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金子兜太選海程秀句鑑賞 517号(2015年11月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2015/11/5
茄子の馬南溟の兄乗せて来る
伊藤 巌 東京

 今の政治が政治だけにあらぬ想像をしてしまう。戦死した霊が小さい人になって茄子の馬に乗って沢山やって来て、盂蘭盆を過ぎても帰らずに国会前のデモに参加するという想像である。


2

鑑賞日 2015/11/5
連翹の黄に起こされる八十路かな
伊藤雅彦 東京

 八十路であるからこそ、この句逆に大層色気がある。八十路であるからこそ、自然は色気に満ちているということに気づくということがある。八十路であるからこそ、自分はこの自然や人生に満ちている豊穰さを存分に生きてきただろうかとふと疑問がわくことがある。


3

鑑賞日 2015/11/6
早まって水鉄砲に顔向ける
井上広美 東京

 安保法制(いわゆる戦争法制)のことを軽く揶揄しているというような連想が私には起る。時にはこのように俳句的に軽く愚かな大人達をからかってやるのも良いかも知れない。


4

鑑賞日 2015/11/6
いい日旅立ち路上に乾く蚯蚓どち
上田久雄 石川

 二つくらいの解釈をしてみた。先ず、「いい日旅立ち」と「路上に乾く蚯蚓どち」という対極的な事物の配合によって宇宙の実相を描いているという解釈。次に「いい日旅立ち」をしているのはまさに「路上に乾く蚯蚓どち」であるという解釈。この解釈の場合は東洋的な輪廻思想が根底にある。


5

鑑賞日 2015/11/7
麦の秋百合子の播州平野かな
内田利之 兵庫

 『播州平野』は宮本百合子(ゆりこ)の中編小説。1946年(昭和21)3月から47年1月まで、『新日本文学』『潮流』に4回に分けて発表した。8月15日を軍国主義国家権力と力を尽くして戦った自分たちの勝利として深い感慨を込めて描き出し、戦時下の暗い日々を回想している。網走(あばしり)刑務所の夫のもとへ行こうとして、福島で8・15を迎えたひろ子は、義弟が広島で行方不明になったため、山口県の夫の実家に赴く。そしてふたたび東京を目ざして、洪水で鉄道が不通の播州平野を一歩一歩あるいて行く。敗戦直後の日本を縦断して、戦争が国土だけでなく、人の心をも無残に破壊した様相を如実に描き出し、同時に、この廃墟(はいきょ)に芽を出した新しい生命の息吹に鮮明な表現を与えた。[伊豆利彦]
『『播州平野・風知草』(新日本出版社・新日本文庫)』

以上https://kotobank.jp/word/播州平野(宮本百合子の小説)-1580142より


6

鑑賞日 2015/11/7
被爆土へ浸みこむように水を打つ
江良 修 長崎

 労りの気持ちだろう。かつてわれわれ人間の愚かさが汚してしまった土。今この清浄な水を存分に吸っておくれ・・・
 今この労りの気持ちが少しでも為政者達にあればいいのにと思う。


7

鑑賞日 2015/11/8
照葉樹林何も言わないことが罪
門屋和子 愛媛

 吉田兼好も「おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざ」と言っているように、何かを思っているのに何も言わないのは腹がふくれる。エネルギーが滞るからである。エネルギーが滞るとそれはあらぬ方向へ流れだす。怒りや悲しみや憎しみや果ては殺人ということにもなりかねない。つまり平和ではなくなる。思ってもいない嘘をぺらぺらと言う為政者と、内心思っていながらも権力に迎合して何も言わないメディアという構図が今の日本にはある。これでは当然戦争に突き進んでゆくだろう。平和で明るい照葉樹林を見ながらそんなことを考える。


8

鑑賞日 2015/11/8
出かける君に金魚ほどの口づけ
川崎千鶴子 広島

 「金魚ほどの口づけ」という喩えにつきる。グローバル化の進む世界では日本的なものと西洋的なものが混じるのは当然であるが、キス文化においてもそうなのであろうか。もしそうであるなら、日本人には金魚ほどの口づけが適当に含羞みも含んでいて丁度いいのかもしれない。ちなみに私にはこんな経験がない。


9

鑑賞日 2015/11/9
木下闇嗅ぐや私というくらがり
小池弘子 富山

 「木下闇」と「私というくらがり」だけではある意味当たり前だから、「嗅ぐや」がこの句の眼目であろう。「嗅ぐや」によって真実が肉体化したということが暗示される。


10

鑑賞日 2015/11/9
夏つばめ腰痛の父頭痛の母
児玉悦子 神奈川

 夏つばめ・・春に渡来したつばめは夏に育雛する。軽快に飛び、えさを運ぶ(現代俳句歳時記)
 俳句でいうところの、「夏つばめ」と「腰痛の父頭痛の母」との離れ具合だろう。事実を客観的に切り取っているといえる。


11

鑑賞日 2015/11/10
突きあげた拳で胡瓜刻みます
小林寿美子 滋賀

 この句を読んでSEALDs(自由な民主主義の為の学生緊急行動)のことを連想した。彼らは普通の学生である。何かのセクトに属しているわけではない。ごく普通に生活をし学校に行ったりバイトをしている。その彼らがあれだけのアクションを起こした。私は日本もまだ捨てたものではないなと思った。そう、突きあげた拳で胡瓜を刻む。これが自由な民主主義というものであろう。


12

鑑賞日 2015/11/10
柵か絆か紫陽花にうるさい雨
小林まさる 群馬

 ある時佐高信が田中優子との対談で「除夜の鐘俺のことならほっといて」という中村伸郎の句がいいと言っていたことを思いだした。そう、いかにも絆だ絆だとうるさく言って恩着せがましく干渉されるのは堪らない。それは却って人の心を縛りつける柵のようなものだろう。そもそも最初から放っておいてくれた方がいい。「紫陽花にうるさい雨」、そう、紫陽花だって腐ってしまう。


13

鑑賞日 2015/11/12
掌のインコ30グラムや名古屋場所
近藤守男 東京

 30グラムというのがどのくらいか計ってみた。だいたい十円玉七枚である。まあまあこんなものかと思うが、インコと十円玉では掌に載せた感じは全く違うだろう。インコはいのちであるからである。暖かみもあるだろうしいのちのふるえもあるだろう。この句に一番感じるのは小さきもののいのちの感じである。肉と肉のぶつかりあいである相撲、そしてまたお相撲さんの肉厚で大きな掌ということも連想する。


14

鑑賞日 2015/11/12
オホーツクの短き夏や君がいた
坂本久刀 兵庫

 ひと夏の恋の想い出。小さな恋あるいは激しく熱い恋あるいは恋とまでは言えないけれど淡い慕情等々さまざまであるが、一つの普遍的な恋愛の形が表現されている。普遍的であるゆえに陳腐になりやすいところを「オホーツク」という想像を膨らませるに充分な地名が救っている。


15

鑑賞日 2015/11/13
夏期講習誰からとなく比べる手
佐藤二千六 秋田

 リンカーンの言葉に「四十歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」という言葉があるそうだ。つまり年齢を重ねるに従ってその人の生き様が顔付きに表れてくるという意味であろう。もしかしたら手においてもある程度そういうことが言えるのかもしれない。私自身の手を眺めてみると、比較的小さくてごつごつしていて右手の人さし指には煙草のヤニが付いていて、左手の人さし指の先は鉈で落した時の手術痕がある。更に農繁期には必ず爪の中に土などが入っている。かなりみっともない手である。だから人と比べてみたいなどとは思わない。この句の夏期講習とはどんなものなのだろうか。みなさんかなり自信家の集まりなのか、あるいは腹を割って話せるような人達の集まりなのだろうか。


16

鑑賞日 2015/11/13
あじさい群落低温やけどの心地して
柴田美代子 埼玉

 千利休の‘朝顔一花’の話を思いだした。この利休の話は真の美は孤として表れるという思想なのであるが、つまりこの句は集団的美というものの人間の心理に及ぼす病的な効果というものを描いているからである。人間の心理を巧みに抉った句であると言えよう。
 敷延して今私は考えている。真の力とは孤として表れるのではないかと。そして集団的力というものは人間に熱病的な作用を及ぼすのではないかと。


17

鑑賞日 2015/11/14
汝が耳に我が名は棲むや青嵐
鈴木修一 秋田

 マイナンバー制度というものが始まった。とても便利なものだという。そう、国民を管理したり操作したりするのにはとても便利だ。しかも番号にはその人の人格というものを感じないで済むから、非情に合理的に扱いやすい。名前にはその人の人格が宿ると言えるかもしれない。人間の世界においてはある特定の人を愛するということはその人の名を覚えるということから始まるのかもしれない。


18

鑑賞日 2015/11/14
傘寿なりこれから葡萄甘くなる
鈴木 誠 愛知

 こういう境涯感を持てることはおそらく素敵だ。じじいばばあになってから人を恨み世をうらみ酸っぱい最期を迎えるというのではそれはやはり不幸だ。そう、最期。最期にはわれわれは完熟した生としての身を土に還してゆきたいものである。


19

鑑賞日 2015/11/15
蓮の花存在にまず水がある
高桑婦美子 千葉

 きれいな句である。モネの「睡蓮」を思い浮べたりもするが、あれよりももっと瞑想的であり、もっと澄んでいて、花は一つであるという印象がある。芭蕉の「古池や・・」に通じる瞑想性があるともいえる。


20

鑑賞日 2015/11/15
栄螺売り光の舌の五能線
舘岡誠二 秋田

 JR五能線は、秋田県東能代駅と青森県川部駅をむすぶ全線147.2km、単線、非電化のローカル線である。かつては一部の鉄道好きがたまに訪れるようなローカル線中のローカル線であったが、昨今のローカル線ブームも手伝って、いまや全国でも「いづぬ(一二)」を争う人気である。それは沿線の背後にある白神山地が世界自然遺産に登録されたからで、一躍観光路線として鉄道ファンだけでなく、一般人の関心も集めているのである。JR東日本も観光の目玉として「リゾートしらかみ」と称する特別仕様の快速列車を仕立て、一日3往復を走らせているが乗車率も上々のようである。
 五能線は、能代駅から鰺ケ沢駅までは海岸に沿って走るが、そのほとんどが波打ち際すれすれに線路が敷かれている。海が荒れる冬には線路が波をかぶるという”波っかぶり路線”である。”その海岸には奇岩怪石群が続き、さらに日本海に沈む夕日が絶景を作り出す。。。”というふれ込みにつられて五能線の旅にでかけてみた・・・

以上http://www.geocities.jp/hottetsu/gonohsen/gonohsen.htmより

 私は殆ど旅行というものをしない人間だが、こういう句を読むと五能線に乗って旅をしあの辺りの風物を味わってみたい気がしてきた。


21

鑑賞日 2015/11/16
考える遅さが青菜と照りあって
谷 佳紀 神奈川

 この句のような人物こそが信用できる。この句とまるっきり反対の人物として安倍首相のことが頭に浮んだ。彼はぺらぺらぺらと意味の噛み合わない言葉を喋る。考えが早いのではなく実は何も考えていないのではないかとさえ思う。だからもう自分が喋った嘘にも気づいていないのではないか。彼のような人物は絶対に青菜と照りあうことはないだろう。


22

鑑賞日 2015/11/16
石を積むこと息をすること涼し
月野ぽぽな 
アメリカ

 最初作者名を見ないで読むから、作者名を見て意外だった。句から受ける印象が肉体労働というような印象だからであり、今までこの作者の書くものから受けてきた印象と違うし、また作者がアメリカ在住の女性だというイメージとも違うからである。しかし一つだけやはりこの作者だと思うこともある。それはこの作者が幅広い視野で書ける作家だという印象は持っていたから、その意味ではつまり作家の幅の広さというところでは一貫性がある。大きい作家だと言える。


23

鑑賞日 2015/11/17
長梅雨や絶壁のような無力感
峠谷清広 東京

 「絶壁のような」にこの作家の個性が滲み出ている気がする。だから句全体から可笑しみが伝わってくる。人間の持つ可笑しみとでも言おうか。子どもの頃から好きだった落語家に古今亭志ん生という名人がいたが、彼の場合はその話の内容には関係なく彼がそこに居るだけで何かとても可笑しいのである。人間の味というか、そういうものである。この作家のことを考えていたら志ん生のことが思いだされた。


24

鑑賞日 2015/11/17
蜂一匹山ふるわせる下山かな
中原 梓 埼玉

 集団登山の帰り道に誰かが蜂一匹に遭遇した。「蜂が出たぞう」という掛け声で皆が先を競うように慌てて下山した。というような場面が想像された。人間の集団が持つ‘びくつき’心理をからかっている句ではないかと思った。連想して、「尖閣が危ないぞう」という掛け声で多くの日本人がざわざわとしている現状を思った。たかが山羊だけが住むちっちゃな島である。たかが蜂一匹なのである。


25

鑑賞日 2015/11/19
フクシマにひばり誰にでも尊厳
中村 晋 福島

 「誰にでも尊厳がある」という言葉の反対は何だろう。「俺にだけ尊厳がある」あるいは「自分たちだけには尊厳がある」ということだろう。こういう態度の結果が原発問題であり沖縄問題なのであろう。彼奴等はどうせ卑しいのだから金の束で面を叩いてやれば言うことを聞くだろう、というわけである。結果として彼奴等が被曝しようが何だろうが構わない。どうせ奴等には尊厳などは無いのだから、というわけである。福島の空にのぼるひばりを見て、作者は「いや誰にでも尊厳はある」と再確認している。


26

鑑賞日 2015/11/20
雲は詩を泉は玉を描くかな
野崎憲子 香川

 この句を眺めているとある種の酔いが回ってくる。それはある完璧過ぎるものを眺めた時に起る酔いである。そう、だから敢て批判すれば、この句の描く世界は完璧過ぎる気がする。


27

鑑賞日 2015/11/21
はっと夏女体のごとく倒木よ
疋田恵美子 宮崎

 ‘出会い’の句だ。われわれは日常において様々なものに出会っているつもりではある。しかしこれほど新鮮な出会いは少ない。新鮮さは何か特別なものに出会うということではおそらくない。この作者が出会ったのは単なる倒木であるのだから。しかし作者はそれに女体を感じそして夏をそして夏のエキスをそして活き活きとした‘いのち’を感じたに違いない。新鮮な出会いが起るのは何かその人自身の在り方に由来するのだろう。


28

鑑賞日 2015/11/21
蜂の羽音メコンデルタに米搗く娘
日高 玲 東京

 優れた旅吟かどうかの判定は、殊にそこに行ったことが無い者にとっては、その風景が親しく感じられるかどうかにあるのではないかと思った。この句に描かれた風景はどこか懐かしくそして親しくそして既視感さえある。極端に言えば、この娘を私は知っている。


29

鑑賞日 2015/11/22
鬱の子と青桐の声聴きにゆく
堀之内長一 埼玉

 精神疾患の身内がいるので、よく精神病棟に行く。この句を読んで、病院は、殊に精神疾患を治療すべき病院は緑豊かな環境の中にあるべきなのではないかと思った。よく自然治癒力というが、まさに自然が治癒する力は偉大である筈である。おそらく精神の病いにある人が青桐の声を聴いたなら、彼はその時点で既に治癒していると言えるかもしれないのである。そして、その青桐の声を一緒に聴きにゆく人的環境も必要なことはもちろんである。

青桐http://koto-green.main.jp/


30

鑑賞日 2015/11/23
羽蟻飛ぶ夕べ戦の匂いあり
本田ひとみ 埼玉

 なまじっかな知性、あるいは低いレベルの理屈では騙される危険性がある。原発再可動にしても安保法制に関してもそうだ。しかしまだ瑞々しい感性を持った若者や本能的にそういう感性を持たざるを得ない女性は騙される筈がない。彼ら彼女らは戦の匂いを嗅ぎ取るからである。「羽蟻飛ぶ夕べ」の象徴性は明らかである。つまり集団の力で何か人間にとって価値あるものを食い破る者らが群れる夕べのことである。


31

鑑賞日 2015/11/24
ばら提げて独裁国家通りけり
マブソン青眼 
長野

 一茶の次の句のもじりである。
けし提げて喧嘩の中を通りけり   小林一茶

 喧嘩の中を通るにはけしの花が相応しい。そして独裁国家を通る時には、やはり薔薇が相応しい気がする。花と見せかけておいてトゲでちくちくと体制を刺してやりたいからである。

 さて、もう一つの妙な解釈を思いついた。薔薇を提げて通るのは独裁国家である、という解釈である。一見美しい薔薇を提げているが、実はこの真赤な薔薇の赤は血の色であり、その胴体には鋭いトゲが無数にある。何処かの国の現状が重なる。


32

鑑賞日 2015/11/26
長い話に青田途切れてしまったよ
丸木美津子 愛媛

 広々と広がる青田。その傍らの道を友人と歩いていく。その友人との話があまりに長いので広々とした青田が途切れてしまった、というのであろう。結局この句は友情というものの本質が書かれているのではないかと思った。真の友情とは常に青々と若々しく、時というものを越えて延々と続く。そして最後には顔見合わせて笑うのである。


33

鑑賞日 2015/11/27
なびく髪は人間の旗はたた神
三木冬子 東京

 旗が風に吹かれてはたはたとなびくように人間の髪がなびいている。天にははたた神の雷鳴が轟いている。何だか劇画の一シーンを眺めているような雰囲気がある。語呂合わせによる軽快感もある。


34

鑑賞日 2015/11/27
晩成を期する晩年夜の蝉
武藤鉦二 秋田

 西洋の直線的な人生観においては人生は短い一回こっきりのものであるが、東洋のそれにおいては人生は永遠の時の流れの中の一コマに過ぎない。であるから晩年が瑞々しい青年期のようであるということも全く不思議ではない。兜太には次のような句もある。

青春が晩年の子規芥子坊主          『両神』
雑煮食(た)ぶ暦年齢(こよみねんれい)は虚なり  『日常』

 武藤さんの句。夜、勉学に励む作者の姿が見えてきて、私も励まされる思いがした。


35

鑑賞日 2015/11/28
夏木立やがて言葉は鈍化する
村上友子 東京

 夏木立の存在感である。はっきりとした言葉でそれを表現することができないし、また言葉で表現すること自体が無意味であるように思えてくるような存在感である。


36

鑑賞日 2015/11/29
金雀枝黄色老い母の丈夫な歯
森  鈴 埼玉

 金雀枝の花の黄色と、やや黄色がかった老い母の歯の類似性。そういえば兜太にも次のような句があった。

歯固や母の歯は馬のようだつた    『東国抄』
母の歯か椿の下の霜柱        『日常』


37

鑑賞日 2015/11/29
茅の輪くぐるはわが名緑に触れそめし
森央ミモザ 長野

 「老子」の冒頭付近に次の言葉がある。(金谷治訳)

名無きは天地の始め、名有るは万物の母。

 この森央さんの句。「われは」ではなく「わが名」となっているところが興味深く、そして新鮮で、また、この老子の言葉を思いださせてくれた。そう、存在の根源は名を持ち得ない。しかし存在が万物として展開してゆく為には名が必要となる。「茅の輪くぐる」という呪術的な行為とともに「わが名緑に触れそめし」と言われると、何だか作者が宇宙の始原に立ち会う巫女のような存在に思われてくる。新鮮でとても魅力的な句である。


38

鑑賞日 2015/12/1
生まれ来て得る引力や夕つばめ
守谷茂泰 東京

 そう、生まれる以前そして死んだ後にはわれわれは万有引力の法則に支配されないだろう。万有引力のみでなくあらゆるこの世の法則に支配されないだろう。来て生まれ来て始めてわれわれは引力というものを得る。そしてこの世での飛翔ゲームや墜落ゲームが始まる。ニュートンは林檎が落下するのを見て万有引力の法則を発見したという話があるが、作者は夕つばめを見て、万有引力というモノの次元の法則よりもっと高次に位置する法則に気付いたのかもしれない。


39

鑑賞日 2015/12/1
蛍火は太初の青さ生命線
若森京子 兵庫

 先ず思い浮んだ光景は、青白い光の蛍が掌の上にいるというものである。そして蛍の光が掌の生命線を照らしている。作者はその蛍火を太初の青さであると言っている。釈迦と孫悟空の話にもあるように、掌は世界そのものの比喩である。そしてこの世界が存続するための生命線を照らす光として太初の青さを保ち続けている蛍火。


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