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金子兜太選海程秀句鑑賞 518号(2015年12月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2015/12/3 | |
神宿る島に掬ひぬ天の川
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伊佐利子 福岡
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神話の時代の巫女の舞いのように美しい。敢ていえば、神の現れを眼前にした時に感ずる鳥肌が立つような美しさだ。 |
鑑賞日 2015/12/3 | |
汗引くまで原爆ドーム眺めをり
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石川まゆみ 広島
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私は四十年以上前に一度だけ原爆ドームに接しただけであるが、広島在住の作者などは原爆ドームと現実にも意識の上でも日常的に接しているのかもしれない。だからこのように力みのない表現が出来たのだろうと思った。しかし考えてみればこの「汗引くまで眺めをり」というのは含蓄のある表現でもある。我々は感情に突き動かされやすい動物であるが、その感情を持続性のある善にまで高めてゆくためにはやはり知的なクールダウンを伴う必要があるということである。 |
鑑賞日 2015/12/4 | |
非正規のままの定年田螺食ぶ
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伊藤雅彦 東京
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この情感、共感できる。私がドストエフスキーを好むのもこういう情感がいたるところに見出されるからかもしれないと思った。アベちゃんのような舞い上がった人にはこういう情感は分らないだろうな。 |
鑑賞日 2015/12/4 | |
息切れを孤独と思うねじり花
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稲田豊子 福井
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どうだろう、自分はもう太陽の光をさんさんと浴びすくすくとまっすぐ育った立派な大輪の花だ、などと思う人はいるだろうか。私などはやはり、自分はどこか世間からはみ出してしまってどこかねじれてしまった存在だと思うことがしばしばある。自分以外の人がみな利口に見えて、自分は迷子になってしまった小羊のように孤独に感じることがある。肉体的にも衰え、息切れなどするときは尚更もう孤独である。 |
鑑賞日 2015/12/5 | |
和御霊ががんぼのつるみおるなり
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榎本祐子 兵庫
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和御霊(にぎみたま)は荒御霊(あらみたま)と対になった語で、荒御霊が神の荒ぶる霊力であるのに対し、和御霊は神の優しく慈悲深い霊力を表わす。そう、性の喜びや生きることの豊かさを提供すると同時に神は死の恐怖や別離の悲しみ等々の試練を提供する。そう、この世で何が一番矛盾しているかといえば、神の態度が一番矛盾している。そんなことはあり得べからざることであるが、出来れば神の顕現を和御霊だけにしてもらえないものだろうかとつい願ってしまう。 |
鑑賞日 2015/12/5 | |
風船かずら毎日掃除機かける家
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加地英子 愛媛
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潔癖症だとか神経質というようなものでもなく、質素ながらもそこそこに清潔感や節度があり涼しげな良心もある雰囲気を持った家を想像した。風船かずらの持つ雰囲気からの想像である。 |
鑑賞日 2015/12/6 | |
八人を産み給う母草の綿
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川村三千夫 秋田
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「草の綿」がいい。いかにも健康で飾らない庶民の母であるという感じ。やがてこの草の綿はその油分が抜けきって、風を媒体としてその種子を撒き散らす。 |
鑑賞日 2015/12/6 | |
みずうみに空仰ぐ水八月来
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北村美都子 新潟
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みずうみは女性あるいは母性の象徴である。空は男性あるいは父性の象徴である。水は内なるみずみずしいエネルギーの象徴である。女性である作者はみずうみに自分自身を重ね合わせているのかもしれない。たっぷりとした大きな句である。八月が輝かしい。 |
鑑賞日 2015/12/8 | |
青葉茂つてゐる点滴の二時間
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木下よう子
神奈川 |
病窓から青葉を眺めながら点滴をしたということかもしれないし、過去のある記憶(その場面で青葉が茂っていた)を点滴の間回想していたということかもしれないし、点滴で身体にエネルギーが満ちてゆく感じを青葉が茂っていると表現したのかもしれない。現在形でかかれているから三番目の解釈が妥当のように思えるが。 |
鑑賞日 2015/12/8 | |
敗戦忌飢餓戦死者と玉砕と
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久保筑峯 千葉
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敗戦を思う時、そこには敵と交戦することもなく餓死した人々と、敵と戦って玉砕した人々の思い出しかない、というのである。自分の愚かさを自覚し得た人のみが賢者であるという。日本人は自分の愚かさを自覚した上で戦後の歩みを進めた筈なのであるが、現在またまた愚かな人々が日本を動かしているように見える。この句に表明された自分たちの歴史の愚かさを自覚しなければ日本に未来はない。 |
鑑賞日 2015/12/10 | |
ワンピースの方が妹足長蜂
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黒岡洋子 東京
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「ワンピースの方が妹よ、ほらあの脚の長い人」という感じであろうか。「足長蜂」を見つけたのが味噌。明るいライトヴァース。 |
鑑賞日 2015/12/10 | |
蝶高く我よりずっと遠い旅
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河野志保 奈良
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高く遠い旅への憧れか。しかもそれは重く引きずるような旅ではなく軽やかな飛翔であるような旅。こういう旅を想う作者の心は少女のように若いのかもしれない。 |
鑑賞日 2015/12/11 | |
大花火鍵のかかった天空に
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こしのゆみこ
東京 |
われわれが天空を見上げる時ほど、殊にそれが満天の星が出ている夜空であった時ほど、この宇宙の神秘というものを感じる時はないのではないだろうか。しかしその神秘は明されない謎のままである。しっかりと鍵の掛かった扉のようだ。もしかしたら花火を打ち上げたいという人間の衝動には、この謎の扉をこじ開けたいという衝動が含まれているのではないかと、この句を見て思った。またこの句は天岩戸の神話を想起させてくれる。 |
鑑賞日 2015/12/11 | |
火蛾落ちて折り重なれるからだかな
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小西瞬夏 岡山
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過去現在を通じて世界の至るところで戦火が絶えない。その戦火の中で人々は折り重なるように死んでく。愛を求める心や真理を探求したいという知性や善を為したいという欲求などもろもろの精神活動をしていた人間が単なる物体と化して折り重なってしまう。これはこの句を読んでの私の連想であるが、しっかりとしたデッサンの写生句は読者にある心的な強い作用を及ぼすことが出来るということかもしれない。 |
鑑賞日 2015/12/12 | |
空蝉や嘆けば透ける鎖骨かな
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近藤亜沙美 愛媛
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何か嘆く事柄を抱えている作者がじっと姿見を見ているというような場面が思い浮ぶ。心労によるものかあるいはそもそも痩せているのか、とにかく透けるように浮き出ている自分の鎖骨を眺めている。その自分を空蝉に譬えているわけである。空蝉と鎖骨の透明感が響きあい、そしてまたその短い一生を鳴いて過ごす蝉と人間の生というものが重なり合う。 |
鑑賞日 2015/12/12 | |
炎昼の道なり僕のうなじなり
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佐孝石画 福井
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最終的に自我は宇宙意識と一体にならなければならないと思うが、それはとりもなおさずこの宇宙の体は即ち自分の体であるという意識であろう。この句を読んでそういうことを再確認した。「炎昼の道」と「うなじ」の類似性など発想の契機はさまざまあると思うが、とにかく具体的に断定的に言い切っているのが気持ちいい。 |
鑑賞日 2015/12/13 | |
直立の向日葵僕らは武器をもち
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白石司子 愛媛
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神話的にみれば、我々人間はエデンの園に暮していた時は武器は必要でなかった。エデンの園を追いだされて以来人間には武器が必要になった。歴史的にみれば、弱い人間が狩猟をするためや生きてゆくために武器や道具を作り持つようになった。武器とは戦いの道具である。また広い意味では社会で生きてゆくための知識やスキルも含まれるだろう。たとえば、言葉を話せるということ自体が一つの武器であり、またその言葉を操って物語を作ったりすることが出来ればそれはさらに高度な武器なのである。俳句が作れるというのもこれは一つの武器なのかもしれない。動植物は道具である武器は持っていない。言ってみれば、彼らは今だエデンの園に住んでいるのである。さて、武器というものを身に帯びて日々闘争に明け暮れる人間達とこれらの動植物達のどちらが優れているといえるか、あるいはどちらが幸せであるといえるか。直立の向日葵よ、答えは何。 |
鑑賞日 2015/12/13 | |
一万人アベといい捨つ炎帝も
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末岡 睦 北海道
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あの「アベ政治を許さない」デモの熱気の描写である。アベといい捨てる。そう、安倍首相だとか、安倍さんだとかと呼ぶのはもうあまりにも恥ずかしいのだ。ぺらぺらぺらと嘘ばかり言って、弱いものをいじめ、強いものには尻尾を振ってへつらっている。そんな彼に敬称をつけて呼ぶのはもはや恥ずかしい。せいぜい皮肉な親しみを込めて「アベちゃん」くらいがいい。一番いいのは「アベ」である。 |
鑑賞日 2015/12/14 | |
沢ありて蝸牛の微光菩薩かな
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関田誓炎 埼玉
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神がいて、そして自然を作ったという二元的な考え方はやはり少し幼稚である。自然は神そのものの現れであるという一元的な見方がやはり高度のように私には思える。神も仏も自然も全て「一」なるものの現れである。この句はそういう事実との一つの具体的な遭遇の場面であろう。 |
鑑賞日 2015/12/14 | |
特攻悲話に酔うてはすまぬ敗戦忌
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高木一惠 千葉
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聖なる死に酔いたい気持ちはよく分る。高い理想の為に自分の命を捧げる。実に立派なことで感動さえする。しかしどうだろう。現在イスラム過激思想に共鳴した若者が自爆テロ等を起こしているが、彼らも彼らにとって聖なるものの為に自分の命を供しているのである。まさに戦争中の日本の特攻と同じ精神である。だから特攻精神を称えるのであれば自爆テロの精神も称えなければならない。また欧米諸国の対テロ対策と称する空爆作戦なども私には自らの力を過信した、あるいは自らの力に陶酔した行為のように思える。世界は酔っ払っているのだろうか。 |
鑑賞日 2015/12/15 | |
息止めて茅の輪に通す脳の翳
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竹内一犀 静岡
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まるで脳外科医が手術をする時の瞬間のような趣がある。しかもこの脳外科医は呪術の心得も持っている。この脳外科医の行なう手術はいわば最新呪術的脳外科手術である。この場合「茅の輪」はこの脳外科手術の為の小さな器具に付けられた名前ということになる。近未来においてこのような手術が行われないとは言い切れない。実際、いわゆる精神病と言われるものが、脳の障害であるか心の病であるかということは現代医学でも分っていない。 |
鑑賞日 2015/12/15 | |
ずいと奥までペンキ屋が来る晩夏
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武田美代 栃木
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ペンキ屋・・ペンキ塗り替えビジネスの人・・古びてしまったものを更新する役目の人。ずいと奥まで・・こんなに住宅の建て込んだ路地の奥まで・・私の家の奥の奥まで・・私の心身のずいと奥まで。ずいと奥までペンキ屋が来る・・いつの間にか古びてしまった私の中のずいと奥までこの奴は入り込んで来て更新しようとする。古びた自己を更新してくれるような何かの出会いを暗示しているように思える。「晩夏」は古びた自己というようなものに相応しい。 |
鑑賞日 2015/12/16 | |
兄は炎暑の木陰のようだった死す
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谷 佳紀 神奈川
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人の死を追悼する句に対してああだこうだと言いたくはないのだが、あえて言えば、この句尾の「死す」という展開がいい。 |
鑑賞日 2015/12/17 | |
浴衣の衿ぬけば疎遠のはらからや
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津波古江津
神奈川 |
衿を抜くとは着付けをする時に首のうしろをこぶし一つ分くらい空けることだという。初めて知ったが、そういえば浮世絵美人や芸子さんなどはそういう着方をしていると思いだした。この句の場面はどんな場面だろう。普段は疎遠のはらから達が何らかの機会に温泉にでも同宿したというような場面であろうか。その中に浴衣の衿を抜いて着ている女性がいた。かつての○○ちゃんがこんなに色っぽくなってしまって余計に近寄りがたくなったなあ、というようなことであろうか。あるいは、江津(えつ)というのは女性の名前かもしれないから、作者自身が浴衣の衿をぬいたということなのかもしれない。その場合はある種の孤立感ということであろうか。 |
鑑賞日 2015/12/17 | |
詫び立ちはおほかた三人浮いてこい
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長尾向季 滋賀
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やはりこれは戦没者への詫び立ちであろう。おほかた三人が多いか少ないかといえばやはり少ないのであろう。浮いてこいと言っても今更浮いてはこない。それは分っている。分っているが沈んだ者、戦没した者を無かったことにすることは出来ない。過去の過ちは全部無かったことにして日本は正義の国だったなどという風が吹いている現在、さあ浮いてこい浮いてこい。 |
鑑賞日 2015/12/18 | |
肝試しどこの村にも村はずれ
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並木邑人 千葉
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地域共同体や村落共同体が都市への集中による過疎化や高齢化にともなって崩壊しつつあるのは事実だろう。しかし日本は依然違う意味で村社会であるように見える。原子力村がそうであるし、官僚村がそうであるし、アベ村というのもあるだろう。これらの村ではその村社会の空気を読んで村人は村から外れないように生きている。要するに保身である。彼らは村はずれに行くのが怖い。彼らには肝試しさえする勇気がない。 |
鑑賞日 2015/12/18 | |
もしかしてしゃがみっぱなしの夜の蛙
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根岸暁子 群馬
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デルスウザーラが初めて蓄音器のみて「この人はおしゃべりだ」と言ったという話があるが、この句の面白さもそういうところにある。アニミズム的な無垢な意識で世界を眺めれば、そこには常識とは一味違った新鮮な世界が広がる。 |
鑑賞日 2015/12/19 | |
夕蜩思いは生絹のごとし遠し
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藤野 武 東京
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生絹(すずし)とルビ 透明感やある種のせつなさを伴うこの句の美しさは四回も繰り返される「し」音が放つ「気」によるところが大きいだろう。今まで私の読んだ句の中でも「し」音が上手に連続した句は印象的な句が多かった気がする。それは「し」が「死」に通じるからだろうか。今思いだせるのは次の二句。 雪はしづかにゆたかにはやし屍室 波郷 |
鑑賞日 2015/12/19 | |
寸土尊し神社のわきに豆二列
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藤盛和子 秋田
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単なる何かの建物のわきではなく、神社のわきであることが味噌である気がする。土を敬う気持ちだとかものを大切にする「もったいない」という気持ちが薄れてゆく現代、この豆二列が神様の「つぶやき」あるいは「ぼやき」のように感じてしまう。すんどとうとし・すんどとうとし・・・・・というわけである。豆の粒々が言葉の粒々を連想させるから、その意味では大根や白菜などでなく豆であることが相応しい。 |
鑑賞日 2015/12/20 | |
夜涼かなぐるりと音がして身体
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藤原美恵子 岡山
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肉体意識。肉体への親しみあるいは健康な肉体を持つことの嬉しさといってもいいかもしれない。この感覚を表現するのに夜涼というのはうってつけの季語だ。身体とそれを取り巻く外界との親しい一体感があるからである。「ぐるりと音がして」いるのは身体でもあるし外界でもある。 |
鑑賞日 2015/12/20 | |
桃かじる鬱とも痴呆とも違う
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本田ひとみ 埼玉
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大きくて甘くてみずみずしい桃。これも農業技術のお陰だろう。食物だけではなくあらゆる面で現代はものに関しては実に豊かであるようにみえる。一方で現代は心が不安に満ちた時代である。医学的にその症状が鬱であるとか痴呆であるとか分類される前に何だか分らないような不安の状態に人々はあるのではないか。兜太の次の句を思いだした。 物足りてこころうろつく雑煮かな 『両神』 |
鑑賞日 2015/12/21 | |
虹かかるやっぱ横浜西口じゃん
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三木冬子 東京
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虹がかかった。うっとりと時を忘れて眺めていた。時空を越えて忘我のような状態にあったのかもしれない。しかしふと気が付くと、やっぱここは横浜西口じゃん、というのである。と受け取った。これはどちらかというと自然派である私の受け取り方かもしれない。「やっぱ」を「さすが」というふうに受け取るのもありかもしれないが、私の受け取り方の方が飛躍が大きくて(切れの空間が大きくて)面白い気がする。若者言葉を俳句に持ち込んだのも新鮮である。 |
鑑賞日 2015/12/21 | |
死者若し眼裏に海の色を容れ
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水野真由美 群馬
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「死者若し」と感じた作者の背後には意識的にしろ無意識的にしろ東洋的な深い洞察があったのかもしれないと思った。西洋的な死生観では生は一回こっきりのものであるが、東洋的な死生観においては、人は古びてしまった衣服を新しい衣服に換えるように肉体を換え死と生を繰り返す。死は新たな生への旅立ちの時でもあるのだ。そういう目で見ると、あらゆる死者の顔はある種の初々しさを帯びているように見える。詩人は真実をその詩的直感で把握するのかもしれない。 |
鑑賞日 2015/12/22 | |
二、三ページ蜻蛉の書いたノートです
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三井絹枝 東京
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たとえば幼児の引く描線は時にとても美しいと感じることがある。それが美しいのはおそらくそれが無欲に引かれた線であるからに違いない。それは出鱈目なのではなくむしろ偶然の美あるいは自然の美に近い。先ずそんなふうな描線で書かれたノートの二、三ページを思った。描線だけとは限らないかもしれない。文章であっても、無垢無欲で書かれた文章ならば、そういう印象のものを書けるのかもしれない。そしてこの作家ならおそらく書ける。 |
鑑賞日 2015/12/23 | |
今朝の茄子皆つつがなくメタボなり
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三好つや子 大阪
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病気もなくみな健康そうにつやつやと太った茄子を愛でているのである。こういう句を書けるというのは作者は家庭菜園などで茄子を栽培しているのかもしれないと思った。スーパーなどで商品としての茄子に対してはこれだけの親しみは出てこないような気がするからであるし、自分で栽培していると往々にして病変した茄子に出会うことが多いからである。 |
鑑賞日 2015/12/23 | |
木に縋り乾ぶ国家と空蝉と
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守谷茂泰 東京
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成る程なあと思った。生のエネルギーのもはや無い抜け殻としての空蝉が木に縋るように国家も縋っているというのである。どこか現在の日本の政権を皮肉っているように思う。さて、現在の日本の政権が縋っている木とは何だろうか。アメリカである。日本はアメリカのポチである、とか、日本はアメリカのケツ舐め国家である、というような言い方の別の詩的な言い方であろう。またこの句はそういう有り様の日本の行く末を予測している。つまり、縋れば縋るほど、日本の‘いのち’は乾びてゆく。 |
鑑賞日 2015/12/24 | |
じきですね そろそろだなあ夏落葉
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諸 寿子 東京
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夏落葉・・松、杉、樫、椎、樟などの常緑樹のことを常磐木という。これらは初夏の新芽萌える頃に古い葉を徐々に落とす。そのさまは冬の落ち葉と違って人知れず葉を落とす。 |
鑑賞日 2015/12/25 | |
蠅をらぬ爆心蝿取紙垂れる
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柳生正名 東京
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今では至るところに監視カメラが設置されているが、もし原爆が投下された時代に監視カメラがあって爆心地に設置されていたとすれば、このような映像がそのカメラに映り込んでいたかもしれないと思った。現場に人が居られるわけは無いのであるが、この映像にはとてもリアリティーがあるからである。 |
鑑賞日 2015/12/25 | |
わが家を掴み空蝉退屈す
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横地かをる 愛媛
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可笑しい。「何だか妙なものを掴んでしまったなあ。かといって手放すわけにもいかないなあ。あーあ退屈だなあ」というのである。どうだろう、これは空蝉になぞらえて人間の心理を巧みに表現していると言えないだろうか。ある目的(たとえばわが家を持つということ)の為に懸命に働いてきた。そしてその目的をめでたく達成した。ところが目的を達成してみると、実はそれ程の充実感が待っているわけではなかった。むしろ一種の退屈感が待っていた。こういう心理は多かれ少なかれ誰もが経験したことがあるのではないか。 |
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