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金子兜太選海程秀句鑑賞 519号(2016年1月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2015/12/31
「きみがゐてわれがまだゐて」秋灯し
阿保恭子 東京

 この「きみ」は誰かと考えている。夫でもいいし、子でもいいし、友だちでもいい。要するにとても大切な人だ。「われがまだゐて」と言っているから「きみ」は年下の可能性もあるし、あるいは自分が闘病生活のような状況にあるのかもしれないと考えられる。とにかく作者は「きみ」の存在をありがたく思っている。「きみ」はまるで「われ」の心に灯る秋の灯しのようだと思っているのかもしれないし、この秋の灯しは「きみ」と「われ」の関係性そのものだと思っているのかもしれない。


2

鑑賞日 2015/12/31
死ねば肉親寄るだけの家木守柿
有村王志 大分

 過疎状況にある田舎の家を想像した。子ども達はみな都会へ行ってしまって帰ってこない。同じ地域にいた親戚なども出ていってしまう人が多い。普段はあるじだけが、あるいはせいぜいその細君と共に、ひっそりと暮している家。しかしそういう淋しいだけの句ではないと私は解釈したい。「木守柿」にこういう過疎地に暮す人の地に根ざした温もりのある静かなガッツを感じるからである。


3

鑑賞日 2016/1/1
思考かな葡萄一房うずくまる
安藤和子 愛媛

 何だかこの葡萄一房が人間の脳を連想させてなまなましい即物感がある。そう、思考する人間というのはうずくまっている葡萄一房のようなものかもしれない。そう、思考というものは甘いものである。しかし、甘い甘いと言っているうちはいいが、やがてそれは酩酊作用を持つアルコールに変化してしまうことがある。「我思う故に我あり」は現代文明を形作るの一つの基礎的な思想であるが、この思想ももはや醗酵しすぎて人間はある種の酩酊状態に陥っている気が私にはする・・・・幅広い連想を喚起する優れた比喩の句であると言えよう。


4

鑑賞日 2016/1/1
茄子の馬歩幅の合わぬ老ふたり
石井礼子 群馬

 最近は妻と並んで歩くことが少なくなった。歩く速度が妻の方が最近は速くて歩調を合わせて歩くと不自然になるからである。歩くということだけではなく、何事も妻の方がてきぱきと早いし、私の方はすぐに休みたがる。われら夫婦の場合は何事もそれぞれのペースでやる方がスムーズに事が運ぶようだ。茄子の馬のぎこちない形態が、歩幅を合わせて歩こうとする老の夫婦の可笑しみを表わしている。


5

鑑賞日 2016/1/4
母はいま花野吹く風父の葬
伊藤 巌 東京

 父が亡くなった時の母の様子を「花野吹く風」のようだと詩的に表現した、という解釈を先ず思った。しかしさらに読んでゆくと、もう一つの面白い解釈が思い浮んだ。母は既に亡くなっていて、今は花野に吹く風となっている。その母が父の葬を見守っているというものである。これはあの「千の風になって」という秋川雅史が歌った歌が私の心を掠めたからかもしれない。「千の風になって」では死というものが一つの物語として解決されているのに対して、この句では死の神秘がそのまま提示されている。それ故、より深い本質的な悲しみがこの句にはあると私は感じる。


6

鑑賞日 2016/1/4
芋煮る母ぼそぼそ父の正信偈
上田久雄 石川

 正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)〈正信念佛偈〉」は、親鸞の著書『教行信証』の「行巻 」の末尾に所収の偈文。一般には略して「正信偈(しょうしんげ)」の名で親しまれている。 真宗の要義大綱を七言60行120句の偈文にまとめたものである。(Wikipedia)

 芋を煮ることと正信偈を称えることは同じことだと作者は言っていると私は解釈したい。作者は単に、母が芋を煮ていて父が正信偈をぼそぼそと称えているという事実に、ある滋味を感じて描写しただけなのかもしれないが、この滋味を感じたという事実そのものが実は、この世で起る現象の無差違性を感じたということなのではなかろうか。一つの言い方をすれば、世界は念仏で出来ていて、芋を煮ることも正信偈を称えることも、それは異る偈を称えているに過ぎないということである。


7

鑑賞日 2016/1/6
巨木あり巨木ありとふ山の蝉
内野 修 埼玉

 屋久島には屋久杉といわれる樹齢1000年以上もの杉が多く存在するらしい。その最たるものは樹齢約7000年ともいわれる縄文杉である。考えてみれば彼はキリストやブッダの時代よりずっと前から生存しているということだ。彼にとってみればちゃらちゃらとした刹那的な現代の人間の文明や文化などはちゃんちゃらおかしいかもしれない。
 さて句であるが、巨木あり巨木ありと山の蝉が鳴いているというのである。これは蝉達の歓喜の声に違いない。自然の偉大さへの歓喜、そして自分達がその自然の一部であるということへの歓喜である。


8

鑑賞日 2016/1/6
森よりも梟よりも暗い平和
岡崎正宏 埼玉

 梟が鳴く暗い森。そこに進入してゆくのは恐ろしい。何が出てくるか分らない。何に襲われるか分らない。しかし、そこにはある自然の秩序があるに違いない。ある掟があるに違いない。その秩序や掟を知らないでへらへらと進入するのは御法度だ。
 さて、アメリカをはじめとする欧米諸国は中東地域やイスラムの秩序や掟を知らないであの地域にへらへらと踏み込んだのだという気がする。その結果が世界の目茶苦茶な混乱状態を招いたのではないか。イスラム世界が暗いのだとは言いたくない。彼らからみればおそらく欧米世界はちゃらちゃらとして浮ついて道理のない世界に見えるのだ。今の世界情勢を眺めると希望が見出せなく、まことに暗澹とした気持ちになる。
 ところで日本のアホ政権もへらへらとバカみたいに、このアメリカと一緒になって意気がろうとしている。


9

鑑賞日 2016/1/8
歳月や秋風に置く遺影と新著
岡崎万寿 東京

 これだけの内容のある句だから余計に座五の長さが何とかならないものかと思った。「歳月」は言いたいことの中心であるから外せない。「秋風に置く」を外せば詩的でなくなる。「遺影と新著」が事実であるからこれも外せない。どうしたらいいのだろう。


10

鑑賞日 2016/1/8
なやまない桜にしたは闇でしょうか
加納百合子 奈良

 華やかに咲きそして未練なくさっと散る桜の花。生き死にについてまるで悩まないようなその姿は潔く気高くそして美しい。ところがこのような桜の花の美しさが戦争に利用されたという事実がある。お国の為に桜の花のように美しく散れ、という具合のシンボルとして使われた。どうだろう、闇の勢力というのは常に美しく見栄えのいい言葉を使って悪事を為すのではないだろうか。現政権が使う積極的平和主義などという言葉も実は積極的戦争主義ということだと私には見える。


11

鑑賞日 2016/1/9
草いきれ弱虫だってデモに行く
川原珠美 神奈川

 「草いきれ」があのデモの熱気を伝えてくれる。
 このところ私は日本人であることがあるいは人間であることが恥ずかしいと思うことがよくある。原発問題、沖縄問題、ヘイトスピーチのこと、戦争法案が通ってしまうこと、そしてその安倍自民党を人々が選挙で勝たせてしまうこと。日本人は愚昧であると思ってしまうのである。そんな中、去年の戦争法案反対デモの高まりを見てそこに一条の光を感じた。日本人も馬鹿ではないな、人間も馬鹿ではないなと思った。ところで安倍さんは自分のことを強くてカッコイイと思っているに違いない。ちゃんちゃらおかしい。彼は強ぶっているだけに過ぎない。逆に、自分は小さな弱い生命に過ぎないと自覚できている人だけが実は強いのである。


12

鑑賞日 2016/1/9
塔上にどなる男の静かな絵
菊川貞夫 静岡

 塔上にどなる男・・・画家はこの男を人間の愚かさの象徴として描いたに違いない。この塔はバベルの塔のようなものなのであろう。どうだろう、人間は自分の力を過信してバベルの塔を建設中であると言えないだろうか。一例を上げれば原発などはバベルの塔の一種ではないだろうか。その塔の上に立って「安全です安全です」と愚かにもどなる男の姿が見えてくる。ところでこの画家はそういう男の姿を静かな絵として描いている。おそらくこの画家は神の目線で世界を眺めているに違いない。


13

鑑賞日 2016/1/10
玉蜀黍一本を茹でなんて自由
佐々木香代子 
秋田

 おやつにでも食べようと思ったのかもしれない。あるいは食事を玉蜀黍一本で間に合わせようと思ったのかもしれない。自家菜園で採ってきたものかもしれないし、近所の八百屋かスーパーで買ってきたものかもしれない。玉蜀黍一本であるから、作者は独り身の境遇なのかもしれないし、たまたまその日は一人だったのかもしれない。とにかく作者は、なんて自由なんだ、と思っている。さて、自由とは何か。自由には二種類あると言われる。〈束縛からの自由〉と〈創造性への自由〉である。後者の方がより高次の自由である。この句は「玉蜀黍を茹でなんて自由」であるから当然後者の自由であるということになるだろう。


14

鑑賞日 2016/1/10
熊よりも低く唸って上る鮭
佐々木宏 北海道

 凄い。自由を求めるいのちのエネルギーが凄い。鮭は産卵するために川を上る。即ち彼らは自由を求めて川を上るのだ。連想して私は次の句を思った。

ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒     堀 葦男


15

鑑賞日 2016/1/11
満月を壊さぬように馬磨く
佐藤二千六 秋田

 満月の夜に馬を磨く人の姿である。
 馬や犬は人間の仲間としてとても愛しい動物だ。愛情を持って扱えば切っても切れない絆さえ生まれる。馬は飼ったこともないし乗ったこともないが、そう感じる。殊に彼らの眼の優しさはたまらない。彼らを飼ったり乗ったりあるいは世話をする人が、一度彼らと絆を結んだら、彼らの眼はまさに満月のような優しさの光であると感じるのかもしれない。


16

鑑賞日 2016/1/12
風の盆憑かれぽつんと老いにけり
猿渡道子 群馬

 祭りの後の孤独感とでもいったらいいだろうか。そう、ある意味人生は祭りである。青年期壮年期はまさに祭りの最中といってもいいかもしれない。意欲のある人は恋に事業に憑かれたように取り組む時期だろう。しかし、必ずあらゆる祭りは終る。そして孤独になる。老いる。そういう意味でこの句は人生というものの持つ避けがたい一つの事実を語っている。


17

鑑賞日 2016/1/14
かりがねや青春といい擦り傷といい
白石司子 愛媛

 作者は熟年あるいは晩年といえる年齢の人かもしれない。青春真っ只中の人は「擦り傷」とは言えないだろからである。そして「かりがね」ということで、空を渡る雁を眺めるように青春というものを遠くに眺めている雰囲気を感じるからである。


18

鑑賞日 2016/1/14
旅の宿白雨に鏡拭いており
新城信子 埼玉

 この鏡を化粧用の鏡であると受け取りたくない。そう受け取ると、私が化粧をした女性の前では何を言ったらいいか解らなくなるように言葉が出てこなくなるからである。そこで私はこの鏡をこころを映すものの象徴として捉えたい。私達は心という不定形で自在で収まりのつかないものと一緒にいわば旅をしているようなものである。この心なるものを制御することは出来るだろうか。出来ない。そしておそらくその必要もない。必要なのはこの心なるものを映す鏡を常にきれいに磨いておくことだ。つまり心なるものを常に客観的に眺めていることである。


19

鑑賞日 2016/1/15
青蜥蜴と眼の饒舌な禅僧なり
関田誓炎 埼玉

 青蜥蜴とこの眼の饒舌な禅僧の類似性だろう。つまりこの禅僧は青蜥蜴のようにきょろきょろとして落ち着かない心を持っているということだろう。単なる蜥蜴でなく青蜥蜴であるのも、この禅僧はまだ青いという印象なのだろう。青蜥蜴を眼の饒舌な禅僧のようだと譬えたのか、眼の饒舌な禅僧を青蜥蜴のようだと譬えたのかは分らないが、いずれにしろこのような譬えが思いつくというのは作者が豊かな言語世界を持っているということだろう。


20

鑑賞日 2016/1/15
狐に会い妻がはにかむ秋野原
十河宣洋 北海道

 公達(きんだち)に狐化けたり宵の春   蕪村

というのがある。いかにも伝奇ふうなこの蕪村の句より、私は素朴で民話ふうに動物との交感を書いたこの十河さんの句の方が好きである。ほのかにエロスも感じるが、それ故にまるで初恋のときのようにどきどきするものがある。


21

鑑賞日 2016/1/16
三竦みの下に難民冬間近
滝沢泰斗 千葉

 シリアを中心とした中東の難民問題を考えると頭が痛くなる。ぐちゃぐちゃだ。それを作者は三竦み状態であると表現した。三つのッ力関係とは、アダド政権、反体制派武装勢力、イスラム国の三つであろう。そして反体制派を応援する欧米とアサド政権を応援するロシアが絡んできているし、そしておそらくもっと複雑な力関係があるのだろう。そしてその原因を辿ればイラク戦争に象徴されるアメリカの独善的お節介主義があるのだろうし、歴史的な遡れば十字軍の頃までの経緯があるのかもしれない。そしていつも苦しまされるのは弱い庶民だ。彼らは難民としてこの寒い冬を過ごさなければならない。人間のアホーめ。


22

鑑賞日 2016/1/16
破れ蓮やうれしきものの日の光
竪阿彌放心 秋田

 「うれしきもの」の「」がいいのであるが、その良さをどう説明するかで悩んでいる。「うれしきもの」ではとても陳腐な句になってしまう。それは人間的な主観の陳腐さとでも言おうか。ところが「」であると何かこの句全体が蓮池の前で仏さまが呟かれた言葉のような雰囲気を帯びてくるのである。


23

鑑賞日 2016/1/17
凍裂の谺なりけり夜の躰
田中亜美 神奈川

 清冽な肉体意識というか清潔な性の意識というか、自分の躰を「凍裂の谺」と譬えた感覚が冴えている。作者の、感覚を知的に処理する能力は魅力的だ。


24

鑑賞日 2016/1/17
秋の空麒麟麦酒のあふれかな
田中昌子 京都

 この秋の空、気持ちがいいなあ、というのである。作者はこの秋の空の下でビールを飲んでいたのかもしれない。それがたまたまキリンビールだったのかもしれないし、作者の造形的作為があったのかもしれない。しかし結局「麒麟麦酒」がいいのである。他の銘柄では駄目であるし他の表記でも駄目であろう。神話的な動物である麒麟、その麒麟麦酒のあふれが即ち秋の空であるという連想が呼び起こされてとても楽しい。


25

鑑賞日 2016/1/18
別れにも鮮度のありて吾亦紅
田浪富布 栃木

 一期一会という言葉がある。今この人と会っているが、もう二度とこの人には会えないかもしれない、だから今この人に誠実に応対しようという意味がある。この一期一会の精神で人と会いそして別れるとき、それは鮮度のある別れなのだと思う。ところで今の時代はスマートフォンなどの普及により、年がら年中仲間(と思いたい人)と話しているという状況がある。現代は鮮度のある別れの少ない時代であると言えないだろうか。句であるが、「吾亦紅」の丸みを帯びた小さく仄かな紅色が、鮮度のある別れをした後に心に灯る愛おしみの情を表わしているように感じる。


26

鑑賞日 2016/1/18
母が話すばかりの父や終戦忌
田村勝美 新潟

 二つの解釈を考えた。一つは、父と母がいて、母は昔のことをああだったこうだったといろいろ話すけれど、父は寡黙である、という解釈。もう一つは、父は既に亡くなっていて、父のことは、母が語ることからしか私は知らない、という解釈である。いずれにしろ、父親と母親の違いが活写されている。「終戦忌」ということで、父親は戦争に行った人なのかもしれないし、そう受けとらなくてもいいかもしれない。とにかく父母の世代はあの戦争の影響で苦労した世代なのだ。


27

鑑賞日 2016/1/19
牝鹿佇つ水より遠き瞳して
月野ぽぽな 
アメリカ

 この牝鹿の姿は当然作者自身の姿の投影であろう。そしてこの姿はこの作者に相応しいと私には思えてくる。たとえば「水より深き瞳」よりはやはり「水より遠き瞳」が相応しい。作者の視野は広くそして遠いものを見ているという印象が以前からあったからである。


28

鑑賞日 2016/1/19
世間という不気味な本音冷まじや
峠谷清広 東京

 この作者はどんなことを書いてもそこには人間的な可笑しみの味が滲み出てくる。私は蛭子能収さんのようなキャラクターを思い浮かべた。彼の面白さや痛快さはその率直さにあるのではないか。「世間という不気味な本音」というのが蛭子さんの言葉だとしても首肯ける。


29

鑑賞日 2016/1/20
秋の田よかりほのフクシマの人々
中村 晋 福島

 秋の田の仮庵(かりほ)の庵(いほ)の苫(とま)をあらみ 
  わが衣手(ころもで)は露にぬれつつ    天智天皇

 (現代語訳・・秋の田圃のほとりにある仮小屋の、屋根を葺いた苫の編み目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れていくばかりだ)

という歌を下敷きにした句。仮庵すなわち仮小屋すなわち仮設住宅や仮の住宅に住むことを余儀なくされている人々に想いをはせて作った句である。本歌の映像と現代フクシマの人々の映像が重なって融合したりまた反撥しあったりして、重層的な感懐がわく。


30

鑑賞日 2016/1/20
蛇の衣眼の痕のつややかに
新野祐子 山形

 こういう人は似顔絵が上手いに違いないと思った。似顔絵においてはその顔の特徴の一つだけを強調して描くとその人に似てくるという。この句においては蛇の衣の眼の特徴だけが書かれているのであるが、蛇の衣全体の存在感や物象感が伝わってくる。


31

鑑賞日 2016/1/21
鳥渡る深く短く眠りては
福島美樹 佐賀

 深くて健康な眠りの後は、眠っていた時間の長さが全く無かったようにパチッと目覚めることがある。睡眠がうなされるようにだらだらと長く感じられるのは、人間の不健康さの証拠かもしれない。もっと不健康になれば深い浅い云々という段階ではなく眠りそのものが出来なくなる。自殺の前兆と言えるかもしれない。これは個人の問題ということもあるだろうが、むしろ社会が不健康である場合の方が多いのではないか。人間社会と鳥社会、どちらが健康か。


32

鑑賞日 2016/1/21
葱切る音湯の滾つ音反戦や
藤野 武 東京

 反戦や平和などへの願いも、それがまさに葱を切ったり湯を沸かしたりする民の日常のレベルで血肉化されていなければ、絵に描いた餅になる可能性がある。真の反戦や平和への願いは日々の営みの中にいのちの音を聞ける人だけが持つことが出来る。


33

鑑賞日 2016/1/23
細切れの眠りひんやり黒葡萄
本田ひとみ 埼玉

 眠ろうと思うのだが、何回も目が醒めてしまうような夜、頬に黒葡萄のひんやり冷たい房を押し当てている、というような作者の姿が見えてくる。そのような夜の時間の質をひんやりした黒葡萄のようだと譬えたのかもしれない。黒葡萄の一粒一粒は深い眠りの中にいるのかもしれない。


34

鑑賞日 2016/1/23
戦争をはたと睨みて名月や
舛田 長崎

 名月のような明晰で叡知に満ちた人物が思い浮ぶ。原発問題でもそうだし安保法制の問題でもそうだが、あらゆるまやかしのような言説に騙されないで事の本質を見据えている人に出会うととても嬉しい。それは夜でもあらゆる事物がはっきりと見渡せるような名月の夜に出会った時のような気持ちである。


35

鑑賞日 2016/1/24
落蝉や人声のこんなに乱れて
村上友子 東京

 人は何故声を発するか。それは他者とコミュニケーションをする為であろう。ところで近頃の国会論戦などを見ていると全く議論がかみあっていない感がある。「この饅頭にはこれこれこういうわけで毒が入っている可能性があると思いますが、どうでしょう」「ええ、とにかくですね、饅頭とは美味いものだと、私は思います」というような具合である。それからヘイトスピーカー達の全く出鱈目で愚昧で横暴で喧しい自己主張。これらは人声とは言えない。単なる乱れた音だ。ところで自然界の音はそれぞれみな調和していないだろうか。蝉が鳴く声だって、そこにはハーモニーがある。蝉の一生は短い。ハーモニーの中に生きていた蝉も落蝉となって死す。ハモらなくなった人類の死も近いのかもしれない。


36

鑑賞日 2016/1/24
地図辿る退屈が好き黒葡萄
森央ミモザ 長野

 本田ひとみさんの「細切れの眠りひんやり黒葡萄」を先日観賞したばかりである。本田さんの句では黒葡萄の房を頬に押し当てている感じがすると書いたが、この森央さんの句では黒葡萄の一粒一粒を味わいながら食べている感じがする。そのような時間を作者は過ごしている。その時間を作者は「地図辿る退屈」な時間と言っているわけであるが、私にはこの地図は市販されているような地図ではなく、あるいは市販されている地図を目の前にしながらも、作者の心の中に次々と現れてくる想いを辿っているに違いないと思う。即ち「地図辿る退屈」な時間というのは黙想的な時間であると見る。
 偶然にも今月号には黒葡萄と時間の質を結びつけた句が並んだ。二句ともに女性特有の黙想性というものを感じた。


37

鑑賞日 2016/1/25
空しさは程好い器花梨煮る
山下一夫 鳥取

 老子的な思想あるいは処世術であると思った。つまり空っぽの器でなくては用を成さないということである。それからまた空っぽであるということにこだわりすぎて、そこに何か入れることを拒否するというのでもない。空っぽであるということを自覚しつつもそこに何かを入れて煮なければ(用いなければ)ならない。そうすれば花梨が美味しく煮上がる。


38

鑑賞日 2016/1/25
大気より命あおあお鳥渡る
横地かをる 愛知

 気持ちのいい句だ。大気のいのちと鳥のいのちと作者自身のいのちが共感して響きあっている。さて、私はさまざまな色にいのちを感じるが、青というのは殊にどんないのちの色であろうかと考えてみた。この句を読んで、青というのは、生きる意思を感じさせてくれる色だということに思い到った。


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