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中島まゆみ 埼玉
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「野の百合を見よ」という言葉がある。欲が無く、それ故怖れも怒りもなく、それ故戦さをせず、いつも静かに微笑みを湛えるがごとくに美しく咲いている百合、に学べということであろう。これらの言葉の反対を言えば、それが人間を表わすことになる気もするというのが悲しい現実かもしれない。欲が深く、それ故怖れや怒りがあり、それ故戦さを起し、いつもやかましく顔を歪めて醜いのが人間である、ということ。われわれは常にこの「野の百合を見よ」という古くてしかし新しい言葉に立ち返る必要があるのかもしれない。 |
鑑賞日 2016/2/29 | |
私に白鳥大きな胸見せる
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中塚紀代子 山口
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金子兜太に「侠気の白鳥」という主題で書かれた連作がある(『旅次抄録』)が、それを連想した。この句の白鳥にそういうものを感じるからであろう。頼りがいがあり、「どんと来い」と言われているような感じとでも言おうか。また「私に・・」とあるが、これは、自然からの啓示は常に個我に対して明されるものだという事実を言っている雰囲気がある。見る目のある人に対してだけにしか自然の奥義は明されないということ。 |
鑑賞日 2016/3/1 | |
小鳥来る被爆マリアの眼窩より
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野崎憲子 香川
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人間の歴史は戦争の歴史だなどといわれる。現在ではその形が複雑になってテロや対テロ戦争などというどうにも解決しようがない泥沼状態になっているように見える。誰が悪いのか何が原因なのか落とし所は何処なのかがはっきり見えないような状態である。私はこの句を読んで、この泥沼の大元にある対立軸が見えて来たような気がしてきた。つまりそれは男性性と女性性の対立なのではないかと思った。キリスト教では三位一体などといわれ、神・神の子・精霊が世界を支配しているが、これらは皆男性である。ラジニーシはこのことをメンズクラブが世界を支配していると揶揄している。同じようにイスラム教でもその支配原理は男性的である。また、日本でも天皇という男性の現人神の名の下に戦争が遂行されたのではないか。だんだんと解決の糸口が見えてきた。つまりこれからの世界においては、女性性あるいは母性性に潜む力の顕現が世界を救うのではないかということである。まさに「小鳥来る被爆マリアの眼窩より」である。 |
鑑賞日 2016/3/2 | |
野分去る夫の死顔整えき
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日高 玲 東京
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夫が亡くなった時の喪失感や感情の乱れの嵐。そして夫の死を受け入れて強くあらねばという決意。健気にも凛々しく強い大人の女性の姿が見えてくる。 |
鑑賞日 2016/3/3 | |
山眠る鬱の字のよう家事雑多
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船越みよ 秋田
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鬱の字のように山が眠り、そして鬱の字のように家事が雑多である、ということだろう。この山はおそらくまだ雪も積っていない近くの雑木山である気がする。私の家の裏にもそんな山があるが、言われてみれば初冬の時期などまさに鬱の字のような感じがあるからである。また、家事というものも鬱という字に似ているかもしれない。家事とは、こまごまとした些事の集積物のような全体であるからである。否定的に捉えれば、家事というものは成果があるのだかないのだかはっきり分らないようなものであり、時には放り出したくなるようなこともある。そういう気持ちが昂じればまさに本物の鬱状態に陥ってしまうこともあるかもしれない。 |
鑑賞日 2016/3/4 | |
どしゃ降りや折鶴のよう死装束
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北條貢司 北海道
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「折鶴のよう死装束」、死のイメージが美しく形象化された句であるといえるかもしれない。そういう意味で私にはこの死者が美しい女性であるのが相応しく思えてくる。死は悲しい。しかしそれを美しいものと捉えたい気持ちが人間にはある。一方、死というものを人間がどのように捉えようとも、死は人間の魂をその根底から揺さぶる。「どしゃ降り」はその魂の大いなる振えを暗示している。 |
鑑賞日 2016/3/5 | |
鳳仙花斧振る暮らしはるかなる
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堀之内長一 埼玉
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鳳仙花のあのパステルカラーのような柔らかくて温かみのある花の色を想い浮べながら読むと、日常的に斧を振るようないわば里山の暮らしぶりを作者は懐かしく思っているのだろうな、ということが実感される。里山資本主義という言葉がある。経済成長を成し遂げた日本においてはこれ以上経済成長する必要はないし、むしろそれは人間や自然に対して無益あるいは有害な負荷をかけることになるから止めた方がいいと私はうすうす思っている。これからは人間と自然と経済がバランスを保った持続可能な生の営みをするような社会にしてゆくべきだろうということである。この句を読んで、もしかしたら、多くの日本人が意識的にあるいは無意識的にでも、そういう本来的な暮らしぶりを望んでいるのではないかと思った。 |
鑑賞日 2016/3/6 | |
秩父俳句道場・謝意を込めて
金子兜太納豆交ぜるや辛子多し |
マブソン青眼
長野 |
金子先生の俳句講評に立ち会った人であれば首肯ける句であろう。醗酵食品である納豆の旨味がふんだんに入ってしかも辛子が多いのである。納豆というものはごく日常的な食べ物であるが、そのように俳句というものがまさに生涯にわたっての日常である金子兜太の俳句との距離感も表現されている。俳諧味ふんだんの佳句である。 |
鑑賞日 2016/3/7 | |
葭切と死にはぐれたる漢かな
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水野真由美 群馬
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死んだのはどっち? 葭切それとも漢。おそらくはぐれるということに関してはどちらでも同じだ。死と生はコインの裏表であるといわれる。そして我々は生をコインの表側だと思い、死をコインの裏側だと思う傾向があるが、実は死がコインの表側かもしれないからである。いずれにしろ死者と生者はコインの裏側と表側のようにはぐれた状況にある。ここで私は新たな譬えが思いついた。死と生はコインの裏表ではなく、メビウスの輪の裏表だという譬えである。メビウスの輪においては裏と表は完全に繋がっている。つまりメビウスの輪においては生は死であり死は生である。死者と生者はメビウスの輪という世界において出会ったりはぐれたりしているに過ぎない。 |
鑑賞日 2016/3/8 | |
ふと人は僧のよう立ち桔梗かな
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三井絹枝 東京
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僧とは人間が人間である由縁の一つの現象である。人間以外の動物のほぼ全ては自己保存の本能や種族保存の本能だけに縛られて生きている。人間はむしろこれらの本能から自由になろうと欲するが故に僧などという一見無意味な身分を生じさせた。僧の起源である釈迦はあらゆる本能的な欲を満たしてくれる環境を捨てて一介の乞食になった。これは一見馬鹿げたことであるが、しかしこのことが実は人間の人間たる由縁のことであり、敢て言えば人間の高貴さの証である。ある時人は僧のように立つ・・これは人間存在の持つ必然かもしれない。そしてその時にその人は桔梗のような高貴さに満ちている。 |
鑑賞日 2016/3/10 | |
地雷無き国踏んでみる霜柱
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武藤鉦二 秋田
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"Think globally, act locally"の俳句版あるいは風雅版とでも言おうか。(世界で起っていることを)よく見聞きし分りそして忘れず、そして大地を踏みしめて生きた賢治のような人が"Think globally, act locally"の具現者であり、真の風雅人であると言えるのではないか。「風雅の誠をせめる」とは何も花鳥諷詠の狭い世界に住んでお馬鹿さんになりなさいということではない。この句を読んでそんなことを考えた。 |
鑑賞日 2016/3/11 | |
釣瓶落し岩があるから目礼す
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茂里美絵 埼玉
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愛の反対語は無視であるといわれる。おそらくそのとおりだろう。相手の存在を認める、これが愛ということの基本だろう。「岩があるから目礼す」とはまさにこのことを言っている。そして思うのだが、こういうさりげない句が書けるということは、作者が愛の質の中に生きているということの証に違いない。 |
鑑賞日 2016/3/12 | |
掌に受ける柿重し秩父は膣部
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柳生正名 東京
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海程今月号のマブソン青眼さんの句にも〈秩父道場〉に関する句があったが、この句もこの道場に関する句である気がする。マブソンさんの句では金子先生の講評を「辛子多し」と譬えたが、この句では「掌に受ける柿重し」とまず譬え、重ねて「秩父は膣部」であると譬えている。つまり秩父(道場)は(俳句というもの)の命が産みだされる現場であると作者は受け取ったのだろう。まことに巧みな譬えである。 |
鑑賞日 2016/3/13 | |
梟の目覚めか新宿歌舞伎町
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安井昌子 東京
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夜活動する梟と夜の街新宿歌舞伎町の類似性ということ。歌舞伎町には何十年も行ったことがないからどんなふうな街だかその実体はよく分らないが、イメージとしては性に関する風俗の店などが沢山ある街であり、人間の暗い欲望の捨て場というような不健康なイメージを持っている。要するに否定的なイメージを持っているわけであるが、新宿歌舞伎町とは梟の目覚めかもしれない、と言われてみると、いやいや、どんなことでも肯定的に捉えなければいけないという思いがやって来る。考えてみれば、風俗産業などで働く女性達も精一杯に生の誠を生きているかもしれないのであるから、暗いだとか惨めだとか可哀相だとか捉えるのは傲慢な態度かもしれないのである。逆にむしろそういう場で働かなければならないで精一杯働いている人達の方が聖なるものに近いということだってありうる。 |
鑑賞日 2016/3/15 | |
月光のガンジス黝きわが荒野
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大和洋正 千葉
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この句は私自身の記憶と重なってしまう。 |
鑑賞日 2016/3/18 | |
綿虫飛ぶ山がかたちになっている
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横地かをる 愛知
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たとえば綿虫が飛ぶ形とはどんな形だろうか。そもそも形があるだろうか。空気に形はあるだろうか。水に形はあるだろうか。感情に形はあるだろうか。感覚や知性に形はあるだろうか。愛に形はあるだろうか。考えてみれば私達の周りに存在するもので形を持つものは少ない。その意味では山がかたちになっているというのは奇跡に近い。 |
鑑賞日 2016/3/19 | |
枯菊の一本全部ください
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横山 隆 長崎
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禅的な味のある句だ。どうだろう、われわれは生きる上で‘いいとこ取り’をしたいと思って生きがちではないだろうか。ところがぎっちょん、いいとこ取りなんか出来ない。長い目で生の決算書をみれば、それはきっかりプラスマイナス零となる。だから私も敢て言いたい。「全部ください」と。それがたとえ枯菊の一本であっても言うのだ。全部くださいと。これが生のコツである。 |
鑑賞日 2016/3/20 | |
紙漉きの家に臨時の柿売り場
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吉村伊紅美 岐阜
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‘里山文化’というような言葉が思い浮ぶ風景だ。新自由主義的なグローバル経済の波が押し寄せて来て、土地に密着した人間の営みが根こそぎ破壊されてしまうようにさえ見える現在、もしかしたらこのような里山文化的な営みへの志向が一部の人々の間に目覚めているのかもしれない。手仕事への愛着や自然の恵みに対する感謝の気持ちを大切にするような生の態度と、自然破壊などはなんのそのマネーゲームの明け暮れるような生の態度との対立構造が現在あるような気がする。 |
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