表紙へ | 前の号 | 次の号 |
金子兜太選海程秀句鑑賞 516号(2015年10月号)
|
(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2015/10/4 | |
テロ寒き鶏肉に頭が付いていない
|
有村王志 大分
|
後藤さんや湯川さんのことが直接的に思い浮ぶ。あれは衝撃的な映像であった。あの事件のことをどれだけの人が心に留めて記憶しているだろうか。事件そのものもそうであるし、またその背景にある日本の首相の節操の無さなどもしっかり記憶しておくべきだろう。作者は頭が付いていない鶏肉を見てあの事件を思いだしたのだろう。記憶の持続力そして感受性。 |
鑑賞日 2015/10/4 | |
白桃剥く一気に官能高まる夜
|
伊藤 和 東京
|
「一気に」がいい。ズバッと書いているのが気持ちいい。こういうことを思わせぶりに書くと却っていやらしくなる。 |
鑑賞日 2015/10/5 | |
どこか夏鳥旅の途中の昏さあり
|
伊藤淳子 東京
|
「旅の途中の昏さ」というのは言われてみればそうだなあと思える。人生という旅における様々な思い悩みは全て旅の途中だからなのかもしれない。だから思い悩む時には出発の時のことをあるいは旅が終った時のことを思念すればいいのかもしれない。つまり生まれる以前のことをあるいは死というもののことを。 |
鑑賞日 2015/10/5 | |
にこにこと春のお日様はげ頭
|
内野 修 埼玉
|
子どもが描く太陽の絵を見ているようだ。子どもにとって太陽はお日様である。子どもはお日様に目鼻口を描いたりする。さて髪の毛は?髪の毛はありません。ただぴかぴかと光っているだけです。そうお日様ははげ頭。そしてにこにこ笑っている。童心句集に入れたいような句だ。 |
鑑賞日 2015/10/6 | |
踵に波の記憶や遠花火
|
榎本愛子 山梨
|
遠い青春の日の夏の海の出来事を想っている雰囲気がある。それは作者の肉体にまで記憶されている。当然に恋の記憶であるということが思われる。「踝に波の記憶」がいい。 |
鑑賞日 2015/10/7 | |
少し酔えばうりずんと呼ぶ馬を抱く
|
大西健二 三重
|
若々しいなあ。そして少し切ないような感情。青春の頃に経験した片思いの恋の感傷のような味がある。 |
鑑賞日 2015/10/7 | |
素足ですし羊歯類の王ですわたし
|
小川楓子 神奈川
|
何かがいい、と先ず思う。その何かは何かということであるが、まず「素足ですし」がいい、それから「羊歯類の王ですわたし」がいい。そしてこの「し」音の連続が気持ちいい。そしてまた内容的には一茶の私の好きな次の句に似たものがあることに気づく。 下々も下々下々の下国の涼しさよ |
鑑賞日 2015/10/9 | |
右乳は地に埋められし土偶麦秋
|
川崎千鶴子 広島
|
そもそも土偶と麦秋は相応しいから、それだけの配合では凡庸なのだろうが、「右乳は地に埋められし」という細やかな叙述が句を秀逸なものにしている。 |
鑑賞日 2015/10/9 | |
麦の秋君が袖振るひかりかな
|
川原珠美 神奈川
|
「君」というのを私は麦そのものと受け取った。広がる麦秋の麦畑、風が吹いている、君(麦)は袖を振るように左右になびく、ああその豊かな光。当然ある特定の人の仕草を思っていると受け取ってもいいだろう。 |
鑑賞日 2015/10/10 | |
九年母の花三方は海そして坂
|
北上正枝 埼玉
|
九年母(くねんぼ)とは蜜柑のような果物であるらしい。ミカンの沖縄方言であるというし、沖縄の方でよく獲れるらしい。沖縄の方へ旅行に行った時の句であろうか。「三方は海そして坂」というのにも島というイメージがある。珍しい事物や言葉を使ってみました、というだけの句ではなく、風土感が描けている。 |
鑑賞日 2015/10/10 | |
花桐や頬杖ついて母の部屋
|
北村美都子 新潟
|
海程には私がファンである女性作家が何人もいるが、この作家もその一人である。この句、温もりと品のある叙情とでも言えようか。 |
鑑賞日 2015/10/11 | |
椋鳥と言われ一茶は江戸に来た
|
木村和彦 神奈川
|
以下、東京新聞web版より 長野県人、信州人と聞くと、理屈っぽいが正義感の強い、知的な教養人のイメージがある。議論好きな県民といわれる。しかし、県土の大半を山林が占め、冬季の厳しさから江戸期以降、出稼ぎも多かった。群がってうるさいことから「椋鳥(むくどり)」とあざけられることもあった。庶民派俳人の小林一茶もそんな一人だった。 椋鳥と人に呼ばるる寒さかな |
鑑賞日 2015/10/11 | |
修司忌につながる饒舌和紙人形
|
京武久美 宮城
|
饒舌な会話というものは概ね軽くて薄い。だから逆にどんどんと繋がってゆく。まるで和紙人形同士の会話のようだ。そんな会話を修司忌にしていたというのだろう。寺山修司という人物はあまり知らないが、一回テレビに出たのを見たことがある。かなりの饒舌だった記憶がある。 |
鑑賞日 2015/10/12 | |
畦塗り終え父ガビガビの土偶なる
|
黒岡洋子 東京
|
畦塗りというのはかなり大変な仕事だ。重労働であるしまた泥だらけになる。「ガビガビの土偶」というのは作業着についた泥が乾いてガビガビになった状態でもあろうし、疲労で身体が固まってしまったような状態なのでもあろう。ある意味彼は土に還ったのだ。 |
鑑賞日 2015/10/12 | |
泉光ってたくさんのてのひらに
|
こしのゆみこ
東京 |
集団で山などに行った時の一場面を切り取った。作者は「豆の木」という小さな俳句雑誌をやっているが、それを読ましてもらっている。かなり旅行好きで仲間好きだという印象がある。そしてある面少女のように気が若い。そんな作者の一つの世界観が描かれている。 |
鑑賞日 2015/10/13 | |
かつてみなかなしき貌の夏野かな
|
小西瞬夏 岡山
|
すぐ思い浮ぶ具体的なことは敗戦時の「みな」であり夏野である。そう、多くの人はかなしかったに違いない。そして思うに、かなしいことはある意味いいことだ。何故ならその感情は人を謙虚にしてくれるからである。ところが現在はどうだろう。日本人は自分達は一端の偉い人間だと思っていないだろうか。だからそれを煽るようなアホな宰相が出てくるのではないか。かなしみを内に秘めた謙虚さこそ偉大である。 |
鑑賞日 2015/10/13 | |
梅を干す百年そこに居るように
|
小山やす子 徳島
|
平和な生活とは何か。それは「日常が即ち永遠であると感じられるような生活である」と定義できないだろうか。べつに経済発展しなくてもいい。べつに他者より強くならなくてもいい。平和が一番。なぜならその日々の営みは永遠の生に至る営みだからである。 |
鑑賞日 2015/10/14 | |
芒種なり午前3時の電話鳴る
|
笹岡素子 北海道
|
以下weblio辞書より 芒種(ぼうしゅ):太陽暦の6月5日(または6日) 午前3時の電話が鳴るということにはある緊迫感がある。あるいは異常感がある。そのこととその日がたまたま芒種であったということには何の関係もない筈なのであるが、やはりこれは芒種以外の言葉ではダメだという気がしてくる。全体に感じるのは時間というものの不思議さである。 |
鑑賞日 2015/10/14 | |
新樹に雨あるがままなる土着なる
|
佐々木香代子
秋田 |
おそらく、あるがままなる土着をしているということは仕合わせなことであるが、それ程価値あることではない。自分はあるがままに土着している幸運を得ているという自覚を持つことが価値あることなのだ。その自覚は新樹の雨のように新鮮で生き生きしている。 |
鑑賞日 2015/10/15 | |
木下闇置き薬のよう黒猫
|
柴田美代子 埼玉
|
譬えの面白さである。よくこんな譬えが思いつくなあと感心させられる。譬えの巧みさというのはどうしたら身につくものだろうか。金子兜太に ある日快晴黒い真珠に比喩を磨き 『金子兜太句集』 という句があるが、比喩というものは磨けるものだろうか。教えてもらいたいものである。 |
鑑賞日 2015/10/15 | |
傷癒えし土蜂の如く生きてゆく
|
鈴木幸江 滋賀
|
中七を「地蜂の如く」としたり「土蜂のごと」としたりすれば五七五とすっきりするように思えたのだが、実は違うということに気が付いた。「土蜂(つちばち)の如く」というごつごつとしてつっかかったような言い方がいいのだ。そのように生きてゆくという事に真実味が増すからである。すんなりと生きてゆくということではないからである。 |
鑑賞日 2015/10/16 | |
蛍舞う点滅しては無限大
|
瀬川泰之 長崎
|
おそらく世界は無限大の無限集合で出来ている。そのことを作者は舞う蛍を見つめながら実感したということかもしれない。 |
鑑賞日 2015/10/16 | |
ほととぎす夜のとばりがわが肉に
|
関田誓炎 埼玉
|
肉(しし)とルビ こういう世界との一体感は羨ましいものがある。ほととぎすの声も夜のとばりもわが肉も一体であるという感覚。おそらく作者は健康で生のエネルギーに満ちた境涯にあるに違いない。 |
鑑賞日 2015/10/17 | |
みちのくの沈みきれない紙の雛
|
高木一惠 千葉
|
・・・・・・・・ 美しくきれいに怖いことを歌っている童謡のようだ。 |
鑑賞日 2015/10/17 | |
音のない時計ばかりや閑古鳥
|
高橋明江 埼玉
|
言われてみれば、昔の時計はカチカチカチだとかボーンボーンだとか必ず音をたてていた。今の時計は無音であり、安価であるからどこにでもある。もしかしたらこの句は現代の人間の殊に都会の人間の状況を評しているのかもしれないと思った。沢山の人が隣り合って暮らしているが、彼らは互いに音を交わすこともなく自己に閉じこもっているというような状況。 |
鑑賞日 2015/10/18 | |
絹莢のすじ引くように叔母消えて
|
遠山郁好 東京
|
いいね。死というものに対する禅的な把握という感じである。現代は意識的にしろ無意識的にしろ死というものを怖れ過ぎる文化であると私は見ている。それ故生に於ても大変な混乱が生じてくる。実は生も死も単純なことである。この叔母は日常生活において丁寧に絹莢のすじを引いていたのだろう、そして絹莢のすじを引くようにまた消えた。生死は一如であるということ。 |
鑑賞日 2015/10/18 | |
春隣りいつか鰐だった鞄
|
中内亮玄 福井
|
非常にお洒落に現実が切り取られているという感じである。村上春樹の魅力に通じるところがある。 |
鑑賞日 2015/10/19 | |
郭公や森のはずれの茫として
|
中原 梓 埼玉
|
日常において我々は比較的はっきりとしたリズムで生活している。今は何をやって次は何をやって、何時にはなにをやらなくてはならない、今日は何をやって明日は何をやる・・・等々。時間は何かの目的のために使われてゆく。しかもその目的というのは概ね便宜的なものに過ぎない。そして時たま休暇などで田園地帯に滞在する機会を得たりすると、その時間の流れの違いに戸惑うこともある。田園では時間はとりとめもなく茫と流れていると感じる。いや、時間は流れていないのではないかとさえ感じる。日々の小刻みの時間に追われている身にとっては、それは時間の本質というものを示唆してくれる場所なのかもしれない。カッコウ・・カッコウ・・・ |
鑑賞日 2015/10/19 | |
フクシマよいくたび戻りくる蠅よ
|
中村 晋 福島
|
災害が起った。人々は大きなダメージを受ける。しかし普通それがどんなに大きな災害でも時間がやがてそれを忘れさせてくれる。時間には浄化作用がある。しかし、である。原発災害の場合はなかなかそうはいかない。除去不能の猛毒が残り続けるからである。無味無臭の五感で感知できない猛毒である。それは人々に悪い作用を為し続けるに違いない。それは今は頭だけが知っている。忘れたと思ってもどっこいその考えは戻ってくる。いくたびもいくたびも戻ってくる。五月蝿く付きまとう。 |
鑑賞日 2015/10/20 | |
吊し雛水光の暮らしのまん中に
|
野田信章 熊本
|
水光(みでり)とルビ 吊し雛とはそもそもあまり高価な雛人形を買えない江戸時代の庶民が子の仕合わせを願って作ったものであるらしい。 |
鑑賞日 2015/10/20 | |
蝶といて何かが足りない手のひら
|
橋本和子 長崎
|
もしかしたら、人間とは何かが足りない動物なのではないか。あるいは何かが足りないといつも思っている動物なのではないか。それ故人間はパワートリップに走ったりマネーゲームにうつつを抜かしたりする。蝶を見よ。彼らは満ち足りているように見える。彼らは‘知足’ということを知っているのだ。われわれ人間がその手のひらに足りないと思っている何かは‘知足’ということなのかも知れない。そういう意味ではわれわれ人間は蝶より劣っているのかもしれない。 |
鑑賞日 2015/10/22 | |
銃の無きふつうの生活つばめ来る
|
平山圭子 岐阜
|
生活(くらし)とルビ アメリカの銃社会、あるいは中東などのテロ社会、あるいは軍備や戦争の準備に余念が無いどこかの国を意識して書いたのかもしれない。作者は言う「銃の無きふつうの生活」と。軍備を進める人は言う「いつでも戦争ができるふつうの国」と。さて、「ふつう」でどっちだろう。そうだ、つばめに聞いてみよう。 |
鑑賞日 2015/10/22 | |
草萌えに杖つくわたし くやしかあ
|
廣島美恵子 兵庫
|
海程512号にこの作者の次の句がある。 初春や歩幅そのまま詩とする 生(なま)の声であるという点で今日の句に共感するし、客観的に自分を制御しようという心構えにおいて512号の句に共感する。結局人間の心の振幅ということかもしれない。 是がまあ終の栖か雪五尺 |
鑑賞日 2015/10/23 | |
黒南風の島よ戦う国となるのか
|
藤田敦子 愛媛
|
長い雨の季節の始まりかもしれない。嫌な黒い風がこの島国に吹いてきている。ボブ・ディランの名曲「風に吹かれて」のB面は「いつも冷たい雨が」であったことを思いだした。また彼には「愚かな風」という曲もある。大好きな歌手である。 |
鑑賞日 2015/10/23 | |
激し美し哀し花火や夏の病院
|
藤野 武 東京
|
生は激しく美しくそして哀しい。生というものへの万感の思いが結晶した秀作であるといえる。 |
鑑賞日 2015/10/24 | |
祖父つまりあの焦げ方は麦秋です
|
三浦二三子 愛知
|
麦が畑一面に熟れているのを見て、ああこんがりと焦げていることだなあと感じている。次にそしてその麦秋を見て、祖父を思っている、あるいはあれは祖父そのものだと見做している。この二重の連想の面白さである。そしてこの句の根底にあるものは、自然の豊穰さへの限りない親愛の情であると見た。 |
鑑賞日 2015/10/24 | |
蚊を見ているそうですねえと溜息す
|
三井絹枝 東京
|
やれ打な蝿が手をすり足をする 言わずと知れた一茶の句である。小動物への親愛の句であると言えよう。要するに人間の立場を保持しながらの動物への親愛であろう。三井さんが面白いのは、もうそういう人間の立場などが無くなってしまって、そのものと対等な立場に憑依してしまっているというところである。女性特有の巫女的な力とでも言おうか。一茶の句よりも深いと言えるかもしれない。 |
鑑賞日 2015/10/25 | |
森よりもしずかな言葉夏に入る
|
守谷茂泰 東京
|
古代の聖賢達はみな森に入った。彼らはそこで森よりもしずかで深い言葉を聞き取った。おそらくそれが東洋の知恵の根源である。「森よりもしずかな言葉」、いい言葉だ。「隻手の音を聞け」だとか「生まれる以前の顔や如何に」と同じように、「森よりもしずかな言葉を聞け」というような公案があってもいいくらいだ。 |
鑑賞日 2015/10/25 | |
レース着て佛心かろし武州の旅
|
若森京子 兵庫
|
そう、軽やかでなければ佛心とは言えない。しかつめらしく重くて深刻なものが在るとすれば、それは未だ初心者のものである。本来佛心とは風に舞う木の葉のよう、羽のよう、レースのようである。それゆえ空と言われることもある。 |
表紙へ | 前の号 | 次の号 |